我が家の庭に20年ほど前から植えてあるサクランボの木の花のつぼみが昨年よりもはるかに多く膨らんできました。
今年はより多くの実が成りそうで楽しみにしています。
8年目突入スペシャルの最後は,「八」という数字について万葉集を見ていきます。
万葉時代では,「七」は「秋の七草」や仏教の経典(法華経や無量寿経)に出てくる「七宝(しっぽう)」のように,7つの名前がはっきり定義されいる。
しかし,「八」となったとたん,8種類の名前が何かはどうでもよくなって,多くという意味に近づいてきます。
八方という言葉も,北,東,南,西と北東,東南,南西,西北の八つの意味を表すより,八方美人,八方ふさがり,八宝菜のように8つの内容は気にしない使われ方が急に増えます。
万葉集で八の使われ方の例をいくつか見ます。
次は,遣新羅使が対馬に着いた時に詠んだ短歌です。
竹敷の宇敝可多山は紅の八しほの色になりにけるかも(15-3703)
<たかしきのうへかたやまは くれなゐのやしほのいろに なりにけるかも>
<<対馬の竹敷にある宇敝可多山は,黄葉が紅色を何度も染めたような鮮やかな色になっている>>
「八しほ」というのは,何とも染色液に漬けることを指します。この場合8回という意味ではないようです。
次は,天平16(744)年に難波の地の橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で開かれた宮中の人たちが集まる宴である肆宴(とよのあかり)で元正(げんしやう)天皇が橘家を寿ぎ詠んだ短歌です。
橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を(18-4075)
<たちばなのとをのたちばな やつよにもあれはわすれじ このたちばなを>
<<めでたい橘の中でも,たくさん実ったこの橘。いつの代までも私は忘れないだろう,この橘を>>
この短歌の「八つ代にも」は「何代にも」という意味で使われていると私は思います。
最後は,11年後の天平勝宝7(755)年に丹比国人(たぢひのくにひと)宅で催された宴席で橘諸兄が国人の健勝を願って詠んだ短歌です。
あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ(20-4448)
<あぢさゐのやへさくごとく やつよにをいませわがせこ みつつしのはむ>
<<紫陽花が八重に咲くように何代も健勝でいらしてください。紫陽花を眺めては貴方を思い出しましょう>>
この八重も八つに重なっているわけではなく,花びらが多く重なっているという意味に近いと感じます。
そのほか,「八」を多くの意味とする言葉としては万葉集には次のものが出てきます。
八尺(やさか)‥長いさま
八島(やしま)‥多くの島の意。日本の国
八十(やそ)‥もっと多い,多くの
八度(やたび)‥何度も
八千(やち)‥非常に多くの
八衢(やちまた)‥多くの分かれ道(市街地)
八百(やほ)‥相当多くの
これで,当ブログ開設8年目スペシャルを終わります。
次回からは,しばらくの間万葉集で使われる枕詞を順次紹介し,その役割と時代背景について考えていきたいと思います。
改めて枕詞シリーズ…いさなとり(1)に続く。
2016年3月5日土曜日
2015年9月24日木曜日
2015 シルバーウィークスペシャル(1) … またまた,台北にやってきました
日本のシルバーウィークも終わったのですが,わたしは9/27まで休みですので,シルバーウィークスペシャルを今からお送りします。
9/23 早朝,羽田空港を出発(写真は人影少ない羽田空港)。
午前9時(現地時間)過ぎに台北松山(ソンシャン)空港に着きました。9/26まで妻とともに,いつもの完全フリータイム台北旅行の3回目です。
空港での入国審査に予想外に時間が掛かりました。
今まで台北に来たときには無かった,両人差し指の指紋を採取することを義務付けられました。なかなか機械がOKを出さない人がいて,行列が進みませんでした。
空港を出たのは10時近くになりましたが,それでもホテルのチェックイン時間までまだ何時間もあります。
MRT(地下鉄)で雙連(シァンリャン)駅近くの宿泊予約をしたホテルに寄って,荷物を預かってもらいました。
身軽になった私たちは,MRTで近くの土林(シーリン)駅に向かい,そこからバスで故宮博物院(グーゴンボーウーユエン)へ行きました。
故宮博物院の展示エリアには入らず,博物院の敷地内にある「故宮晶華(グーゴンジンホア,英語名はSilks Palace)」というレストランで昼食をとりました。
台湾の中でも高級レストランに属しているだけあって,値段もそれなりですが,私たちはこのレストランの味や材料にこだわりを感じています。そのため,台北を訪れるときは時間が許す限り来ることにしています。
今回は,海鮮中心でオーダすると決めていましたので定番の翡翠餃子(故宮博物院で有名な白菜翡翠を模した色にしている蒸餃子),シンプルな海老餃子を前菜にまず注文。
こういった飲茶風のものですら,中に入っている海老やイカ等の材料が抜群に感じられました。
そして,メインは海鮮硬焼きそばと海鮮タンメンを頼みました。それぞれ,大きな生ホタテが2個ずつ,小粒ですがプリプリの海老が4匹ずつ,肉も野菜もたっぷり入っていて,味付けも深みがあり,満足でした。
1時間以上かけた昼食後は,故宮博物院売店で小物を物色し,バスでMRT劍譚(ユァンタン)駅へ行き,そこからMRTで少し寄り道をしながら,午後3時少し前に中正記念堂(チョンシェンチーニェンタン)(蒋介石の業績を讃えた記念堂)につきました。
午後3時の衛兵交代式にギリギリ間に合いました。イケメンの衛兵が一糸乱れぬ歩調で交代をする姿を見ようと,多くの人が見学に来ていました。
また,その後記念堂の中央広場では,陸海空群の合同軍楽隊が行進・演奏する中,陸海軍の衛兵が300名ほどが銃剣を持ち,これも一糸乱れぬ銃剣を操りながらのマスゲーム風のパフォーマンスを行っていました。
まったく,予定になかった台湾陸海空軍の行事の一面がみられて,小国の軍の関係や国民へのアピール方法や工夫について興味を覚えました。
それからホテルに戻りようやくチェックイン。一休み後は,MRT劍譚駅に行き,地元の人や観光客(ほとんど日本人を見かけず)で活気あふれる土林夜市で食事や散策をゆつくりして,長い台北1日目は終わりました。
万葉集に豊島采女(とよしまのうねめ)が天平11年8月20日に橘諸兄邸での宴席で詠んだとされる短歌があります。土林夜市を歩いている雰囲気に似ている部分もあるかもしれません。
橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘の木のそばにある道が踏まれ,八方に分かれるように,いろんなことを思っている人たちに,私の気持ちを知って貰うこともない>>
立派な橘の木にはそれを目印にして多くの人が集まる(渋谷駅のハチ公のように)。でも,その人たちはいろいろな思いや方向性を持って生きている。それぞれが理解しあえているわけではないし,私のことをよく知っているわけでもない。
その状況を孤独と感じるか,異邦人(旅びと)としての立場をわきまえ,外からいろんな人が集まる場所の雰囲気を傍観者として楽しむか,それもまた旅をする人それぞれの思いや感じ方なのかもしれませんね。
2015 シルバウィークスペシャル(2)に続く。
9/23 早朝,羽田空港を出発(写真は人影少ない羽田空港)。
午前9時(現地時間)過ぎに台北松山(ソンシャン)空港に着きました。9/26まで妻とともに,いつもの完全フリータイム台北旅行の3回目です。
空港での入国審査に予想外に時間が掛かりました。
今まで台北に来たときには無かった,両人差し指の指紋を採取することを義務付けられました。なかなか機械がOKを出さない人がいて,行列が進みませんでした。
空港を出たのは10時近くになりましたが,それでもホテルのチェックイン時間までまだ何時間もあります。
MRT(地下鉄)で雙連(シァンリャン)駅近くの宿泊予約をしたホテルに寄って,荷物を預かってもらいました。
身軽になった私たちは,MRTで近くの土林(シーリン)駅に向かい,そこからバスで故宮博物院(グーゴンボーウーユエン)へ行きました。
故宮博物院の展示エリアには入らず,博物院の敷地内にある「故宮晶華(グーゴンジンホア,英語名はSilks Palace)」というレストランで昼食をとりました。
台湾の中でも高級レストランに属しているだけあって,値段もそれなりですが,私たちはこのレストランの味や材料にこだわりを感じています。そのため,台北を訪れるときは時間が許す限り来ることにしています。
今回は,海鮮中心でオーダすると決めていましたので定番の翡翠餃子(故宮博物院で有名な白菜翡翠を模した色にしている蒸餃子),シンプルな海老餃子を前菜にまず注文。
こういった飲茶風のものですら,中に入っている海老やイカ等の材料が抜群に感じられました。
そして,メインは海鮮硬焼きそばと海鮮タンメンを頼みました。それぞれ,大きな生ホタテが2個ずつ,小粒ですがプリプリの海老が4匹ずつ,肉も野菜もたっぷり入っていて,味付けも深みがあり,満足でした。
1時間以上かけた昼食後は,故宮博物院売店で小物を物色し,バスでMRT劍譚(ユァンタン)駅へ行き,そこからMRTで少し寄り道をしながら,午後3時少し前に中正記念堂(チョンシェンチーニェンタン)(蒋介石の業績を讃えた記念堂)につきました。
午後3時の衛兵交代式にギリギリ間に合いました。イケメンの衛兵が一糸乱れぬ歩調で交代をする姿を見ようと,多くの人が見学に来ていました。
また,その後記念堂の中央広場では,陸海空群の合同軍楽隊が行進・演奏する中,陸海軍の衛兵が300名ほどが銃剣を持ち,これも一糸乱れぬ銃剣を操りながらのマスゲーム風のパフォーマンスを行っていました。
まったく,予定になかった台湾陸海空軍の行事の一面がみられて,小国の軍の関係や国民へのアピール方法や工夫について興味を覚えました。
それからホテルに戻りようやくチェックイン。一休み後は,MRT劍譚駅に行き,地元の人や観光客(ほとんど日本人を見かけず)で活気あふれる土林夜市で食事や散策をゆつくりして,長い台北1日目は終わりました。
万葉集に豊島采女(とよしまのうねめ)が天平11年8月20日に橘諸兄邸での宴席で詠んだとされる短歌があります。土林夜市を歩いている雰囲気に似ている部分もあるかもしれません。
橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘の木のそばにある道が踏まれ,八方に分かれるように,いろんなことを思っている人たちに,私の気持ちを知って貰うこともない>>
立派な橘の木にはそれを目印にして多くの人が集まる(渋谷駅のハチ公のように)。でも,その人たちはいろいろな思いや方向性を持って生きている。それぞれが理解しあえているわけではないし,私のことをよく知っているわけでもない。
その状況を孤独と感じるか,異邦人(旅びと)としての立場をわきまえ,外からいろんな人が集まる場所の雰囲気を傍観者として楽しむか,それもまた旅をする人それぞれの思いや感じ方なのかもしれませんね。
2015 シルバウィークスペシャル(2)に続く。
2015年4月30日木曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(2) 平城京の将来は奈良麻呂様に託します
「折る」の2回目は,今の季節ではありませんが,「黄葉を折る」を見ていきます。
万葉集で黄葉がたくさん詠まれているのは,このブログでもたびたび取り上げています。
さて,なぜ「紅葉」と書かないのか?と疑問に感じる人もいらっしゃるかと思います。元の万葉仮名が「黄葉」となっていて,これを「もみち」と発音すると後世の万葉学者先生が判断したということです。私は,今のイロハモミジのような真っ赤に色づく木は少なく,ケヤキ(当時は槻:つき)などの黄色系に色づく落葉樹が多かったためかも知れないと考えています。
では,実際に「折る」を詠んだ和歌をみていきましょう。
最初は,高橋虫麻呂歌集からもってきたという筑波山に登って詠んだ長歌の反歌です。
筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな(9-1758)
<つくはねのすそみのたゐに あきたかるいもがりやらむ もみちたをらな>
<<筑波山の麓の田で稲を刈っているあの子に贈るためにモミジを手で折ってみよう>>
今は自宅で植えている自分所有のモミジ以外,勝手に折って採ったりしてはいけません。当時は人口も少なく,そんなことは少しくらいなら許されていたとお考えください。
<筑波山は万葉時代から黄葉の名所として知られていた?>
秋に筑波山に登ったら,黄葉が素晴らしく,そして眼下を見れば,黄色く染まった稲穂の田で,稲を刈っている若い娘がいるのが見える。良い光景描写ですね。奈良の都人はこの和歌を聞いて,是非筑波山に行ってみたいと思ったかもしれません。当時から筑波山は黄葉の名所との評判が高かったのでしょう。
どちらが先かは定かではありませんが,大伴旅人も夏の暑い時期に筑波山に登った様子がこの歌の何首か前に出てきます。
<本題>
さて,万葉集巻8に,天平10(738)年10月17日に当時将来が嘱望されていた橘奈良麻呂(当時18歳位か,右大臣橘諸兄の子)宅で催された宴の席(※)で参加者が「黄葉を手折る」を詠んだ短歌が何首が出てきます。
※この宴席には,大伴家持(当時20歳),大伴池主のほか家持の弟の大伴書持(ふみもち)も出席して短歌を詠んでいます。
次は,その中で,宴の主人橘奈良麻呂が最初に詠んだ2首です。
手折らずて散りなば惜しと我が思ひし秋の黄葉をかざしつるかも(8-1581)
<たをらずてちりなばをしと わがおもひしあきのもみちを かざしつるかも>
<<折り取ってしまわずに散ってしまうと惜しいと私が思う秋の黄葉をこの手で折って,皆様にお見せしましょう>>
めづらしき人に見せむと黄葉を手折りぞ我が来し雨の降らくに(8-1582)
<めづらしきひとにみせむと もみちばをたをりぞわがこし あめのふらくに>
<<今日来てくださった素晴らしい皆様にお見せしようと葉を手折ってきましたよ。雨が降るのもいとわずに>>
これは,主人が来訪者に対して,歓迎の意思を表明したものと受け取っても良いでしょう。綺麗な黄葉を手で折って(剪定ばさみなどは当時なかったと思います),花瓶に生けるか,大きなお皿に飾って,出迎えたのかも知れませんね。
雨に濡れてさぞかし綺麗だったのでしょう。来客は順番にお礼の短歌を返します。
その中で,次は秦許遍麻呂(はたのこへまろ)という人物(不詳)が返した短歌です。
露霜にあへる黄葉を手折り来て妹とかざしつ後は散るとも(8-1589)
<つゆしもにあへるもみちを たをりきていもはかざしつ のちはちるとも>
<<露や霜で傷んでしまう黄葉をやさしい貴殿の手で先に折って,貴殿の奥方にお贈りになったら,後は散っても本望でしょう>>
ここで,妹は誰のことか判断に迷いますが,奈良麻呂の奥方になる予定の(恐らく同席していたうら若い)女性として訳してみました。
前年,大納言,参議に名を連ねていた藤原4兄弟(武智麻呂,房前,宇合,麻呂)が相次いで病死し,ますます父橘諸兄の力が増していた時です。
家持,池主,書持は将来,橘諸兄の後を継いで,平城京の中心人物になるとの見込みを持って,奈良麻呂邸でのこの宴に参加できたことを非常に喜んでいたのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ)に続く。
万葉集で黄葉がたくさん詠まれているのは,このブログでもたびたび取り上げています。
さて,なぜ「紅葉」と書かないのか?と疑問に感じる人もいらっしゃるかと思います。元の万葉仮名が「黄葉」となっていて,これを「もみち」と発音すると後世の万葉学者先生が判断したということです。私は,今のイロハモミジのような真っ赤に色づく木は少なく,ケヤキ(当時は槻:つき)などの黄色系に色づく落葉樹が多かったためかも知れないと考えています。
では,実際に「折る」を詠んだ和歌をみていきましょう。
最初は,高橋虫麻呂歌集からもってきたという筑波山に登って詠んだ長歌の反歌です。
筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな(9-1758)
<つくはねのすそみのたゐに あきたかるいもがりやらむ もみちたをらな>
<<筑波山の麓の田で稲を刈っているあの子に贈るためにモミジを手で折ってみよう>>
今は自宅で植えている自分所有のモミジ以外,勝手に折って採ったりしてはいけません。当時は人口も少なく,そんなことは少しくらいなら許されていたとお考えください。
<筑波山は万葉時代から黄葉の名所として知られていた?>
秋に筑波山に登ったら,黄葉が素晴らしく,そして眼下を見れば,黄色く染まった稲穂の田で,稲を刈っている若い娘がいるのが見える。良い光景描写ですね。奈良の都人はこの和歌を聞いて,是非筑波山に行ってみたいと思ったかもしれません。当時から筑波山は黄葉の名所との評判が高かったのでしょう。
どちらが先かは定かではありませんが,大伴旅人も夏の暑い時期に筑波山に登った様子がこの歌の何首か前に出てきます。
<本題>
さて,万葉集巻8に,天平10(738)年10月17日に当時将来が嘱望されていた橘奈良麻呂(当時18歳位か,右大臣橘諸兄の子)宅で催された宴の席(※)で参加者が「黄葉を手折る」を詠んだ短歌が何首が出てきます。
※この宴席には,大伴家持(当時20歳),大伴池主のほか家持の弟の大伴書持(ふみもち)も出席して短歌を詠んでいます。
次は,その中で,宴の主人橘奈良麻呂が最初に詠んだ2首です。
手折らずて散りなば惜しと我が思ひし秋の黄葉をかざしつるかも(8-1581)
<たをらずてちりなばをしと わがおもひしあきのもみちを かざしつるかも>
<<折り取ってしまわずに散ってしまうと惜しいと私が思う秋の黄葉をこの手で折って,皆様にお見せしましょう>>
めづらしき人に見せむと黄葉を手折りぞ我が来し雨の降らくに(8-1582)
<めづらしきひとにみせむと もみちばをたをりぞわがこし あめのふらくに>
<<今日来てくださった素晴らしい皆様にお見せしようと葉を手折ってきましたよ。雨が降るのもいとわずに>>
これは,主人が来訪者に対して,歓迎の意思を表明したものと受け取っても良いでしょう。綺麗な黄葉を手で折って(剪定ばさみなどは当時なかったと思います),花瓶に生けるか,大きなお皿に飾って,出迎えたのかも知れませんね。
雨に濡れてさぞかし綺麗だったのでしょう。来客は順番にお礼の短歌を返します。
その中で,次は秦許遍麻呂(はたのこへまろ)という人物(不詳)が返した短歌です。
露霜にあへる黄葉を手折り来て妹とかざしつ後は散るとも(8-1589)
<つゆしもにあへるもみちを たをりきていもはかざしつ のちはちるとも>
<<露や霜で傷んでしまう黄葉をやさしい貴殿の手で先に折って,貴殿の奥方にお贈りになったら,後は散っても本望でしょう>>
ここで,妹は誰のことか判断に迷いますが,奈良麻呂の奥方になる予定の(恐らく同席していたうら若い)女性として訳してみました。
前年,大納言,参議に名を連ねていた藤原4兄弟(武智麻呂,房前,宇合,麻呂)が相次いで病死し,ますます父橘諸兄の力が増していた時です。
家持,池主,書持は将来,橘諸兄の後を継いで,平城京の中心人物になるとの見込みを持って,奈良麻呂邸でのこの宴に参加できたことを非常に喜んでいたのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ)に続く。
2015年3月14日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(1) 「もろえ」さんはモロ・ええなあ~
今回から,また動きの詞(ことば)シリーズに戻ります。今回は,今でも使う「申す」を見ていきましょう。
万葉集の万葉仮名から,万葉時代「申す」は「まをす」と発音していたようです。ただ,一部には「まうす」とも発音していたことも考えられます。
万葉時代での「申す」の意味は今と同じ「言う」「告げる」の謙譲語であること以外に「政事を執奏(しっそう)する」といった意味もあったようです。
具体的な万葉集の和歌を見ていきましょう。次の短歌は志斐嫗(しひのをうな)と呼ばれた老女が,持統天皇の問いかけた短歌に答えたものです。
いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る(3-237)
<いなといへどかたれかたれと のらせこそしひいはまをせ しひかたりとのる>
<<遠慮しますと言っておりますのに,陛下が語れ語れと指示され,私に申すように強制しておきながら,それを「私が勝手に話したいと思って話したお話」とおっしゃるなんて,それはあんまりです>>
最初の「言う」は謙譲語ではないので,天皇に直接言ったのではなく,使者に「お断りしたい」言ったのでしょう。それでも,持統天皇は志斐嫗の話がききたくて,家臣に語らせよ,語らせよと指示をした。そうして,結局「申す」とあるように,直接天皇に語りをすることになったのです。
そうすると,この短歌の前に持統天皇がどんな短歌を志斐嫗に贈ったか気になりますね。
いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり(3-236)
<いなといへどしふるしひのが しひかたりこのころきかずて あれこひにけり>
<<特別聞きたくもないと言うのに志斐の婆さんがどうしても話したいといって以前話してくれた語り。それが最近は聞かれなくて物足りないのよね>>
なるほど,天皇は志斐嫗の面白い話を聞きたいが,立場上直接命令するのは律令に反する。だから,志斐嫗が乗り込んできてどうしても話したいということにしたかったのでしょうか。しかし,志斐嫗も負けてはいません。「陛下の方こそ私の話をすごくお聞きになりたいのでしょ?」とやり返します。
<オモロイ話はいつでも聞きたいもの>
万葉時代,テレビもラジオもインターネットもない時代です。文字すらも特別な役人だけのモノでした。そんなとき,人気の語り部(今で言えば,落語家,漫談家,講談師,ピン芸人などに当る)の話を聞くのが,多くの人たちの娯楽の一つとなっていたと私は思います。
志斐嫗は,皇室専属ではなく,当時有名な語り部だったのかもしれません。なので,なかなかスケジュールの調整が付かず,持統天皇もしばらく聞けなかったのでしょう。
さて,次は年が大きく下りますが,聖武天皇が難波宮に行幸したとき,元正上皇を囲んだ宴席で,そのとき権力の中枢にいた橘諸兄(たちばなのもろえ)を出席者が讃嘆する和歌が残っています。
その中の1首(誰が詠んだか未詳)に「申す」が出てきます。
堀江より水脈引きしつつ御船さすしつ男の伴は川の瀬申せ(18-4061)
<ほりえよりみをびきしつつ みふねさすしつをのともは かはのせまうせ>
<<堀江を川岸から綱で御船を曳き操る下男たちは,いつまでも御船に伴って川の浅瀬にご注意あれと申すようにいたします>>
この短歌に出てくる「しつ男」は,橘諸兄に対して謙遜した参加者たちを指しているように思えます。「我々は諸兄様の下人で,みんなで船にお乗りになっている諸兄様をお守りいたします」といった意味でしょうか。
この後の短歌では,みんなで一緒に船に乗って,竿をさして浅瀬に注意して無事な航行を達成していくといった短歌が続きます。いずれにしても,橘諸兄に対する忠誠心を表した短歌であることは間違いないでしょう。
今回の最後は,前首よりさらに年は下ります。大伴家持が越中守を解かれ,帰京する途中(天平勝宝3(751)年8月),帰京後の後継人として期待している橘諸兄宛てに贈るために詠んだとされる短歌です。
いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね(19-4256)
<いにしへにきみがみよへて つかへけりあがおほぬしは ななよまをさね>
<<昔天皇の三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたもの(政権をとった藤原不比等)がいたのですが,わが主君(橘諸兄様)はどうか七代もお仕え(政権をおとり)下さいますよう申し上げたいのです>>
約4年も越中で過ごし,京に帰任する家持にとって,自分を守ってくれる権力者が欲しかったのでしょう。最後の「申さね」という言葉が,橘諸兄にすがりたい家持の気持ちを強く表れしていると私は感じます。
家持は,この短歌を実際に諸兄に贈ったかどうかは分かりません。でも,その当時の家持の不安な気持ちを表すものとして,家持は記録し,万葉集に残したのだろうと私は思います。
しかし,諸兄の威光はこのころから下り坂で,藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)が勢力を伸ばしていきます。
越中での比較的穏やかな生活は終わりを告げ,京での家持の試練が待っているのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)に続く。
万葉集の万葉仮名から,万葉時代「申す」は「まをす」と発音していたようです。ただ,一部には「まうす」とも発音していたことも考えられます。
万葉時代での「申す」の意味は今と同じ「言う」「告げる」の謙譲語であること以外に「政事を執奏(しっそう)する」といった意味もあったようです。
具体的な万葉集の和歌を見ていきましょう。次の短歌は志斐嫗(しひのをうな)と呼ばれた老女が,持統天皇の問いかけた短歌に答えたものです。
いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る(3-237)
<いなといへどかたれかたれと のらせこそしひいはまをせ しひかたりとのる>
<<遠慮しますと言っておりますのに,陛下が語れ語れと指示され,私に申すように強制しておきながら,それを「私が勝手に話したいと思って話したお話」とおっしゃるなんて,それはあんまりです>>
最初の「言う」は謙譲語ではないので,天皇に直接言ったのではなく,使者に「お断りしたい」言ったのでしょう。それでも,持統天皇は志斐嫗の話がききたくて,家臣に語らせよ,語らせよと指示をした。そうして,結局「申す」とあるように,直接天皇に語りをすることになったのです。
そうすると,この短歌の前に持統天皇がどんな短歌を志斐嫗に贈ったか気になりますね。
いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり(3-236)
<いなといへどしふるしひのが しひかたりこのころきかずて あれこひにけり>
<<特別聞きたくもないと言うのに志斐の婆さんがどうしても話したいといって以前話してくれた語り。それが最近は聞かれなくて物足りないのよね>>
なるほど,天皇は志斐嫗の面白い話を聞きたいが,立場上直接命令するのは律令に反する。だから,志斐嫗が乗り込んできてどうしても話したいということにしたかったのでしょうか。しかし,志斐嫗も負けてはいません。「陛下の方こそ私の話をすごくお聞きになりたいのでしょ?」とやり返します。
<オモロイ話はいつでも聞きたいもの>
万葉時代,テレビもラジオもインターネットもない時代です。文字すらも特別な役人だけのモノでした。そんなとき,人気の語り部(今で言えば,落語家,漫談家,講談師,ピン芸人などに当る)の話を聞くのが,多くの人たちの娯楽の一つとなっていたと私は思います。
志斐嫗は,皇室専属ではなく,当時有名な語り部だったのかもしれません。なので,なかなかスケジュールの調整が付かず,持統天皇もしばらく聞けなかったのでしょう。
さて,次は年が大きく下りますが,聖武天皇が難波宮に行幸したとき,元正上皇を囲んだ宴席で,そのとき権力の中枢にいた橘諸兄(たちばなのもろえ)を出席者が讃嘆する和歌が残っています。
その中の1首(誰が詠んだか未詳)に「申す」が出てきます。
堀江より水脈引きしつつ御船さすしつ男の伴は川の瀬申せ(18-4061)
<ほりえよりみをびきしつつ みふねさすしつをのともは かはのせまうせ>
<<堀江を川岸から綱で御船を曳き操る下男たちは,いつまでも御船に伴って川の浅瀬にご注意あれと申すようにいたします>>
この短歌に出てくる「しつ男」は,橘諸兄に対して謙遜した参加者たちを指しているように思えます。「我々は諸兄様の下人で,みんなで船にお乗りになっている諸兄様をお守りいたします」といった意味でしょうか。
この後の短歌では,みんなで一緒に船に乗って,竿をさして浅瀬に注意して無事な航行を達成していくといった短歌が続きます。いずれにしても,橘諸兄に対する忠誠心を表した短歌であることは間違いないでしょう。
今回の最後は,前首よりさらに年は下ります。大伴家持が越中守を解かれ,帰京する途中(天平勝宝3(751)年8月),帰京後の後継人として期待している橘諸兄宛てに贈るために詠んだとされる短歌です。
いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね(19-4256)
<いにしへにきみがみよへて つかへけりあがおほぬしは ななよまをさね>
<<昔天皇の三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたもの(政権をとった藤原不比等)がいたのですが,わが主君(橘諸兄様)はどうか七代もお仕え(政権をおとり)下さいますよう申し上げたいのです>>
約4年も越中で過ごし,京に帰任する家持にとって,自分を守ってくれる権力者が欲しかったのでしょう。最後の「申さね」という言葉が,橘諸兄にすがりたい家持の気持ちを強く表れしていると私は感じます。
家持は,この短歌を実際に諸兄に贈ったかどうかは分かりません。でも,その当時の家持の不安な気持ちを表すものとして,家持は記録し,万葉集に残したのだろうと私は思います。
しかし,諸兄の威光はこのころから下り坂で,藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)が勢力を伸ばしていきます。
越中での比較的穏やかな生活は終わりを告げ,京での家持の試練が待っているのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)に続く。
2015年1月4日日曜日
2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(3:まとめ)」 東国からの防人徴集は家持がやめさせた?
本スペシャルの最後は,万葉集で天平勝宝7(755)年:乙未(きのとひつじ)に詠まれたとされる和歌について見ていきます。
天平勝宝7年は歴史的に大きなできごとはない年でした。大伴家持は37歳になっており,難波で防人の検校(けんぎょう)に任に当っていたようです。
そのため,天平勝宝7年に詠まれたと万葉集にある和歌は防人歌,家持が防人の立場や気持ちになって詠った歌,その後家持が検校の任を解かれて京に戻り,宴席での参加者の歌など100首を大きく超える和歌が万葉集に記録されています。
防人制度ですが,この年の翌々年の天平宝字元(757)年(または天平勝宝9年)に東国から防人を集めるのではなく,九州地方のみで構成するようになったとWikipediaに出ています。もし,それが本当なら,家持の防人歌を献上したことが功を奏した可能性もあるかもしれません。
さて,防人歌及び家持の防人歌の代表的にものをいくつか紹介します。
1首目は遠江国長下郡(現在の浜松)の物部古麻呂(もののべのこまろ)が詠んだされる防人歌です。
我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(20-4327)
<わがつまもゑにかきとらむ いつまもがたびゆくあれは みつつしのはむ>
<<妻の絵を描く時間があったなら、旅の道中で私は(その絵を)見て妻のことを偲ぶことができるのだが>>
2首目は大伴家持が詠んだ防人歌です。
今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(20-4335)
<いまかはるにひさきもりが ふなでするうなはらのうへに なみなさきそね>
<<今から新しく交替に新防人が船出する。海原の上に波を立てないで欲しい>>
3首目は下総国埴生郡(今の成田市あたり)出身の大伴部麻与佐(おほともべのまよさ)が詠んだとされる防人歌です。
天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(20-4392)
<あめつしのいづれのかみを いのらばかうつくしははに またこととはむ>
<<天地のいずれの神に祈ったら,いとしい母にまた話しができるのだろう>>
最後は,夫を防人として出す妻が詠んだとされるものです。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
そして,天平勝宝7年には橘諸兄の影響力が少しずつ低下し,藤原仲麻呂の影響力が大きくなろうとしている時代です。家持にとって,将来の昇進に関して不安な時代に突入したのは間違いありません。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1)に続く。
天平勝宝7年は歴史的に大きなできごとはない年でした。大伴家持は37歳になっており,難波で防人の検校(けんぎょう)に任に当っていたようです。
そのため,天平勝宝7年に詠まれたと万葉集にある和歌は防人歌,家持が防人の立場や気持ちになって詠った歌,その後家持が検校の任を解かれて京に戻り,宴席での参加者の歌など100首を大きく超える和歌が万葉集に記録されています。
防人制度ですが,この年の翌々年の天平宝字元(757)年(または天平勝宝9年)に東国から防人を集めるのではなく,九州地方のみで構成するようになったとWikipediaに出ています。もし,それが本当なら,家持の防人歌を献上したことが功を奏した可能性もあるかもしれません。
さて,防人歌及び家持の防人歌の代表的にものをいくつか紹介します。
1首目は遠江国長下郡(現在の浜松)の物部古麻呂(もののべのこまろ)が詠んだされる防人歌です。
我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(20-4327)
<わがつまもゑにかきとらむ いつまもがたびゆくあれは みつつしのはむ>
<<妻の絵を描く時間があったなら、旅の道中で私は(その絵を)見て妻のことを偲ぶことができるのだが>>
2首目は大伴家持が詠んだ防人歌です。
今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(20-4335)
<いまかはるにひさきもりが ふなでするうなはらのうへに なみなさきそね>
<<今から新しく交替に新防人が船出する。海原の上に波を立てないで欲しい>>
3首目は下総国埴生郡(今の成田市あたり)出身の大伴部麻与佐(おほともべのまよさ)が詠んだとされる防人歌です。
天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(20-4392)
<あめつしのいづれのかみを いのらばかうつくしははに またこととはむ>
<<天地のいずれの神に祈ったら,いとしい母にまた話しができるのだろう>>
最後は,夫を防人として出す妻が詠んだとされるものです。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
そして,天平勝宝7年には橘諸兄の影響力が少しずつ低下し,藤原仲麻呂の影響力が大きくなろうとしている時代です。家持にとって,将来の昇進に関して不安な時代に突入したのは間違いありません。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1)に続く。
2014年7月19日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(1) ♪遠い遠いはるかな道は ~ 銀色のはるかな道
<土踏まずの役割>
人間は常時直立二足歩行する数少ない動物らしいです(鳥類やカンガルーは二足歩行ではあるが直立二足歩行でない)。その結果,人間の足の裏は立つとき,歩くとき,走るときに分けて,十分機能するような構造になっているようです。
たとえば,足の裏にある「土踏まず」は,石がゴロゴロしているような山道や悪路を素早く移動するとき,足や膝への衝撃を緩和するようために備わっているという見方があるようです。悪路を裸足で歩いたり,走ったりすることがほとんどなくなった現代では,「土踏まず」の必要性が減り,平均的に「土踏まず」は退化傾向(偏平足の人が増加傾向)となり,その結果,逆にちょっとした坂や階段の昇り降り(上り下り)で膝への負担が増すようになってきているのかもしれません。
<本題>
さて,万葉時代はどんな場所を踏んで歩いていたのでしょうか。当然,今のようなクッション性の高い靴はありませんでしたから,踏んだ時の感触や感じ方の変化は今より大きいものがあったと想像できそうです。
万葉集で「踏む」を見ていきましょう。屋外での移動で踏むものとして,まず「道」が考えられます。
まず,有名な東歌(女性作)からです。
信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背(14-3399)
<しなぬぢはいまのはりみち かりばねにあしふましなむ くつはけわがせ>
<<信濃への道は完成直後の道だから,木の切り株で足を踏み抜かないよう沓を履いていってね,私のあなた>>
人がまだ踏み均(なら)していない道はやはり歩きにくい道だったのでしょうね。
今は,舗装技術が発達していますので,逆に新道のほうが快適に歩き易かったりしますが,万葉時代は逆だったのでしょう。ただ,今でも登山者が歩く登山道は人が踏み均した場所を選んで上り下りした方が楽だと聞きます。
次も歩行が厳しい道を詠んだ詠み人知らず(女性作)の短歌です。
直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ(13-3320)
<ただにゆかずこゆこせぢから いはせふみもとめぞわがこし こひてすべなみ>
<<真っ直ぐに行かずに、あえて巨勢道の石だらけの道を踏みしめ、苦労をいとわずにわたしは来ました。あなたを恋しくてたまらなくなったので>>
巨勢道は,今の橿原市から南に御所市,五條市,橋本市まで続く,当時山中の街道で,楽な道ではなかったようですね。道は整備されておらず,石だらけの道では,その石を踏むときの痛さに耐えながら進む必要があったのでしょうか。
この道を選んで行くということは,当時はあえて苦難を覚悟で,困難な道を進むことをイメージしていたのかもしれません。作者の恋は,さまざまな苦難との戦いの連続だったけれど,相手を想う気持ちで乗り越えてきたことを伝えたい,そんな情熱的な短歌だと私は感じます。
最後は,少し政治的なにおいのする短歌です。
橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘のもとで道を踏み歩く,その多く分かれた道にやってきて,どちらの道にいくか心の中で決めました。あの人に知られないままにして>>
この短歌は,天平11(730)年8月30日に橘諸兄邸で行われた宴席で出席者の当時,大宰府の次官である大宰大弐(だざいだいに)高橋安麻呂が古歌として紹介したと左注に記されています。さらに左注では「この古歌の作者は豊嶋采女(としまのうねめ)である」と書かれ,続いて「別の本には,この古歌の作者は三方沙弥(みかたのさみ)で,妻の苑臣(そののおみ)を恋いて詠んだ」と書かれています。また,「別の本が正しいなら,宴席でこの短歌を詠いあげたのが豊嶋采女であったのではないか」という趣旨が書かれています。
安麻呂が主人である橘諸兄にこの古歌を披露したは,「橘の木が立つ分かれ道で橘諸兄様の向かわれる方向の道に私も進む決意をしています」という忠誠心を示したものと解釈できることだと私は思います。
<どの道を選ぶか>
さて,人生において,多くの分かれ道に出会うことがあります。そして,どの道を行くかを決断をせざるを得ない時があります。行ってみなければ分からないことを行く前に決断しなければならない訳ですから,迷いもするし,後悔しないように決めたいというプレッシャーも強い状況であることは間違いありません。可能な限り情報を集め,相談できる人にはできるだけ多く相談し,そして最終的に自分の判断を信じて決めるしかないのかもしれません。
<選んだ道はまずは進むこと>
最大限の努力をして決めたのなら,たとえ最適な道でないことやまわり道だたことを後で気がついても後悔することなく,その気が付いたことを新たの情報として,以降の最適な道筋を決めていけばよいと私は思います。
一番やってはいけないことは,最適な道を選べたことで安心をしたり,努力を怠ったりすることだと思います。他人よりハンディを背負っている方が「負けるものか」という強い気持ちになり,他人よりアドバンテージを持っていると「まあ少しぐらいいいや」という弱い心境になってしまうのが人間の性(さが)ではないでしょうか。
繰り返すようですが,たとえ道の選択を間違ってハンディを背負っても,そのハンディ自体を強い気持ちを維持する糧とし,努力を惜しず未来に向かって進めば,後悔の念に打ち勝てる可能性が高くなると私は信じています。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2)に続く。
人間は常時直立二足歩行する数少ない動物らしいです(鳥類やカンガルーは二足歩行ではあるが直立二足歩行でない)。その結果,人間の足の裏は立つとき,歩くとき,走るときに分けて,十分機能するような構造になっているようです。
たとえば,足の裏にある「土踏まず」は,石がゴロゴロしているような山道や悪路を素早く移動するとき,足や膝への衝撃を緩和するようために備わっているという見方があるようです。悪路を裸足で歩いたり,走ったりすることがほとんどなくなった現代では,「土踏まず」の必要性が減り,平均的に「土踏まず」は退化傾向(偏平足の人が増加傾向)となり,その結果,逆にちょっとした坂や階段の昇り降り(上り下り)で膝への負担が増すようになってきているのかもしれません。
<本題>
さて,万葉時代はどんな場所を踏んで歩いていたのでしょうか。当然,今のようなクッション性の高い靴はありませんでしたから,踏んだ時の感触や感じ方の変化は今より大きいものがあったと想像できそうです。
万葉集で「踏む」を見ていきましょう。屋外での移動で踏むものとして,まず「道」が考えられます。
まず,有名な東歌(女性作)からです。
信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背(14-3399)
<しなぬぢはいまのはりみち かりばねにあしふましなむ くつはけわがせ>
<<信濃への道は完成直後の道だから,木の切り株で足を踏み抜かないよう沓を履いていってね,私のあなた>>
人がまだ踏み均(なら)していない道はやはり歩きにくい道だったのでしょうね。
今は,舗装技術が発達していますので,逆に新道のほうが快適に歩き易かったりしますが,万葉時代は逆だったのでしょう。ただ,今でも登山者が歩く登山道は人が踏み均した場所を選んで上り下りした方が楽だと聞きます。
次も歩行が厳しい道を詠んだ詠み人知らず(女性作)の短歌です。
直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ(13-3320)
<ただにゆかずこゆこせぢから いはせふみもとめぞわがこし こひてすべなみ>
<<真っ直ぐに行かずに、あえて巨勢道の石だらけの道を踏みしめ、苦労をいとわずにわたしは来ました。あなたを恋しくてたまらなくなったので>>
巨勢道は,今の橿原市から南に御所市,五條市,橋本市まで続く,当時山中の街道で,楽な道ではなかったようですね。道は整備されておらず,石だらけの道では,その石を踏むときの痛さに耐えながら進む必要があったのでしょうか。
この道を選んで行くということは,当時はあえて苦難を覚悟で,困難な道を進むことをイメージしていたのかもしれません。作者の恋は,さまざまな苦難との戦いの連続だったけれど,相手を想う気持ちで乗り越えてきたことを伝えたい,そんな情熱的な短歌だと私は感じます。
最後は,少し政治的なにおいのする短歌です。
橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘のもとで道を踏み歩く,その多く分かれた道にやってきて,どちらの道にいくか心の中で決めました。あの人に知られないままにして>>
この短歌は,天平11(730)年8月30日に橘諸兄邸で行われた宴席で出席者の当時,大宰府の次官である大宰大弐(だざいだいに)高橋安麻呂が古歌として紹介したと左注に記されています。さらに左注では「この古歌の作者は豊嶋采女(としまのうねめ)である」と書かれ,続いて「別の本には,この古歌の作者は三方沙弥(みかたのさみ)で,妻の苑臣(そののおみ)を恋いて詠んだ」と書かれています。また,「別の本が正しいなら,宴席でこの短歌を詠いあげたのが豊嶋采女であったのではないか」という趣旨が書かれています。
安麻呂が主人である橘諸兄にこの古歌を披露したは,「橘の木が立つ分かれ道で橘諸兄様の向かわれる方向の道に私も進む決意をしています」という忠誠心を示したものと解釈できることだと私は思います。
<どの道を選ぶか>
さて,人生において,多くの分かれ道に出会うことがあります。そして,どの道を行くかを決断をせざるを得ない時があります。行ってみなければ分からないことを行く前に決断しなければならない訳ですから,迷いもするし,後悔しないように決めたいというプレッシャーも強い状況であることは間違いありません。可能な限り情報を集め,相談できる人にはできるだけ多く相談し,そして最終的に自分の判断を信じて決めるしかないのかもしれません。
<選んだ道はまずは進むこと>
最大限の努力をして決めたのなら,たとえ最適な道でないことやまわり道だたことを後で気がついても後悔することなく,その気が付いたことを新たの情報として,以降の最適な道筋を決めていけばよいと私は思います。
一番やってはいけないことは,最適な道を選べたことで安心をしたり,努力を怠ったりすることだと思います。他人よりハンディを背負っている方が「負けるものか」という強い気持ちになり,他人よりアドバンテージを持っていると「まあ少しぐらいいいや」という弱い心境になってしまうのが人間の性(さが)ではないでしょうか。
繰り返すようですが,たとえ道の選択を間違ってハンディを背負っても,そのハンディ自体を強い気持ちを維持する糧とし,努力を惜しず未来に向かって進めば,後悔の念に打ち勝てる可能性が高くなると私は信じています。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2)に続く。
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