序詞の中に地名が出てくる万葉集の和歌の紹介を今回で終わりにします。
今まで紹介してこなかった地名が序詞の中に出で来る短歌を見ていきますが,最初は百人一首の歌にも出てくる「大江山」です。
丹波道の大江の山のさな葛絶えむの心我が思はなくに(12-3071)
<たにはぢの おほえのやまのさなかづら たえむのこころわがおもはなくに>
<<丹波街道の大江山にきれいな葛が絶えず伸びつづけるように,あなたと慕う気持ちが絶えるなどと私が思うでしょうか>>
丹波道(街道)は,今の京都から亀岡(明治初期までは亀山と呼んでいた),今の園部を通って北上し,日本海に抜け,西(山陰地方)に向かう街道です。大江山を過ぎると日本海の海岸まであと少しです。不安な旅人も気持ちとして大分楽に感じるようによったでしょう。
大江山のふもとでは,夏になると葛(カズラ:つる草の総称)がすごい勢いで伸びでいたのだと思います。
行きは早春で林野は見通しが良く,広々としたいたのが,何カ月後の帰りには,うっそうとつる草が生い茂り,蔓は木を取り巻くだけでなく,木の上まで伸びていたと想像できます。
景色がガラッと変わってしまうくらい伸び続ける葛の勢いと同じくらいあなたのことを思っているという短歌ですが,京人にとっては大江山の葛の繁茂の早さはすでに有名だったのかも知れませんね。
さて,次は今の滋賀県(近江地方)の川の名前を序詞に入れた短歌です。
高湍なる能登瀬の川の後も逢はむ妹には我れは今にあらずとも(12-3018)
<たかせなのとせのかはの のちもあはむいもにはわれは いまにあらずとも>
<<急流である能登瀬川の名のように後の世に逢おう。彼女と私が逢うことは今は叶わないが>>
この能登瀬川は,同じ名前川は今の地図上残っていません。しかし,滋賀県米原市にある天野川の旧称が能登瀬川とのこと殺目山らしく,この短歌に出てくるのが天野川だとされているようです。
もし,そうだとしたら,同じ名が万葉集に出てくる以上は,安易に名前を変えないでほしいなあと私は思います。
そのほか,滋賀県では少し似た能登川という地名があります。この地名は川があったからではなく名付けられたようで,地域も平野で小さく,とても早瀬をもつ川とは無縁だと考えられそうです。
能登(のと)と後(のち)の発音が似ていたということ。また,瀬(せ)と世(せ)が同じ音読みだということが当時一般に知られていたら,「後は」の意味がより限定されたものになると私は考えます。
最期は,三重県の伊勢を序詞に詠んだ短歌を紹介します。
伊勢の海人の朝な夕なに潜くといふ鰒の貝の片思にして(11-2798)
<いせのあまのあさなゆふなにかづくといふ あはびのかひのかたもひにして>
<<伊勢の海人が朝夕に潜って獲るというアワビの貝の殻が片側にしかないと同じように私は片思いをしている>>
天の川 「なんや。この短歌,序詞ばっかりえろ~長くて,言いたいことは『俺,片思いしてんねん』だけやんか」
天の川君の感想はもっともだと思うよ。万葉集が質の高い名歌を集めた歌集なら,こんな短歌が入っている訳がないよね。
<万葉集を文学と見るから苦しい>
万葉集を文学として高く評価する批評家さんたちは苦し紛れに「万葉集は名もない庶民が詠んだ素朴な和歌も載っている」などと説明しているけれど,万葉集を文学作品オンリーと見るから説明が苦しくなるだけだと私は思うね。
万葉集には文学的に優れた和歌もないわけではないが,情報提供(何らかの広報)を目的としたものであれば,話は全然別になるよね。情報提供が目的ならば,作者の感情の表現がうまいか下手かは無関係。その短歌がもつ情報の量や質が優劣を評価する基準になる。
<天の川君よろしく!>
天の川 「そんなら,この短歌は『伊勢では若くて可愛いピチビチの大勢の海女さんたちが,朝から夕方まで濡れたらスケスケの衣を着て潜り,身のほうは煮ても焼いてもおいしいし,乾燥させたら日持ちがして,水に戻せばそれはそれでおいしい,そして貝殻の裏はきれいに輝いて首飾りの材料にもなるアワビをたくさん獲っているから,みんなで伊勢へおいでやす』というような情報があるということやな」
おいおい,天の川君,そんな「ピチピチ,スケスケ」まではこの短歌は書いてないぞ。ただ,スケベな平城京のオジさんたちはそんな妄想をしたかもしれないね。
天の川 「なんやて! 俺がスケベオヤジやと言ってんのと同じやんか!」
天の川君,おっと,悪い悪い。
さて,これで,地名を入れた序詞がある和歌の紹介を終わり,次回からは植物をテーマとして序詞に入れた巻11,巻12の短歌を見ていきます。
(序詞再発見シリーズ(14)に続く)
2017年4月16日日曜日
2014年7月6日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(3) 海で引くといえば何?
「引く」の3回目は,何らかのモノを引くことを詠んだ万葉集の和歌をみていきましょう。
最初は「舟(船)を引く」からです。次は山上憶良が福岡にある志賀の島に住む若き漁師荒雄の遭難死の悲しさを,その妻の立場で詠んだかもしれないとされる1首です。
大船に小舟引き添へ潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも(16-3869)
<おほぶねにをぶねひきそへ かづくともしかのあらをに かづきあはめやも>
<<大船に小舟を引き添えて海に潜って捜そうとも志賀の荒雄に海中で逢うことができるだろうか>>
この短歌は10首詠まれた中の最後の1首です。10首が詠まれた背景として,荒雄が出港したいきさつなどが左注として詳しく書かれています。遭難し,行方不明になった荒雄を探すため,大きな船で遭難した可能性のある海域まで行き,一緒に引いて行った小舟に素潜りができる海人が乗り移り,小舟を浮きとして潜っては浮かびを繰り返して捜索をしようとした様子が伺えます。いくら多くの舟を出しても広い海の中から沈んでいる荒雄を見つけることは困難ですが,大船に小舟を引かせることが当時行われていたことを伺わせます。
次は「網を引く」を見ましょう。
大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声(3-238)
<おほみやのうちまできこゆ あびきすとあごととのふる あまのよびこゑ>
<<宮殿の中まで聞こえてきます。「網を引くぞ!」と網子を指揮する漁師の呼び声が>>
この短歌は,長意吉麻呂(ながのおきまろ)が難波の宮に行幸していた天皇から和歌を詠むよう指示されて詠んだとされる1首です。難波の宮は海の近くにあり,地引網漁をしている声が宮中まで聞こえてきたのでしょう。恐らく地引網漁は行幸に来た天皇のために行ったイベントであり,網子を指揮する漁師の声が宮中まで届いたので,意吉麻呂は地引網漁が始まったことを知らせ,御簾越にご覧になることを天皇に勧めたのかもしれません。地引網漁は,奈良や飛鳥の盆地ではけっして体験できないイベントですから,さぞや盛り上がったのではないかと私は想像します。
次は「楫を引く」を見ましょう。
我が舟の楫はな引きそ大和より恋ひ来し心いまだ飽かなくに(7-1221)
<わがふねのかぢはなひきそ やまとよりこひこしこころ いまだあかなくに>
<<舟の梶を引かないで欲しい。大和よりもってきた恋しい心は,まだ萎えてしまっていないのに>>
この短歌は,左注に藤原卿作とあり,藤原房前(ふささき)か藤原麻呂(まろ)のどちらかが詠んだとの説があるそうです。旅先で,舟が先に進んで大和の京から離れていくにしたがって,都に残した恋人への思いが薄くなるどころか,さらに募り,舟を止めてほしいという思いを詠んだのでしょうか。楫は舟の方向を決めるもの(舵)とは異なり,櫓(ろ)や櫂(かい)をさします。したがって「楫を引く」ということは舟を漕ぐことと同じ意味になります。
さて,次回はその他の引くものを取り上げ「引く」のまとめとします。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(4:まとめ)に続く。
最初は「舟(船)を引く」からです。次は山上憶良が福岡にある志賀の島に住む若き漁師荒雄の遭難死の悲しさを,その妻の立場で詠んだかもしれないとされる1首です。
大船に小舟引き添へ潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも(16-3869)
<おほぶねにをぶねひきそへ かづくともしかのあらをに かづきあはめやも>
<<大船に小舟を引き添えて海に潜って捜そうとも志賀の荒雄に海中で逢うことができるだろうか>>
この短歌は10首詠まれた中の最後の1首です。10首が詠まれた背景として,荒雄が出港したいきさつなどが左注として詳しく書かれています。遭難し,行方不明になった荒雄を探すため,大きな船で遭難した可能性のある海域まで行き,一緒に引いて行った小舟に素潜りができる海人が乗り移り,小舟を浮きとして潜っては浮かびを繰り返して捜索をしようとした様子が伺えます。いくら多くの舟を出しても広い海の中から沈んでいる荒雄を見つけることは困難ですが,大船に小舟を引かせることが当時行われていたことを伺わせます。
次は「網を引く」を見ましょう。
大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声(3-238)
<おほみやのうちまできこゆ あびきすとあごととのふる あまのよびこゑ>
<<宮殿の中まで聞こえてきます。「網を引くぞ!」と網子を指揮する漁師の呼び声が>>
この短歌は,長意吉麻呂(ながのおきまろ)が難波の宮に行幸していた天皇から和歌を詠むよう指示されて詠んだとされる1首です。難波の宮は海の近くにあり,地引網漁をしている声が宮中まで聞こえてきたのでしょう。恐らく地引網漁は行幸に来た天皇のために行ったイベントであり,網子を指揮する漁師の声が宮中まで届いたので,意吉麻呂は地引網漁が始まったことを知らせ,御簾越にご覧になることを天皇に勧めたのかもしれません。地引網漁は,奈良や飛鳥の盆地ではけっして体験できないイベントですから,さぞや盛り上がったのではないかと私は想像します。
次は「楫を引く」を見ましょう。
我が舟の楫はな引きそ大和より恋ひ来し心いまだ飽かなくに(7-1221)
<わがふねのかぢはなひきそ やまとよりこひこしこころ いまだあかなくに>
<<舟の梶を引かないで欲しい。大和よりもってきた恋しい心は,まだ萎えてしまっていないのに>>
この短歌は,左注に藤原卿作とあり,藤原房前(ふささき)か藤原麻呂(まろ)のどちらかが詠んだとの説があるそうです。旅先で,舟が先に進んで大和の京から離れていくにしたがって,都に残した恋人への思いが薄くなるどころか,さらに募り,舟を止めてほしいという思いを詠んだのでしょうか。楫は舟の方向を決めるもの(舵)とは異なり,櫓(ろ)や櫂(かい)をさします。したがって「楫を引く」ということは舟を漕ぐことと同じ意味になります。
さて,次回はその他の引くものを取り上げ「引く」のまとめとします。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(4:まとめ)に続く。
2014年6月14日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(3:まとめ) 胸が焼き焦げるほど一緒に暮らしたいよ~
<秋田訪問報告>
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。
秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。
また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。
新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使の六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。
わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
<わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ>
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>
旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。
武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
<むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり>
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>
この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
<よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし>
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>
家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。
秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。
また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。
新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使の六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。
わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
<わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ>
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>
旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。
武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
<むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり>
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>
この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
<よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし>
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>
家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。
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