本スペシャルの最後は,万葉集で天平勝宝7(755)年:乙未(きのとひつじ)に詠まれたとされる和歌について見ていきます。
天平勝宝7年は歴史的に大きなできごとはない年でした。大伴家持は37歳になっており,難波で防人の検校(けんぎょう)に任に当っていたようです。
そのため,天平勝宝7年に詠まれたと万葉集にある和歌は防人歌,家持が防人の立場や気持ちになって詠った歌,その後家持が検校の任を解かれて京に戻り,宴席での参加者の歌など100首を大きく超える和歌が万葉集に記録されています。
防人制度ですが,この年の翌々年の天平宝字元(757)年(または天平勝宝9年)に東国から防人を集めるのではなく,九州地方のみで構成するようになったとWikipediaに出ています。もし,それが本当なら,家持の防人歌を献上したことが功を奏した可能性もあるかもしれません。
さて,防人歌及び家持の防人歌の代表的にものをいくつか紹介します。
1首目は遠江国長下郡(現在の浜松)の物部古麻呂(もののべのこまろ)が詠んだされる防人歌です。
我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(20-4327)
<わがつまもゑにかきとらむ いつまもがたびゆくあれは みつつしのはむ>
<<妻の絵を描く時間があったなら、旅の道中で私は(その絵を)見て妻のことを偲ぶことができるのだが>>
2首目は大伴家持が詠んだ防人歌です。
今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(20-4335)
<いまかはるにひさきもりが ふなでするうなはらのうへに なみなさきそね>
<<今から新しく交替に新防人が船出する。海原の上に波を立てないで欲しい>>
3首目は下総国埴生郡(今の成田市あたり)出身の大伴部麻与佐(おほともべのまよさ)が詠んだとされる防人歌です。
天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(20-4392)
<あめつしのいづれのかみを いのらばかうつくしははに またこととはむ>
<<天地のいずれの神に祈ったら,いとしい母にまた話しができるのだろう>>
最後は,夫を防人として出す妻が詠んだとされるものです。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
そして,天平勝宝7年には橘諸兄の影響力が少しずつ低下し,藤原仲麻呂の影響力が大きくなろうとしている時代です。家持にとって,将来の昇進に関して不安な時代に突入したのは間違いありません。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1)に続く。
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