仕事の期初の忙しさやソフトウェア保守関連の所属学会の活動が忙しく,アップがしばらく滞ってしまいました。
<世の中の変化に無頓着な人>
最近の話ですが,世の中の大きな変化に気づかず,自分の考え方が世の中の実態から大きく遊離してしまっていることにまったく無頓着な人がまだまだいることを改めて知る事態に遭遇しました。
そういう人たちは世の中に何か絶対的なモノがあることを期待し,それを信じて生きたいと思う人なのかもしれません。しかし,今の激変の世の中では,サーフィン(波乗り)のようにさまざまな世の中の変化を予測し柔軟に対応できる柔らかい頭と能力が必要なのだと私は思うのです。
頭の固く,気が付いた時には変化の影響をまともに受け,苦労している人が多いのが本当に残念です。何とか気づかせてあげたいと考えるのですが,ご本人の高いプライドがそれを許さないようでなかなかうまく行きません。
<本題>
さて,枕詞「うつせみの」の2回目です。
前回の最後の短歌は大伴家持の側室が亡くなったことを悲しむものでしたが,今回の最初は家持の正室となる坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)が家持に贈った短歌からです。
玉ならば手にも巻かむをうつせみの世の人なれば手に巻きかたし(4-729)
<たまならばてにもまかむを うつせみのよのひとなれば てにまきかたし>
<<玉だったら手に巻いてもいいけど,でもこの世の人だとね,(うるさく詮索するので)手に巻く(あなたのことを言う)わけにもいかない>>
この「うつせみの」は「世の人」に掛かると考えられます。
<万葉時代は情報戦の時代?>
「世の人」は何を見ていて,何を言うか分からない。意外と万葉時代は情報が大きな価値を持つ時代だったのかもしれません。
男女関係も含め,他人より早く,誰も知らない情報を入手し,しかるべき人に伝えて手柄を得ることができたのは,今とあまり変わらないように思います。
実は,情報というものは隠せば隠すほど,その価値は上がる。逆に,多くの人に知られれば知られるほど情報の価値は下がる。世の中が平和で無用な競争社会ではないと情報は隠されません。
江戸時代,旅の旅籠の部屋は襖(ふすま)で仕切られただけでした(鍵もありません)。
また,襖の上にある欄間(らんま)は通気性をよくするために彫で開けられ,欄間から隣の部屋の音や寝息がよく聞こえる状態でした。
こんな状態では安心して寝ることもできなかったかというとそうでもないようで,隣の部屋の人が危害を加えたり,強盗をしたりすることがないという安心感が双方にあれば何の問題もなかったのかもしれません。
山小屋のような雑魚寝よりはマシだったのでしょう。
次は家持が大嬢に返した短歌です。
うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて我がひとり寝む(4-733)
<うつせみのよやもふたゆく なにすとかいもにあはずて わがひとりねむ>
<<この世は再びということはあるのだろうか? どうしてあなたに逢わずに一人寝られましょう>>
この世に再び生まれてくることはできない。だから,すぐにでも逢いたいという気持ち表れでしょうね。大嬢はこの短歌を受取って,どう思ったのでしょうか。結果は,二人はめでたく結ばれるのです。
次は詠み人知らずの女性が蝦夷征伐に出陣する夫との別れを詠んだ短歌です。
うつせみの命を長くありこそと留まれる我れは斎ひて待たむ(13-3292)
<うつせみのいのちをながく ありこそととまれるわれは いはひてまたむ>
<<あなたの命が長くあってほしいと京に留まる私は神に祈ってあなたの無事な帰りを待っております>>
京から辺鄙な蝦夷に出兵して帰ってこなかった人の噂もたくさんあったのでしょう。何もできない妻としては,ただただ祈るしかないのです。
<今も変わらない派遣自衛隊員の家族の祈り>
さて,日本の今の自衛隊も国際貢献という名のもとに海外派遣がこれから多くなるとともに,その任務もますます危険と隣り合わせなものになる可能性があります。
それが日本の国を間接的に守ることになることは分かっていても,派遣される隊員の奥さんの気持ちにはこの短歌と似たものがあるのかもしれません。
どんなに危険レベルの情報とそれを防ぐ情報(手立て)が整備されても,どのようにも対応のしようがない人(家族など)がいます。
ひたすら無事を祈り続ける行為は,たとえ世の中が「うつせみ」(無常)ではなくなり,非常に確定した状態となったとしても,不要とはならないのだろうと私は思います。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(3:まとめ)に続く。
2016年4月26日火曜日
2015年5月9日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ) 植物は無闇に折らず,あるがままがいいですね
我が家の庭(マンションの専用庭)に20年以上前から植えていたサクランボは,例年全く実をつけないか,つけても数粒だったのですが,今年は比較的たくさん実をつけてくれました。
手で折ってしまうのは惜しい気がして,そのままにして,毎日色づきの変化を楽しんでいます。そのうち,鳥が食べてしまうかもしれませんが。
さて,「折る」の最後は初回に紹介した「梅の花を折る」以外の植物を「折る」について,万葉集を見ていきます。
まず,大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悲しむ挽歌に出てくる「馬酔木」からです。
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)
<いそのうへにおふるあしびを たをらめどみすべききみが ありといはなくに>
<<岩の上に咲く馬酔木を手折りました。ただ,お見せしたいあなたがまだ生きているとは誰も言う人はいない>>
馬酔木(アセビ)は,毒があるけれど,そのため虫にも食われず,清涼な白い小さな花を咲かせます。清潔感のイメージが強かった大津皇子にお似合いの花だったのかもしれませんね。
次は,大伴家持が(まだ若いころ?)詠んだ「なでしこ」です。
我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも(8-1496)
<わがやどのなでしこのはな さかりなりたをりてひとめ みせむこもがも>
<<私の庭の撫子の花が今を盛りと咲いています。手折って一目見せてあげられる娘がいたらなあ>>
恐らく,家持は撫子の可憐で美しい色に魅了されたのでしょう。
次は,高橋虫麻呂歌集から転載されたという短歌で「桜」です。
暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを(9-1750)
<いとまあらばなづさひわたり むかつをのさくらのはなも をらましものを>
<<時間があれば川を渡って向こうの峰まで行き,峰の桜の花を手にとってみたいほどだ>>
きっと,そばまで行ってみたくなほど見事な山桜が遠くに見えたのでしょう。
最後は,家持が越中で平城京いる妹の留女女郎(とどめのいらつめ)に贈った短歌に出てくる「山吹」です。
妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし(19-4197)
<いもににるくさとみしより わがしめしのへのやまぶき たれかたをりし>
<<あなたに似た可愛い草だと見たので、私がしるしをつけた野辺の山吹なのに、誰が手折ってしまったのだろう>>
この短歌は,女郎が家持に贈った短歌(山吹を採って,寂しく平城京の自宅に残った家持の妻坂上大嬢(さかのうへのおほをとめ)に渡したよ)への返歌です。渡した山吹できっと大嬢への私の恋しい思いは伝わったという意味かと私は解釈します。大嬢はその後越中の家持のもとへ行ったと想像しますが,この短歌のやり取りが,越中へ行くきっかけになったのなら,面白いですね。
では,これで「折る」はお終いにして,次回からは「栄ゆ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1)に続く。
手で折ってしまうのは惜しい気がして,そのままにして,毎日色づきの変化を楽しんでいます。そのうち,鳥が食べてしまうかもしれませんが。
さて,「折る」の最後は初回に紹介した「梅の花を折る」以外の植物を「折る」について,万葉集を見ていきます。
まず,大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悲しむ挽歌に出てくる「馬酔木」からです。
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)
<いそのうへにおふるあしびを たをらめどみすべききみが ありといはなくに>
<<岩の上に咲く馬酔木を手折りました。ただ,お見せしたいあなたがまだ生きているとは誰も言う人はいない>>
馬酔木(アセビ)は,毒があるけれど,そのため虫にも食われず,清涼な白い小さな花を咲かせます。清潔感のイメージが強かった大津皇子にお似合いの花だったのかもしれませんね。
次は,大伴家持が(まだ若いころ?)詠んだ「なでしこ」です。
我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも(8-1496)
<わがやどのなでしこのはな さかりなりたをりてひとめ みせむこもがも>
<<私の庭の撫子の花が今を盛りと咲いています。手折って一目見せてあげられる娘がいたらなあ>>
恐らく,家持は撫子の可憐で美しい色に魅了されたのでしょう。
次は,高橋虫麻呂歌集から転載されたという短歌で「桜」です。
暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを(9-1750)
<いとまあらばなづさひわたり むかつをのさくらのはなも をらましものを>
<<時間があれば川を渡って向こうの峰まで行き,峰の桜の花を手にとってみたいほどだ>>
きっと,そばまで行ってみたくなほど見事な山桜が遠くに見えたのでしょう。
最後は,家持が越中で平城京いる妹の留女女郎(とどめのいらつめ)に贈った短歌に出てくる「山吹」です。
妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし(19-4197)
<いもににるくさとみしより わがしめしのへのやまぶき たれかたをりし>
<<あなたに似た可愛い草だと見たので、私がしるしをつけた野辺の山吹なのに、誰が手折ってしまったのだろう>>
この短歌は,女郎が家持に贈った短歌(山吹を採って,寂しく平城京の自宅に残った家持の妻坂上大嬢(さかのうへのおほをとめ)に渡したよ)への返歌です。渡した山吹できっと大嬢への私の恋しい思いは伝わったという意味かと私は解釈します。大嬢はその後越中の家持のもとへ行ったと想像しますが,この短歌のやり取りが,越中へ行くきっかけになったのなら,面白いですね。
では,これで「折る」はお終いにして,次回からは「栄ゆ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1)に続く。
2014年7月14日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(4:まとめ) そんな重いモノまで引くの?
今回で「引く」の最終回となります。「引く」対象として,今まで取り上げてこなかった万葉集の和歌を紹介します。
まず,大伴家持が坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)に贈った重い岩を引くことを例とした相聞歌です。
我が恋は千引の岩を七ばかり首に懸けむも神のまにまに(4-743)
<あがこひはちびきのいはを ななばかりくびにかけむも かみのまにまに>
<<私の恋は千人で引くくらい重い岩を七つも首に下げたほど苦しいものだけど,このような試練も神の意志でしょうか>>
この短歌は家持が大嬢を正妻とする相手と認識して贈った多くの相聞歌の1首と私は考えます。
ただ,なかなか靡いてくれない大嬢に対して,苦しい胸を内を大袈裟な譬えを使って表現しています。靡かないのは大嬢がマリッジブルーになっていたのか,当時の風習として正妻にする前には男性側が「好きです」「愛してます」「お願い妻になってください」という和歌をたくさん贈らないといけないという男性側にとって重い風習があったためでしょうか。
さて,次は「引板」を譬えに詠んだ短歌です。
衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板我が延へまもれる苦し(8-1634)
<ころもでにみしぶつくまで うゑしたをひきたわがはへ まもれるくるし>
<<衣の袖に泥で色が変わるまで丹精込めて植えた田を,引板(鳴子)を私に張り巡らせて守もろうとするのはつらいですね>>
この短歌,ある人が尼に贈ったと題詞にあります。いろいろ解釈ができるのでしょうが,ここに出てくる「田」というのは尼の娘さんだという説が一般的なようです。
一生懸命育てた娘に私(作者の男性)が近づかないように守っておられるのは気になりすという歌を,母親の尼に贈ったのでしょう。結局「娘さんを僕にくれませんか?」という意味に解釈することもできるかもしれません。
さて,引板は鳴子の意味だとすると,男が近づくと警報が鳴るような仕組みとは,いったいどんなものだったのか。私がすぐ思いつくのは,母(尼)が娘に対する手紙を全部先に見てチェックし,娘には見せず代って「お断りの手紙」を書くことかもしれませんね。美貌の噂が高い娘であれば,男から手紙も多くくるでしょうし,音が出る板をたくさんつけた重い鳴子を引っ張って張り巡らせるのと同じように,それは母にとって大変だったのでしょう。
最後は「都引く」を見ます。「引く」対象は「都」ですから,これ以上重いものは考えにくいですね。難波宮を造営した藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が自慢げに詠んだ短歌です。
昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり(3-312)
<むかしこそなにはゐなかといはれけめ いまはみやこひきみやこびにけり>
<<昔は「難波田舎」と言われたようだが,今は都を引いてきた(遷してきた)ように都らしくなったものだ>>
神亀三年(726)十月に聖武(しやうむ)天皇の命(知造難波宮事)により宇合は難波宮を造営を開始し,その完成を見て聖武天皇は天平15(744)年に平城京から遷都したのです。しかし,18年もかけて造営した難波宮も翌年の1月には都ではなくなってしまったようです。
聖武天皇はこのような遷都先の造営といった大規模な公共投資(その他に奈良の大仏建立や全国各地に国分寺・国分尼寺の建立もその一つ)を強力に引っ張る(推進する)ことによって,当時財政は膨大な赤字になったけれど,後に仏教芸術や建物を中心とする「天平文化」と呼ばれるものを残すことができたのだろうと私は思います。
今の奈良市は,そのおかげもあってか,世界文化遺産にも登録され,多くの観光収入を得ることができているわけです。
私も何度か奈良公園に行って,聖武天皇がした支出額に対する(1300年近く経っていますので)利息の何兆分の一かもしれませんが「鹿せんべい」を公園の売店で買って,シカに食べさせてあげたことがあります。
天の川 「たびとはんな。奈良に行ったら聖武さんみたいに,もっと豪勢に,パァッとお金を使わんとアカンがな。」
例が悪かったせいか,天の川君に突っ込まれてしまいました。
さて,奈良に行って感じることは,中途半端な公共投資は無駄の温床になりやすいのですが,同じやるなら歴史に長く残るようなチャレンジゃブルな公共投資はありだと思いますね。
<国家的大規模プロジェクト推進の原動力>
現代における公共投資は,土木工事や建築物だけではありません。素晴らしいディジタルコンテンツ(コンピュータ上のアートや有益な情報)やシステムを残すことも候補としてあるのだろうと私は思います。
ところで,大きな仕事をこなすチーム(プロジェクト)を引っ張るリーダは大変だというのが私の仕事上の経験(小規模プロジェクトばかりの経験ですが)からの感想です。一生懸命目標に向かって工程ごとの成果を出すようチームのメンバーに指示を出すのだけれども,思うようにチーム内のメンバーが動いてくれないことも少なくないのです。
奈良時代に(完了しなかったものも多かったと思いますが)国家的な難しい大プロジェクトをいくつも実施できた力は何処から出てきたのでしょうか?
万葉集には,前代未聞の大プロジェクトによって影響を間接的にせよ受けた側(プロジェクト実行側ではなく)の和歌のほうが多く含まれているのかもしれません。また,そのような影響を受けて嘆き悲しんだり,自分を慰めたりしている和歌のほうが現代でも多くの人たちにとって,文学的共感をえられる可能性が高いようにも感じます。
しかし,当時大きな変化を伴う国家的プロジェクトを実施した(引き起こした)ポテンシャル(潜在的な力)は,やはり東の果ての小さな島国をさまざまな面で大陸に負けない強い国家にしたいという強い意思が当時の為政者やそのブレーンにあったのだろうと思います。
その強い国家のイメージが軍事的なものではなく,産業,技術,芸術などの非軍事分野の高度化に向けられたのは,当時の仏教思想による影響が非常に大きかったのではないでしょうか。
これで4回に渡った「引く」はこれで終わりとし,次からは「踏む」について万葉集を見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(1)に続く。
まず,大伴家持が坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)に贈った重い岩を引くことを例とした相聞歌です。
我が恋は千引の岩を七ばかり首に懸けむも神のまにまに(4-743)
<あがこひはちびきのいはを ななばかりくびにかけむも かみのまにまに>
<<私の恋は千人で引くくらい重い岩を七つも首に下げたほど苦しいものだけど,このような試練も神の意志でしょうか>>
この短歌は家持が大嬢を正妻とする相手と認識して贈った多くの相聞歌の1首と私は考えます。
ただ,なかなか靡いてくれない大嬢に対して,苦しい胸を内を大袈裟な譬えを使って表現しています。靡かないのは大嬢がマリッジブルーになっていたのか,当時の風習として正妻にする前には男性側が「好きです」「愛してます」「お願い妻になってください」という和歌をたくさん贈らないといけないという男性側にとって重い風習があったためでしょうか。
さて,次は「引板」を譬えに詠んだ短歌です。
衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板我が延へまもれる苦し(8-1634)
<ころもでにみしぶつくまで うゑしたをひきたわがはへ まもれるくるし>
<<衣の袖に泥で色が変わるまで丹精込めて植えた田を,引板(鳴子)を私に張り巡らせて守もろうとするのはつらいですね>>
この短歌,ある人が尼に贈ったと題詞にあります。いろいろ解釈ができるのでしょうが,ここに出てくる「田」というのは尼の娘さんだという説が一般的なようです。
一生懸命育てた娘に私(作者の男性)が近づかないように守っておられるのは気になりすという歌を,母親の尼に贈ったのでしょう。結局「娘さんを僕にくれませんか?」という意味に解釈することもできるかもしれません。
さて,引板は鳴子の意味だとすると,男が近づくと警報が鳴るような仕組みとは,いったいどんなものだったのか。私がすぐ思いつくのは,母(尼)が娘に対する手紙を全部先に見てチェックし,娘には見せず代って「お断りの手紙」を書くことかもしれませんね。美貌の噂が高い娘であれば,男から手紙も多くくるでしょうし,音が出る板をたくさんつけた重い鳴子を引っ張って張り巡らせるのと同じように,それは母にとって大変だったのでしょう。
最後は「都引く」を見ます。「引く」対象は「都」ですから,これ以上重いものは考えにくいですね。難波宮を造営した藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が自慢げに詠んだ短歌です。
昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり(3-312)
<むかしこそなにはゐなかといはれけめ いまはみやこひきみやこびにけり>
<<昔は「難波田舎」と言われたようだが,今は都を引いてきた(遷してきた)ように都らしくなったものだ>>
神亀三年(726)十月に聖武(しやうむ)天皇の命(知造難波宮事)により宇合は難波宮を造営を開始し,その完成を見て聖武天皇は天平15(744)年に平城京から遷都したのです。しかし,18年もかけて造営した難波宮も翌年の1月には都ではなくなってしまったようです。
聖武天皇はこのような遷都先の造営といった大規模な公共投資(その他に奈良の大仏建立や全国各地に国分寺・国分尼寺の建立もその一つ)を強力に引っ張る(推進する)ことによって,当時財政は膨大な赤字になったけれど,後に仏教芸術や建物を中心とする「天平文化」と呼ばれるものを残すことができたのだろうと私は思います。
今の奈良市は,そのおかげもあってか,世界文化遺産にも登録され,多くの観光収入を得ることができているわけです。
私も何度か奈良公園に行って,聖武天皇がした支出額に対する(1300年近く経っていますので)利息の何兆分の一かもしれませんが「鹿せんべい」を公園の売店で買って,シカに食べさせてあげたことがあります。
天の川 「たびとはんな。奈良に行ったら聖武さんみたいに,もっと豪勢に,パァッとお金を使わんとアカンがな。」
例が悪かったせいか,天の川君に突っ込まれてしまいました。
さて,奈良に行って感じることは,中途半端な公共投資は無駄の温床になりやすいのですが,同じやるなら歴史に長く残るようなチャレンジゃブルな公共投資はありだと思いますね。
<国家的大規模プロジェクト推進の原動力>
現代における公共投資は,土木工事や建築物だけではありません。素晴らしいディジタルコンテンツ(コンピュータ上のアートや有益な情報)やシステムを残すことも候補としてあるのだろうと私は思います。
ところで,大きな仕事をこなすチーム(プロジェクト)を引っ張るリーダは大変だというのが私の仕事上の経験(小規模プロジェクトばかりの経験ですが)からの感想です。一生懸命目標に向かって工程ごとの成果を出すようチームのメンバーに指示を出すのだけれども,思うようにチーム内のメンバーが動いてくれないことも少なくないのです。
奈良時代に(完了しなかったものも多かったと思いますが)国家的な難しい大プロジェクトをいくつも実施できた力は何処から出てきたのでしょうか?
万葉集には,前代未聞の大プロジェクトによって影響を間接的にせよ受けた側(プロジェクト実行側ではなく)の和歌のほうが多く含まれているのかもしれません。また,そのような影響を受けて嘆き悲しんだり,自分を慰めたりしている和歌のほうが現代でも多くの人たちにとって,文学的共感をえられる可能性が高いようにも感じます。
しかし,当時大きな変化を伴う国家的プロジェクトを実施した(引き起こした)ポテンシャル(潜在的な力)は,やはり東の果ての小さな島国をさまざまな面で大陸に負けない強い国家にしたいという強い意思が当時の為政者やそのブレーンにあったのだろうと思います。
その強い国家のイメージが軍事的なものではなく,産業,技術,芸術などの非軍事分野の高度化に向けられたのは,当時の仏教思想による影響が非常に大きかったのではないでしょうか。
これで4回に渡った「引く」はこれで終わりとし,次からは「踏む」について万葉集を見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(1)に続く。
2014年6月14日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(3:まとめ) 胸が焼き焦げるほど一緒に暮らしたいよ~
<秋田訪問報告>
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。
秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。
また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。
新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使の六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。
わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
<わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ>
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>
旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。
武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
<むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり>
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>
この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
<よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし>
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>
家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。
秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。
また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。
新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使の六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。
わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
<わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ>
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>
旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。
武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
<むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり>
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>
この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
<よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし>
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>
家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。
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