序詞について,万葉集の東歌(巻14)を見ていくのは今回が最後です。
今回取り上げるのは,動物(哺乳類)です。
まずは,鹿が出てくる東歌を見てみましょう。
さを鹿の伏すや草むら見えずとも子ろが金門よ行かくしえしも(14-3530)
<さをしかのふすやくさむら みえずともころがかなとよゆかくしえしも>
<<オスの鹿とて草むらに伏していたら見えないように,(あの子からは見えないと思うが)あの子が住む家の金門の前を気づかれないようにそっと通っていくのはワクワクするよ>>
この短歌はいろいろな解釈ができそうですが,私なりの解釈で訳してみました。
ただ,今のテーマは序詞に出で来る鹿ですからそれに焦点を当てましょう。鹿は当時の奈良盆地にも多く生息していたと思われます。なぜなら,東歌以外の京に住む人たちが歌った万葉集の100を超える和歌に鹿が出てくるからです。
東歌では,これ以外に1首出てくるだけなので,逆に東歌では注目度が低い動物なのかもしれません。
奈良盆地では,鹿は山や林に住んでいて,時々里や街に出てきたのだと思われます。東国では歌に詠むテーマとして取り上げるほどではなく,この作者が東国人だとすると,私は「草むらに伏す」というところに注目します。
大きな鹿が伏していると見えないくらい背の高い草原が東国にはあるということです。
その豊富な草原があることが,次に示す動物の馬に関わるのだと私は想像します。
春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも(13-3532)
<はるののに くさはむこまのくちやまず あをしのふらむいへのころはも>
<<春の野に草を食む馬の口が途切れない,俺のことを常に想っていることだろう,家に残した彼女は>>
東国には近畿地方にはない広く豊富な草原があり,馬を放牧するにはもってこいの土地だったのではなかったかと私は想像します。
現代でも北海道は馬を育てるには適したところらしいですが,当時は京人(みやこびと)から見て東国がそんなイメージの場所だったのではないでしょうか。きっと,途切れることなく草を食べる駒(若い馬)は,成長が早く,元気で力強い馬に育ったのだと思います。
次はさらに強い馬を育てるために草だけではなく,麦までも食べさせている事例か窺える短歌です。
くへ越しに麦食む小馬のはつはつに相見し子らしあやに愛しも(14-3537)
<くへごしにむぎはむこうまの はつはつにあひみしこらし あやにかなしも>
<<馬柵越しに子馬が麦を食むように,めったに見ないような可愛いあの娘がすごく愛しい>>
現代でも,和牛の肉質を良くするためにビールを飲ませている牛牧場があると聞くことがあります。
豊富な草があるのに高価な麦まで馬に食べさせるこだわりこそ,その牧場の「ブランド化」「差別化」を意図したものだったのではないかと私は想像を膨らませます。そのうわさが,広まり,珍しいことの代名詞になったのかもしれませんね。
最後は,東国の馬がどんなに強いかを想像させる短歌です。
あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも(14-3541)
<あずへからこまのゆごのすあやはとも ひとづまころをまゆかせらふも>
<<断崖の上を駒が行く様子は危ないなあと感じるが,危なくても行きたい気持ちにさせる人妻,見ているだけではすまない>>
天の川 「たびとはん。この短歌の後半のほうが興味があるのとちゃうか?」
そう,「人妻に魅力を感じるこの短歌の作者の気持ちはよ~くわかる」と言いたいところだけど,天の川君の邪魔は放っておき,前半の駒の様子を分析しましょう。
危険な段階の上でも平気に行く馬ということは,放牧した馬でも,野生と劣らず強い馬がいるということを示します。
こうして育てられた馬は牧場主にとってどんなメリットがあるのでしょうか?
まず,特に優秀な馬は軍馬として各氏族に高く買ってもらえたのではないかということです。
その次の優秀な馬は,箱根や碓氷峠のような急峻な街道近く,そして橋のない大きな川の両側などの駅(はゆま)に配置し,人や荷物を起伏の厳しい道,水の流れの早い環境での運搬に耐える輸送馬として高値で取引された可能性があります。
また,比較的平らな街道では,走るスピードを生かして,騎手が乗馬して,駅間を速達便輸送馬として活躍したかもしれません。
その他には,現代の「ばんえい馬」のような農耕用の大型で力強い馬,馬肉として食用にする馬も飼われていたかもしれません。
いずれにしても,東歌の序詞を改めてみると,私には1300年前のフロンティア(開拓地)的な息遣いと活気が伝わってくるのです。
さて,次回からは京人が詠んだと思われる巻11に出てくる和歌の序詞について見ていきます。
(序詞再発見シリーズ(7)に続く)
2017年1月31日火曜日
2017年1月22日日曜日
序詞再発見シリーズ(5) ‥ 東歌の序詞には東国の大きな鳥類も紹介?
今年は酉年ですが,万葉集の東歌の短歌で使われている序詞には何種類かの鳥(雉,鷲,鴨,鶴,アジ)が出てきます。
今回は鳥を中心に紹介します。最初は「鷲」です。
筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに(14-3390)
<つくはねにかかなくわしの ねのみをかなきわたりなむ あふとはなしに>
<<筑波嶺でけたたましく鳴きたてる鷲の鳴き声が山々に響き渡るように泣き続けよう,もう君と逢うことができないから>>
鷲は万葉集では3首でしか出てきません。筑波嶺が2首で,越中が1首です。
そのため,関西地方には当時鷲はあまり目立った存在ではなかったのではないかと想像で
きます。
まさに,東国の筑波山や越中に行けば,大きな声で鳴くワシを見ることができると,旅行に誘っているように私は感じます。
次は東歌で鴨が出てくる短歌を見てみましょう。
まを薦の節の間近くて逢はなへば沖つま鴨の嘆きぞ我がする(14-3524)
<まをごものふのまちかくて あはなへばおきつまかもの なげきぞあがする>
<<細か編んだムシロの節の間が短いようには逢えず,沖にいるマガモが嘆き鳴くように僕も泣く>>
もう1首はアジガモを詠んだ短歌です。
あぢの棲む須沙の入江の隠り沼のあな息づかし見ず久にして(14-3547)
<あぢのすむすさのいりえの こもりぬのあないきづかし みずひさにして>
<<須沙の入江にあるひっそりたたずむ沼に棲むアジガモのように,ああなんて大きなため息がでるのだろう。君に長らく逢えなくて>>
アジガモは食用にされた鴨で,人間に食べられる運命か,大きなため息をついているように聞こえたのかもしれません。
最後は東歌に出てくる鶴を見ます。
坂越えて安倍の田の面に居る鶴のともしき君は明日さへもがも(14-3523)
<さかこえて あへのたのもにゐるたづの ともしききみはあすさへもがも>
<<坂を越えて安倍の田にいる鶴たちのように恋しいあの方に明日も一緒にいたいなあ>>
安倍の田は,安倍川の周辺にある稲田のことでしょうか。万葉時代には,多くの鶴が高い山を越えて越冬に来ていたのかもしれませんね。
つがいの鶴がいっぱいいて,仲良さそうにしているのがうらやましく感じたのでしょうね。
<愛猫「あう」天寿全う>
さて,我が家のネコたちのなかで最年長だった「あう」が先週死にました。
「あう」は2010年8月に「ラン」が死んだあと,我が家で長老として君臨してきました。
写真はまだ元気だったころのものです。長生きネコちゃんとして,近所でも評判でした。
段ボールにあうの遺体と,近所の人が「入れてあげて」とくださった花,庭に一輪だけ咲いていた水仙と椿の花,樒(シキミ)の葉を入れ,近くのお寺に納め,荼毘に付してもらいました。
野良ネコとして我が家に十数年前に来て,享年はおそらく20歳ぐらいだったと思います。
3週間ほど前から食事をほとんど食べなくなり,衰弱が急速に進み始めました。
最期は,昼過ぎに妻が買い物から帰ってくるのを待っていたように,妻があうの顔をのぞき込んだとき,妻に顔を向け,少し大きな息をして,小さな鳴き声を発し,そのあと少しして息をしなくなったとのことです。
妻から勤務先に「あうが死んだ」とのメールがあり,夜帰宅してあうの顔を見て,安らかな最期だったことを確認できました。
他のネコたちも「あう」がいなくなって,落ち着かない様子がまだ続いています。
天の川 「あうちゃんにはいっぱい遊んであげたさかい,やっぱり寂しいな~。」
私のプロフィールのあうの写真は,もう少しそのままにしておきます。
(序詞再発見シリーズ(6)に続く)
今回は鳥を中心に紹介します。最初は「鷲」です。
筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに(14-3390)
<つくはねにかかなくわしの ねのみをかなきわたりなむ あふとはなしに>
<<筑波嶺でけたたましく鳴きたてる鷲の鳴き声が山々に響き渡るように泣き続けよう,もう君と逢うことができないから>>
鷲は万葉集では3首でしか出てきません。筑波嶺が2首で,越中が1首です。
そのため,関西地方には当時鷲はあまり目立った存在ではなかったのではないかと想像で
きます。
まさに,東国の筑波山や越中に行けば,大きな声で鳴くワシを見ることができると,旅行に誘っているように私は感じます。
次は東歌で鴨が出てくる短歌を見てみましょう。
まを薦の節の間近くて逢はなへば沖つま鴨の嘆きぞ我がする(14-3524)
<まをごものふのまちかくて あはなへばおきつまかもの なげきぞあがする>
<<細か編んだムシロの節の間が短いようには逢えず,沖にいるマガモが嘆き鳴くように僕も泣く>>
もう1首はアジガモを詠んだ短歌です。
あぢの棲む須沙の入江の隠り沼のあな息づかし見ず久にして(14-3547)
<あぢのすむすさのいりえの こもりぬのあないきづかし みずひさにして>
<<須沙の入江にあるひっそりたたずむ沼に棲むアジガモのように,ああなんて大きなため息がでるのだろう。君に長らく逢えなくて>>
アジガモは食用にされた鴨で,人間に食べられる運命か,大きなため息をついているように聞こえたのかもしれません。
最後は東歌に出てくる鶴を見ます。
坂越えて安倍の田の面に居る鶴のともしき君は明日さへもがも(14-3523)
<さかこえて あへのたのもにゐるたづの ともしききみはあすさへもがも>
<<坂を越えて安倍の田にいる鶴たちのように恋しいあの方に明日も一緒にいたいなあ>>
安倍の田は,安倍川の周辺にある稲田のことでしょうか。万葉時代には,多くの鶴が高い山を越えて越冬に来ていたのかもしれませんね。
つがいの鶴がいっぱいいて,仲良さそうにしているのがうらやましく感じたのでしょうね。
<愛猫「あう」天寿全う>
さて,我が家のネコたちのなかで最年長だった「あう」が先週死にました。
「あう」は2010年8月に「ラン」が死んだあと,我が家で長老として君臨してきました。
写真はまだ元気だったころのものです。長生きネコちゃんとして,近所でも評判でした。
段ボールにあうの遺体と,近所の人が「入れてあげて」とくださった花,庭に一輪だけ咲いていた水仙と椿の花,樒(シキミ)の葉を入れ,近くのお寺に納め,荼毘に付してもらいました。
野良ネコとして我が家に十数年前に来て,享年はおそらく20歳ぐらいだったと思います。
3週間ほど前から食事をほとんど食べなくなり,衰弱が急速に進み始めました。
最期は,昼過ぎに妻が買い物から帰ってくるのを待っていたように,妻があうの顔をのぞき込んだとき,妻に顔を向け,少し大きな息をして,小さな鳴き声を発し,そのあと少しして息をしなくなったとのことです。
妻から勤務先に「あうが死んだ」とのメールがあり,夜帰宅してあうの顔を見て,安らかな最期だったことを確認できました。
他のネコたちも「あう」がいなくなって,落ち着かない様子がまだ続いています。
天の川 「あうちゃんにはいっぱい遊んであげたさかい,やっぱり寂しいな~。」
私のプロフィールのあうの写真は,もう少しそのままにしておきます。
(序詞再発見シリーズ(6)に続く)
2017年1月14日土曜日
序詞再発見シリーズ(4) ‥ 東歌の序詞にはまだまだ植物が出てきます
前回は東歌の序詞に出てくる比較的有用な植物について紹介しましたが,そのほかにもいろいろ植物の名(楢,葛,ねっこぐさ,薦<まこも>,いはいつら,藤,麦,草,玉藻,わかめ,など)が万葉集に出てきます。
最初は,楢の木が出てくる短歌です。
下つ毛野みかもの山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ(14-3423)
<しもつけのみかものやまの こならのすまぐはしころは たがけかもたむ>
<<下野のみかもの山に生える楢の若木のよう可愛いあの娘たちは誰のための食器を持つのか>>
今の栃木県栃木市にある三毳山(標高229m)と言われています。当時ここには,楢の群生地があり,伐採した後の切り株から,また苗木がきれいにたくさん出ていたのかもしれませんね。この短歌作者は,若い女の子たちを見て,三毳山の楢の苗木の若々しさを思い浮かべたのでしょうか。
栃木県の南部は比較的平坦で,水耕に適しており,山には楢などの広葉樹がたくさん生え,枯葉を肥料にしたり,焚き木や炭に使える木も豊富で,伐採した後からまた若木が生えていくのです。
次は,葛粉,葛切り,葛餅,葛根湯などで今でも知られている葛を詠んだ短歌です。
上つ毛野久路保の嶺ろの葛葉がた愛しけ子らにいや離り来も(14-3412)
<かみつけのくろほのねろのくずはがた かなしけこらにいやざかりくも>
<<上野の黒保根の葛の葉が大きくなるのと同じほど愛しいあの娘からかなり遠く離れたところにきてしまった>>
群馬県桐生市にある黒保根町(以前は1889年から黒保根村として村立し,2005年桐生市に併合された)の黒保根という村名はこの短歌に由来して名付けられたそうです。
今の黒保根地区の場所であれば赤城山の南東斜面であり,日当たりもよく,植物はよく育つ場所だったと想像できます。成長が早いクズもさらに速いスピードで成長したのではないかと思います。
なお,時代が平安時代想定に進みますが「葛の葉」という人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本があります。白狐が「葛の葉」という名の人間の若い女性に化け,狐の時自分を助けてくれた若者と結婚するというストーリです。その子供があの陰陽師で有名な安倍晴明という奇想天外なものです。クズの葉の形が見方によっては若い女性を示すものとして,万葉時代からイメージされていてもおかしくないと私は思っています。
最後は地面に生える草系の「いはゐつら」を詠んだ短歌です。
入間道の於保屋が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね(14-3378)
<いりまぢのおほやがはらの いはゐつらひかばぬるぬる わになたえそね>
<<入間道の於保屋が原に生えている「いはゐつら」をやさしく引っ張ると切れずにするすると引けるように私との間が切れることがにいようにね>>
入間道の於保屋が原は場所が特定されていないようで,入間市やその近辺にこの短歌の歌碑がいくつも立てられているようです。
「いはゐつら」は食用や薬草にもなる「スベリヒユ」の仲間という説が有力のようです。
確かに,スベリヒユがある程度育った全体の形を見ると「削りかけ」をした「いはゐぎ(祝い木)」(アイヌや神道の儀式に使う)に似ていなくもありませんね。
いずれにしても,東歌の序詞から,東国に魅力的な植物が豊富にあることをアピールしているように私は感じてしまいます。
(序詞再発見シリーズ(5)に続く)
最初は,楢の木が出てくる短歌です。
下つ毛野みかもの山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ(14-3423)
<しもつけのみかものやまの こならのすまぐはしころは たがけかもたむ>
<<下野のみかもの山に生える楢の若木のよう可愛いあの娘たちは誰のための食器を持つのか>>
今の栃木県栃木市にある三毳山(標高229m)と言われています。当時ここには,楢の群生地があり,伐採した後の切り株から,また苗木がきれいにたくさん出ていたのかもしれませんね。この短歌作者は,若い女の子たちを見て,三毳山の楢の苗木の若々しさを思い浮かべたのでしょうか。
栃木県の南部は比較的平坦で,水耕に適しており,山には楢などの広葉樹がたくさん生え,枯葉を肥料にしたり,焚き木や炭に使える木も豊富で,伐採した後からまた若木が生えていくのです。
次は,葛粉,葛切り,葛餅,葛根湯などで今でも知られている葛を詠んだ短歌です。
上つ毛野久路保の嶺ろの葛葉がた愛しけ子らにいや離り来も(14-3412)
<かみつけのくろほのねろのくずはがた かなしけこらにいやざかりくも>
<<上野の黒保根の葛の葉が大きくなるのと同じほど愛しいあの娘からかなり遠く離れたところにきてしまった>>
群馬県桐生市にある黒保根町(以前は1889年から黒保根村として村立し,2005年桐生市に併合された)の黒保根という村名はこの短歌に由来して名付けられたそうです。
今の黒保根地区の場所であれば赤城山の南東斜面であり,日当たりもよく,植物はよく育つ場所だったと想像できます。成長が早いクズもさらに速いスピードで成長したのではないかと思います。
なお,時代が平安時代想定に進みますが「葛の葉」という人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本があります。白狐が「葛の葉」という名の人間の若い女性に化け,狐の時自分を助けてくれた若者と結婚するというストーリです。その子供があの陰陽師で有名な安倍晴明という奇想天外なものです。クズの葉の形が見方によっては若い女性を示すものとして,万葉時代からイメージされていてもおかしくないと私は思っています。
最後は地面に生える草系の「いはゐつら」を詠んだ短歌です。
入間道の於保屋が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね(14-3378)
<いりまぢのおほやがはらの いはゐつらひかばぬるぬる わになたえそね>
<<入間道の於保屋が原に生えている「いはゐつら」をやさしく引っ張ると切れずにするすると引けるように私との間が切れることがにいようにね>>
入間道の於保屋が原は場所が特定されていないようで,入間市やその近辺にこの短歌の歌碑がいくつも立てられているようです。
「いはゐつら」は食用や薬草にもなる「スベリヒユ」の仲間という説が有力のようです。
確かに,スベリヒユがある程度育った全体の形を見ると「削りかけ」をした「いはゐぎ(祝い木)」(アイヌや神道の儀式に使う)に似ていなくもありませんね。
いずれにしても,東歌の序詞から,東国に魅力的な植物が豊富にあることをアピールしているように私は感じてしまいます。
(序詞再発見シリーズ(5)に続く)
2017年1月11日水曜日
序詞再発見シリーズ(3) ‥ 東歌の序詞は東国の高価値植物案内?
今回も前回に引き続き,東歌で使われている序詞について万葉集を見ていくことにします。
前回は地名でしたが,今回は植物の名が出てくる東歌の序詞にポイントを絞ります。
我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを(14-3379)
<わがせこをあどかもいはむ むざしののうけらがはなの ときなきものを>
<<あの子がいう武蔵野のうけらの花のように目立つようなそぶりを出さずにいられようか>>
ここに出てくる「うけら」は,後に「を(お)けら」と呼ばれ,大晦日から元旦にかけて京都の八坂神社に詣でる「おけら詣り」,また正月の屠蘇散(正月に飲む薬)の原料(漢方)の一つとして根が使われ,根を焼いた煙は蚊取り線香の煙のように夏の虫よけにもなっていたらしいというものです。
「うけら」は万葉集ではこの他に2首に出てきますが,どれも東歌です。
薬効のある「うけら」が関東の武蔵野という地に群生していた可能性が万葉集から想像できます。
仮に「うけら」が万葉時代では貴重な薬効植物で,常に不足している状態とすれば,東国は不足資源の供給地として注目されることになります。
次は,麻について詠んだ短歌です。
上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
<かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ>
<<上野(かみつけ)の安蘇の地で採れる麻の束を抱くようにお前を抱いて寝るのをずっと続けたい。俺はどうしたらよいのか>>
上野(今の群馬県か栃木県の一部)の安蘇の地は,栃木県に以前あった安蘇郡との関係もあるかもしれません。
その地では,麻の栽培が盛んだったことがこの短歌からうかがえます。
この地にヤマト民族は東国に先住していたアイヌ民族を追い払うという侵略を行い,入植し,開墾,広い土地に農作物の大量に栽培をしていたのでしょうか。
特に,麻は成長が早く,衣類,漁網,工作物,そして高い薬効など,その用途も広く,需要は絶えることは無かったと想像します。
最後は「大藺草」(「イグサ」の大きいものではなく「フトイ」という植物らしい)を詠んだ短歌です。
上つ毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそまされ(14-3417)
<かみつけのいならのぬまのおほゐぐさ よそにみしよはいまこそまされ>
<<上野の伊奈良の沼に生えている大藺草が遠くで見るより近くで見るほう美しいように,今近くで見ているお前がずうっと恋しく幸せだよ>>
この短歌の「伊奈良の沼」は,今の群馬県の南東部にあり,そして近くには大きな渡良瀬遊水地がある板倉町あたりに当時あった沼のことらしいです。
この短歌の主人公の男性は「大蘭草」を近くで見て形の良いものを選別して刈り取り,束ね揃えて出荷する仕事をしていたのかもしれません。
また,「大藺草」は遠くからは目立たない小さい花を咲かせるため,その花を見るには近くで見る必要があったようです。
天の川 「たびとはんな。わてにも顔の真ん中に可憐な小さなハナがあるで。近こう来て見て~な。」
天の川君の顔は,できるだけ遠くから眺めることにしましょう。
さて,「大蘭草」(フトイ)は乾燥させて,すだれ,行李(旅行鞄),部屋の仕切りや屋根葺きの材料,夏の敷物,着火性の良い燃料,かがり火,松明などに使われる好材料だったのだと私は思います。
これらの短歌を当時の中国大陸や朝鮮半島の人たちが見ると,日本はヤマト朝廷の京(みやこ)がある近辺だけでなく,その東方に有用な植物資源が豊富にある土地が広くあり,日本はそれらの輸入先として貿易相手国になるえると考えたかもしれません。
その結果,万葉時代の東国からは,近畿へ多くの物資が陸路・海路で送られ,その中には朝鮮,中国に輸出されたものもたくさんあったと私は思いを巡らせるのです。
(序詞再発見シリーズ(4)に続く)
前回は地名でしたが,今回は植物の名が出てくる東歌の序詞にポイントを絞ります。
我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを(14-3379)
<わがせこをあどかもいはむ むざしののうけらがはなの ときなきものを>
<<あの子がいう武蔵野のうけらの花のように目立つようなそぶりを出さずにいられようか>>
ここに出てくる「うけら」は,後に「を(お)けら」と呼ばれ,大晦日から元旦にかけて京都の八坂神社に詣でる「おけら詣り」,また正月の屠蘇散(正月に飲む薬)の原料(漢方)の一つとして根が使われ,根を焼いた煙は蚊取り線香の煙のように夏の虫よけにもなっていたらしいというものです。
「うけら」は万葉集ではこの他に2首に出てきますが,どれも東歌です。
薬効のある「うけら」が関東の武蔵野という地に群生していた可能性が万葉集から想像できます。
仮に「うけら」が万葉時代では貴重な薬効植物で,常に不足している状態とすれば,東国は不足資源の供給地として注目されることになります。
次は,麻について詠んだ短歌です。
上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
<かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ>
<<上野(かみつけ)の安蘇の地で採れる麻の束を抱くようにお前を抱いて寝るのをずっと続けたい。俺はどうしたらよいのか>>
上野(今の群馬県か栃木県の一部)の安蘇の地は,栃木県に以前あった安蘇郡との関係もあるかもしれません。
その地では,麻の栽培が盛んだったことがこの短歌からうかがえます。
この地にヤマト民族は東国に先住していたアイヌ民族を追い払うという侵略を行い,入植し,開墾,広い土地に農作物の大量に栽培をしていたのでしょうか。
特に,麻は成長が早く,衣類,漁網,工作物,そして高い薬効など,その用途も広く,需要は絶えることは無かったと想像します。
最後は「大藺草」(「イグサ」の大きいものではなく「フトイ」という植物らしい)を詠んだ短歌です。
上つ毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそまされ(14-3417)
<かみつけのいならのぬまのおほゐぐさ よそにみしよはいまこそまされ>
<<上野の伊奈良の沼に生えている大藺草が遠くで見るより近くで見るほう美しいように,今近くで見ているお前がずうっと恋しく幸せだよ>>
この短歌の「伊奈良の沼」は,今の群馬県の南東部にあり,そして近くには大きな渡良瀬遊水地がある板倉町あたりに当時あった沼のことらしいです。
この短歌の主人公の男性は「大蘭草」を近くで見て形の良いものを選別して刈り取り,束ね揃えて出荷する仕事をしていたのかもしれません。
また,「大藺草」は遠くからは目立たない小さい花を咲かせるため,その花を見るには近くで見る必要があったようです。
天の川 「たびとはんな。わてにも顔の真ん中に可憐な小さなハナがあるで。近こう来て見て~な。」
天の川君の顔は,できるだけ遠くから眺めることにしましょう。
さて,「大蘭草」(フトイ)は乾燥させて,すだれ,行李(旅行鞄),部屋の仕切りや屋根葺きの材料,夏の敷物,着火性の良い燃料,かがり火,松明などに使われる好材料だったのだと私は思います。
これらの短歌を当時の中国大陸や朝鮮半島の人たちが見ると,日本はヤマト朝廷の京(みやこ)がある近辺だけでなく,その東方に有用な植物資源が豊富にある土地が広くあり,日本はそれらの輸入先として貿易相手国になるえると考えたかもしれません。
その結果,万葉時代の東国からは,近畿へ多くの物資が陸路・海路で送られ,その中には朝鮮,中国に輸出されたものもたくさんあったと私は思いを巡らせるのです。
(序詞再発見シリーズ(4)に続く)
2017年1月6日金曜日
序詞再発見シリーズ(2) ‥ 東歌の序詞は立派な観光案内?
正月休みはあっという間に終わり,私「たびと」は本業のソフトウェア保守開発の職場に出勤しています。今日は通院のため午前休暇で,ついでにこのブログをアップしています。
相変わらず,私の本業の仕事は無くなりません。ただ,つき合っている人たちのモチベーションがソフトの保守というだけで,下がってしまうのは何とかしてほしいですね。
本業のブログ( http://ameblo.jp/tabito-2016/ )も年明け快調にアップしていますよ。
さて,序詞再発見の2回目からしばらくは,巻14の東歌を見ていくことにします。
東歌で序詞に出てくるものはいろいろありますが,地名がたくさん使われていることが特徴の一つだと私は思います。
たとえば,次の短歌です。
鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ(14-3365)
<かまくらのみごしのさきの いはくえのきみがくゆべき こころはもたじ>
<<鎌倉の見越しの崎の岩が崩れるような,この恋が崩れてあなたが悔やむような気持は一切ないよ>>
ここから東国には鎌倉(可麻久良)と呼ばれる地がある。その近くに海岸があり,見越しの崎( 美胡之能佐吉)と呼ばれる場所がある。
見越しの崎は長年の浸食によって,今にも崩れそうな奇岩があることが見えます。
少なくとも,奈良にいる京人は「今にも崩れそうな奇岩とはどんなものだろう」と興味を持つのではないかと私は想像します。
その結果,鎌倉と見越しの埼という地名は京人にインプットされ,東国へ出張する役人に「見てきてほしい」と頼む人が出てくるかもしれません。
東歌にはそのような事例が他にも多くあります。
相模道の余綾の浜の真砂なす子らは愛しく思はるるかも(14-3372)
<さがむぢのよろぎのはまの まなごなすこらはかなしく おもはるるかも>
<<相模街道に面した余綾の浜のきれいな砂が無数にあるのように,あの娘のことが限りなくい恋しく思われるなあ>>
相模道という街道があって,その街道は海岸沿いに通っている。
海岸には余綾の浜(余呂伎能波麻)という砂浜が延々と続いている場所(現在の大磯近辺?)がある。
その砂浜はきれいな砂でずっと被われている。
こんか風光明媚な場所であることが想像できます。
筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにもたゆらに我が思はなくに(14-3392)
<つくはねのいはもとどろに おつるみづよにもたゆらに わがおもはなくに>
<<筑波嶺で岩をも響かせる滝の水の跳ねる方向が定まらないような私の気持ちではないのに>>
筑波嶺という大きな山があり,そこには硬い岩をも響かせるような大きな滝がある。
滝の水は勢いがよく四方八方に飛び散っている。
ところが,現在の筑波山には残念ながら大きな滝がないのです。万葉時代は今とは違っていたかもしれませんが,地形が大きく変わっていないとすれば大きな滝があった可能性は低そうです。
もしかして,この短歌は誇大広告だったのかも?
天の川 「そんなことは,ようあることやんか。ベルギーの『小便小僧』,デンマークの『人魚姫』,シンガポールの『マーライオン』おまけに大阪の『通天閣』なんか,初めて見た人は『がっかり』するそうやで。」
天の川君は意外と物知りだね。感心したよ。
天の川 「ちょっと前にパソコンをええやつに変えてな,ネットに「ねっとり」はまってんねん。まあ,その受け売りやねっと。」
天の川君のくだらないダジャレはスルーしましょう。
東歌にはそのほかにもたくさん地名が出てくる序詞があります。東歌は京人に東国へいざなう観光ガイドブックではないかと私が感じるゆえんです。
多くの人が東国と行き来すれば,東国の発展が促されるだけでなく,途中の街道の宿場町なども活気づくわけですからね。
(序詞再発見シリーズ(3)に続く)
相変わらず,私の本業の仕事は無くなりません。ただ,つき合っている人たちのモチベーションがソフトの保守というだけで,下がってしまうのは何とかしてほしいですね。
本業のブログ( http://ameblo.jp/tabito-2016/ )も年明け快調にアップしていますよ。
さて,序詞再発見の2回目からしばらくは,巻14の東歌を見ていくことにします。
東歌で序詞に出てくるものはいろいろありますが,地名がたくさん使われていることが特徴の一つだと私は思います。
たとえば,次の短歌です。
鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ(14-3365)
<かまくらのみごしのさきの いはくえのきみがくゆべき こころはもたじ>
<<鎌倉の見越しの崎の岩が崩れるような,この恋が崩れてあなたが悔やむような気持は一切ないよ>>
ここから東国には鎌倉(可麻久良)と呼ばれる地がある。その近くに海岸があり,見越しの崎( 美胡之能佐吉)と呼ばれる場所がある。
見越しの崎は長年の浸食によって,今にも崩れそうな奇岩があることが見えます。
少なくとも,奈良にいる京人は「今にも崩れそうな奇岩とはどんなものだろう」と興味を持つのではないかと私は想像します。
その結果,鎌倉と見越しの埼という地名は京人にインプットされ,東国へ出張する役人に「見てきてほしい」と頼む人が出てくるかもしれません。
東歌にはそのような事例が他にも多くあります。
相模道の余綾の浜の真砂なす子らは愛しく思はるるかも(14-3372)
<さがむぢのよろぎのはまの まなごなすこらはかなしく おもはるるかも>
<<相模街道に面した余綾の浜のきれいな砂が無数にあるのように,あの娘のことが限りなくい恋しく思われるなあ>>
相模道という街道があって,その街道は海岸沿いに通っている。
海岸には余綾の浜(余呂伎能波麻)という砂浜が延々と続いている場所(現在の大磯近辺?)がある。
その砂浜はきれいな砂でずっと被われている。
こんか風光明媚な場所であることが想像できます。
筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにもたゆらに我が思はなくに(14-3392)
<つくはねのいはもとどろに おつるみづよにもたゆらに わがおもはなくに>
<<筑波嶺で岩をも響かせる滝の水の跳ねる方向が定まらないような私の気持ちではないのに>>
筑波嶺という大きな山があり,そこには硬い岩をも響かせるような大きな滝がある。
滝の水は勢いがよく四方八方に飛び散っている。
ところが,現在の筑波山には残念ながら大きな滝がないのです。万葉時代は今とは違っていたかもしれませんが,地形が大きく変わっていないとすれば大きな滝があった可能性は低そうです。
もしかして,この短歌は誇大広告だったのかも?
天の川 「そんなことは,ようあることやんか。ベルギーの『小便小僧』,デンマークの『人魚姫』,シンガポールの『マーライオン』おまけに大阪の『通天閣』なんか,初めて見た人は『がっかり』するそうやで。」
天の川君は意外と物知りだね。感心したよ。
天の川 「ちょっと前にパソコンをええやつに変えてな,ネットに「ねっとり」はまってんねん。まあ,その受け売りやねっと。」
天の川君のくだらないダジャレはスルーしましょう。
東歌にはそのほかにもたくさん地名が出てくる序詞があります。東歌は京人に東国へいざなう観光ガイドブックではないかと私が感じるゆえんです。
多くの人が東国と行き来すれば,東国の発展が促されるだけでなく,途中の街道の宿場町なども活気づくわけですからね。
(序詞再発見シリーズ(3)に続く)
2016年2月8日月曜日
今もあるシリーズ「池(2)」…池のほとりに植えられた木は訪問者に安らぎを与える?
「池」の2回目は,池の周りに植えられていた植物について,見てみましょう。
当時,庭に掘った池やため池の周りには,植物を植えていたことが,万葉集から分かります。
さっそくその例を紹介します。まず,天平宝字2(758)年2月中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)邸の宴で甘南備伊香(かむなびのいかご)が詠んだとされる池の周りの馬酔木からです。
礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも(20-4513)
<いそかげのみゆるいけみづ てるまでにさけるあしびの ちらまくをしも>
<<磯影の映っている池の水面を照らすように咲いている馬酔木の花が散ってしまうのは惜しいですね>>
清麻呂邸の庭園の池の傍に植えられた馬酔木の白い可憐な花が満開で見事だったのでしょうね。
この前の短歌でも大伴家持が同様にその馬酔木を賛美して詠っています。
さて,次は池の傍に柳を植えることを詠んだ東歌です。
小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも(14-3492)
<をやまだのいけのつつみに さすやなぎなりもならずも なとふたりはも>
<<小山田の池の堤に挿し木した柳の小枝が,根を張り成長するかどうかのように,この恋が成るか成らないかはあなたと私のふたりが決めることですね>>
当時,柳も挿し木で増やすことが可能であることを知っており,池の堤に植えられた柳は挿し木で植えられた可能性を示唆する短歌だと私は思います。
それから,この恋人同士が挿した柳が育っていって,二人が結婚し,子供ができ,その子共たちに「この木がお父さんとお母さんが出逢ったときに植えた柳の木なんだよ」なんて話をする光景があるといいですね。
今度は短歌の作者は分からないが,聖武(しあうむ)天皇が池の傍で冬に開いた宴席で阿倍虫麻呂(あへのむしまろ)が覚えていて,伝誦したという池の松を詠んだという1首です。
池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む(8-1650)
<いけのへのまつのうらばに ふるゆきはいほへふりしけ あすさへもみむ>
<<池のほとりの松の葉先に降る雪は幾重にも積ってほしいですね。明日も見られますから>>
あまり雪が降らない平城京で,珍しく雪が降ったのでしょうか。池の傍で雪見の宴を催したのでしょうね。
池の傍に植えられた松の葉に雪が積もって,普段とは違う美しさを感じたのでしょうか。
最後は,池の傍に生えているケヤキの古名の槻と笹が出くる柿本人麻呂歌集よりの旋頭歌です。
池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ(7-1276)
<いけのへのをつきのしたのしのなかりそね それをだにきみがかたみにみつつしのはむ>
<<池のそばの槻の下の小竹を刈らないでぐたさいな。それだけでもあなたと見て,逢ったときのことを思い出すでしょう>>
恋人と池のほとりのケヤキの木の下で逢ったのでしょうか。
下に生えていた小竹を採って,恋人は渡してくれた。そんな思い出があったのに,それを刈ってしまってはその時のことが偲ばれなくなってしまうという気持ちが私には伝わってきます。
今も公園の池のほとりのベンチは恋人どうしが逢って話をする場所です。また,木蔭を作るためにいろいろな木を植えている状況は,当時は今と同じような雰囲気だったかもしれませんね。
今もあるシリーズ「池(3)」に続く。
当時,庭に掘った池やため池の周りには,植物を植えていたことが,万葉集から分かります。
さっそくその例を紹介します。まず,天平宝字2(758)年2月中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)邸の宴で甘南備伊香(かむなびのいかご)が詠んだとされる池の周りの馬酔木からです。
礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも(20-4513)
<いそかげのみゆるいけみづ てるまでにさけるあしびの ちらまくをしも>
<<磯影の映っている池の水面を照らすように咲いている馬酔木の花が散ってしまうのは惜しいですね>>
清麻呂邸の庭園の池の傍に植えられた馬酔木の白い可憐な花が満開で見事だったのでしょうね。
この前の短歌でも大伴家持が同様にその馬酔木を賛美して詠っています。
さて,次は池の傍に柳を植えることを詠んだ東歌です。
小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも(14-3492)
<をやまだのいけのつつみに さすやなぎなりもならずも なとふたりはも>
<<小山田の池の堤に挿し木した柳の小枝が,根を張り成長するかどうかのように,この恋が成るか成らないかはあなたと私のふたりが決めることですね>>
当時,柳も挿し木で増やすことが可能であることを知っており,池の堤に植えられた柳は挿し木で植えられた可能性を示唆する短歌だと私は思います。
それから,この恋人同士が挿した柳が育っていって,二人が結婚し,子供ができ,その子共たちに「この木がお父さんとお母さんが出逢ったときに植えた柳の木なんだよ」なんて話をする光景があるといいですね。
今度は短歌の作者は分からないが,聖武(しあうむ)天皇が池の傍で冬に開いた宴席で阿倍虫麻呂(あへのむしまろ)が覚えていて,伝誦したという池の松を詠んだという1首です。
池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む(8-1650)
<いけのへのまつのうらばに ふるゆきはいほへふりしけ あすさへもみむ>
<<池のほとりの松の葉先に降る雪は幾重にも積ってほしいですね。明日も見られますから>>
あまり雪が降らない平城京で,珍しく雪が降ったのでしょうか。池の傍で雪見の宴を催したのでしょうね。
池の傍に植えられた松の葉に雪が積もって,普段とは違う美しさを感じたのでしょうか。
最後は,池の傍に生えているケヤキの古名の槻と笹が出くる柿本人麻呂歌集よりの旋頭歌です。
池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ(7-1276)
<いけのへのをつきのしたのしのなかりそね それをだにきみがかたみにみつつしのはむ>
<<池のそばの槻の下の小竹を刈らないでぐたさいな。それだけでもあなたと見て,逢ったときのことを思い出すでしょう>>
恋人と池のほとりのケヤキの木の下で逢ったのでしょうか。
下に生えていた小竹を採って,恋人は渡してくれた。そんな思い出があったのに,それを刈ってしまってはその時のことが偲ばれなくなってしまうという気持ちが私には伝わってきます。
今も公園の池のほとりのベンチは恋人どうしが逢って話をする場所です。また,木蔭を作るためにいろいろな木を植えている状況は,当時は今と同じような雰囲気だったかもしれませんね。
今もあるシリーズ「池(3)」に続く。
2015年12月12日土曜日
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(4)」 …もう鳥の鳴き声は田舎に行かないと聞けないのか?
「音(おと,ね)」の4回目は「鳥」に関する「音」を万葉集で見ていきます。
現代,都会に住む私たちがよく見かける鳥はカラスでしょうか。
スズメもよく見かけると思いますが,カラスが圧倒的に大きいので,どうしても印象に残ってしまいますね。最近ではムクドリの大群の鳴き声が気になるときがあります(鳴き声だけでなく,フンの心配もしますが)。
さて,万葉集では鳥がたくさん詠まれています。
ホトトギス,ウグイス,カリ(雁),ツル(鶴),チドリ(千鳥),ワシ(鷲)のように鳴き声が印象的な鳥も多く出てきます。
最初は「雁が音」を詠んだ聖武天皇の短歌1首を紹介しますが,「雁が音」を詠んだ和歌は万葉集で実に30数首もあります。
今朝の明雁が音寒く聞きしなへ野辺の浅茅ぞ色づきにける(8-1540)
<けさのあけかりがねさむく ききしなへのへのあさぢぞ いろづきにける>
<<今朝の明け方に雁の鳴き声が寒々と聞え,そして野辺の浅茅が色づいたなあ>>
聖武天皇が,季節が秋になっことを,早朝「雁が音」という「音」で知り,外に出てみれば浅茅(背の低い草)が緑から黄色に変わっていて,秋が深まったことを感じられたという短歌でしょう。
聖武天皇ぐらいになると,忙しくて中々外に出られない身であり,外出時があったとしても,駕籠に乗って移動し,外の風景をじっくり見ることもできなかったのかもしれません。
簡潔に言えば「雁が音」と「秋」の相関関係を「浅茅」の色付きで確認しただけの短歌ということになり,文学的な深みはどうかと思う人もいるかもしれません。しかし,私は当時の人の自然に対する感性を知る上での1例とし,この短歌に対して何のネガティブイメージもありません。
さて,次は「雁」ではなく「鶴(たづ)」の「鶴が音」または「鶴の音」を詠んだ,飛鳥時代の歌人高安大嶋(たかやすのおほじま)の短歌を見ます。
旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえずありせば恋ひて死なまし(1-67)
<たびにしてものこほしきに たづがねもきこえずありせば こひてしなまし>
<<旅先でもの恋しく感じている。鶴の鳴き声も聞こえないとしたら,ひの恋しさで死んでしまうかもしれない>>
この短歌は,持統天皇が文武天皇に譲位したあと,難波の宮に行幸した時,お付の者たちが詠んだ和歌の1首です。
持統天皇が譲位する前は,藤原京での賑わいがあった。それに比べて,今来ている難波の宮は静かで,藤原京が慕われるという気持ちの表れでしょうか。唯一ツルの鳴き声だけが聞こえるだけ。もしそれも無ければ,あまりにも変化が無くて,「もの恋しい」を通り越して,死んでしまいそうということなのでしょう。
この短歌は,結局持統天皇の業績をたたえる気持ちを表したのだろうと私は思います。
次は,ホトトギスの鳴く音を越中赴任中に詠んだとされる大伴家持の短歌です。
ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも(17-3988)
<ぬばたまのつきにむかひて ほととぎすなくおとはるけし さとどほみかも>
<<月に向かって霍公鳥が鳴く声がはるかに聞こえてくる。霍公鳥は人里から離れたところにいるのだろうか>>
「ホトトギスが月に向かって鳴く」という表現が面白いと私は思います。「月」が出てきますから時間帯は当然夜ですね。但し,鳴いているホトトギスの姿は見えませんから,月に向かって鳴いているかどうか分かりません。何が月に向かっているように家持は思ったのでしょうか。
私の解釈です。ホトトギスは「テッペンカケタカ」と鳴きます。その「音(おん)」から,次に向かって鳴くと感じたか,当時はそう思われていた可能性があります。
遠くで鳴いているホトトギスに,近くまで来て欲しい。そして,月に向かって大きな声で鳴いて,綺麗な月が現れてほしい。そくな感情を家持は詠んだのだと私は思いたいです。
最後は,鷲(ワシ)の鳴き声の音を詠んだ東歌を紹介します。
筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに(14-3390)
<つくはねにかかなくわしの ねのみをかなきわたりなむ あふとはなしに>
<<筑波嶺でけたたましく鳴く鷲の大きな音で泣き続けよう。もう逢えないのだから>>
鷲の書き声は,犬の鳴き声に似ているような気がします。こり書き声がけたたましく続くと確かに大きな音に感じられるような気がします。この鷲の書き声に負けないほど大きな声で泣きたくなるこの失恋は本当に悲しかったのでしょうね。
ところで,私は鷲の鳴き声をあまり聞いたことがありません。でも,YouTubeにはちゃんと出てきます。万葉集の和歌を鑑賞するうえでも,ITC(情報通信技術)の利用価値が高くなっていくと私は思います。逆に,その技術が万葉集の歌人の感性の素晴らしさを証明する手段になるのかもしれません。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(5)」に続く。
現代,都会に住む私たちがよく見かける鳥はカラスでしょうか。
スズメもよく見かけると思いますが,カラスが圧倒的に大きいので,どうしても印象に残ってしまいますね。最近ではムクドリの大群の鳴き声が気になるときがあります(鳴き声だけでなく,フンの心配もしますが)。
さて,万葉集では鳥がたくさん詠まれています。
ホトトギス,ウグイス,カリ(雁),ツル(鶴),チドリ(千鳥),ワシ(鷲)のように鳴き声が印象的な鳥も多く出てきます。
最初は「雁が音」を詠んだ聖武天皇の短歌1首を紹介しますが,「雁が音」を詠んだ和歌は万葉集で実に30数首もあります。
今朝の明雁が音寒く聞きしなへ野辺の浅茅ぞ色づきにける(8-1540)
<けさのあけかりがねさむく ききしなへのへのあさぢぞ いろづきにける>
<<今朝の明け方に雁の鳴き声が寒々と聞え,そして野辺の浅茅が色づいたなあ>>
聖武天皇が,季節が秋になっことを,早朝「雁が音」という「音」で知り,外に出てみれば浅茅(背の低い草)が緑から黄色に変わっていて,秋が深まったことを感じられたという短歌でしょう。
聖武天皇ぐらいになると,忙しくて中々外に出られない身であり,外出時があったとしても,駕籠に乗って移動し,外の風景をじっくり見ることもできなかったのかもしれません。
簡潔に言えば「雁が音」と「秋」の相関関係を「浅茅」の色付きで確認しただけの短歌ということになり,文学的な深みはどうかと思う人もいるかもしれません。しかし,私は当時の人の自然に対する感性を知る上での1例とし,この短歌に対して何のネガティブイメージもありません。
さて,次は「雁」ではなく「鶴(たづ)」の「鶴が音」または「鶴の音」を詠んだ,飛鳥時代の歌人高安大嶋(たかやすのおほじま)の短歌を見ます。
旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえずありせば恋ひて死なまし(1-67)
<たびにしてものこほしきに たづがねもきこえずありせば こひてしなまし>
<<旅先でもの恋しく感じている。鶴の鳴き声も聞こえないとしたら,ひの恋しさで死んでしまうかもしれない>>
この短歌は,持統天皇が文武天皇に譲位したあと,難波の宮に行幸した時,お付の者たちが詠んだ和歌の1首です。
持統天皇が譲位する前は,藤原京での賑わいがあった。それに比べて,今来ている難波の宮は静かで,藤原京が慕われるという気持ちの表れでしょうか。唯一ツルの鳴き声だけが聞こえるだけ。もしそれも無ければ,あまりにも変化が無くて,「もの恋しい」を通り越して,死んでしまいそうということなのでしょう。
この短歌は,結局持統天皇の業績をたたえる気持ちを表したのだろうと私は思います。
次は,ホトトギスの鳴く音を越中赴任中に詠んだとされる大伴家持の短歌です。
ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも(17-3988)
<ぬばたまのつきにむかひて ほととぎすなくおとはるけし さとどほみかも>
<<月に向かって霍公鳥が鳴く声がはるかに聞こえてくる。霍公鳥は人里から離れたところにいるのだろうか>>
「ホトトギスが月に向かって鳴く」という表現が面白いと私は思います。「月」が出てきますから時間帯は当然夜ですね。但し,鳴いているホトトギスの姿は見えませんから,月に向かって鳴いているかどうか分かりません。何が月に向かっているように家持は思ったのでしょうか。
私の解釈です。ホトトギスは「テッペンカケタカ」と鳴きます。その「音(おん)」から,次に向かって鳴くと感じたか,当時はそう思われていた可能性があります。
遠くで鳴いているホトトギスに,近くまで来て欲しい。そして,月に向かって大きな声で鳴いて,綺麗な月が現れてほしい。そくな感情を家持は詠んだのだと私は思いたいです。
最後は,鷲(ワシ)の鳴き声の音を詠んだ東歌を紹介します。
筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに(14-3390)
<つくはねにかかなくわしの ねのみをかなきわたりなむ あふとはなしに>
<<筑波嶺でけたたましく鳴く鷲の大きな音で泣き続けよう。もう逢えないのだから>>
鷲の書き声は,犬の鳴き声に似ているような気がします。こり書き声がけたたましく続くと確かに大きな音に感じられるような気がします。この鷲の書き声に負けないほど大きな声で泣きたくなるこの失恋は本当に悲しかったのでしょうね。
ところで,私は鷲の鳴き声をあまり聞いたことがありません。でも,YouTubeにはちゃんと出てきます。万葉集の和歌を鑑賞するうえでも,ITC(情報通信技術)の利用価値が高くなっていくと私は思います。逆に,その技術が万葉集の歌人の感性の素晴らしさを証明する手段になるのかもしれません。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(5)」に続く。
2015年10月10日土曜日
今もあるシリーズ「麻(あさ)(1)」 … 万葉時代の東国は絹の産地。でも庶民は麻を着ていた?
麻は,今も衣類の繊維として利用されています。強く,風通しが良いので,蒸し暑い季節に爽やかな感じて着られるシャツなどに利用されています。
また,麻という漢字は次のように,植物や繊維以外いろいろなところに使われています。
麻雀(ゲーム),麻薬(医療),麻婆豆腐(料理),麻生(人名),麻布(地名),麻田(人名)などがあります。
万葉時代は,木綿の栽培は今ほど盛んではないく,絹の生産も今と同じ高級服用に限られていたようです。
そうすると,庶民が着る服は丈夫で軽い麻の布で作られた服となります。
万葉集でも,麻はたくさん詠まれていますが,何といっても万葉集に載っている和歌の男性作者の名前の最後によく出てくる「~麻呂」は,「麻」の字が使われています。
では,実際の万葉集の和歌を見ていきましょう。「麻」が一番たくさん詠まれいる万葉集の巻は14(東歌)です。
確かに,東歌は東国の庶民(多くは農民)の歌が多いので,分かるような気がします。
麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に(14-3484)
<あさをらををけにふすさに うまずともあすきせさめや いざせをどこに>
<<麻の糸を桶いっぱいになるまでよりあわせなくても,それで明日着せる服に間に合うはずもないから,さあ床で寝よう>>
夫が一生懸命夜まで働いている妻に対して,早く床に来いよと誘っている短歌と私は感じます。
麻の繊維をほぐして,糸に縒りあわせるのは結構面倒な作業だったのでしょうか。
そのため,庶民の妻の内職として,当時すでに定着していたのかもしれません。
妻は子どものためにせっせと内職をしているが,昼の仕事が終わった亭主は夜の営みをまだかまだかと待っている雰囲気が良く伝わってきます。
次も東歌です。
上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
<かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ>
<<上毛野の安蘇の群生した麻を腕一杯にかかえて寝たけれど、まだ満足できないが,どうすればよいのだろう>>
今の栃木県の安蘇郡で,渡良瀬川の流域で麻が群生しているところがあったのでしょうか。
麻は大麻(マリファナ)の原料となるように,その乾燥させたものには,精神を麻痺させるような薬理作用があるとされています。
そういったものを大量に抱きしめても,彼女を抱くのに比べたら全然満足できないといったことをこの短歌は表しているように私は思います。
最後も東歌です。
庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
<にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま>
<<庭に生えている麻で作った小さな掛布団よ,今宵は夫が来るように願ってね,麻で作った小さな掛布団よ>>
自宅の庭に生えている麻で丹精込めて作った小さな掛布団は,二人がしっかり抱き合わないとはみ出てしまうような可愛いものだったのでしょうか。
夫が来てくれるのを今か今かと心待ちにしている様子がしっかりと伺えますね。
東歌では,次の短歌から養蚕は始まっていたと思われますが,庶民の普段着には使えない高級品だったのでしょう。
また,東歌には木綿の布を詠んだ和歌が出てこないため,当時の東国では衣類や寝具の生地して麻布が多く使われていたことも想像できます。
筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも(14-3350)
<つくはねのにひぐはまよの きぬはあれどきみがみけしし あやにきほしも>
<<筑波嶺の新桑で作った絹の最高級な衣があると聞くけど,私はあなたの衣を身につけてみたいのよ>>
今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」に続く。
また,麻という漢字は次のように,植物や繊維以外いろいろなところに使われています。
麻雀(ゲーム),麻薬(医療),麻婆豆腐(料理),麻生(人名),麻布(地名),麻田(人名)などがあります。
万葉時代は,木綿の栽培は今ほど盛んではないく,絹の生産も今と同じ高級服用に限られていたようです。
そうすると,庶民が着る服は丈夫で軽い麻の布で作られた服となります。
万葉集でも,麻はたくさん詠まれていますが,何といっても万葉集に載っている和歌の男性作者の名前の最後によく出てくる「~麻呂」は,「麻」の字が使われています。
では,実際の万葉集の和歌を見ていきましょう。「麻」が一番たくさん詠まれいる万葉集の巻は14(東歌)です。
確かに,東歌は東国の庶民(多くは農民)の歌が多いので,分かるような気がします。
麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に(14-3484)
<あさをらををけにふすさに うまずともあすきせさめや いざせをどこに>
<<麻の糸を桶いっぱいになるまでよりあわせなくても,それで明日着せる服に間に合うはずもないから,さあ床で寝よう>>
夫が一生懸命夜まで働いている妻に対して,早く床に来いよと誘っている短歌と私は感じます。
麻の繊維をほぐして,糸に縒りあわせるのは結構面倒な作業だったのでしょうか。
そのため,庶民の妻の内職として,当時すでに定着していたのかもしれません。
妻は子どものためにせっせと内職をしているが,昼の仕事が終わった亭主は夜の営みをまだかまだかと待っている雰囲気が良く伝わってきます。
次も東歌です。
上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
<かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ>
<<上毛野の安蘇の群生した麻を腕一杯にかかえて寝たけれど、まだ満足できないが,どうすればよいのだろう>>
今の栃木県の安蘇郡で,渡良瀬川の流域で麻が群生しているところがあったのでしょうか。
麻は大麻(マリファナ)の原料となるように,その乾燥させたものには,精神を麻痺させるような薬理作用があるとされています。
そういったものを大量に抱きしめても,彼女を抱くのに比べたら全然満足できないといったことをこの短歌は表しているように私は思います。
最後も東歌です。
庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
<にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま>
<<庭に生えている麻で作った小さな掛布団よ,今宵は夫が来るように願ってね,麻で作った小さな掛布団よ>>
自宅の庭に生えている麻で丹精込めて作った小さな掛布団は,二人がしっかり抱き合わないとはみ出てしまうような可愛いものだったのでしょうか。
夫が来てくれるのを今か今かと心待ちにしている様子がしっかりと伺えますね。
東歌では,次の短歌から養蚕は始まっていたと思われますが,庶民の普段着には使えない高級品だったのでしょう。
また,東歌には木綿の布を詠んだ和歌が出てこないため,当時の東国では衣類や寝具の生地して麻布が多く使われていたことも想像できます。
筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも(14-3350)
<つくはねのにひぐはまよの きぬはあれどきみがみけしし あやにきほしも>
<<筑波嶺の新桑で作った絹の最高級な衣があると聞くけど,私はあなたの衣を身につけてみたいのよ>>
今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」に続く。
2015年8月2日日曜日
2015 盛夏スペシャル(4) … 万葉集は戦争をどう扱っているのか?
第二次世界大戦が終わって70年になろうとしています。
万葉集は,太平洋戦争中に発表された愛国百人一首で多くの短歌が採録されたり,大伴家持が詠んだとされる長歌の次の部分が,軍歌の歌詞として使われました。
~ 海行かば 水漬く屍(しかばね) 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと ~(18-4094)
このような事実から,万葉集は軍国主義的や国粋主義的な色彩の和歌が多いというイメージがあるのでは思っておられる人がいるとすれば,その人の見方は間違っていると私は申し上げたいのです。
<切り取り引用の典型>
なぜなら,軍歌の歌詞として引用されているこの長歌全体を見ると分るのですが,海へ行くのは誰か,山へ行くのは誰か,それは天皇なのです。
天皇が海に行くことがあっても,山に行くことがあっても,お供し,命を賭して,命を顧みず,お守りしますということを家持は詠んでいるのです(詠んだのは恐らく儀礼的な儀式のときでしょう)。
天皇のために,自らが海でも山でも出兵し,敵国をなぎ倒し,領土を拡大し,日本帝国確立のためには,命なんて惜しくありませんなどとはどこにも詠まれていません。
愛国百人一首に採録された万葉集の短歌も,国防や天皇のガード,国を讃えることを詠んだものがあっても,侵略的なものはありません。
万葉集を戦争に関係しそうな言葉(「いくさ」「敵」「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」「争」)で検索してみても,他国を侵略するとか,覇権を争うとか,敵国を殲滅するといった軍事力による領土拡大を勇ましく鼓舞するような和歌は出てきません。
精々,軍事的な意識の和歌があったしても,国や天皇を守るといった防衛の方向に向いてるのみです。
多くは,「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」といった兵器も,何かの例え話として和歌に出てきたり(例:次の長屋王の短歌),狩に使うことを想定して詠まれているようなもの(例:その次の宴で紹介された伝誦歌)が大半のようです。
焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり(6-989)
<やきたちのかどうちはなち ますらをのほくとよみきに われゑひにけり>
<<焼き鍛えた大刀のかどを打ち合わせるような勇士が祝うこの美酒に私はすっかり酔ってしまった>>
手束弓手に取り持ちて朝狩りに君は立たしぬ棚倉の野に(19-4257)
<たつかゆみてにとりもちて あさがりにきみはたたしぬ たなくらののに>
<<手束弓を手に持ち天皇は朝狩にお立ちになった棚倉の野に>>
万葉集の和歌の作者も,大伴家持を始め,戦争は望んでおらず,まして,外国を侵略し,日本が世界を牛耳るようなことを夢見ている人は私には見当たりません。
国の中が平和であってほしいと望み,国内の争い(「○○の変」「○○の乱」など)も悲しい出来事と思う人が万葉集の和歌を詠んだのだと,万葉集と接して私は心から感じるのです。
たとえば,万葉集の「防人の歌」に,「軍隊に参加して良かった。兵士はカッコいい。天皇のために念願の兵隊さんになった。」などとPRしているようなものは一つもありません(次は防人の歌の例)。
我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
<わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも>
<<私の旅は旅と割り切ることもできるが,家にいて子どもを抱えて痩せていくだろう妻のことを想うと切ない>>
「防人の歌」と同じ東国の人が詠んでいる「東歌」と比較してみると「東歌」の方がはるかに穏やかで幸せに満ちたものであり,平城京の人が東国に行ってみて,地元の人と話してみたいと思うくらい明るい和歌が多いと感じます(次は東歌の例)。
うちひさつ宮能瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も(14-3505)
<うちひさつみやのせがはの かほばなのこひてかぬらむ きぞもこよひも>
<<宮能瀬川のかほ花のように(可愛い妻の顔を見て)昨夜も今夜も恋しいと思いながら寝るでしょう>>
中大兄皇子(後の天智天皇)が朝鮮半島の白村江の戦い(天智2<663>年8月)に大敗し,甚大な打撃を受けたことに対する反省(島国日本が当時の大国唐と戦うことのむなしさ)が意識のベースにあるのかも知れないと私は思います。663>
そして,天武天皇以降の朝廷は,さまざまな葛藤(内政的な混乱)を乗り越えて,白村江の戦いの敵だった,中国の唐や朝鮮半島の新羅に遣唐使,遣新羅使を送り,関係改善に努めたのです。
もちろん各国と関係が改善されるまでは,中国や調整半島の別の国から攻められると大変なことになるため,防衛部隊(例:防人)を配したと考えられます。
奈良時代にかけて,その関係改善への方針転換の努力が功を奏し,良い面,悪い面はあるにせよ,中国や朝鮮半島の優れた思想・文化・芸術・技術などが日本に取り入れられ,日本の風土や国民性の中で根付き,独自の進化を遂げることができたではないかと私は思います。
あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(3-328)
<あをによしならのみやこは さくはなのにほふがごとく いまさかりなり>
<<奈良の都は満開の花が素晴らしいように今大変繁栄していますよ>>
さて,第二次世界大戦後,日本が復興を遂げることができたのも,外国との関係改善と日本人が持つ戦争で自らが失ったものを回復させようという若い人たちの強い心があったからではないでしょうか。
<戦争相手の日米は協力して敗戦国日本の復興を支援した>
1960年日米安保闘争があり,多くの若者がデモ活動などに参加し,そのデモは,デモ隊に加わった女子学生の一人が死亡したほど激しいものでした。
その一方で,若者の多くは欧米の楽曲(ジャズ,ロック,フォーク,ポップスなど)に酔いしれ,子供たちはウォルトディズニーが提供する漫画やドキュメンタリー(特に宇宙ものが人気)の日本語吹き替え版を熱心に見ていたのです(私もその一人ですが)。
戦争と関係ないもの,平和的なもの,品質が優れたものは,たとえ太平洋戦争で徹底的に日本人を殺した相手の国のものであっても日本の人々は受け入れたのです。
そこには国家同士の憎しみという意識は薄れ,良いものは取り入れ,参考にし,自分たちの復興のために利用できるものはしていくという人々のしたたかさがあったと私は分析します。
しかし,それができたのも,戦後の日本がさまざまな国から侵略される脅威が少なかったからできた訳で,日本国だけの力(何の努力もせず,平和という言葉に酔いしれただけ)でできた訳では無いでしょう。
外国の支援や外国の勢力バランスの影響なども含む様々な要素が影響しあって,(敗戦直後に比べて)結果として今の日本の驚異的な繁栄がもたらされたのだといえるのだと私は思います。
今,そのような総合的な見方をせず,日本の自衛権について,反対/賛成,正しい/正しくない,あり得る/絶対ない,違憲/合憲,戦争法案/平和維持法案,というような二元的な(○×のみの)議論がされていることに,私は大きな違和感を感じてしまいます。
さまざまな考え方のメリットやデメリットを総合的に議論をしない二元的な議論がインターネット上で広まり,冷静さを失った結論ありきの行動による社会的混乱が起こらないか正直私は戦後70年を迎える夏に危惧せざるを得ません。
2015 盛夏スペシャル(5:まとめ)に続く。
万葉集は,太平洋戦争中に発表された愛国百人一首で多くの短歌が採録されたり,大伴家持が詠んだとされる長歌の次の部分が,軍歌の歌詞として使われました。
~ 海行かば 水漬く屍(しかばね) 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと ~(18-4094)
このような事実から,万葉集は軍国主義的や国粋主義的な色彩の和歌が多いというイメージがあるのでは思っておられる人がいるとすれば,その人の見方は間違っていると私は申し上げたいのです。
<切り取り引用の典型>
なぜなら,軍歌の歌詞として引用されているこの長歌全体を見ると分るのですが,海へ行くのは誰か,山へ行くのは誰か,それは天皇なのです。
天皇が海に行くことがあっても,山に行くことがあっても,お供し,命を賭して,命を顧みず,お守りしますということを家持は詠んでいるのです(詠んだのは恐らく儀礼的な儀式のときでしょう)。
天皇のために,自らが海でも山でも出兵し,敵国をなぎ倒し,領土を拡大し,日本帝国確立のためには,命なんて惜しくありませんなどとはどこにも詠まれていません。
愛国百人一首に採録された万葉集の短歌も,国防や天皇のガード,国を讃えることを詠んだものがあっても,侵略的なものはありません。
万葉集を戦争に関係しそうな言葉(「いくさ」「敵」「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」「争」)で検索してみても,他国を侵略するとか,覇権を争うとか,敵国を殲滅するといった軍事力による領土拡大を勇ましく鼓舞するような和歌は出てきません。
精々,軍事的な意識の和歌があったしても,国や天皇を守るといった防衛の方向に向いてるのみです。
多くは,「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」といった兵器も,何かの例え話として和歌に出てきたり(例:次の長屋王の短歌),狩に使うことを想定して詠まれているようなもの(例:その次の宴で紹介された伝誦歌)が大半のようです。
焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり(6-989)
<やきたちのかどうちはなち ますらをのほくとよみきに われゑひにけり>
<<焼き鍛えた大刀のかどを打ち合わせるような勇士が祝うこの美酒に私はすっかり酔ってしまった>>
手束弓手に取り持ちて朝狩りに君は立たしぬ棚倉の野に(19-4257)
<たつかゆみてにとりもちて あさがりにきみはたたしぬ たなくらののに>
<<手束弓を手に持ち天皇は朝狩にお立ちになった棚倉の野に>>
万葉集の和歌の作者も,大伴家持を始め,戦争は望んでおらず,まして,外国を侵略し,日本が世界を牛耳るようなことを夢見ている人は私には見当たりません。
国の中が平和であってほしいと望み,国内の争い(「○○の変」「○○の乱」など)も悲しい出来事と思う人が万葉集の和歌を詠んだのだと,万葉集と接して私は心から感じるのです。
たとえば,万葉集の「防人の歌」に,「軍隊に参加して良かった。兵士はカッコいい。天皇のために念願の兵隊さんになった。」などとPRしているようなものは一つもありません(次は防人の歌の例)。
我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
<わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも>
<<私の旅は旅と割り切ることもできるが,家にいて子どもを抱えて痩せていくだろう妻のことを想うと切ない>>
「防人の歌」と同じ東国の人が詠んでいる「東歌」と比較してみると「東歌」の方がはるかに穏やかで幸せに満ちたものであり,平城京の人が東国に行ってみて,地元の人と話してみたいと思うくらい明るい和歌が多いと感じます(次は東歌の例)。
うちひさつ宮能瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も(14-3505)
<うちひさつみやのせがはの かほばなのこひてかぬらむ きぞもこよひも>
<<宮能瀬川のかほ花のように(可愛い妻の顔を見て)昨夜も今夜も恋しいと思いながら寝るでしょう>>
中大兄皇子(後の天智天皇)が朝鮮半島の白村江の戦い(天智2<663>年8月)に大敗し,甚大な打撃を受けたことに対する反省(島国日本が当時の大国唐と戦うことのむなしさ)が意識のベースにあるのかも知れないと私は思います。663>
そして,天武天皇以降の朝廷は,さまざまな葛藤(内政的な混乱)を乗り越えて,白村江の戦いの敵だった,中国の唐や朝鮮半島の新羅に遣唐使,遣新羅使を送り,関係改善に努めたのです。
もちろん各国と関係が改善されるまでは,中国や調整半島の別の国から攻められると大変なことになるため,防衛部隊(例:防人)を配したと考えられます。
奈良時代にかけて,その関係改善への方針転換の努力が功を奏し,良い面,悪い面はあるにせよ,中国や朝鮮半島の優れた思想・文化・芸術・技術などが日本に取り入れられ,日本の風土や国民性の中で根付き,独自の進化を遂げることができたではないかと私は思います。
あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(3-328)
<あをによしならのみやこは さくはなのにほふがごとく いまさかりなり>
<<奈良の都は満開の花が素晴らしいように今大変繁栄していますよ>>
さて,第二次世界大戦後,日本が復興を遂げることができたのも,外国との関係改善と日本人が持つ戦争で自らが失ったものを回復させようという若い人たちの強い心があったからではないでしょうか。
<戦争相手の日米は協力して敗戦国日本の復興を支援した>
1960年日米安保闘争があり,多くの若者がデモ活動などに参加し,そのデモは,デモ隊に加わった女子学生の一人が死亡したほど激しいものでした。
その一方で,若者の多くは欧米の楽曲(ジャズ,ロック,フォーク,ポップスなど)に酔いしれ,子供たちはウォルトディズニーが提供する漫画やドキュメンタリー(特に宇宙ものが人気)の日本語吹き替え版を熱心に見ていたのです(私もその一人ですが)。
戦争と関係ないもの,平和的なもの,品質が優れたものは,たとえ太平洋戦争で徹底的に日本人を殺した相手の国のものであっても日本の人々は受け入れたのです。
そこには国家同士の憎しみという意識は薄れ,良いものは取り入れ,参考にし,自分たちの復興のために利用できるものはしていくという人々のしたたかさがあったと私は分析します。
しかし,それができたのも,戦後の日本がさまざまな国から侵略される脅威が少なかったからできた訳で,日本国だけの力(何の努力もせず,平和という言葉に酔いしれただけ)でできた訳では無いでしょう。
外国の支援や外国の勢力バランスの影響なども含む様々な要素が影響しあって,(敗戦直後に比べて)結果として今の日本の驚異的な繁栄がもたらされたのだといえるのだと私は思います。
今,そのような総合的な見方をせず,日本の自衛権について,反対/賛成,正しい/正しくない,あり得る/絶対ない,違憲/合憲,戦争法案/平和維持法案,というような二元的な(○×のみの)議論がされていることに,私は大きな違和感を感じてしまいます。
さまざまな考え方のメリットやデメリットを総合的に議論をしない二元的な議論がインターネット上で広まり,冷静さを失った結論ありきの行動による社会的混乱が起こらないか正直私は戦後70年を迎える夏に危惧せざるを得ません。
2015 盛夏スペシャル(5:まとめ)に続く。
2015年4月26日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(1) 万葉時代,切り花ではなく,折り花だった?
今回から動詞「折る」について,万葉集でどのように詠まれているか見ていきたいと思います。
万葉時代の「折る」の意味は,今とほとんど変わっていないと思います。
<「折る」の定義>
「折る」は,まっすぐなものを途中で角ができる状態で二つのまっすぐなものにすることです。場合によっては,角の角度が0度(二つのまっすぐなものが並ぶ状態)のこともあります。また,角の部分が切れて二つのまっすぐなものが分離してしまう状態にすることもさします。
角を作るためには,元のまっすぐなものは一般にある程度硬いものでなければなりません。紐のような柔らかいものでは,角ができにくいし,まっすぐな状態でも全体が曲線になってしまうことになり,「折る」ではなく,「曲げる」を使います。ただ,柔らかいものでも,布や紙では「折り畳む」というように,まっすぐな状態を結果として保持できている場合,「折る」という言葉を使います。
<万葉集での用例>
万葉集では「折る」対象は次のものが多く出てきます。
木の枝(えだ),膝(ひざ),花などの茎(くき),身体(からだ),草,指,袖,心,時(←折り重なる)
今回は,その中で「花を折る」について,見ていきましょう。ただし,実際には花自体を折ると花がつぶれてしまいますので,花の茎を折ることをさしていると思います。万葉集の和歌で折られてしまう花(花にとって折られるのは迷惑?)は次のようなものが出てきます。
梅,桜,馬酔木,なでしこ,橘,萩,山吹
これは何を指しているのでしょうか?
万葉時代にもうこれだけの花を観賞用に採取していたということを指しているのではと私は感じます。では,実際に万葉集の和歌を見ていきましょうか。
最初は何と言っても万葉集で一番多く詠まれている「梅の花を折る」を詠んだ,他田廣津娘子(をさだのひろつのをとめ)が詠んだとされる短歌です。
梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり(8-1652)
<うめのはなをりもをらずもみつれども こよひのはなになほしかずけり>
<<梅の花は折って生けて見ても良いし,折らずにそのまま見ても良いのですが,今宵見る梅の花の素晴らしさには到底及びますまい>>
この娘子は,万葉集では巻8にこの短歌以外にもう1首の短歌が出てくるだけですが,掲載配置からは坂上郎女などの大伴家の女性たちと親交があったのだろうと私には想像できます。
夜の宴(女子会?)で梅の花がどのようなアレンジで演出されたのか分かりませんが,かがり火での照らし方(ライトアップ方法)に何かの工夫がされていたのかもしれませんね。
次は,木に咲く花ではなく,秋の七草の一つの撫子を「折る」を詠んだ旋頭歌です。
射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため(8-1549)
<いめたててとみのをかへのなでしこのはな ふさたをりわれはもちてゆくならひとのため>
<<跡見の岡辺に咲くなでしこ(撫子)の花をたくさん手折って持って行くことにしましょう。奈良にいるあの人へのお土産として>>
この旋頭歌は2011年7月でのブログでも紹介していますが,平城京に住んでいた紀鹿人(きのしかひと)が,現在の奈良県桜井市にあったと云われる跡見の岡が見える大伴稲公(おほとものいなきみ)の家に招かれた時詠んだもののようです。稲公邸から跡見の岡に見事に咲き誇る撫子の花群の見事さに,花束にできる位いっぱい折り採って京人(みやこびと)のお土産にしたいと思ったのでしょうね。
さて,最後は橘の花を折ることを詠んだ東歌です。
小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ(14-3574)
<をさとなるはなたちばなをひきよぢて をらむとすれどうらわかみこそ>
<<里にある花橘を引き寄せて折るつもりが,枝があまりにも若々しく折って自分のモノにできない>>
もちろん,花橘は気に入った綺麗で若い女性の譬えでしょう。するっと逃げられたのかもしれませんね。
ところで,橘は柑橘類であり,寒さに弱いとされています。この東歌の場所に寄りますが,当時すでにかなり東の方まで橘が植えられていたことが分かります。もしかしたら,この短歌は今の伊豆半島南端あたりの里で新しく植えられた橘なら,確かに枝も柔らかい可能性が高いと考えられそうです。本日現在のWikipediaのタチバナの記述によると,現在でも橘の木の北限が静岡県沼津市戸田地区とあるところから,当時でも橘を育てることが可能なギリギリの地の話だったと私は思います。
いずれにしても,万葉集に掲載された1首からいろいろなことが想像でき,興味が尽きませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(2)に続く。
万葉時代の「折る」の意味は,今とほとんど変わっていないと思います。
<「折る」の定義>
「折る」は,まっすぐなものを途中で角ができる状態で二つのまっすぐなものにすることです。場合によっては,角の角度が0度(二つのまっすぐなものが並ぶ状態)のこともあります。また,角の部分が切れて二つのまっすぐなものが分離してしまう状態にすることもさします。
角を作るためには,元のまっすぐなものは一般にある程度硬いものでなければなりません。紐のような柔らかいものでは,角ができにくいし,まっすぐな状態でも全体が曲線になってしまうことになり,「折る」ではなく,「曲げる」を使います。ただ,柔らかいものでも,布や紙では「折り畳む」というように,まっすぐな状態を結果として保持できている場合,「折る」という言葉を使います。
<万葉集での用例>
万葉集では「折る」対象は次のものが多く出てきます。
木の枝(えだ),膝(ひざ),花などの茎(くき),身体(からだ),草,指,袖,心,時(←折り重なる)
今回は,その中で「花を折る」について,見ていきましょう。ただし,実際には花自体を折ると花がつぶれてしまいますので,花の茎を折ることをさしていると思います。万葉集の和歌で折られてしまう花(花にとって折られるのは迷惑?)は次のようなものが出てきます。
梅,桜,馬酔木,なでしこ,橘,萩,山吹
これは何を指しているのでしょうか?
万葉時代にもうこれだけの花を観賞用に採取していたということを指しているのではと私は感じます。では,実際に万葉集の和歌を見ていきましょうか。
最初は何と言っても万葉集で一番多く詠まれている「梅の花を折る」を詠んだ,他田廣津娘子(をさだのひろつのをとめ)が詠んだとされる短歌です。
梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり(8-1652)
<うめのはなをりもをらずもみつれども こよひのはなになほしかずけり>
<<梅の花は折って生けて見ても良いし,折らずにそのまま見ても良いのですが,今宵見る梅の花の素晴らしさには到底及びますまい>>
この娘子は,万葉集では巻8にこの短歌以外にもう1首の短歌が出てくるだけですが,掲載配置からは坂上郎女などの大伴家の女性たちと親交があったのだろうと私には想像できます。
夜の宴(女子会?)で梅の花がどのようなアレンジで演出されたのか分かりませんが,かがり火での照らし方(ライトアップ方法)に何かの工夫がされていたのかもしれませんね。
次は,木に咲く花ではなく,秋の七草の一つの撫子を「折る」を詠んだ旋頭歌です。
射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため(8-1549)
<いめたててとみのをかへのなでしこのはな ふさたをりわれはもちてゆくならひとのため>
<<跡見の岡辺に咲くなでしこ(撫子)の花をたくさん手折って持って行くことにしましょう。奈良にいるあの人へのお土産として>>
この旋頭歌は2011年7月でのブログでも紹介していますが,平城京に住んでいた紀鹿人(きのしかひと)が,現在の奈良県桜井市にあったと云われる跡見の岡が見える大伴稲公(おほとものいなきみ)の家に招かれた時詠んだもののようです。稲公邸から跡見の岡に見事に咲き誇る撫子の花群の見事さに,花束にできる位いっぱい折り採って京人(みやこびと)のお土産にしたいと思ったのでしょうね。
さて,最後は橘の花を折ることを詠んだ東歌です。
小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ(14-3574)
<をさとなるはなたちばなをひきよぢて をらむとすれどうらわかみこそ>
<<里にある花橘を引き寄せて折るつもりが,枝があまりにも若々しく折って自分のモノにできない>>
もちろん,花橘は気に入った綺麗で若い女性の譬えでしょう。するっと逃げられたのかもしれませんね。
ところで,橘は柑橘類であり,寒さに弱いとされています。この東歌の場所に寄りますが,当時すでにかなり東の方まで橘が植えられていたことが分かります。もしかしたら,この短歌は今の伊豆半島南端あたりの里で新しく植えられた橘なら,確かに枝も柔らかい可能性が高いと考えられそうです。本日現在のWikipediaのタチバナの記述によると,現在でも橘の木の北限が静岡県沼津市戸田地区とあるところから,当時でも橘を育てることが可能なギリギリの地の話だったと私は思います。
いずれにしても,万葉集に掲載された1首からいろいろなことが想像でき,興味が尽きませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(2)に続く。
2015年2月22日日曜日
当ブログ7年目突入スペシャル(1)‥万葉集が記録した地名
<石和温泉でくつろぐ>
2009年2月下旬から始めたこのブログも7年目に入ろうとしています。
昨日今日と私は石和温泉駅から北東へ徒歩10分ほどの比較的小さな温泉旅館に来ています。
昨年12月から私は新しい職場に転職し,ようやく対象システムの全貌,初期開発当時の状況,その後何年にも続いた保守開発対応の経緯の詳細が見えてきました。
以前からときどき仕事の疲れを少し癒すため,都心から近いことが便利なこの温泉地を今回も選びました。旅館到着後,すぐに温泉風呂に入り,リラックスしてから,このブログを書き始めています。
今回宿泊の旅館は,初めて来た場所ですが,お風呂も泉質の異なる2種類の温泉(旅館直下で涌く温泉と,いわゆる石和温泉と呼ばれる温泉)が楽しめ,料理もなかなかしっかりしたボリュームと内容で申し分ありませんでした。写真は,お風呂(左の浴槽が温めの自噴温泉で右の浴槽が熱めの石和温泉)と夕食の料理(一部)です。
<万葉集の雑多さで万葉集の評価を下げる評論には反対>
今回のスペシャルは「万葉集が我々に残した情報は何か?」について,3回に分けて私の考えを示したいと思います。万葉集には,一見無秩序と思われるくらい,多様で多くの(飛鳥時代から奈良時代に掛けての)情報が盛り込まれています。
万葉集の解説本に「『万葉集は一人の人が編纂したのではなく,何回かに分けて編纂された歌集を集めたものである』といった学説が有力だ」という解説をよく見かけます。しかし,私はそんな解説にほとんど興味を感じません。一部がいつだれがその部分を編纂したかはどうでもよいと私は思います。
<最終編者の意図こそが万葉集の評価を決める>
最終的に20巻の万葉集として編集した人が万葉集を編纂したのです。それがたとえ寄せ集めでも,統一されていなくても,下手くそな和歌が数多く残っていたとしてもまったく問題はありません。不統一であるとか,寄せ集めであるからとか,どうでもいいような和歌がたくさんあるとかで,万葉集自体や最終編集者の評価を下げるような解説に対し「それがどうしたの?」と私は言いたくなるだけです。
<万葉集の価値はその情報量にある?>
万葉集の価値は,そこに納められた情報量の多さにこそ大きなものがあると感じます。ここで私が言う情報量とは,重複を排除(一つにして)して残ったものです。情報処理技術の分野でいうと情報のユニーク(一意)性を高めた処理後の情報の量です。それは多様性が高いほど,私の言う情報量が多いことを示しているのです。
いわゆる「優れた(?)和歌を集めた万葉集の解説本」の多さには,私は正直辟易します。『優れた』という非常にあいまい,かつ選んだ人の個人的な価値観(例えば,○○博士が選んだから優れているとか)を勝手に押し付けたものでしかないからです。
<原点に戻る>
さて,このブログを始めた時にも書きましたが,私が万葉集から収集した用語集(約6千語)があります。それを見ていくと,まず地名の多さが目立ちます。万葉集での地名と思われる用語の数は,少なくとも800以上あると私は考えます。もちろん,その数は何度も出てくる有名な地名も1として数えています(延べ数ではありせん)。
これだけ,さまざまな地名が出てくる歌集であることは,編者が当時の日本という国(本州,四国,九州)の地名を多くの人に知らしめたいといってもおかしくありません。万葉集の和歌を見た,まは聞いた人は,その地名に行ってみたいと感じる人は多かったのではないでしょうか。
特に,地名にまつわる伝説を詠んだ次の短歌などは,その伝説の地に行ってみたいと特に感じるさせる効果は高かったと私は想像します。
香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原(1-14):中大兄皇子
<かぐやまとみみなしやまと あひしときたちて みにこし いなみくにはら>
<<香具山と耳梨山とが争った時に出雲の神が立ち上がって見に来たという,ここが印南国原なのだ>>
音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山(5-883):三嶋王
<おとにききめにはいまだみず さよひめ ひれふりきとふ きみまつらやま>
<<人づてには聞いているがまだ行ったことの無いのだ(行ってみたい)。肥前の唐津にあるという佐用姫が恋人との別れを惜しみいつまでも袖を振り,帰りを待ったいう言い伝えがある松浦山に>>
人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね(14-3398):東歌
<ひとみなのことはたゆとも はにしなのいしゐのてごが ことなたえそね>
<<人の言い伝えがすべて忘れ去られても埴科(長野県北部の郡)にある石井の手児の伝説だけは絶えさせないでほしい>>
さらに,たとえば次の詠み人知らずの短歌のように,どういったことでその地名が有名かが分かる序詞や枕詞を持つ和歌も多く出てきます。
もののふの八十宇治川の早き瀬に立ちえぬ恋も我れはするかも(11-2714)
<もののふのやそうぢがはの はやきせにたちえぬこひも あれはするかも >
<<大勢の武士たちの勢いと素早さで移動するような宇治川の早い瀬に立っているのが非常につらいの同じほど,あなたとの恋は苦しいものとなっているようです>>
「この最初の部分は『立ちえぬ』を導く序詞(枕詞)ですから,特に意味を意識する必要ははありません。この短歌は苦しい恋をしていると言いたいだけの単純なものです。」と解説したり,現代訳したりする人に万葉集の良さを語ってほしくないというのが,私の正直な感想です。
<序詞から多くの情報が得られる>
この短歌の情報として,宇治川は勢いよく流れる早い瀬があることが分かります。しかし,宇治は交通の要所であり,その川を渡る必要があるのです。それがどれだけ大変なのかが,当時の人々の評判になっていたのだろうという確かな情報が得られるのです。また,そのつらさの情報から「憂(う)し川」⇒「宇治(うぢ)川」と呼ばれるようになったのかも知れないという推測情報が演繹可能となります。
万葉集の編者は,地名を知らしめることと,そこへ旅をする人が増えることを願ったのかもしれません。具体的には,平城京,飛鳥京,大津京,近江周辺,吉野宮,藤原京,難波宮,恭仁京,山背地域(京都府南部),瀬戸内海の島々や沿岸地域,九州北部,山陰地方,北陸地方,伊勢,東海地方,関東甲信越地域,東北南部地域などの地名が出てくること自体に,情報量としての価値を私は強く感じるのです。
万葉集に出てくる地名を見るたびに出かけたくなる,今温泉三昧中の私「たびと」でした。
当ブログ7年目突入スペシャル(2)に続く。
2009年2月下旬から始めたこのブログも7年目に入ろうとしています。
昨日今日と私は石和温泉駅から北東へ徒歩10分ほどの比較的小さな温泉旅館に来ています。
昨年12月から私は新しい職場に転職し,ようやく対象システムの全貌,初期開発当時の状況,その後何年にも続いた保守開発対応の経緯の詳細が見えてきました。
以前からときどき仕事の疲れを少し癒すため,都心から近いことが便利なこの温泉地を今回も選びました。旅館到着後,すぐに温泉風呂に入り,リラックスしてから,このブログを書き始めています。
今回宿泊の旅館は,初めて来た場所ですが,お風呂も泉質の異なる2種類の温泉(旅館直下で涌く温泉と,いわゆる石和温泉と呼ばれる温泉)が楽しめ,料理もなかなかしっかりしたボリュームと内容で申し分ありませんでした。写真は,お風呂(左の浴槽が温めの自噴温泉で右の浴槽が熱めの石和温泉)と夕食の料理(一部)です。
<万葉集の雑多さで万葉集の評価を下げる評論には反対>
今回のスペシャルは「万葉集が我々に残した情報は何か?」について,3回に分けて私の考えを示したいと思います。万葉集には,一見無秩序と思われるくらい,多様で多くの(飛鳥時代から奈良時代に掛けての)情報が盛り込まれています。
万葉集の解説本に「『万葉集は一人の人が編纂したのではなく,何回かに分けて編纂された歌集を集めたものである』といった学説が有力だ」という解説をよく見かけます。しかし,私はそんな解説にほとんど興味を感じません。一部がいつだれがその部分を編纂したかはどうでもよいと私は思います。
<最終編者の意図こそが万葉集の評価を決める>
最終的に20巻の万葉集として編集した人が万葉集を編纂したのです。それがたとえ寄せ集めでも,統一されていなくても,下手くそな和歌が数多く残っていたとしてもまったく問題はありません。不統一であるとか,寄せ集めであるからとか,どうでもいいような和歌がたくさんあるとかで,万葉集自体や最終編集者の評価を下げるような解説に対し「それがどうしたの?」と私は言いたくなるだけです。
<万葉集の価値はその情報量にある?>
万葉集の価値は,そこに納められた情報量の多さにこそ大きなものがあると感じます。ここで私が言う情報量とは,重複を排除(一つにして)して残ったものです。情報処理技術の分野でいうと情報のユニーク(一意)性を高めた処理後の情報の量です。それは多様性が高いほど,私の言う情報量が多いことを示しているのです。
いわゆる「優れた(?)和歌を集めた万葉集の解説本」の多さには,私は正直辟易します。『優れた』という非常にあいまい,かつ選んだ人の個人的な価値観(例えば,○○博士が選んだから優れているとか)を勝手に押し付けたものでしかないからです。
<原点に戻る>
さて,このブログを始めた時にも書きましたが,私が万葉集から収集した用語集(約6千語)があります。それを見ていくと,まず地名の多さが目立ちます。万葉集での地名と思われる用語の数は,少なくとも800以上あると私は考えます。もちろん,その数は何度も出てくる有名な地名も1として数えています(延べ数ではありせん)。
これだけ,さまざまな地名が出てくる歌集であることは,編者が当時の日本という国(本州,四国,九州)の地名を多くの人に知らしめたいといってもおかしくありません。万葉集の和歌を見た,まは聞いた人は,その地名に行ってみたいと感じる人は多かったのではないでしょうか。
特に,地名にまつわる伝説を詠んだ次の短歌などは,その伝説の地に行ってみたいと特に感じるさせる効果は高かったと私は想像します。
香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原(1-14):中大兄皇子
<かぐやまとみみなしやまと あひしときたちて みにこし いなみくにはら>
<<香具山と耳梨山とが争った時に出雲の神が立ち上がって見に来たという,ここが印南国原なのだ>>
音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山(5-883):三嶋王
<おとにききめにはいまだみず さよひめ ひれふりきとふ きみまつらやま>
<<人づてには聞いているがまだ行ったことの無いのだ(行ってみたい)。肥前の唐津にあるという佐用姫が恋人との別れを惜しみいつまでも袖を振り,帰りを待ったいう言い伝えがある松浦山に>>
人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね(14-3398):東歌
<ひとみなのことはたゆとも はにしなのいしゐのてごが ことなたえそね>
<<人の言い伝えがすべて忘れ去られても埴科(長野県北部の郡)にある石井の手児の伝説だけは絶えさせないでほしい>>
さらに,たとえば次の詠み人知らずの短歌のように,どういったことでその地名が有名かが分かる序詞や枕詞を持つ和歌も多く出てきます。
もののふの八十宇治川の早き瀬に立ちえぬ恋も我れはするかも(11-2714)
<もののふのやそうぢがはの はやきせにたちえぬこひも あれはするかも >
<<大勢の武士たちの勢いと素早さで移動するような宇治川の早い瀬に立っているのが非常につらいの同じほど,あなたとの恋は苦しいものとなっているようです>>
「この最初の部分は『立ちえぬ』を導く序詞(枕詞)ですから,特に意味を意識する必要ははありません。この短歌は苦しい恋をしていると言いたいだけの単純なものです。」と解説したり,現代訳したりする人に万葉集の良さを語ってほしくないというのが,私の正直な感想です。
<序詞から多くの情報が得られる>
この短歌の情報として,宇治川は勢いよく流れる早い瀬があることが分かります。しかし,宇治は交通の要所であり,その川を渡る必要があるのです。それがどれだけ大変なのかが,当時の人々の評判になっていたのだろうという確かな情報が得られるのです。また,そのつらさの情報から「憂(う)し川」⇒「宇治(うぢ)川」と呼ばれるようになったのかも知れないという推測情報が演繹可能となります。
万葉集の編者は,地名を知らしめることと,そこへ旅をする人が増えることを願ったのかもしれません。具体的には,平城京,飛鳥京,大津京,近江周辺,吉野宮,藤原京,難波宮,恭仁京,山背地域(京都府南部),瀬戸内海の島々や沿岸地域,九州北部,山陰地方,北陸地方,伊勢,東海地方,関東甲信越地域,東北南部地域などの地名が出てくること自体に,情報量としての価値を私は強く感じるのです。
万葉集に出てくる地名を見るたびに出かけたくなる,今温泉三昧中の私「たびと」でした。
当ブログ7年目突入スペシャル(2)に続く。
2015年1月31日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(3) 山のあなたの空遠く 幸住むと人の言ふ
日本は山国です。多くの場所では遠くは見渡せません。
万葉集を読み解くに,万葉時代に奈良盆地から旅をする場合,基本的に山と山の間の峠を越えたり,山麓の曲がりくねった道を縫うように進むことがほとんどだったように想像できそうです。結局,そんな旅では,行き先は山に隠れて見えず,どんなところなのか分からない,山を越えてきたために出発した自分の家の方も見えない,そんな状況の中を我慢して進むことになります。
次は市原王(いちはらのおほきみ)が多くの山を向こうにある美しい岬で可愛い海女の子に出会ったことを忘れられない気持ちを詠んだ短歌です。
網児の山五百重隠せる佐堤の崎さで延へし子が夢にし見ゆる(4-662)
<あごのやまいほへかくせる さでのさきさではへしこが いめにしみゆる>
<<網児の山々が幾重にも隠している佐堤の崎でさで網を広げて漁をしていた海人の娘が夢に出てくる>>
いくつもの山を越えてようやく到着した佐堤の崎は突然眼前に現れ,その美しさに感動しただけでなく,そこで漁をしている娘の健康的な可愛さが本当に忘れられない,そんな思いが私には伝わってきます。
<この短歌を万葉集の編者が掲載した理由>
京の女性は色白だが,家に籠り,何重にも衣を着て,暗い夜しか逢えない不健康さが感じられるのに対し,この岬で見た娘たちは,明るい太陽のもとで,薄い衣を身に着けただけで網を引っ張っている。市原王がこの短歌のように感じるのはもっともかもしれませんね。
ただ,この短歌を聞いた京の男性はどう思うでしょうか。是非その岬に行ってみたいと思わないでしょうか。「市原王様もお薦めの「佐堤の崎」周遊ツアー募集中で~す」といったツアーエージェントの営業マンがいたかどうかは分かりませんが,山の向こうにある美しい「佐堤の崎」をイメージした人は少なくなかったと私は想像します。
万葉集には,少し裕福になった京人(市民)を旅に誘う効果があったと私は感じます。
次は山が月を隠す状況を藤原八束(ふぢはらのやつか)が詠んだとされる短歌です。
待ちかてに我がする月は妹が着る御笠の山に隠りてありけり(6-987)
<まちかてにわがするつきは いもがきるみかさのやまに こもりてありけり>
<<私がずっと待っていた月は彼女が着ける笠という御笠の山に隠れていたのだ>>
山が無ければ,もっと早く月が顔を出していたのに,山があるおかげで月の出を待つことになった。八束は月が出たら何をしようとしていたのでしょうか。今日の出を楽しみに待つ人がいるように,万葉時代は月の出も楽しみに待つ人がいたのかもしれませんね。
さて,冒頭日本は山国で遠くを見渡せる場所は少ないと書きましたが,関東平野は平地でもかなり遠くを見渡せるところがあります。次は,そんな情景を詠んだ東歌です。
妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな(14-3389)
<いもがかどいやとほそきぬ つくはやまかくれぬほとに そではふりてな>
<<彼女の家から遠くまで来てしまったなあ。筑波山が他の山で隠れて見えなくならないうちに(もう一度)袖を振っておこう>>
彼女の家は筑波山の麓にあるのでしょうか。関東平野で筑波山が見えなくなるのは相当遠くにはなれないとそうならないでしょう。筑波山が見える限り,旅に出るときに別れを告げた彼女のいる方向に間違いなく向かうことができる。関東平野での筑波山の重みは今以上に重かったのだろうと私は想像します。また,奈良の市民は「東国の筑波山でどんなにすごい山なんだろうか」と想像を掻き立てられたかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(4)に続く。
万葉集を読み解くに,万葉時代に奈良盆地から旅をする場合,基本的に山と山の間の峠を越えたり,山麓の曲がりくねった道を縫うように進むことがほとんどだったように想像できそうです。結局,そんな旅では,行き先は山に隠れて見えず,どんなところなのか分からない,山を越えてきたために出発した自分の家の方も見えない,そんな状況の中を我慢して進むことになります。
次は市原王(いちはらのおほきみ)が多くの山を向こうにある美しい岬で可愛い海女の子に出会ったことを忘れられない気持ちを詠んだ短歌です。
網児の山五百重隠せる佐堤の崎さで延へし子が夢にし見ゆる(4-662)
<あごのやまいほへかくせる さでのさきさではへしこが いめにしみゆる>
<<網児の山々が幾重にも隠している佐堤の崎でさで網を広げて漁をしていた海人の娘が夢に出てくる>>
いくつもの山を越えてようやく到着した佐堤の崎は突然眼前に現れ,その美しさに感動しただけでなく,そこで漁をしている娘の健康的な可愛さが本当に忘れられない,そんな思いが私には伝わってきます。
<この短歌を万葉集の編者が掲載した理由>
京の女性は色白だが,家に籠り,何重にも衣を着て,暗い夜しか逢えない不健康さが感じられるのに対し,この岬で見た娘たちは,明るい太陽のもとで,薄い衣を身に着けただけで網を引っ張っている。市原王がこの短歌のように感じるのはもっともかもしれませんね。
ただ,この短歌を聞いた京の男性はどう思うでしょうか。是非その岬に行ってみたいと思わないでしょうか。「市原王様もお薦めの「佐堤の崎」周遊ツアー募集中で~す」といったツアーエージェントの営業マンがいたかどうかは分かりませんが,山の向こうにある美しい「佐堤の崎」をイメージした人は少なくなかったと私は想像します。
万葉集には,少し裕福になった京人(市民)を旅に誘う効果があったと私は感じます。
次は山が月を隠す状況を藤原八束(ふぢはらのやつか)が詠んだとされる短歌です。
待ちかてに我がする月は妹が着る御笠の山に隠りてありけり(6-987)
<まちかてにわがするつきは いもがきるみかさのやまに こもりてありけり>
<<私がずっと待っていた月は彼女が着ける笠という御笠の山に隠れていたのだ>>
山が無ければ,もっと早く月が顔を出していたのに,山があるおかげで月の出を待つことになった。八束は月が出たら何をしようとしていたのでしょうか。今日の出を楽しみに待つ人がいるように,万葉時代は月の出も楽しみに待つ人がいたのかもしれませんね。
さて,冒頭日本は山国で遠くを見渡せる場所は少ないと書きましたが,関東平野は平地でもかなり遠くを見渡せるところがあります。次は,そんな情景を詠んだ東歌です。
妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな(14-3389)
<いもがかどいやとほそきぬ つくはやまかくれぬほとに そではふりてな>
<<彼女の家から遠くまで来てしまったなあ。筑波山が他の山で隠れて見えなくならないうちに(もう一度)袖を振っておこう>>
彼女の家は筑波山の麓にあるのでしょうか。関東平野で筑波山が見えなくなるのは相当遠くにはなれないとそうならないでしょう。筑波山が見える限り,旅に出るときに別れを告げた彼女のいる方向に間違いなく向かうことができる。関東平野での筑波山の重みは今以上に重かったのだろうと私は想像します。また,奈良の市民は「東国の筑波山でどんなにすごい山なんだろうか」と想像を掻き立てられたかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(4)に続く。
2014年12月21日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2) ♪照る照る坊主,照る坊主。♪雨,雨,降れ,降れ。
<転職先は自分に合っていた>
今月転職したばかりの新しい職場にも,かなり慣れてきました。やはり,求められるいる技術とマッチ度が高いと職場に居場所ができるのに時間をあまり必要としないことを改めて感じられ,不安感はほぼなくなりました。
16日は新職場での最初の給料が振り込まれ,翌々日には長崎県壱岐の麦焼酎「天の川 壱岐づくし 3年古酒」(写真)を成城石井で奮発して買いました。
今晩,連れの天の川君にも,たまには私が飲ませてあげようと一緒に飲むつもりです。
天の川 「もう~,たびとは~ん。早よ飲もうな~。何でそんなに焦らすねん。」
いやいや,天の川君,22日は19年ぶりの朔旦冬至(さくたんとうじ)だから,その前夜をこの焼酎で祝おうということにしたのだよ。朔旦冬至とはね,...
天の川 「そんなこと知らんでかい。19年一度,冬至に八朔(はっさく)と文旦(ぶんたん)を食べてやな,寒い冬でも風邪ひかんようにお呪いする日やんか。どや。」
間違った知識で天の川君の「どや顔」を見せられてもね。19年に一度,冬至と新月が重なる日が朔旦冬至。これから日が長くなっていく,そして同じように新しい月も最初から満ちていく。そんな意味で心が改まる冬至の日と考える人もいるようだね。
<本題>
さて,天の川君にいまさら教養を深めてもらっても仕方がないので,本題に入りましょう。今回は,「照る」の2回目で,現代の私たちにとって最も身近な「日が照る」を万葉集で見ていきます。
最初の1首は,柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が草壁皇子の死を悼んで詠んだとされる挽歌(長歌)の反歌を紹介します。
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(2-169)
<あかねさすひはてらせれど ぬばたまのよわたるつきの かくらくをしも>
<<日の光はいつも照らすけれども,夜を渡る月が欠けてしまうようにお隠れになってしまわれたことが惜しまれる>>
人麻呂にとって,太陽の照らす力は満ち欠けすることはない(日蝕以外)。しかし,月には満ち欠けがあり,その照らす力は人の命のように果かないものである象徴だったのかもしれませんね。
次は,真夏の強烈な日の光に照らされることをイメージした詠み人知らずの短歌です。
六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして(10-1995)
<みなづきのつちさへさけて てるひにもわがそでひめや きみにあはずして>
<<六月の地面が裂けてしまうほど照る日光に干しても,(涙に濡れた)私の袖が乾くことがないのです。あなたに逢わないので>>
旧暦の6月は新暦ではだいたい7月ですから,田んぼの土も干上がって,ひび割れた状態になります。そんな強烈な日光でも恋が成就しないために流す涙の多さで,涙を拭う袖を乾かせない,作者の気持ちが伝わってきます。
次は,日照りで雨乞いをしたくなるほど相手の来訪を待ち望む気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌・女歌)です。
金門田を荒垣ま斎み日が照れば雨を待とのす君をと待とも(14-3561)
<かなとだをあらがきまゆみ ひがとればあめをまとのす きみをとまとも>
<<我が家の門近くの田に荒垣で身を清めて日照りに対して雨を強く待ちたくなるように,あなた様が来られるのを心待ちにしております>>
家の近くにある門田には,自分の家の田であることを示すためや動物に荒らされないようにするため,荒垣(生垣)を植えていたのでしょう。
しかし,日照りが続くと生垣が枯れてしまう恐れがあり,身を清めて雨乞いの祈りをする気持ちが強くなります。このまま,あなた様が来てくださらないと,私の身体は干ばつの生垣のように,枯れてしまうようだと作者は訴えたいのでしょうね。
最後は,自身の孤独感を詠んだことでよく知られている大伴家持の短歌です。
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)
<うらうらにてれるはるひに ひばりあがりこころかなしも ひとりしおもへば>
<<うららかな春の日に雲雀が上空を飛んでいる。でも,(のどかな気持ちになれずに)うら悲しい。今自分一人であることを思うと>>
家持の孤独感の原因が何か,いろいろな説があるようですが,私は越中赴任から帰任して,中央政府の中の力関係に順応することへの難しさからくるものも一つにはあったような気がします。
<私の経験に当てはめる>
私が勤めていた会社で,新入社員から15年以上,三多摩方面の事業所で働いていた後,そこでの成果を認められ,新宿区の本社技術スタッフとして配属されたことがありました。しかし,私はその後何年も本社勤めの役員や管理職とのコミュニケーションがうまく行かずに悩んだ時期が続きました。
事業所で「成果を出したやつのお手並み拝見」といった非協力的な周囲に対して,どう協力を取りつけるかに,回答が出せないとき,この家持の孤独感に共感する気持ちが表れてきました。
その後,その時悩んだ経験がさまざまな場面で協力を取り付けるスキルの向上に役立ったのは事実かもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(3)に続く。
今月転職したばかりの新しい職場にも,かなり慣れてきました。やはり,求められるいる技術とマッチ度が高いと職場に居場所ができるのに時間をあまり必要としないことを改めて感じられ,不安感はほぼなくなりました。
16日は新職場での最初の給料が振り込まれ,翌々日には長崎県壱岐の麦焼酎「天の川 壱岐づくし 3年古酒」(写真)を成城石井で奮発して買いました。
今晩,連れの天の川君にも,たまには私が飲ませてあげようと一緒に飲むつもりです。
天の川 「もう~,たびとは~ん。早よ飲もうな~。何でそんなに焦らすねん。」
いやいや,天の川君,22日は19年ぶりの朔旦冬至(さくたんとうじ)だから,その前夜をこの焼酎で祝おうということにしたのだよ。朔旦冬至とはね,...
天の川 「そんなこと知らんでかい。19年一度,冬至に八朔(はっさく)と文旦(ぶんたん)を食べてやな,寒い冬でも風邪ひかんようにお呪いする日やんか。どや。」
間違った知識で天の川君の「どや顔」を見せられてもね。19年に一度,冬至と新月が重なる日が朔旦冬至。これから日が長くなっていく,そして同じように新しい月も最初から満ちていく。そんな意味で心が改まる冬至の日と考える人もいるようだね。
<本題>
さて,天の川君にいまさら教養を深めてもらっても仕方がないので,本題に入りましょう。今回は,「照る」の2回目で,現代の私たちにとって最も身近な「日が照る」を万葉集で見ていきます。
最初の1首は,柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が草壁皇子の死を悼んで詠んだとされる挽歌(長歌)の反歌を紹介します。
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(2-169)
<あかねさすひはてらせれど ぬばたまのよわたるつきの かくらくをしも>
<<日の光はいつも照らすけれども,夜を渡る月が欠けてしまうようにお隠れになってしまわれたことが惜しまれる>>
人麻呂にとって,太陽の照らす力は満ち欠けすることはない(日蝕以外)。しかし,月には満ち欠けがあり,その照らす力は人の命のように果かないものである象徴だったのかもしれませんね。
次は,真夏の強烈な日の光に照らされることをイメージした詠み人知らずの短歌です。
六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして(10-1995)
<みなづきのつちさへさけて てるひにもわがそでひめや きみにあはずして>
<<六月の地面が裂けてしまうほど照る日光に干しても,(涙に濡れた)私の袖が乾くことがないのです。あなたに逢わないので>>
旧暦の6月は新暦ではだいたい7月ですから,田んぼの土も干上がって,ひび割れた状態になります。そんな強烈な日光でも恋が成就しないために流す涙の多さで,涙を拭う袖を乾かせない,作者の気持ちが伝わってきます。
次は,日照りで雨乞いをしたくなるほど相手の来訪を待ち望む気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌・女歌)です。
金門田を荒垣ま斎み日が照れば雨を待とのす君をと待とも(14-3561)
<かなとだをあらがきまゆみ ひがとればあめをまとのす きみをとまとも>
<<我が家の門近くの田に荒垣で身を清めて日照りに対して雨を強く待ちたくなるように,あなた様が来られるのを心待ちにしております>>
家の近くにある門田には,自分の家の田であることを示すためや動物に荒らされないようにするため,荒垣(生垣)を植えていたのでしょう。
しかし,日照りが続くと生垣が枯れてしまう恐れがあり,身を清めて雨乞いの祈りをする気持ちが強くなります。このまま,あなた様が来てくださらないと,私の身体は干ばつの生垣のように,枯れてしまうようだと作者は訴えたいのでしょうね。
最後は,自身の孤独感を詠んだことでよく知られている大伴家持の短歌です。
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)
<うらうらにてれるはるひに ひばりあがりこころかなしも ひとりしおもへば>
<<うららかな春の日に雲雀が上空を飛んでいる。でも,(のどかな気持ちになれずに)うら悲しい。今自分一人であることを思うと>>
家持の孤独感の原因が何か,いろいろな説があるようですが,私は越中赴任から帰任して,中央政府の中の力関係に順応することへの難しさからくるものも一つにはあったような気がします。
<私の経験に当てはめる>
私が勤めていた会社で,新入社員から15年以上,三多摩方面の事業所で働いていた後,そこでの成果を認められ,新宿区の本社技術スタッフとして配属されたことがありました。しかし,私はその後何年も本社勤めの役員や管理職とのコミュニケーションがうまく行かずに悩んだ時期が続きました。
事業所で「成果を出したやつのお手並み拝見」といった非協力的な周囲に対して,どう協力を取りつけるかに,回答が出せないとき,この家持の孤独感に共感する気持ちが表れてきました。
その後,その時悩んだ経験がさまざまな場面で協力を取り付けるスキルの向上に役立ったのは事実かもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(3)に続く。
2014年7月19日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(1) ♪遠い遠いはるかな道は ~ 銀色のはるかな道
<土踏まずの役割>
人間は常時直立二足歩行する数少ない動物らしいです(鳥類やカンガルーは二足歩行ではあるが直立二足歩行でない)。その結果,人間の足の裏は立つとき,歩くとき,走るときに分けて,十分機能するような構造になっているようです。
たとえば,足の裏にある「土踏まず」は,石がゴロゴロしているような山道や悪路を素早く移動するとき,足や膝への衝撃を緩和するようために備わっているという見方があるようです。悪路を裸足で歩いたり,走ったりすることがほとんどなくなった現代では,「土踏まず」の必要性が減り,平均的に「土踏まず」は退化傾向(偏平足の人が増加傾向)となり,その結果,逆にちょっとした坂や階段の昇り降り(上り下り)で膝への負担が増すようになってきているのかもしれません。
<本題>
さて,万葉時代はどんな場所を踏んで歩いていたのでしょうか。当然,今のようなクッション性の高い靴はありませんでしたから,踏んだ時の感触や感じ方の変化は今より大きいものがあったと想像できそうです。
万葉集で「踏む」を見ていきましょう。屋外での移動で踏むものとして,まず「道」が考えられます。
まず,有名な東歌(女性作)からです。
信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背(14-3399)
<しなぬぢはいまのはりみち かりばねにあしふましなむ くつはけわがせ>
<<信濃への道は完成直後の道だから,木の切り株で足を踏み抜かないよう沓を履いていってね,私のあなた>>
人がまだ踏み均(なら)していない道はやはり歩きにくい道だったのでしょうね。
今は,舗装技術が発達していますので,逆に新道のほうが快適に歩き易かったりしますが,万葉時代は逆だったのでしょう。ただ,今でも登山者が歩く登山道は人が踏み均した場所を選んで上り下りした方が楽だと聞きます。
次も歩行が厳しい道を詠んだ詠み人知らず(女性作)の短歌です。
直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ(13-3320)
<ただにゆかずこゆこせぢから いはせふみもとめぞわがこし こひてすべなみ>
<<真っ直ぐに行かずに、あえて巨勢道の石だらけの道を踏みしめ、苦労をいとわずにわたしは来ました。あなたを恋しくてたまらなくなったので>>
巨勢道は,今の橿原市から南に御所市,五條市,橋本市まで続く,当時山中の街道で,楽な道ではなかったようですね。道は整備されておらず,石だらけの道では,その石を踏むときの痛さに耐えながら進む必要があったのでしょうか。
この道を選んで行くということは,当時はあえて苦難を覚悟で,困難な道を進むことをイメージしていたのかもしれません。作者の恋は,さまざまな苦難との戦いの連続だったけれど,相手を想う気持ちで乗り越えてきたことを伝えたい,そんな情熱的な短歌だと私は感じます。
最後は,少し政治的なにおいのする短歌です。
橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘のもとで道を踏み歩く,その多く分かれた道にやってきて,どちらの道にいくか心の中で決めました。あの人に知られないままにして>>
この短歌は,天平11(730)年8月30日に橘諸兄邸で行われた宴席で出席者の当時,大宰府の次官である大宰大弐(だざいだいに)高橋安麻呂が古歌として紹介したと左注に記されています。さらに左注では「この古歌の作者は豊嶋采女(としまのうねめ)である」と書かれ,続いて「別の本には,この古歌の作者は三方沙弥(みかたのさみ)で,妻の苑臣(そののおみ)を恋いて詠んだ」と書かれています。また,「別の本が正しいなら,宴席でこの短歌を詠いあげたのが豊嶋采女であったのではないか」という趣旨が書かれています。
安麻呂が主人である橘諸兄にこの古歌を披露したは,「橘の木が立つ分かれ道で橘諸兄様の向かわれる方向の道に私も進む決意をしています」という忠誠心を示したものと解釈できることだと私は思います。
<どの道を選ぶか>
さて,人生において,多くの分かれ道に出会うことがあります。そして,どの道を行くかを決断をせざるを得ない時があります。行ってみなければ分からないことを行く前に決断しなければならない訳ですから,迷いもするし,後悔しないように決めたいというプレッシャーも強い状況であることは間違いありません。可能な限り情報を集め,相談できる人にはできるだけ多く相談し,そして最終的に自分の判断を信じて決めるしかないのかもしれません。
<選んだ道はまずは進むこと>
最大限の努力をして決めたのなら,たとえ最適な道でないことやまわり道だたことを後で気がついても後悔することなく,その気が付いたことを新たの情報として,以降の最適な道筋を決めていけばよいと私は思います。
一番やってはいけないことは,最適な道を選べたことで安心をしたり,努力を怠ったりすることだと思います。他人よりハンディを背負っている方が「負けるものか」という強い気持ちになり,他人よりアドバンテージを持っていると「まあ少しぐらいいいや」という弱い心境になってしまうのが人間の性(さが)ではないでしょうか。
繰り返すようですが,たとえ道の選択を間違ってハンディを背負っても,そのハンディ自体を強い気持ちを維持する糧とし,努力を惜しず未来に向かって進めば,後悔の念に打ち勝てる可能性が高くなると私は信じています。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2)に続く。
人間は常時直立二足歩行する数少ない動物らしいです(鳥類やカンガルーは二足歩行ではあるが直立二足歩行でない)。その結果,人間の足の裏は立つとき,歩くとき,走るときに分けて,十分機能するような構造になっているようです。
たとえば,足の裏にある「土踏まず」は,石がゴロゴロしているような山道や悪路を素早く移動するとき,足や膝への衝撃を緩和するようために備わっているという見方があるようです。悪路を裸足で歩いたり,走ったりすることがほとんどなくなった現代では,「土踏まず」の必要性が減り,平均的に「土踏まず」は退化傾向(偏平足の人が増加傾向)となり,その結果,逆にちょっとした坂や階段の昇り降り(上り下り)で膝への負担が増すようになってきているのかもしれません。
<本題>
さて,万葉時代はどんな場所を踏んで歩いていたのでしょうか。当然,今のようなクッション性の高い靴はありませんでしたから,踏んだ時の感触や感じ方の変化は今より大きいものがあったと想像できそうです。
万葉集で「踏む」を見ていきましょう。屋外での移動で踏むものとして,まず「道」が考えられます。
まず,有名な東歌(女性作)からです。
信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背(14-3399)
<しなぬぢはいまのはりみち かりばねにあしふましなむ くつはけわがせ>
<<信濃への道は完成直後の道だから,木の切り株で足を踏み抜かないよう沓を履いていってね,私のあなた>>
人がまだ踏み均(なら)していない道はやはり歩きにくい道だったのでしょうね。
今は,舗装技術が発達していますので,逆に新道のほうが快適に歩き易かったりしますが,万葉時代は逆だったのでしょう。ただ,今でも登山者が歩く登山道は人が踏み均した場所を選んで上り下りした方が楽だと聞きます。
次も歩行が厳しい道を詠んだ詠み人知らず(女性作)の短歌です。
直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ(13-3320)
<ただにゆかずこゆこせぢから いはせふみもとめぞわがこし こひてすべなみ>
<<真っ直ぐに行かずに、あえて巨勢道の石だらけの道を踏みしめ、苦労をいとわずにわたしは来ました。あなたを恋しくてたまらなくなったので>>
巨勢道は,今の橿原市から南に御所市,五條市,橋本市まで続く,当時山中の街道で,楽な道ではなかったようですね。道は整備されておらず,石だらけの道では,その石を踏むときの痛さに耐えながら進む必要があったのでしょうか。
この道を選んで行くということは,当時はあえて苦難を覚悟で,困難な道を進むことをイメージしていたのかもしれません。作者の恋は,さまざまな苦難との戦いの連続だったけれど,相手を想う気持ちで乗り越えてきたことを伝えたい,そんな情熱的な短歌だと私は感じます。
最後は,少し政治的なにおいのする短歌です。
橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘のもとで道を踏み歩く,その多く分かれた道にやってきて,どちらの道にいくか心の中で決めました。あの人に知られないままにして>>
この短歌は,天平11(730)年8月30日に橘諸兄邸で行われた宴席で出席者の当時,大宰府の次官である大宰大弐(だざいだいに)高橋安麻呂が古歌として紹介したと左注に記されています。さらに左注では「この古歌の作者は豊嶋采女(としまのうねめ)である」と書かれ,続いて「別の本には,この古歌の作者は三方沙弥(みかたのさみ)で,妻の苑臣(そののおみ)を恋いて詠んだ」と書かれています。また,「別の本が正しいなら,宴席でこの短歌を詠いあげたのが豊嶋采女であったのではないか」という趣旨が書かれています。
安麻呂が主人である橘諸兄にこの古歌を披露したは,「橘の木が立つ分かれ道で橘諸兄様の向かわれる方向の道に私も進む決意をしています」という忠誠心を示したものと解釈できることだと私は思います。
<どの道を選ぶか>
さて,人生において,多くの分かれ道に出会うことがあります。そして,どの道を行くかを決断をせざるを得ない時があります。行ってみなければ分からないことを行く前に決断しなければならない訳ですから,迷いもするし,後悔しないように決めたいというプレッシャーも強い状況であることは間違いありません。可能な限り情報を集め,相談できる人にはできるだけ多く相談し,そして最終的に自分の判断を信じて決めるしかないのかもしれません。
<選んだ道はまずは進むこと>
最大限の努力をして決めたのなら,たとえ最適な道でないことやまわり道だたことを後で気がついても後悔することなく,その気が付いたことを新たの情報として,以降の最適な道筋を決めていけばよいと私は思います。
一番やってはいけないことは,最適な道を選べたことで安心をしたり,努力を怠ったりすることだと思います。他人よりハンディを背負っている方が「負けるものか」という強い気持ちになり,他人よりアドバンテージを持っていると「まあ少しぐらいいいや」という弱い心境になってしまうのが人間の性(さが)ではないでしょうか。
繰り返すようですが,たとえ道の選択を間違ってハンディを背負っても,そのハンディ自体を強い気持ちを維持する糧とし,努力を惜しず未来に向かって進めば,後悔の念に打ち勝てる可能性が高くなると私は信じています。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2)に続く。
2014年6月28日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(2) 心も体も引かれていきます
「引く」の2回目は,自分の体の一部や心を引くことについて,万葉集を見ていくことにしましょう。
最初は彼女が眉を引く(描く)姿が忘れられないという詠み人知らずの短歌です。
我妹子が笑まひ眉引き面影にかかりてもとな思ほゆるかも(12-2900)
<わぎもこがゑまひまよびき おもかげにかかりてもとな おもほゆるかも>
<<彼女が微笑みながら眉を引いていた。その面影は幻としてしきりに浮んできて気掛りに思われることだなあ>>
彼女がお化粧をしているところを見たのでしょうか。作者にとって非常に魅力的に感じたのかもしれません。それが頭によぎって,彼女のことばかり考えている自分が居ることに気づき,この短歌を詠んだのだろうと私は考えたくなります。
次は,自分黒髪を引き解くことを詠んだ女性作と思われる短歌です。
ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも(11-2610)
<ぬばたまのわがくろかみを ひきぬらしみだれてさらに こひわたるかも>
<<私の黒髪を引き解いても心乱れて,あなたをさらに恋い慕い続けています>>
結った黒髪を引き解くということは女性がメークを落とすような時間帯なのでしょうか。一日のやるべきことを終えて(奈良時代では女性は家で機織や家事が主な仕事),仕事をやるうえで邪魔になるため結っていた髪を引き解いたときは,1日の終わりでようやくリラックスできる時間だったのかもしれません。そのときでも,彼を恋い慕う気持ちで心が乱れてしまう,そんな心情を表現したものだと私は思いたい短歌です。
今回の最後の和歌は,心を引くを詠んだ東歌(女性作)を紹介します。
赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる背なか我がり来むと言ふ(14-3536)
<あかごまをうちてさをびき こころひきいかなるせなか わがりこむといふ>
<<赤駒を鞭打って緒を引き立てるように,私の心を引き立てるどのような殿方が私のところに来るというのでしょう(あなたしかいませんよ)>>
この東歌もなかなかの表現力をもった短歌だと私は思います。この女性は東国の野原で育ち,きっと馬にも乗れる活発な女性ではないかと私は想像します。そんな女性がこんな短歌を詠むということを知った京の男性はどう思ったでしょうか。親が家から出さず,気軽に逢うこともままならない京の女性とは違った,あこがれに似た強い魅力を感じたのかもしれません。
東歌を集めた大伴家持は東国の魅力を京人にアピールしたかったのではないかと,私は常々考えています。東国の物産の京での消費(引き)を増やし,東国が繁栄することで,当時の平城京を含む日本全体が豊かになると家持は考え,東歌を万葉集に入れたと仮説するのは論理が飛躍しすぎているのでしょうか。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(3)に続く。
最初は彼女が眉を引く(描く)姿が忘れられないという詠み人知らずの短歌です。
我妹子が笑まひ眉引き面影にかかりてもとな思ほゆるかも(12-2900)
<わぎもこがゑまひまよびき おもかげにかかりてもとな おもほゆるかも>
<<彼女が微笑みながら眉を引いていた。その面影は幻としてしきりに浮んできて気掛りに思われることだなあ>>
彼女がお化粧をしているところを見たのでしょうか。作者にとって非常に魅力的に感じたのかもしれません。それが頭によぎって,彼女のことばかり考えている自分が居ることに気づき,この短歌を詠んだのだろうと私は考えたくなります。
次は,自分黒髪を引き解くことを詠んだ女性作と思われる短歌です。
ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも(11-2610)
<ぬばたまのわがくろかみを ひきぬらしみだれてさらに こひわたるかも>
<<私の黒髪を引き解いても心乱れて,あなたをさらに恋い慕い続けています>>
結った黒髪を引き解くということは女性がメークを落とすような時間帯なのでしょうか。一日のやるべきことを終えて(奈良時代では女性は家で機織や家事が主な仕事),仕事をやるうえで邪魔になるため結っていた髪を引き解いたときは,1日の終わりでようやくリラックスできる時間だったのかもしれません。そのときでも,彼を恋い慕う気持ちで心が乱れてしまう,そんな心情を表現したものだと私は思いたい短歌です。
今回の最後の和歌は,心を引くを詠んだ東歌(女性作)を紹介します。
赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる背なか我がり来むと言ふ(14-3536)
<あかごまをうちてさをびき こころひきいかなるせなか わがりこむといふ>
<<赤駒を鞭打って緒を引き立てるように,私の心を引き立てるどのような殿方が私のところに来るというのでしょう(あなたしかいませんよ)>>
この東歌もなかなかの表現力をもった短歌だと私は思います。この女性は東国の野原で育ち,きっと馬にも乗れる活発な女性ではないかと私は想像します。そんな女性がこんな短歌を詠むということを知った京の男性はどう思ったでしょうか。親が家から出さず,気軽に逢うこともままならない京の女性とは違った,あこがれに似た強い魅力を感じたのかもしれません。
東歌を集めた大伴家持は東国の魅力を京人にアピールしたかったのではないかと,私は常々考えています。東国の物産の京での消費(引き)を増やし,東国が繁栄することで,当時の平城京を含む日本全体が豊かになると家持は考え,東歌を万葉集に入れたと仮説するのは論理が飛躍しすぎているのでしょうか。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(3)に続く。
2014年6月22日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1) 植物は無闇に採ってはいけません
<私の引き際>
私の同年輩の人たちには,そろそろ現役を引退する人が増えています。「人間引き際が肝心」とか「引退しても悠々自適」とか「顧問として引く手あまた」とか,「引退」に関して世間ではいろいろと言われることがありますね。
私自身は「引き際を忘れて,往生際が悪く,仕事にしがみついて,一向に現役から引く気配を見せない」といったところでしょうか。理由は表向き「引き取り手がないので」ということにしていますが,本当は今の仕事(ソフトウェア保守開発の現場)は私には向いているし,好きだからです。
<本題>
さて,今回からしばらくは動詞「引く」を万葉集で見ていくことにします。実は,2012年7月8日の当ブログで,対語シリーズ「押すと引く」というテーマで「引く」を少し取り上げています。しかし,「引く」を国語辞典で(それこそ)引くとたくさんの説明が出てきます。
広い意味を持つ言葉のためか,状況や「引く」対象によって意味が異なる場合,次のように当てる漢字を別のものにすることがあります。
弾く,惹く,曳く,牽く,轢く,退く,挽く
万葉集に出てくる「引く」の対象も,次のようにさまざまです。
麻,網,石,板,馬,枝,帯,楫(かぢ),梶(かぢ),葛(くず),黒髪,心,琴,自分,裾(すそ),弦(つる),蔓(つる),幣(ぬさ),根,花,人,舟,眉,都(みやこ),藻(も),弓,緒(を)
今回は,その中で植物のさまざまな部分を「引く」動作を詠んだ和歌を見ていきましょう。
最初は梅の枝に関したものです。
引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入れつ染まば染むとも(8-1644)
<ひきよぢてをらばちるべみ うめのはなそでにこきいれつ しまばしむとも>
<<枝を引き寄せて折ったら梅の花が散ってしまいそう。花だけをしごいて袖に入れよう。花の色が袖に染まっても>>
この短歌は,大伴旅人の従者であった三野石守(みののいそもり)が詠んだとされる1首です。大伴旅人は大宰府長官としての赴任中,梅の花の美しさを愛でる和歌を従者とともに多く残しています。その影響なのかはわかりませんが,太宰府天満宮周辺には6,000本もの梅の木が植えられているそうです。
次は,夏になってものすごい勢いで伸びる葛を引く(駆除する)作業をしている乙女たちを詠んだ詠み人知らずの短歌です。
霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女(10-1942)
<ほととぎすなくこゑきくや うのはなのさきちるをかに くずひくをとめ>
<<ほととぎすの鳴く声をもう聞いたかい? 卯の花が見事に咲いて,地面にも花弁が散っている丘で伸びた葛のつたを引いている早乙女たちよ>>
ほととぎすと卯の花から次の歌詞で始まる「夏は来ぬ」という唱歌を私は思い出しました。
♪卯の花の におう垣根に ほととぎす 早やも来啼(な)きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
この唱歌の作詞者を改めて調べてみました。すると,何と歌人で国文学者の佐々木信綱(1872~1963)ではないですか。今までこの唱歌の作詞者について私は全く意識していませんでした。佐々木信綱は万葉集にも造詣が深く,万葉集に関する本をたくさん出しています。もしかしたら佐々木信綱先生「夏は来ぬ」の作詞をするとき,この短歌も参考にしたのでは?と私は勝手な想像をしています。
最後は橘の花を引っ張る東歌です。
小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ(14-3574)
<をさとなるはなたちばなを ひきよぢてをらむとすれど うらわかみこそ>
<<小さな里にある橘の花を引き寄せて折ろうとするが、まだ若々しく柔らかいので(折ることができないよ)>>
ここでの橘の花は目当ての女性を指していそうですね。この短歌の作者がお目当ての相手はまだ幼い少女で,なかなかうまく靡いてこないことを嘆いているようにも私には思えます。
実は万葉集の東歌には,このように女性の譬えとして花などを詠った優れた譬喩歌が何首も残されています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(2)に続く。
私の同年輩の人たちには,そろそろ現役を引退する人が増えています。「人間引き際が肝心」とか「引退しても悠々自適」とか「顧問として引く手あまた」とか,「引退」に関して世間ではいろいろと言われることがありますね。
私自身は「引き際を忘れて,往生際が悪く,仕事にしがみついて,一向に現役から引く気配を見せない」といったところでしょうか。理由は表向き「引き取り手がないので」ということにしていますが,本当は今の仕事(ソフトウェア保守開発の現場)は私には向いているし,好きだからです。
<本題>
さて,今回からしばらくは動詞「引く」を万葉集で見ていくことにします。実は,2012年7月8日の当ブログで,対語シリーズ「押すと引く」というテーマで「引く」を少し取り上げています。しかし,「引く」を国語辞典で(それこそ)引くとたくさんの説明が出てきます。
広い意味を持つ言葉のためか,状況や「引く」対象によって意味が異なる場合,次のように当てる漢字を別のものにすることがあります。
弾く,惹く,曳く,牽く,轢く,退く,挽く
万葉集に出てくる「引く」の対象も,次のようにさまざまです。
麻,網,石,板,馬,枝,帯,楫(かぢ),梶(かぢ),葛(くず),黒髪,心,琴,自分,裾(すそ),弦(つる),蔓(つる),幣(ぬさ),根,花,人,舟,眉,都(みやこ),藻(も),弓,緒(を)
今回は,その中で植物のさまざまな部分を「引く」動作を詠んだ和歌を見ていきましょう。
最初は梅の枝に関したものです。
引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入れつ染まば染むとも(8-1644)
<ひきよぢてをらばちるべみ うめのはなそでにこきいれつ しまばしむとも>
<<枝を引き寄せて折ったら梅の花が散ってしまいそう。花だけをしごいて袖に入れよう。花の色が袖に染まっても>>
この短歌は,大伴旅人の従者であった三野石守(みののいそもり)が詠んだとされる1首です。大伴旅人は大宰府長官としての赴任中,梅の花の美しさを愛でる和歌を従者とともに多く残しています。その影響なのかはわかりませんが,太宰府天満宮周辺には6,000本もの梅の木が植えられているそうです。
次は,夏になってものすごい勢いで伸びる葛を引く(駆除する)作業をしている乙女たちを詠んだ詠み人知らずの短歌です。
霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女(10-1942)
<ほととぎすなくこゑきくや うのはなのさきちるをかに くずひくをとめ>
<<ほととぎすの鳴く声をもう聞いたかい? 卯の花が見事に咲いて,地面にも花弁が散っている丘で伸びた葛のつたを引いている早乙女たちよ>>
ほととぎすと卯の花から次の歌詞で始まる「夏は来ぬ」という唱歌を私は思い出しました。
♪卯の花の におう垣根に ほととぎす 早やも来啼(な)きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
この唱歌の作詞者を改めて調べてみました。すると,何と歌人で国文学者の佐々木信綱(1872~1963)ではないですか。今までこの唱歌の作詞者について私は全く意識していませんでした。佐々木信綱は万葉集にも造詣が深く,万葉集に関する本をたくさん出しています。もしかしたら佐々木信綱先生「夏は来ぬ」の作詞をするとき,この短歌も参考にしたのでは?と私は勝手な想像をしています。
最後は橘の花を引っ張る東歌です。
小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ(14-3574)
<をさとなるはなたちばなを ひきよぢてをらむとすれど うらわかみこそ>
<<小さな里にある橘の花を引き寄せて折ろうとするが、まだ若々しく柔らかいので(折ることができないよ)>>
ここでの橘の花は目当ての女性を指していそうですね。この短歌の作者がお目当ての相手はまだ幼い少女で,なかなかうまく靡いてこないことを嘆いているようにも私には思えます。
実は万葉集の東歌には,このように女性の譬えとして花などを詠った優れた譬喩歌が何首も残されています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(2)に続く。
2014年6月14日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(3:まとめ) 胸が焼き焦げるほど一緒に暮らしたいよ~
<秋田訪問報告>
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。
秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。
また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。
新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使の六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。
わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
<わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ>
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>
旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。
武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
<むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり>
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>
この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
<よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし>
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>
家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。
秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。
また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。
新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使の六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。
わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
<わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ>
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>
旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。
武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
<むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり>
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>
この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
<よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし>
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>
家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。
2014年1月5日日曜日
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(4:まとめ)」
万葉集で馬や駒を詠んだ和歌シリーズの最後は,少しきわどいもの,滑稽なものを揃えてみました。今までの投稿ですでに紹介しているものもありますが,馬という切り口で見ていきたいと思います。
まず,前回では紹介しませんでしたが,東歌に出てくる短歌です。
あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも(14-3541)
<あずへからこまのゆごのす あやはともひとづまころを まゆかせらふも>
<<崖の上の端を駒に乗って進むのは危険だが,あの若い人妻にはそんな危険を冒してでも近づきたいなあ>>
う~ん。こんな訳でよいのかな~。これを当時の東国は大らかで羨ましいと見るか,東国の男は気を付けろという警告として採録されたと見るか,読者側の感性や倫理観に大きく左右されそうですね。これ以上コメントすると天の川君が余計なことを言いそうなので,やめておきます。
次は2012年1月15日の投稿で紹介しました土の駒形の玩具か置物を作る土師(はじ)に対して,日焼けした巨勢豊人という人物(木こり?)が嘲笑して詠んだ短歌です。
駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を(16-3845)
<こまつくるはじのしびまろ しろくあればうべほしからむ そのくろいろを>
<<いつも部屋ん中で土の駒人形ばっかり作っている志婢麻呂さんはいつも青白い顔なので,日焼けした黒い肌が羨ましいんじゃないのかな?>>
馬自体とは関係ありませんが,当時馬の玩具や置物が結構人気があって,そういっものを作る専門技能を持った職人がいたことを想像させますね。
次は,2012年7月8日の投稿で紹介しました僧侶の無精ひげを馬に繋いで引かせるなんて,とんでもない短歌です。
法師らが鬚の剃り杭馬繋いたくな引きそ法師は泣かむ(16-3846)
<ほふしらがひげのそりくひ うまつなぎいたくなひきそ ほふしはなかむ>
<<横着して鬚を剃らないで伸びて来た坊さんの鬚に馬を繋いで強く引かせてはいけないよ。坊さん泣くだろうからね>>
万葉時代,仏教の僧侶は法師と呼ばれ,時代の先端を行くエリート職のようでした。いつの時代でもそうですが,中にはとてもそれに似つかわしくない僧侶がいたようですね。そんなことしちゃいけないと詠んでいますが,あまりにもひどい格好だったので,馬に引かせるという短歌になったのでしょうか。
さて,最後は2009年11月8日と2013年1月27日に紹介した越中で大伴家持が部下の浮気を諭した短歌です。
左夫流子が斎きし殿に鈴懸けぬ駅馬下れり里もとどろに(18-4110)
<さぶるこがいつきしとのに すずかけぬはゆまくだれり さともとどろに>
<<左夫流子という遊女を正妻のように住まわせている君の家に,鈴も付けずに駅を経由して奥さんを乗せた早馬がやってきたぞ。その蹄の音を里中に轟かせてな>>
早馬には鈴を付けることになっていたようですが,部下の奥さんは鈴を付ける時間も惜しく,急いで駆け付けてきた。どうせ,越中だから分かるわけないと,同僚たちの前で左夫流子と付き合っているところを見せびらかしたり,自慢げに話したのでしょうね。それが京にいる奥さんの耳に入ったのですから,それはもう大変な騒ぎ。
「黙ってリゃよかったのに」なんて,馬馬,いや努努思ってはならないのですぞ,おのおの方(馬を詠んだ和歌シリーズのまとめ)。
2014年正月休みも今日までで明日からは多忙な仕事が待っています。年末年始スペシャルは以上で,次回からは以前シリーズ投稿しました「動きの詞(ことば)シリーズ」の第2段をお送りします。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(1)に続く。
まず,前回では紹介しませんでしたが,東歌に出てくる短歌です。
あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも(14-3541)
<あずへからこまのゆごのす あやはともひとづまころを まゆかせらふも>
<<崖の上の端を駒に乗って進むのは危険だが,あの若い人妻にはそんな危険を冒してでも近づきたいなあ>>
う~ん。こんな訳でよいのかな~。これを当時の東国は大らかで羨ましいと見るか,東国の男は気を付けろという警告として採録されたと見るか,読者側の感性や倫理観に大きく左右されそうですね。これ以上コメントすると天の川君が余計なことを言いそうなので,やめておきます。
次は2012年1月15日の投稿で紹介しました土の駒形の玩具か置物を作る土師(はじ)に対して,日焼けした巨勢豊人という人物(木こり?)が嘲笑して詠んだ短歌です。
駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を(16-3845)
<こまつくるはじのしびまろ しろくあればうべほしからむ そのくろいろを>
<<いつも部屋ん中で土の駒人形ばっかり作っている志婢麻呂さんはいつも青白い顔なので,日焼けした黒い肌が羨ましいんじゃないのかな?>>
馬自体とは関係ありませんが,当時馬の玩具や置物が結構人気があって,そういっものを作る専門技能を持った職人がいたことを想像させますね。
次は,2012年7月8日の投稿で紹介しました僧侶の無精ひげを馬に繋いで引かせるなんて,とんでもない短歌です。
法師らが鬚の剃り杭馬繋いたくな引きそ法師は泣かむ(16-3846)
<ほふしらがひげのそりくひ うまつなぎいたくなひきそ ほふしはなかむ>
<<横着して鬚を剃らないで伸びて来た坊さんの鬚に馬を繋いで強く引かせてはいけないよ。坊さん泣くだろうからね>>
万葉時代,仏教の僧侶は法師と呼ばれ,時代の先端を行くエリート職のようでした。いつの時代でもそうですが,中にはとてもそれに似つかわしくない僧侶がいたようですね。そんなことしちゃいけないと詠んでいますが,あまりにもひどい格好だったので,馬に引かせるという短歌になったのでしょうか。
さて,最後は2009年11月8日と2013年1月27日に紹介した越中で大伴家持が部下の浮気を諭した短歌です。
左夫流子が斎きし殿に鈴懸けぬ駅馬下れり里もとどろに(18-4110)
<さぶるこがいつきしとのに すずかけぬはゆまくだれり さともとどろに>
<<左夫流子という遊女を正妻のように住まわせている君の家に,鈴も付けずに駅を経由して奥さんを乗せた早馬がやってきたぞ。その蹄の音を里中に轟かせてな>>
早馬には鈴を付けることになっていたようですが,部下の奥さんは鈴を付ける時間も惜しく,急いで駆け付けてきた。どうせ,越中だから分かるわけないと,同僚たちの前で左夫流子と付き合っているところを見せびらかしたり,自慢げに話したのでしょうね。それが京にいる奥さんの耳に入ったのですから,それはもう大変な騒ぎ。
「黙ってリゃよかったのに」なんて,馬馬,いや努努思ってはならないのですぞ,おのおの方(馬を詠んだ和歌シリーズのまとめ)。
2014年正月休みも今日までで明日からは多忙な仕事が待っています。年末年始スペシャルは以上で,次回からは以前シリーズ投稿しました「動きの詞(ことば)シリーズ」の第2段をお送りします。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(1)に続く。
2014年1月3日金曜日
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(3)」
この正月もあっという間に3が日が過ぎようしています。
馬を詠んだ万葉集の和歌の3回目は東歌で詠まれたものを見ていきます。東歌が詠まれた東国は今の静岡県辺りから中部・関東・甲信越をおおよそ指しているようです。平城京から見ると未開の地に見えたのかもしれません。
ただ,私の住む埼玉県には,さきたま古墳群など古墳の跡と思われる場所がたくさんあります。
国宝の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)と呼ばれる鉄拳には雄略天皇との関わりが書かれているとの説が有力とのこと。そのため,衆議をする場所,住居,工場,市場,物資配送施設など都市に近いものを地方豪族主体に発達させていた可能性も否定できないと考えられます。
関東平野に限っていうと物資の移送は,川の場合上り下りだけでなく渡しも舟だったと想像できます。陸の移送は馬が主体だったのではないでしょうか。そのためか,万葉集の東歌に船,舟,馬,駒を詠んだ歌が結構でてきます。
舟と船はまたの機会として,馬と駒が出てくる東歌を紹介します。なお,東歌では圧倒的に馬よりも駒が多く出てきます。その理由は「馬」をタクシーや乗合バス,「駒」を自家用車に譬えればわかりやすいかもしれません。
大都会や住宅密集地では自分用の馬(駒)を所有することは難しく,東国のように広い土地がある場合は自分用の馬(駒)や馬屋を所有することが比較的用意だったと感じます。
現在の東京周辺よりも少し離れた郊外に住む世帯の方が自家用車の所有率が高いはずです。
では,まず東歌で馬が出てくる短歌を紹介します。
鈴が音の早馬駅家の堤井の水を給へな妹が直手よ(14-3439)
<すずがねのはゆまうまやの つつみゐのみづをたまへな いもがただてよ>
<<鈴の音をひびかせる早馬の駅家にある堤井の水をくれるかい,直に君の手から>>
早馬は街道の駅家間を高スピートで人,物資,書類などを運ぶことを専門とする馬です。所有者は馬による輸送を業としているプロです。なので,個人が飼っていて自由に使える駒とは違います。この短歌の作者は早馬の騎手か早馬専用の駅家で働いている駅員ではないかと私は想像します。
彼女も駅家で働いている若い女性で,この短歌の作者はその可愛さに僕に水をおくれよと声を掛けた情景でしょうか。
次は駒が出てくる東歌の1首目です。
足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(14-3387)
<あのおとせずゆかむこまもが かづしかのままのつぎはし やまずかよはむ>
<<足音のしないでゆく馬がいたらよいのに。葛飾の真間の継橋をいつも通って行こけるのに>>
「真間の継橋」には,本当に好き同士の二人の間を継ぐことができる橋という言い伝えがあったのだろうと私は想像します。しかし,馬で駆け付け,密かに逢おうとするが,蹄の音で周りに分かってしまう。今で言うとエンジン音がしない自動車が欲しいといったところでしょうかね。電気自動車では可能でしょうか。
次は東国らしい駒の姿を詠んだ短歌です。
春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも(14-3532)
<はるののにくさはむこまの くちやまずあをしのふらむ いへのころはも>
<<春の野で草を食む駒の口がいつも動いているようにいつも俺のことを口に出して思ってくれているのだろう,家にいる妻は>>
東国ではこういう草の野がいっぱいあったのでしょう。
ちなみに,我が家の妻は私が仕事の都合で会社からたまに早く帰ると心配してくれます。「会社で干されたのではないかしら?」とか「テレビで見たいものがあって早く帰ってきたとしたら,ひとりで楽しみに見ようとしていた番組は急いでビデオに取っておく必要があるかしら?」などと。
最後は,自分の駒に悪いが彼女のところに悪路でも行きたいと詠んだ短歌です。
さざれ石に駒を馳させて心痛み我が思ふ妹が家のあたりかも(14-3542)
<さざれいしにこまをはさせて こころいたみあがもふいもが いへのあたりかも>
<<小石の原に我が駒を走らせ心が少し痛むだけどよ,俺が思う彼女の家のあたりにどうしても来てしまうぜ>>
この短歌で,どうしても田舎の悪路をスカイラインGT-Rクラスのマニュアルシフトのスポーツカーでブイブイ飛ばして,大きな農家の入口の前で止めているお兄さんをイメージしてしまいます。
おっと,悪いイメージではけっしてありません。羨ましいなあというイメージです。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(4)」に続く。
馬を詠んだ万葉集の和歌の3回目は東歌で詠まれたものを見ていきます。東歌が詠まれた東国は今の静岡県辺りから中部・関東・甲信越をおおよそ指しているようです。平城京から見ると未開の地に見えたのかもしれません。
ただ,私の住む埼玉県には,さきたま古墳群など古墳の跡と思われる場所がたくさんあります。
国宝の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)と呼ばれる鉄拳には雄略天皇との関わりが書かれているとの説が有力とのこと。そのため,衆議をする場所,住居,工場,市場,物資配送施設など都市に近いものを地方豪族主体に発達させていた可能性も否定できないと考えられます。
関東平野に限っていうと物資の移送は,川の場合上り下りだけでなく渡しも舟だったと想像できます。陸の移送は馬が主体だったのではないでしょうか。そのためか,万葉集の東歌に船,舟,馬,駒を詠んだ歌が結構でてきます。
舟と船はまたの機会として,馬と駒が出てくる東歌を紹介します。なお,東歌では圧倒的に馬よりも駒が多く出てきます。その理由は「馬」をタクシーや乗合バス,「駒」を自家用車に譬えればわかりやすいかもしれません。
大都会や住宅密集地では自分用の馬(駒)を所有することは難しく,東国のように広い土地がある場合は自分用の馬(駒)や馬屋を所有することが比較的用意だったと感じます。
現在の東京周辺よりも少し離れた郊外に住む世帯の方が自家用車の所有率が高いはずです。
では,まず東歌で馬が出てくる短歌を紹介します。
鈴が音の早馬駅家の堤井の水を給へな妹が直手よ(14-3439)
<すずがねのはゆまうまやの つつみゐのみづをたまへな いもがただてよ>
<<鈴の音をひびかせる早馬の駅家にある堤井の水をくれるかい,直に君の手から>>
早馬は街道の駅家間を高スピートで人,物資,書類などを運ぶことを専門とする馬です。所有者は馬による輸送を業としているプロです。なので,個人が飼っていて自由に使える駒とは違います。この短歌の作者は早馬の騎手か早馬専用の駅家で働いている駅員ではないかと私は想像します。
彼女も駅家で働いている若い女性で,この短歌の作者はその可愛さに僕に水をおくれよと声を掛けた情景でしょうか。
次は駒が出てくる東歌の1首目です。
足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(14-3387)
<あのおとせずゆかむこまもが かづしかのままのつぎはし やまずかよはむ>
<<足音のしないでゆく馬がいたらよいのに。葛飾の真間の継橋をいつも通って行こけるのに>>
「真間の継橋」には,本当に好き同士の二人の間を継ぐことができる橋という言い伝えがあったのだろうと私は想像します。しかし,馬で駆け付け,密かに逢おうとするが,蹄の音で周りに分かってしまう。今で言うとエンジン音がしない自動車が欲しいといったところでしょうかね。電気自動車では可能でしょうか。
次は東国らしい駒の姿を詠んだ短歌です。
春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも(14-3532)
<はるののにくさはむこまの くちやまずあをしのふらむ いへのころはも>
<<春の野で草を食む駒の口がいつも動いているようにいつも俺のことを口に出して思ってくれているのだろう,家にいる妻は>>
東国ではこういう草の野がいっぱいあったのでしょう。
ちなみに,我が家の妻は私が仕事の都合で会社からたまに早く帰ると心配してくれます。「会社で干されたのではないかしら?」とか「テレビで見たいものがあって早く帰ってきたとしたら,ひとりで楽しみに見ようとしていた番組は急いでビデオに取っておく必要があるかしら?」などと。
最後は,自分の駒に悪いが彼女のところに悪路でも行きたいと詠んだ短歌です。
さざれ石に駒を馳させて心痛み我が思ふ妹が家のあたりかも(14-3542)
<さざれいしにこまをはさせて こころいたみあがもふいもが いへのあたりかも>
<<小石の原に我が駒を走らせ心が少し痛むだけどよ,俺が思う彼女の家のあたりにどうしても来てしまうぜ>>
この短歌で,どうしても田舎の悪路をスカイラインGT-Rクラスのマニュアルシフトのスポーツカーでブイブイ飛ばして,大きな農家の入口の前で止めているお兄さんをイメージしてしまいます。
おっと,悪いイメージではけっしてありません。羨ましいなあというイメージです。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(4)」に続く。
2013年9月3日火曜日
2013夏休みスペシャル‥「夜遅く大洗の宿に駆け込む。そして,,..」
<大洗での研究会>
8月30日,午後から大阪市内のお客様へ打ち合わせのため出張し,夕方その足で毎年この時期に行われているソフトウェア保守関連の研究会作業部会の合宿に合流しました。場所は茨城県大洗町の那珂川河口にある「かんぽの宿」です。
作業部会合宿は午後から始まっていて,1日目の研究会議(午後と夜)には参加できず,夜遅くの懇親会に途中参加となりました。
新幹線が九州地方の豪雨で遅れが出ていて,少し焦りましたが,新大阪では先行出発する列車に乗れ,予定通り23時までには宿に到着できました。ただ,時間が時間ですから参加者の皆さんはかなりお酒をお召し上がりになっていました。
大阪の近鉄百貨店のデパ地下で買った「ハモの皮」「松前屋の塩昆布」「お好み焼きチップス」を遅れたお詫びにの印に差し入れをしました。参加者の皆さんは関東在住の方が多く「珍しいおつまみだ」と喜んで頂きました。私も駆けつけ3杯と,1時間ほど飲んで,すっかりいい気分になりました。
この宿は立派な露店風呂付大浴場(温泉)があり,朝,那珂川河口方面の眺めはなかなかのものでした。
<研究会2日目>
翌31日は,作業部会の2日めの研究会議を行い(私の個人研究に関する討議中心),昼からは大洗アクアワールド(設備やシステムの維持管理状況)を見学し,岐路に着きました。
実は大洗の北に阿字ヶ浦(あじがうら)海岸という場所があり,万葉集の東歌(次の短歌)で詠まれた許奴美の浜がそこだという説があり,万葉歌碑があるとのことです(ただ,時間的にそこには行けませんでしたが)。
磐城山直越え来ませ礒崎の許奴美の浜に我れ立ち待たむ(12-3195)
<いはきやまただこえきませ いそさきのこぬみのはまに われたちまたむ>
<<磐城山をすぐ越えて来てください。磯崎の許奴美の浜辺で私は立って待っていますから>>
<今度は富士登山>
さて,31日夜自宅に戻るとすぐ翌日(9月1日)富士登山の準備に入りました(昨年はこのブログでも紹介しましたように八合目で下山)。
1日は朝3時半に自宅を出て,昨年と同じ御殿場駅から須走口行のバスに乗り,8時半頃から登山を開始しました。ただ,結果から言いますと,今年も頂上まで行けませんでした(九合目で断念)。
理由は,高山病の予兆と思われる症状(軽い頭痛)が出てきたためです。後30分あまり頑張れば上まで行けたのですが,視界もきかず,台風15号から変わった温帯低気圧の影響なのか風も非常に強く,下山時のことや翌日の仕事を影響を考えやむなく引き返すことにしました。
今回の残念な結果を踏まえ,来年はさらに対策をしてリベンジしたいと考えています。
でも,昨年登った八合目の高さ位までは天気も良く,次のようないろいろ写真が撮れました。
登山道に入ったら野生の鹿の親子(?)が迎えてくれました。
六合目付近河口湖が眼下(左奥)に良く見えました。
しかし,山頂付近は雲に覆われています。
今回,私が引き返した九合目です。
視界はこんな感じです。霧雨が強い風に乗って吹き付けてきます。
下山して須走口でバスを待つ間に見つけたトリカブトの花です。シカも近づかないそうです。
さて,1ヶ月以上に渡り続けてきました2013夏休みスペシャルも今回で終了し,心が動いた詞(ことば)シリーズに戻ります。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「言痛(こちた)し」に続く。
8月30日,午後から大阪市内のお客様へ打ち合わせのため出張し,夕方その足で毎年この時期に行われているソフトウェア保守関連の研究会作業部会の合宿に合流しました。場所は茨城県大洗町の那珂川河口にある「かんぽの宿」です。
作業部会合宿は午後から始まっていて,1日目の研究会議(午後と夜)には参加できず,夜遅くの懇親会に途中参加となりました。
新幹線が九州地方の豪雨で遅れが出ていて,少し焦りましたが,新大阪では先行出発する列車に乗れ,予定通り23時までには宿に到着できました。ただ,時間が時間ですから参加者の皆さんはかなりお酒をお召し上がりになっていました。
大阪の近鉄百貨店のデパ地下で買った「ハモの皮」「松前屋の塩昆布」「お好み焼きチップス」を遅れたお詫びにの印に差し入れをしました。参加者の皆さんは関東在住の方が多く「珍しいおつまみだ」と喜んで頂きました。私も駆けつけ3杯と,1時間ほど飲んで,すっかりいい気分になりました。
この宿は立派な露店風呂付大浴場(温泉)があり,朝,那珂川河口方面の眺めはなかなかのものでした。
<研究会2日目>
翌31日は,作業部会の2日めの研究会議を行い(私の個人研究に関する討議中心),昼からは大洗アクアワールド(設備やシステムの維持管理状況)を見学し,岐路に着きました。
実は大洗の北に阿字ヶ浦(あじがうら)海岸という場所があり,万葉集の東歌(次の短歌)で詠まれた許奴美の浜がそこだという説があり,万葉歌碑があるとのことです(ただ,時間的にそこには行けませんでしたが)。
磐城山直越え来ませ礒崎の許奴美の浜に我れ立ち待たむ(12-3195)
<いはきやまただこえきませ いそさきのこぬみのはまに われたちまたむ>
<<磐城山をすぐ越えて来てください。磯崎の許奴美の浜辺で私は立って待っていますから>>
<今度は富士登山>
さて,31日夜自宅に戻るとすぐ翌日(9月1日)富士登山の準備に入りました(昨年はこのブログでも紹介しましたように八合目で下山)。
1日は朝3時半に自宅を出て,昨年と同じ御殿場駅から須走口行のバスに乗り,8時半頃から登山を開始しました。ただ,結果から言いますと,今年も頂上まで行けませんでした(九合目で断念)。
理由は,高山病の予兆と思われる症状(軽い頭痛)が出てきたためです。後30分あまり頑張れば上まで行けたのですが,視界もきかず,台風15号から変わった温帯低気圧の影響なのか風も非常に強く,下山時のことや翌日の仕事を影響を考えやむなく引き返すことにしました。
今回の残念な結果を踏まえ,来年はさらに対策をしてリベンジしたいと考えています。
でも,昨年登った八合目の高さ位までは天気も良く,次のようないろいろ写真が撮れました。
登山道に入ったら野生の鹿の親子(?)が迎えてくれました。
六合目付近河口湖が眼下(左奥)に良く見えました。
しかし,山頂付近は雲に覆われています。
今回,私が引き返した九合目です。
視界はこんな感じです。霧雨が強い風に乗って吹き付けてきます。
下山して須走口でバスを待つ間に見つけたトリカブトの花です。シカも近づかないそうです。
さて,1ヶ月以上に渡り続けてきました2013夏休みスペシャルも今回で終了し,心が動いた詞(ことば)シリーズに戻ります。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「言痛(こちた)し」に続く。
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