2015年新春のお慶びを申し上げます。昨年は長期間休載した時期もありましたが,本年は継続して『万葉集をリバースエンジニアリングする』ブログアップしますので,よろしくお願いします。
さて,今年は未(ひつじ)年ですね。ただ,万葉集の中で「羊」を詠んだ和歌は残念ながらありません。
とういいうことで,万葉集で「未年」(天平3年,天平15年,天平勝宝7年)に詠まれたとされる和歌を3回に分けて紹介することにします。第1回目は「天平3(731)年辛未(かのとひつじ)」です。この年の七月大伴旅人は67年に渡る生涯を終えました。
次は,旅人が死の直前に詠んだとされる短歌のうちの1首です。
しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ(6-969)
<しましくもゆきてみてしか かむなびのふちはあせにて せにかなるらむ>
<<少しの時間でも行けるのなら行って見たい。神奈備川のあの淵は埋まって,今は浅瀬になってしまっていないだろうか>>
旅人はもう出かける体力が無くなり叶わないけれど,幼い頃父大伴安麻呂と一緒によく連れられて行って,泳いだ飛鳥の神なび川(飛鳥川?)の深い淵だが,長年訪ねていけず,今は土砂に埋もれて浅瀬になってしまっていないか最後に見届けてみたいという気持ちを読んでいるように私には思えます。最期を前にして,もう一度懐かしい良い思い出の地を訪ねて見てみたいという気持ちは十分理解できる気がします。
そして,旅人が亡くなったことを悼む短歌が,万葉集に6首残っています。すべて旅人の資人(つかひびと)であったという余明軍が詠んだとされるものです。「余明軍」は読み方が諸説あるようですが,朝鮮系の帰化人であったらしいということで音読みの「よ・めいぐん(ヨ・ミョンクン)」としておきましょう。
また,漢字が似ているせいか「余」ではなく「金(キム)」ではないかという説が古来の万葉集研究や写本などであったようです。しかし,最近の万葉集解説は「余」が正しいだろうとしているようです。
お目出度いお正月投稿ですが,その6首とも続けて紹介します。
はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
<はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを>
<<名君であられた殿が生きておられたら昨日も今日も私をお召しになるでしょう>>
かくのみにありけるものを萩の花咲きてありやと問ひし君はも(3-455)
<かくのみにありけるものを はぎのはなさきてありやと とひしきみはも>
<<これも世の定めか,(病床で)萩の花を咲いているかとお尋ねになった殿は今はおられない>>
君に恋ひいたもすべなみ葦鶴の哭のみし泣かゆ朝夕にして(3-456)
<きみにこひいたもすべなみ あしたづのねのみしなかゆ あさよひにして>
<<殿をお慕い続けてもやるせない。葦原で悲しく鳴く鶴のように泣くしかない。朝な夕なに>>
遠長く仕へむものと思へりし君しまさねば心どもなし(3-457)
<とほながくつかへむものと おもへりしきみしまさねば こころどもなし>
<<ずっと長くお仕えしたいと思っていました殿がおられないので,心の支えが無くなりました>>
みどり子の匍ひたもとほり朝夕に哭のみぞ我が泣く君なしにして(3-458)
<みどりこのはひたもとほり あさよひにねのみぞわがなく きみなしにして>
<<幼い子供が這いずり回って朝な夕なに繰り返し泣くように私は泣いています。殿がいらっしゃらないので>>
見れど飽かずいましし君が黄葉のうつりい行けば悲しくもあるか(3-459)
<みれどあかずいまししきみが もみちばのうつりいゆけば かなしくもあるか>
<<何度見ても尊敬できる殿が紅葉が散るように逝ってしまわれた。何と悲しいことか>>
以上ですが,側近ではなく,お召しの人物(資人)の一人が詠んだ短歌を弔いの歌として残した家持。父旅人の人柄に対する素直な尊敬の気持ちが表れているように私には感じられてなりません。
次回は,12年後の天平15年に詠まれたとされる万葉集の和歌を見ていきます。
2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(2)」に続く。
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