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2015年1月4日日曜日

2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(3:まとめ)」 東国からの防人徴集は家持がやめさせた?

本スペシャルの最後は,万葉集で天平勝宝7(755)年:乙未(きのとひつじ)に詠まれたとされる和歌について見ていきます。
天平勝宝7年は歴史的に大きなできごとはない年でした。大伴家持は37歳になっており,難波で防人の検校(けんぎょう)に任に当っていたようです。
そのため,天平勝宝7年に詠まれたと万葉集にある和歌は防人歌,家持が防人の立場や気持ちになって詠った歌,その後家持が検校の任を解かれて京に戻り,宴席での参加者の歌など100首を大きく超える和歌が万葉集に記録されています。
防人制度ですが,この年の翌々年の天平宝字元(757)年(または天平勝宝9年)に東国から防人を集めるのではなく,九州地方のみで構成するようになったとWikipediaに出ています。もし,それが本当なら,家持の防人歌を献上したことが功を奏した可能性もあるかもしれません。
さて,防人歌及び家持の防人歌の代表的にものをいくつか紹介します。
1首目は遠江国長下郡(現在の浜松)の物部古麻呂(もののべのこまろ)が詠んだされる防人歌です。

我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(20-4327)
<わがつまもゑにかきとらむ いつまもがたびゆくあれは みつつしのはむ>
<<妻の絵を描く時間があったなら、旅の道中で私は(その絵を)見て妻のことを偲ぶことができるのだが>>

2首目は大伴家持が詠んだ防人歌です。

今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(20-4335)
<いまかはるにひさきもりが ふなでするうなはらのうへに なみなさきそね>
<<今から新しく交替に新防人が船出する。海原の上に波を立てないで欲しい>>

3首目は下総国埴生郡(今の成田市あたり)出身の大伴部麻与佐(おほともべのまよさ)が詠んだとされる防人歌です。

天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(20-4392)
<あめつしのいづれのかみを いのらばかうつくしははに またこととはむ>
<<天地のいずれの神に祈ったら,いとしい母にまた話しができるのだろう>>

最後は,夫を防人として出す妻が詠んだとされるものです。

防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>

そして,天平勝宝7年には橘諸兄の影響力が少しずつ低下し,藤原仲麻呂の影響力が大きくなろうとしている時代です。家持にとって,将来の昇進に関して不安な時代に突入したのは間違いありません。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1)に続く。

2015年1月3日土曜日

2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(2)」 家持,クニク(恭仁苦)の作?

今回は「未(ひつじ)」年に詠まれた万葉集の和歌の2回目として天平15(743:癸未<みづのとひつじ>)年に詠まれたとされるものを見ていきます。
天平15年は,5月に開墾した土地は永年自分の土地となるという「墾田永年私財法」が発布され,10月には「大仏造立の詔」が聖武天皇により出された年です。
大伴家持は25歳になっており,久邇京内舎人(うどねり:名家の子弟が担当する天皇の警備などを行う付き人)として働いていたとされる年です。
この年に詠まれたと明確に万葉集の題詞や左注で記されているのは,すべて大伴家持が恭仁(久邇,久迩)京で8月(新暦では9月)に詠んだ短歌6首です。なお,恐らくその年に詠まれたと推定できる和歌もありますが,今回は割愛します。では,家持の6首を一挙紹介します。
最初は久邇京を賛美した1首です。これだけが何故か巻6に納められています。

今造る久迩の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし(6-1037)
いまつくるくにのみやこは やまかはのさやけきみれば うべしらすらし
<<造営中の久迩の都は周辺の山川が清らかなのを見ると,ここに造ろうとされた理由が分かります>>

次の3首はおそらく久邇京の周辺の山野で秋萩を見て詠んだと思われる短歌です。なお,3首目ですが,新暦9月秋萩がちょうど盛りの時期なので,家持の問いかけはの答えとして,秋萩を散らしたのは牡鹿しかないということになります。
秋萩を久邇京,牡鹿を聖武天皇の譬えとすると,家持の気持ちの別の側面が見えてくるようです。

秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり(8-1597)
あきののにさけるあきはぎ あきかぜになびけるうへに あきのつゆおけり
<<秋の野に咲いている秋萩の花が秋風に靡き,その花の上が秋の露に光っている>>

さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露(8-1598)
さをしかのあさたつのへの あきはぎにたまとみるまで おけるしらつゆ
<<牡鹿が朝立ち寄った野辺の秋萩の花に玉のように美しく付いた白露よ>>

さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる(8-1599)
さをしかのむなわけにかも あきはぎのちりすぎにける さかりかもいぬる
<<牡鹿が胸で押し分けて通ったからだろうか。それとも萩が散ったのは盛りを過ぎているためだろうか>>

次の2首は,鹿の鳴き声を聞いて詠んだものです。

山彦の相響むまで妻恋ひに鹿鳴く山辺に独りのみして(8-1602)
やまびこのあひとよむまで つまごひにかなくやまへに ひとりのみして
<<やまびこが響き合うほど激しく鳴く山辺の鹿。たった一頭で>>

このころの朝明に聞けばあしひきの山呼び響めさを鹿鳴くも(8-1603)
このころのあさけにきけば あしひきのやまよびとよめ さをしかなくも
<<この季節,明け方に聞こえてくるのは山を響かせて牡鹿が激しく鳴く声>>

この2首も牡鹿を聖武天皇に譬えてしまうと,結局後の5首は「内舎人として久邇京に赴任したが,天皇は一向に来ない。いつも山(紫香楽宮)から強烈な通達が来るばかりだ。久邇京の造営は進まず,一部には荒れだところも出てきている。」といった心情が私には見えてきます。
以上6首は,ほぼ同じ時期に家持によって詠まれたとされますが,最初1首だけが別の巻に入れられたのは,その内容から分かる気がします。
2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(3:まとめ)」に続く。

2015年1月2日金曜日

2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(1)」 お目出度いお正月ですが挽歌のご紹介です

2015年新春のお慶びを申し上げます。昨年は長期間休載した時期もありましたが,本年は継続して『万葉集をリバースエンジニアリングする』ブログアップしますので,よろしくお願いします。
さて,今年は未(ひつじ)年ですね。ただ,万葉集の中で「羊」を詠んだ和歌は残念ながらありません。
とういいうことで,万葉集で「未年」(天平3年,天平15年,天平勝宝7年)に詠まれたとされる和歌を3回に分けて紹介することにします。第1回目は「天平3(731)年辛未(かのとひつじ)」です。この年の七月大伴旅人は67年に渡る生涯を終えました。
次は,旅人が死の直前に詠んだとされる短歌のうちの1首です。

しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ(6-969)
しましくもゆきてみてしか かむなびのふちはあせにて せにかなるらむ
<<少しの時間でも行けるのなら行って見たい。神奈備川のあの淵は埋まって,今は浅瀬になってしまっていないだろうか>>

旅人はもう出かける体力が無くなり叶わないけれど,幼い頃父大伴安麻呂と一緒によく連れられて行って,泳いだ飛鳥の神なび川(飛鳥川?)の深い淵だが,長年訪ねていけず,今は土砂に埋もれて浅瀬になってしまっていないか最後に見届けてみたいという気持ちを読んでいるように私には思えます。最期を前にして,もう一度懐かしい良い思い出の地を訪ねて見てみたいという気持ちは十分理解できる気がします。
そして,旅人が亡くなったことを悼む短歌が,万葉集に6首残っています。すべて旅人の資人(つかひびと)であったという余明軍が詠んだとされるものです。「余明軍」は読み方が諸説あるようですが,朝鮮系の帰化人であったらしいということで音読みの「よ・めいぐん(ヨ・ミョンクン)」としておきましょう。
また,漢字が似ているせいか「余」ではなく「金(キム)」ではないかという説が古来の万葉集研究や写本などであったようです。しかし,最近の万葉集解説は「余」が正しいだろうとしているようです。
お目出度いお正月投稿ですが,その6首とも続けて紹介します。

はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを
<<名君であられた殿が生きておられたら昨日も今日も私をお召しになるでしょう>>

かくのみにありけるものを萩の花咲きてありやと問ひし君はも(3-455)
かくのみにありけるものを はぎのはなさきてありやと とひしきみはも
<<これも世の定めか,(病床で)萩の花を咲いているかとお尋ねになった殿は今はおられない>>

君に恋ひいたもすべなみ葦鶴の哭のみし泣かゆ朝夕にして(3-456)
きみにこひいたもすべなみ あしたづのねのみしなかゆ あさよひにして
<<殿をお慕い続けてもやるせない。葦原で悲しく鳴く鶴のように泣くしかない。朝な夕なに>>

遠長く仕へむものと思へりし君しまさねば心どもなし(3-457)
とほながくつかへむものと おもへりしきみしまさねば こころどもなし
<<ずっと長くお仕えしたいと思っていました殿がおられないので,心の支えが無くなりました>>

みどり子の匍ひたもとほり朝夕に哭のみぞ我が泣く君なしにして(3-458)
みどりこのはひたもとほり あさよひにねのみぞわがなく きみなしにして
<<幼い子供が這いずり回って朝な夕なに繰り返し泣くように私は泣いています。殿がいらっしゃらないので>>

見れど飽かずいましし君が黄葉のうつりい行けば悲しくもあるか(3-459)
みれどあかずいまししきみが もみちばのうつりいゆけば かなしくもあるか
<<何度見ても尊敬できる殿が紅葉が散るように逝ってしまわれた。何と悲しいことか>>

以上ですが,側近ではなく,お召しの人物(資人)の一人が詠んだ短歌を弔いの歌として残した家持。父旅人の人柄に対する素直な尊敬の気持ちが表れているように私には感じられてなりません。
次回は,12年後の天平15年に詠まれたとされる万葉集の和歌を見ていきます。
2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(2)」に続く。