我が家の庭に20年ほど前から植えてあるサクランボの木の花のつぼみが昨年よりもはるかに多く膨らんできました。
今年はより多くの実が成りそうで楽しみにしています。
8年目突入スペシャルの最後は,「八」という数字について万葉集を見ていきます。
万葉時代では,「七」は「秋の七草」や仏教の経典(法華経や無量寿経)に出てくる「七宝(しっぽう)」のように,7つの名前がはっきり定義されいる。
しかし,「八」となったとたん,8種類の名前が何かはどうでもよくなって,多くという意味に近づいてきます。
八方という言葉も,北,東,南,西と北東,東南,南西,西北の八つの意味を表すより,八方美人,八方ふさがり,八宝菜のように8つの内容は気にしない使われ方が急に増えます。
万葉集で八の使われ方の例をいくつか見ます。
次は,遣新羅使が対馬に着いた時に詠んだ短歌です。
竹敷の宇敝可多山は紅の八しほの色になりにけるかも(15-3703)
<たかしきのうへかたやまは くれなゐのやしほのいろに なりにけるかも>
<<対馬の竹敷にある宇敝可多山は,黄葉が紅色を何度も染めたような鮮やかな色になっている>>
「八しほ」というのは,何とも染色液に漬けることを指します。この場合8回という意味ではないようです。
次は,天平16(744)年に難波の地の橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で開かれた宮中の人たちが集まる宴である肆宴(とよのあかり)で元正(げんしやう)天皇が橘家を寿ぎ詠んだ短歌です。
橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を(18-4075)
<たちばなのとをのたちばな やつよにもあれはわすれじ このたちばなを>
<<めでたい橘の中でも,たくさん実ったこの橘。いつの代までも私は忘れないだろう,この橘を>>
この短歌の「八つ代にも」は「何代にも」という意味で使われていると私は思います。
最後は,11年後の天平勝宝7(755)年に丹比国人(たぢひのくにひと)宅で催された宴席で橘諸兄が国人の健勝を願って詠んだ短歌です。
あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ(20-4448)
<あぢさゐのやへさくごとく やつよにをいませわがせこ みつつしのはむ>
<<紫陽花が八重に咲くように何代も健勝でいらしてください。紫陽花を眺めては貴方を思い出しましょう>>
この八重も八つに重なっているわけではなく,花びらが多く重なっているという意味に近いと感じます。
そのほか,「八」を多くの意味とする言葉としては万葉集には次のものが出てきます。
八尺(やさか)‥長いさま
八島(やしま)‥多くの島の意。日本の国
八十(やそ)‥もっと多い,多くの
八度(やたび)‥何度も
八千(やち)‥非常に多くの
八衢(やちまた)‥多くの分かれ道(市街地)
八百(やほ)‥相当多くの
これで,当ブログ開設8年目スペシャルを終わります。
次回からは,しばらくの間万葉集で使われる枕詞を順次紹介し,その役割と時代背景について考えていきたいと思います。
改めて枕詞シリーズ…いさなとり(1)に続く。
2016年3月5日土曜日
2015年6月29日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(1) 万葉時代の船旅は今の豪華なクルージングとはいかず?
2011年11月にこのブログの『対語シリーズ「浮と沈」‥心の浮き沈みが起きたとき,あなたならどうする?』で取り上げた中で,「浮く」を改めて万葉集を詳しく見ていくことにします。
「浮く」の対象が何かや何の上に浮いているのかによって,イメージする情景は結構変わります。
今回は,池,海などに浮く鳥のイメージについて,万葉集に詠まれている和歌を見ていきましょう。
最初は,丹波大女娘子(たにはのおほめのをとめ)という女性が恋人と逢えないツライ気持ちを詠んだされる短歌です。
鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに(4-711)
<かもどりのあそぶこのいけに このはおちてうきたるこころ わがおもはなくに>
<<鴨が遊ぶこの池に木の葉は落ちて浮かんでふらふらしているような浮ついた心で恋しいと思ってはいないのに>>
池で鴨が水面を移動したり,羽ばたいたり,飛び立ったり,着水したりすることで,木から落ちて浮いている木の葉はその影響を受け,浮いたり,沈んだり,集まったり,離れたりするのでしょう。
万葉集で,彼女の詠んだ続く2首を見ると,そんな浮き沈みのあるような弱い気持ちで恋しているのではないのに,いろいろ邪魔が入り,相手は遭ってくれないと嘆いています。
さて,次も鴨を題材に詠んだ遣新羅使作の短歌ですが,場所は池ではなく海上です。
鴨じもの浮寝をすれば蜷の腸か黒き髪に露ぞ置きにける(15-3649)
<かもじものうきねをすれば みなのわたかぐろきかみに つゆぞおきにける>
<<鴨のように波の上に浮寝をしていると,黒い私の髪に露が付いてしまった>>
停泊して,宿に泊まるのではなく,船中で波に揺られながら一夜を明かすと,海の湿気や波しぶきで,黒い髪に(多分塩分を含んだ)水滴が付いて濡れてしまうという情景を詠っていますが,この表現で作者の航海における不安な気持ちが何故か良く伝わってくるように私は感じます。
次は,鴨ではなく,一般の海鳥を題材にした,詠み人知らずの羈旅の短歌です。
鳥じもの海に浮き居て沖つ波騒くを聞けばあまた悲しも(7-1184)
<とりじものうみにうきゐて おきつなみさわくをきけば あまたかなしも>
<<鳥のように海に浮かんでいて,沖の波が騒がしい(荒れている)ということを聞くと大変悲しい>>
荒れた海を避けて,入江に退避している船で何日も過ごさなければならない状況となり,非常に悲しい気持ちを作者は読んでいるのでしょうか。
次も類似の気持ちを詠んだ詠み人知らずの羈旅の短歌(万葉集では古歌としている)です。
波高しいかに楫取り水鳥の浮寝やすべきなほや漕ぐべき(7-1235)
<なみたかしいかにかぢとり みづとりのうきねやすべき なほやこぐべき>
<<波が高いな。どうだろう船頭さん,水鳥のように浮寝をしたほうがよいかい,それともやはり漕ぎ続けるかい>>
海が荒れてきたので心配になり,「入江に避難して一晩やり過ごす」か「このまま漕ぎ続けて進む」か,船頭に聞きたいという心の動きを詠んでいると私は思います。
当然,作者である旅人は航海について詳しくはなく,海がどの程度の荒れであるかに詳しいわけでもありません。
でも,船旅に慣れていない旅人は船の揺れを思いの外大きく感じたのかもしれず,プロである船頭に聞いてしまったという情景も想像できそうです。
この旅人の問いに対して,船頭はどう答えたかは残っていません。「この位の波や揺れは大したことはないし,進んで危険はないよ」「プロに任せろ」くらいは言ったかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(2)に続く
「浮く」の対象が何かや何の上に浮いているのかによって,イメージする情景は結構変わります。
今回は,池,海などに浮く鳥のイメージについて,万葉集に詠まれている和歌を見ていきましょう。
最初は,丹波大女娘子(たにはのおほめのをとめ)という女性が恋人と逢えないツライ気持ちを詠んだされる短歌です。
鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに(4-711)
<かもどりのあそぶこのいけに このはおちてうきたるこころ わがおもはなくに>
<<鴨が遊ぶこの池に木の葉は落ちて浮かんでふらふらしているような浮ついた心で恋しいと思ってはいないのに>>
池で鴨が水面を移動したり,羽ばたいたり,飛び立ったり,着水したりすることで,木から落ちて浮いている木の葉はその影響を受け,浮いたり,沈んだり,集まったり,離れたりするのでしょう。
万葉集で,彼女の詠んだ続く2首を見ると,そんな浮き沈みのあるような弱い気持ちで恋しているのではないのに,いろいろ邪魔が入り,相手は遭ってくれないと嘆いています。
さて,次も鴨を題材に詠んだ遣新羅使作の短歌ですが,場所は池ではなく海上です。
鴨じもの浮寝をすれば蜷の腸か黒き髪に露ぞ置きにける(15-3649)
<かもじものうきねをすれば みなのわたかぐろきかみに つゆぞおきにける>
<<鴨のように波の上に浮寝をしていると,黒い私の髪に露が付いてしまった>>
停泊して,宿に泊まるのではなく,船中で波に揺られながら一夜を明かすと,海の湿気や波しぶきで,黒い髪に(多分塩分を含んだ)水滴が付いて濡れてしまうという情景を詠っていますが,この表現で作者の航海における不安な気持ちが何故か良く伝わってくるように私は感じます。
次は,鴨ではなく,一般の海鳥を題材にした,詠み人知らずの羈旅の短歌です。
鳥じもの海に浮き居て沖つ波騒くを聞けばあまた悲しも(7-1184)
<とりじものうみにうきゐて おきつなみさわくをきけば あまたかなしも>
<<鳥のように海に浮かんでいて,沖の波が騒がしい(荒れている)ということを聞くと大変悲しい>>
荒れた海を避けて,入江に退避している船で何日も過ごさなければならない状況となり,非常に悲しい気持ちを作者は読んでいるのでしょうか。
次も類似の気持ちを詠んだ詠み人知らずの羈旅の短歌(万葉集では古歌としている)です。
波高しいかに楫取り水鳥の浮寝やすべきなほや漕ぐべき(7-1235)
<なみたかしいかにかぢとり みづとりのうきねやすべき なほやこぐべき>
<<波が高いな。どうだろう船頭さん,水鳥のように浮寝をしたほうがよいかい,それともやはり漕ぎ続けるかい>>
海が荒れてきたので心配になり,「入江に避難して一晩やり過ごす」か「このまま漕ぎ続けて進む」か,船頭に聞きたいという心の動きを詠んでいると私は思います。
当然,作者である旅人は航海について詳しくはなく,海がどの程度の荒れであるかに詳しいわけでもありません。
でも,船旅に慣れていない旅人は船の揺れを思いの外大きく感じたのかもしれず,プロである船頭に聞いてしまったという情景も想像できそうです。
この旅人の問いに対して,船頭はどう答えたかは残っていません。「この位の波や揺れは大したことはないし,進んで危険はないよ」「プロに任せろ」くらいは言ったかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(2)に続く
2014年8月4日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(3) 岩の神よ,踏んでも怒らないでね
前回は石を踏むでしたが,今回は万葉集で岩を踏むを取り上げます。
現在,岩は大きな石というような意味とされていますが,当時,石と岩とでは意味に大きな違いがあったのではないかと私は考えます。
岩は岩倉(磐座,磐倉)というように,神が宿る場所や岩そのものが神であるという古代信仰があったらしいとの説を受け入れると,岩は単なる石とは大きく異なり,神聖なものとしての認識があったと私は想像します。その岩を「踏む」ことに対しても,通常の石を踏むのとは違う感覚があるのかもしれません。
では,万葉集の訓読で「岩を踏む」が出てくる和歌を見ていきましょう。なお,訓読で「岩」も「石」も万葉仮名では「石」と記されている場合があるようです。これを「いし」と読むか「いは」と読むかは,後代の万葉学者先生による訓読の判断によります。一般的な訓読に従ってみました。
妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る(15-3590)
<いもにあはずあらばすべなみ いはねふむいこまのやまを こえてぞあがくる>
<<君に逢わずにいられないから,岩根を踏んで生駒の山を越えて僕は還って来るよ>>
この短歌は,遣新羅使が詠んだとされています。岩根は根が生えたような大きくて,上がごつごつした岩を意味するようです。生駒山自体,万葉時代には,三輪山などと同様に神の山とされていたようです。その山(神体)の岩根を踏むわけですから,大変です。実際の道の険しさよりも,神の怒りに触れないようにしてまでも彼女のために帰ってくる決意をした短歌だと私は解釈します。
次は柿本人麻呂歌集にあったという彼を待っている女性の短歌です(といっても,上の遣新羅使の短歌とは無関係です)。
来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに(11-2421)
<くるみちはいはふむやまは なくもがもわがまつきみが うまつまづくに>
<<お出でになる道に岩を踏むような険しい山がなければいいのに。私が待つあなたが乗る馬が躓いてしまわないかと>>
実際に彼の家と彼女(この短歌の作者)の家の間に岩だらけの山があったかどうかわかりません。それよりは,彼が通ってくる途中に邪魔が入ったり,障害が起ったりしないことをひたすら祈りながら彼の来るのを待っている気持ちの表れかもしれませんね。
そして,この後に出てくる次の短歌(同じく柿本人麻呂歌集にある歌)は,まさに前の短歌と呼応しているように私には思えます。
岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも(11-2422)
<いはねふみへなれるやまは あらねどもあはぬひまねみ こひわたるかも>
<<岩根を踏むような険しい山は無いのに逢えないでままの日が多いから恋しくい気持ちが募るよ>>
逢えない原因が何であるかいろいろ考えられます。いずれかの親の反対,周囲の目,仕事の忙しさ,金銭的な問題(妻問もタダではできない)などでしょうか。そういった障害がある状態の方がお互いの恋慕の情が高まることが少なくないのは不思議なことです。
いっぽう,障害や反対が無いのに,ちょっとしたことですぐに別れてしまうような関係に逆になりやすいのかもしれません。親の中には,子ども恋愛関係の強さを確かめようと,わざといったん反対のポーズをとる親があります。それは,子どもに対する親の(二人の関係をより強くするための)愛情行動の一つといえるのでしょうか。
さて,最後に同じく「岩を踏む」をテーマに娘子(をとめ)と藤井大成(ふぢゐのおほなり)が別れを惜しみ掛け合う2首を紹介します。
まず,大成が京に帰任することに対して娘子からの短歌です。
明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば(9-1778)
<あすよりはあれはこひむな なほりやまいはふみならし きみがこえいなば>
<<明日からは私ともう逢えず寂しくてならないでしょうね。名欲山の岩を踏み均してあなた様が超えていかれた後は>>
それに対して大成が返します。
命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む(9-1779)
<いのちをしまさきくもがも なほりやまいはふみならし またまたもこむ>
<<どうか達者でな。名欲山の岩を踏み均して,何度もやって来るからな>>
ここに出てくる名欲山は,大分県にある山を指すようです。奈良の京より遠いですが,別府あたりの港から船を利用して,難波港と行き来すれば,以外と楽な行路かもしれません。いずれにしても内容は「またね!」という別れの決まり文句です。
我々は,地方に赴任した大成のことを「地元の娘子とうまいことやったやん」なんて羨ましがってもいけませんよ。偶然かもしれませんが,1300年後も残るお二人の相聞歌を残せたこと自体を羨ましいと思うべきですよね~。まったく。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ)に続く。
現在,岩は大きな石というような意味とされていますが,当時,石と岩とでは意味に大きな違いがあったのではないかと私は考えます。
岩は岩倉(磐座,磐倉)というように,神が宿る場所や岩そのものが神であるという古代信仰があったらしいとの説を受け入れると,岩は単なる石とは大きく異なり,神聖なものとしての認識があったと私は想像します。その岩を「踏む」ことに対しても,通常の石を踏むのとは違う感覚があるのかもしれません。
では,万葉集の訓読で「岩を踏む」が出てくる和歌を見ていきましょう。なお,訓読で「岩」も「石」も万葉仮名では「石」と記されている場合があるようです。これを「いし」と読むか「いは」と読むかは,後代の万葉学者先生による訓読の判断によります。一般的な訓読に従ってみました。
妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る(15-3590)
<いもにあはずあらばすべなみ いはねふむいこまのやまを こえてぞあがくる>
<<君に逢わずにいられないから,岩根を踏んで生駒の山を越えて僕は還って来るよ>>
この短歌は,遣新羅使が詠んだとされています。岩根は根が生えたような大きくて,上がごつごつした岩を意味するようです。生駒山自体,万葉時代には,三輪山などと同様に神の山とされていたようです。その山(神体)の岩根を踏むわけですから,大変です。実際の道の険しさよりも,神の怒りに触れないようにしてまでも彼女のために帰ってくる決意をした短歌だと私は解釈します。
次は柿本人麻呂歌集にあったという彼を待っている女性の短歌です(といっても,上の遣新羅使の短歌とは無関係です)。
来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに(11-2421)
<くるみちはいはふむやまは なくもがもわがまつきみが うまつまづくに>
<<お出でになる道に岩を踏むような険しい山がなければいいのに。私が待つあなたが乗る馬が躓いてしまわないかと>>
実際に彼の家と彼女(この短歌の作者)の家の間に岩だらけの山があったかどうかわかりません。それよりは,彼が通ってくる途中に邪魔が入ったり,障害が起ったりしないことをひたすら祈りながら彼の来るのを待っている気持ちの表れかもしれませんね。
そして,この後に出てくる次の短歌(同じく柿本人麻呂歌集にある歌)は,まさに前の短歌と呼応しているように私には思えます。
岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも(11-2422)
<いはねふみへなれるやまは あらねどもあはぬひまねみ こひわたるかも>
<<岩根を踏むような険しい山は無いのに逢えないでままの日が多いから恋しくい気持ちが募るよ>>
逢えない原因が何であるかいろいろ考えられます。いずれかの親の反対,周囲の目,仕事の忙しさ,金銭的な問題(妻問もタダではできない)などでしょうか。そういった障害がある状態の方がお互いの恋慕の情が高まることが少なくないのは不思議なことです。
いっぽう,障害や反対が無いのに,ちょっとしたことですぐに別れてしまうような関係に逆になりやすいのかもしれません。親の中には,子ども恋愛関係の強さを確かめようと,わざといったん反対のポーズをとる親があります。それは,子どもに対する親の(二人の関係をより強くするための)愛情行動の一つといえるのでしょうか。
さて,最後に同じく「岩を踏む」をテーマに娘子(をとめ)と藤井大成(ふぢゐのおほなり)が別れを惜しみ掛け合う2首を紹介します。
まず,大成が京に帰任することに対して娘子からの短歌です。
明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば(9-1778)
<あすよりはあれはこひむな なほりやまいはふみならし きみがこえいなば>
<<明日からは私ともう逢えず寂しくてならないでしょうね。名欲山の岩を踏み均してあなた様が超えていかれた後は>>
それに対して大成が返します。
命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む(9-1779)
<いのちをしまさきくもがも なほりやまいはふみならし またまたもこむ>
<<どうか達者でな。名欲山の岩を踏み均して,何度もやって来るからな>>
ここに出てくる名欲山は,大分県にある山を指すようです。奈良の京より遠いですが,別府あたりの港から船を利用して,難波港と行き来すれば,以外と楽な行路かもしれません。いずれにしても内容は「またね!」という別れの決まり文句です。
我々は,地方に赴任した大成のことを「地元の娘子とうまいことやったやん」なんて羨ましがってもいけませんよ。偶然かもしれませんが,1300年後も残るお二人の相聞歌を残せたこと自体を羨ましいと思うべきですよね~。まったく。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ)に続く。
2014年6月14日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(3:まとめ) 胸が焼き焦げるほど一緒に暮らしたいよ~
<秋田訪問報告>
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。
秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。
また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。
新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使の六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。
わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
<わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ>
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>
旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。
武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
<むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり>
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>
この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
<よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし>
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>
家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。
秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。
また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。
新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使の六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。
わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
<わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ>
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>
旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。
武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
<むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり>
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>
この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
<よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし>
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>
家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。
2014年2月8日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1) 密告という報告
<あわや孤独死>
昨日,自宅から少し離れた場所にあるアパートで身寄りの少ないひとり暮らしをしている同年輩の友人が,持病の重い肝硬変が急変し,亡くなり,今朝何人かの友人とともに火葬場で懇ろに冥福を祈り送りました。関東地方は朝から雪で,故人も白無垢の関東平野を見下ろしつつ旅立っていったことでしょう。
ひとり暮らしなので,たまたま別の友人が訪問をしなかったら,アパートで孤独死をしていたところだったかもしれません。先月下旬に体調の急変にその友人が気づき,病院へ救急車で搬送し,終末ケアや友人が親戚縁者にも連絡をして,最期は病院で亡くなることができたのです。
ひとり暮らしの人が増えている中,孤独死を防ぐため,訪問を主体とした組織的できめ細かいボランティア支援制度が必要ではないかと私は考えています。ただ,詐欺のような悪質訪問販売と混同されないようにする手立て(公式なICカードによる認定証の提示,認定証訪問記録のシステム保存,状況報告の分析と必要な対処のオーソライズ,個人情報の確実な保護など)が必要だろうと私は考えます。
<本題>
さて,今回から3回ほどに渡り「告(つ)ぐ」を取りあげます。口語では「告げる」となります。
万葉集で「告ぐ」を入れた和歌は70首ほどあります。なお,これは「告(の)る」は除いた数字です。
この中でまず紹介したいのは,長屋王(ながやわう)の子といわれる山背王(やましろわう)が出雲の国にいた天平勝宝8(756)年11月8日,出雲掾(いづものじょう)安宿奈杼麻呂(あすかべのなどまろ)の家で奈杼麻呂が京に上る旅の前に行われた送別の宴で詠んだ短歌です。
うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ(20-4473)
<うちひさすみやこのひとに つげまくはみしひのごとく ありとつげこそ>
<<京にいる人々に告げたいことがあります。「以前京でお会いしたときと同じように元気でいます」と告げてください>>
神亀6(729)年長屋王の変で長屋王とともに長屋王の子の多くが死ぬことになりましたが,山背王は幸運にも生き延びた王子の一人です。この短歌で,送る側の山背王が自分が元気で出雲の国でやっていることを京の人に伝えたかったのでしょう。山背王は翌年に起こる橘奈良麻呂の変で橘奈良麻呂が謀反を起こす計画をしているという密告をした人物と続日本記には書かれているそうです。
そして,その功績で3階級も官位が上がったとのことです。天皇家の血を引く子孫が粛清されていく中で,したたかに奈良時代を生き抜いた人物かもしれません。本人は「密告なんてとんでもない。知っていることを報告しただけ」というだけでしょうか。
万葉集の編者である大伴家持は,後年万葉集を編纂するときには山背王が橘奈良麻呂(橘諸兄の子)の企てを密告したことは知っていただろうと私は思います。家持が4473の短歌を載せたのは,山背王の「このまま出雲に引き籠っているわけには行かない」という野心みたいなものをこの時点で感じたからかもしれませんね。
さて,次は遣新羅使が船旅の途中で,家族や妻に告げたい思いを詠んだ2首を紹介します。
都辺に行かむ船もが刈り薦の乱れて思ふ言告げやらむ(15-3640)
<みやこへにゆかむふねもが かりこものみだれておもふ ことつげやらむ>
<<都の方に行く船が欲しい。刈り薦のように乱れているこの思いを妻に言告げしたいのだよ>>
沖辺より船人上る呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを(15-3643)
<おきへよりふなびとのぼる よびよせていざつげやらむ たびのやどりを>
<<沖の船の旅人が都へ上る。呼び寄せて,さあ都の妻へ告げに行ってもらおう。今までの旅で泊まった場所を>>
遠くに旅をしていると家族との間で消息を知りたい気持ちになります。そのとき「無事でいるのか」「旅は順調か」「家族は元気か」などの情報が知りたくなるのはいつの時代でも変わりません。
今のように,スマホ,携帯電話,パソコンで遠くにいても消息がすぐ分かる時代です。そのため,今では国内,国外の旅に出る場合にそれほどお互い心配しないようなっているのかもしれません。
万葉時代はそういった通信手段がないため,何かに託して状況を告げたい(伝えたい)気持ちが,この短歌のように今よりずっと強かったと私は想像します。
災害などで通信手段が途絶えた時,その重要性が改めて分かるのですが,万葉集を見ていくことで,そういったときの気持ちを想像することが少しはできるのでは私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(2)に続く
昨日,自宅から少し離れた場所にあるアパートで身寄りの少ないひとり暮らしをしている同年輩の友人が,持病の重い肝硬変が急変し,亡くなり,今朝何人かの友人とともに火葬場で懇ろに冥福を祈り送りました。関東地方は朝から雪で,故人も白無垢の関東平野を見下ろしつつ旅立っていったことでしょう。
ひとり暮らしなので,たまたま別の友人が訪問をしなかったら,アパートで孤独死をしていたところだったかもしれません。先月下旬に体調の急変にその友人が気づき,病院へ救急車で搬送し,終末ケアや友人が親戚縁者にも連絡をして,最期は病院で亡くなることができたのです。
ひとり暮らしの人が増えている中,孤独死を防ぐため,訪問を主体とした組織的できめ細かいボランティア支援制度が必要ではないかと私は考えています。ただ,詐欺のような悪質訪問販売と混同されないようにする手立て(公式なICカードによる認定証の提示,認定証訪問記録のシステム保存,状況報告の分析と必要な対処のオーソライズ,個人情報の確実な保護など)が必要だろうと私は考えます。
<本題>
さて,今回から3回ほどに渡り「告(つ)ぐ」を取りあげます。口語では「告げる」となります。
万葉集で「告ぐ」を入れた和歌は70首ほどあります。なお,これは「告(の)る」は除いた数字です。
この中でまず紹介したいのは,長屋王(ながやわう)の子といわれる山背王(やましろわう)が出雲の国にいた天平勝宝8(756)年11月8日,出雲掾(いづものじょう)安宿奈杼麻呂(あすかべのなどまろ)の家で奈杼麻呂が京に上る旅の前に行われた送別の宴で詠んだ短歌です。
うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ(20-4473)
<うちひさすみやこのひとに つげまくはみしひのごとく ありとつげこそ>
<<京にいる人々に告げたいことがあります。「以前京でお会いしたときと同じように元気でいます」と告げてください>>
神亀6(729)年長屋王の変で長屋王とともに長屋王の子の多くが死ぬことになりましたが,山背王は幸運にも生き延びた王子の一人です。この短歌で,送る側の山背王が自分が元気で出雲の国でやっていることを京の人に伝えたかったのでしょう。山背王は翌年に起こる橘奈良麻呂の変で橘奈良麻呂が謀反を起こす計画をしているという密告をした人物と続日本記には書かれているそうです。
そして,その功績で3階級も官位が上がったとのことです。天皇家の血を引く子孫が粛清されていく中で,したたかに奈良時代を生き抜いた人物かもしれません。本人は「密告なんてとんでもない。知っていることを報告しただけ」というだけでしょうか。
万葉集の編者である大伴家持は,後年万葉集を編纂するときには山背王が橘奈良麻呂(橘諸兄の子)の企てを密告したことは知っていただろうと私は思います。家持が4473の短歌を載せたのは,山背王の「このまま出雲に引き籠っているわけには行かない」という野心みたいなものをこの時点で感じたからかもしれませんね。
さて,次は遣新羅使が船旅の途中で,家族や妻に告げたい思いを詠んだ2首を紹介します。
都辺に行かむ船もが刈り薦の乱れて思ふ言告げやらむ(15-3640)
<みやこへにゆかむふねもが かりこものみだれておもふ ことつげやらむ>
<<都の方に行く船が欲しい。刈り薦のように乱れているこの思いを妻に言告げしたいのだよ>>
沖辺より船人上る呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを(15-3643)
<おきへよりふなびとのぼる よびよせていざつげやらむ たびのやどりを>
<<沖の船の旅人が都へ上る。呼び寄せて,さあ都の妻へ告げに行ってもらおう。今までの旅で泊まった場所を>>
遠くに旅をしていると家族との間で消息を知りたい気持ちになります。そのとき「無事でいるのか」「旅は順調か」「家族は元気か」などの情報が知りたくなるのはいつの時代でも変わりません。
今のように,スマホ,携帯電話,パソコンで遠くにいても消息がすぐ分かる時代です。そのため,今では国内,国外の旅に出る場合にそれほどお互い心配しないようなっているのかもしれません。
万葉時代はそういった通信手段がないため,何かに託して状況を告げたい(伝えたい)気持ちが,この短歌のように今よりずっと強かったと私は想像します。
災害などで通信手段が途絶えた時,その重要性が改めて分かるのですが,万葉集を見ていくことで,そういったときの気持ちを想像することが少しはできるのでは私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(2)に続く
2013年7月6日土曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ともし」
気象庁によりますと関東甲信越地方がいつもより早めに梅雨明けをしたとみられるそうです。明日は七夕です。短冊に願いを書いて笹に結び付けた幼いころを思い出します。
このブログも七夕を扱った投稿がいくつかあり,それらの閲覧数はおかげさまで例年以上にうなぎのぼりです。
さて,今回は「ともし」について万葉集を見ていきたいと思います。「ともし」は漢字で「乏し」または「羨し」と書きます。一見,「物足らない」とか「劣っている」という印象を持つ漢字ですが,万葉集に出てくる意味は少し違います。何回か前に経済学の話を書きましたが,まさに稀少性を絵にかいたような言葉で,「珍しくて心が引かれる」という意味です。
実際に万葉集で詠まれているものをみていきましょう。
夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ舟人を見るが羨しさ(15-3658)
<ゆふづくよかげたちよりあひ あまのがはこぐふなびとを みるがともしさ>
<<夕月が出ている夜に身を寄せ合って天の川を漕いで渡る舟人を見るのが珍しく羨ましい>>
夕日も見える美しい天の川をふたりだけで舟に乗って,肩を寄せ合って舟を漕ぐのは,本当にロマンチックなんだろうなと作者は感じて詠ったのかもしれませんね。この短歌は天平8(736)年の七夕に,遣新羅使のひとりが詠んだものとされています。
次も七夕詠んだ,柿本人麻呂歌集に出ていたという詠み人知らずの短歌です。
恋ひしくは日長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜だに(10-2017)
<こひしくはけながきものを いまだにもともしむべしや あふべきよだに>
<<恋い慕いながら長い日々を過ごしてきたのです。今だけでも貴重な時間を過ごさせてほしいのです。逢うはずのこの夜だけでも>>
「ともし」を貴重な時間の修飾語と訳してみました。
妻問婚はなかなか大変です。気軽に「今晩は」といって妻宅に入れてもらえるものではありません。何度も手紙や使いの者を出してもなかなか許されないことも多かったようです。その間,夫は妻問いが許される日を待ち続けます。それが,年に1回しか逢えない牽牛と織姫の物語とオーバラップしてしまうのは容易に想像できます。そして,ようやく妻問いが許されたら,労いの言葉や癒しの言葉をかけてほしいと願う気持ちはわかる気が私にはします。
次は,妻問を待つ女性側の立場て詠んだ短歌です。
己夫にともしき子らは泊てむ津の荒礒巻きて寝む君待ちかてに(10-2004)
<おのづまにともしきこらは はてむつのありそまきてねむ きみまちかてに>
<<自分夫となかなか逢えない私は舟泊りして港の荒磯をめぐりながら寝ます。あなたを待ちきれずに>>
「ともし」をなかなか逢えない形容として訳しました。
夫は牽牛,自分は織姫になぞらえています。夫がなかなか逢いに来ないので,私は天の川の港にある舟に乗って,舟を港の周りをくるくるさせながら待ちきれず寝てしまいますよという意味と私は解釈しました。
明日の七夕なのでデートをするカップルが待ち合わせるのは,東京スカイツリーでしょうか? 東京ディズニーリゾートでしょうか? ホークスタウン(福岡)でしょうか? ユニバーサルスタジオジャパン(大阪)でしょうか? 東京ドームシティーアトラクションズでしょうか? 八景島シーパラダイス(横浜)でしょうか?
みなさま,Goodな七夕をお過ごしください。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ゆゆし」に続く。
このブログも七夕を扱った投稿がいくつかあり,それらの閲覧数はおかげさまで例年以上にうなぎのぼりです。
さて,今回は「ともし」について万葉集を見ていきたいと思います。「ともし」は漢字で「乏し」または「羨し」と書きます。一見,「物足らない」とか「劣っている」という印象を持つ漢字ですが,万葉集に出てくる意味は少し違います。何回か前に経済学の話を書きましたが,まさに稀少性を絵にかいたような言葉で,「珍しくて心が引かれる」という意味です。
実際に万葉集で詠まれているものをみていきましょう。
夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ舟人を見るが羨しさ(15-3658)
<ゆふづくよかげたちよりあひ あまのがはこぐふなびとを みるがともしさ>
<<夕月が出ている夜に身を寄せ合って天の川を漕いで渡る舟人を見るのが珍しく羨ましい>>
夕日も見える美しい天の川をふたりだけで舟に乗って,肩を寄せ合って舟を漕ぐのは,本当にロマンチックなんだろうなと作者は感じて詠ったのかもしれませんね。この短歌は天平8(736)年の七夕に,遣新羅使のひとりが詠んだものとされています。
次も七夕詠んだ,柿本人麻呂歌集に出ていたという詠み人知らずの短歌です。
恋ひしくは日長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜だに(10-2017)
<こひしくはけながきものを いまだにもともしむべしや あふべきよだに>
<<恋い慕いながら長い日々を過ごしてきたのです。今だけでも貴重な時間を過ごさせてほしいのです。逢うはずのこの夜だけでも>>
「ともし」を貴重な時間の修飾語と訳してみました。
妻問婚はなかなか大変です。気軽に「今晩は」といって妻宅に入れてもらえるものではありません。何度も手紙や使いの者を出してもなかなか許されないことも多かったようです。その間,夫は妻問いが許される日を待ち続けます。それが,年に1回しか逢えない牽牛と織姫の物語とオーバラップしてしまうのは容易に想像できます。そして,ようやく妻問いが許されたら,労いの言葉や癒しの言葉をかけてほしいと願う気持ちはわかる気が私にはします。
次は,妻問を待つ女性側の立場て詠んだ短歌です。
己夫にともしき子らは泊てむ津の荒礒巻きて寝む君待ちかてに(10-2004)
<おのづまにともしきこらは はてむつのありそまきてねむ きみまちかてに>
<<自分夫となかなか逢えない私は舟泊りして港の荒磯をめぐりながら寝ます。あなたを待ちきれずに>>
「ともし」をなかなか逢えない形容として訳しました。
夫は牽牛,自分は織姫になぞらえています。夫がなかなか逢いに来ないので,私は天の川の港にある舟に乗って,舟を港の周りをくるくるさせながら待ちきれず寝てしまいますよという意味と私は解釈しました。
明日の七夕なのでデートをするカップルが待ち合わせるのは,東京スカイツリーでしょうか? 東京ディズニーリゾートでしょうか? ホークスタウン(福岡)でしょうか? ユニバーサルスタジオジャパン(大阪)でしょうか? 東京ドームシティーアトラクションズでしょうか? 八景島シーパラダイス(横浜)でしょうか?
みなさま,Goodな七夕をお過ごしください。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ゆゆし」に続く。
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