「知る」の最終回は「知る」に関するその他の表現で特徴的なものを万葉集から紹介します。
まず,18歳の若さで謀反の罪により中大兄皇子(後の天智天皇)に処刑された有間皇子が愛していた土地で処刑された場所でもある紀州への行幸にお供したとき,磐白(いはしろ)の地で山上憶良が詠んだ短歌です。
鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(2-145)
<とりはなすありがよひつつ みらめどもひとこそしらね まつはしるらむ>
<<皇子の御魂は鳥のように空を往き来しては見たであろうが,そのことを人は知らないだけで,(磐白の)松はきっと知っているだろう>>
これは,有間皇子が紀州の処刑地に移送される途中の磐白で詠んだとされる次の辞世の歌を意識していることは間違いないでしょう。
磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(2-141)
憶良が詠んだ当時は有間皇子処刑から40年以上たち,辞世の歌を詠んだという磐白の浜松は,非業の死を遂げた皇子を偲ぶ場所として観光スポット化していたのかも知れませんね。
さて,次は 神亀5(728)年6月23日に大宰府の長官をしていた大伴旅人が,いろいろな良くない出来事が続けて発生しているという知らせを受けて詠んだ短歌です。
世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(5-793)
<よのなかはむなしきものと しるときしいよよますます かなしかりけり>
<<世の中は無常であることを悟っているつもりだが,本当にますます悲しい気持ちになった>>
旅人が大宰府に赴任してそれほど立たない時期にこれを詠んでいるので,おそらく京や各地で起きた悲惨な災害や事件のニュースを受けたものかと私は思います。
大宰府には山上憶良や沙弥満誓(さみまんぜい)など仏教の知識を豊富にもった旅人の友人がいました。当然,旅人も彼らとの語らいの中で,仏教が教える無常観をしっかり理解していたと私は思います。仏教は世の中に絶対的なものを求める行為の虚しさを説いていると私は思います。
<仏教の無常観>
でも,やはりあってほしい物や人がなくなる。いつまでも変わらないでほしいものが変わってしまう。それを目の当たりにすると,無常であることは知っていてもやはり悲しい。それが人間としての自然の姿だと私は信じます。
仏教はそんな悲しさを感じることが重要であるが,その悲しさに絶望をしてはいけないと説きます。
無常な世界を生き抜くより強い心,そして無常な世界でほんろうされ,悩む他人を思いやる(他人の悲しさを理解できる)心を持った自分(仏の世界に近づいた自分)を作ることがきっとできるのだと説きます。そして,だんだん力強く,思いやりをもった気持ちや心(菩薩の心)が自分自身に備わってくると,関係する周囲の人や環境も無常の世界を克服できるものに変わっていくと,当時から日本に広く弘ろまっていったいわゆる大乗仏教では説きます。
旅人のこの短歌もただただ悲しんでいると解釈するのではなく,仏教的な観点からそれを乗り越えていく気持ちの強さを求めようとしていると私は解釈します。
<次の和歌>
さて,次は女性が天武天皇の子である新田部皇子(にひたべのみこ)をからかって贈った短歌です。
勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし(16/3835)
<かつまたのいけはわれしる はちすなししかいふきみが ひげなきごとし>
<<勝間田の池は私が知る限り蓮はありませんよ。そういうあなた様の顔に髭がないように>>
皇子はまだ髭も生えてこないくらい若かったのでしょうか。まだ若くて女性を見る目がないとこの女性は言いたかったのだと私は想像します。ただ,本当に皇子にある女性が直接贈ったのではなく,後世の誰かが面白おかしく作り話として創作した短歌かも知れませんね。
「知る」の最後は,物部道足(もののべのみちたり)という常陸国出身の防人が詠んだという短歌です。
常陸指し行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ(20-4366)
<ひたちさしゆかむかりもが あがこひをしるしてつけて いもにしらせむ>
<<常陸をめざして行く雁はいないかあ。私の恋しい思いを書き記して付けて妻に知らせることができるのに>>
この歌の詠み手は当時ちゃんとした漢字の読み書きができる教育を受けていた可能性はあります。ヤマト朝廷によって日本が統一された後,律令を書いた漢文を地方に徹底させるには,単に律令を渡すだけでなく,読める教育をする必要があったはずです。そうして,初めて律令の内容を知っている人が増え,戸籍や住民の管理ができたはずです。
このように見てくると万葉時代は「知る」「知らせる」ことの重要性に人々に気づき始めた時代だったように私は想像します。
次回からは,情報を相手に知らせる「告ぐ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1)に続く
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