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2017年12月14日木曜日

序詞再発見シリーズ(28) … 「舟」の用途や形は多様だった?

フルタイムの本業(ソフトウェアの保守開発)の忙しさがなかなか解消せず,またこのブログの投稿が滞ってしまいました。当面引退とはいかずに,私の本業はまだまだ続きそうです。
ただ,来年の2月を過ぎるとこのブログを立ち上げて10年目に入ります。満10年に向け,来年は少し頑張って投稿を多くしたいと考えていますが,結果はどうでしょうか。
今回は,「舟」やそれに関連するものが万葉集の序詞としてどのように詠まれているかを見ていきます。
まずは,が密生しているような潟にも入っていけるような小さな舟について詠んだ短歌です。

港入りの葦別け小舟障り多み今来む我れを淀むと思ふな(12-2998)
みなといりのあしわけをぶねさはりおほみいまこむわれをよどむとおもふな
<<入港する葦別け小舟にはいろいろ支障が多いように,差し障りが多くて今そちらへ着くのが遅れても,私のあなたへの気持ちが淀んだと思わないで>>

葦が群生しているような大きな川の河岸や海の潟では,葦を刈り取ったり,葦の群生の下に隠れているカニ,ウナギ,巻貝,二枚貝などを狩猟するための小さな舟が必要となります。
舟は小さいほど奥の方に入れますが,小さすぎると刈り取った葦や採取した魚介類を多く載せられないため,小さくするには限界があります。葦原の奥に行けば行くほど,良い葦や豊富な魚介類が獲れる可能性が高いのは分かっていても,葦に邪魔をされてなかなか先に行けない。
そんな情景が障害が多いなか君に会いに来たのに,なかなか来れないといって君への気持ちが淀んだと思わないでほしいというのが,作者の気持ちなのでしょうか。
<この作者は葦原での漁が大変なのを知っていた?>
ただ,私はこの序詞に注目したいのです。一般解釈とは違うかも知れませんが,葦に分け入って漁をする舟が大変だということを作者は知っていたということになります。
万葉時代には,さまざまな職業が生まれ,職業ごとのその大変さや面白さを紹介するメディアがあった可能性に私は注目します。すなわち,今で言えば職業紹介サイトのようなものです。もちろん,当時文字はまだ発達していなかったので,職業を紹介するようなガイドがいて,相談に乗っていたのかも知れません。「若人よ,来たれこの仕事に!」というような職業紹介イベントが定期的に行われていた可能性までも私は思いを巡らせます。
次は,逆にと港をつなぐ比較的大きな舟について詠んだ短歌です。

浦廻漕ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし(12-3172)
うらみこぐくまのぶねつきめづらしくかけておもはぬつきもひもなし
<<入江を漕ぎ巡る熊野舟はいつ見ても新鮮なように妻を心に懸けて思わぬ月日はない>>

熊野舟は,紀伊の国熊野の地で作られた丈夫で性能の良いブランド舟だったと私は思います。
港周辺で進んでいる舟がなかなかお目に掛かれないブランド舟の「熊野舟」を見た時の感動を作者は経験していたとも考えられそうです。
熊野の地は大木が生えている広大な森林地帯で,腕の良い木こり製材士運搬工がいて,山深くまで切り込んだ今の熊野川水系を使って木材を運ぶのに適した場所だったといえるかも知れません。当然,河口付近には腕の良い船大工が居て,品質の良い木台を入念に舟に仕立てたのでしょう。
そんな地で作られた船は品質が良く,丈夫で長持ちがするため,舳先の形を特殊なものにするなどしてブランド化し,高価で取引がされたと考えられます。それを手に入れられるのは,一部の裕福な漁師渡し舟経営者に限られていたと考えられます。そして,運よく熊野舟を手に入れられた人たちも,手持ちの舟のすべてを高価な熊野舟にできるわけがなく,一般の人はお目に掛かれるのがよほど稀で新鮮だったのかも知れません。
最後は,舟という言葉は出てきませんが,舟のを漕ぐ音を序詞に詠んだ短歌です。

漁りする海人の楫音ゆくらかに妹は心に乗りにけるかも(12-3174)
いざりするあまのかぢおとゆくらかにいもはこころにのりにけるかも
<<魚を獲りに出る漁師の舟の楫の音がゆっくり繰り返すように,だんだん彼女が心に乗り移ってきたなあ>>

海で漁をする漁師は毎日楫を漕いで漁に出るので,一番効率の良い,疲れの少ない漕ぎ方で楫を漕ぐのでしょう。そうすると,ギコー,ギコーという楫を漕ぐ音は,海辺の宿に泊まっていた作者にとっては,心地よい一定のリズムでのどかに感じられたのかも知れません。そのようなリズムで彼女は自分の心の中に入ってくるという短歌となります。
実は,父親が海辺の旅館や民宿に泊まるのが好きで,私が子供のころ一度和歌山県の和歌の浦付近の漁港近くの小さな旅館に泊まったとき,朝沖に向かって進む小さな漁船が発する「ポンポンポンポン..」という音と舟が残す波跡が,いかにものどかなリズムと映像を幼い私も感じた記憶があります。
父が「ポンポン船の音で目が覚めてしもたわ。朝早ようから漁師はんはご苦労なこっちゃなあ。」と起きてきたのを覚えています。そして「ポンポン船はなあ。焼玉エンジンちゅうのを載せている舟で,あんな音を出して動くんや」と私に教えてくれたのです。
当時は,ポンポン船はディーゼルエンジン付きの舟に急速に取り替えられつつある頃で,父もまだ現役として残っていることを珍しく感じたのかも知れません。
(序詞再発見シリーズ(29)に続く)

2015年11月21日土曜日

今もあるシリーズ「音(おと,ね)(2)」…万葉時代,舟の楫の音は何の変化を想像させていた?

「音」の2回目は,「楫(かぢ)の音」を取りあげます。
万葉集では「楫の音」を詠んだ和歌が20首近く出てきます。
当時,「楫の音」は,今に例えるとジェット飛行機やヘリコプターの飛ぶ音,新幹線の走行音のように,その時代の近代化を象徴する音だったのではないかと私は想像します。万葉時代には造船技術が向上し,さまざまなタイプの船がそれまでに比べ,低コスト,短期間で作ることができるようになったようです。
また,各地の海辺や海につながる川辺には,船着き場や港が次々と作られていき,経済の発展による物流量の増加とともに,船の交通量が大きく拡大していた時代。その拡大を感じさせる音の象徴が「楫の音」だったと私は考えます。
楫は,小さな舟では櫓(ろ)のようなもので,大きな船では櫂(かい)のようなもの指していたのではないでしょうか。それは,当時木でできていて,動かすには,いわゆる「てこの原理」で,支点になる部分が必要になります。その支点は,楫全体がぶれないようにしっかりと支える臍や穴が開いている構造になっていたと想像できます。
そうすると,楫を動かしたとき,その支点部分に力が集中し,木と木が強く摩擦する音が発生します。それが「ギーコー,ギーコー,..」という「楫の音」の源です。
では,実際の万葉集の和歌を見てきましょう。
最初は,代表的万葉歌人の一人笠金村(かさのかなむら)が神亀2年10月に難波宮を訪問した際に詠んだ短歌です。

海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ(6-930)
<あまをとめ たななしをぶねこぎづらし たびのやどりにかぢのおときこゆ>
<<海人の娘たちが屋根の無い小舟を漕ぎ出すらしい。旅寝の宿で櫓(ろ)の音が聞こえる>>

難波(なには)宮は,今の大阪城付近にあったという説が有力だそうですが,当時の海岸線はその近くまで来ていたとすれば,海の傍に建つ豪華な別荘宮だったと考えてもよいかもしれません。
地元の漁師の若い娘たちが,早朝小さな舟に乗って,漁に漕ぎ出す時の勢いのよい「楫の音」が,宮の近くの宿で聞こえたことを詠んでいると私は考えます。
それを長閑(のどか)と感じたのか,活気があると感じたのか,当時の感性でないと正しく理解ができないような気がします。
次は,同じ大阪(難波)で積極的に掘られたと考えられる運河を航行する舟の梶の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも(7-1143)
<さよふけてほりえこぐなる まつらぶねかぢのおとたかし みをはやみかも>
<<夜が更けても堀江を漕ぎ進む松浦舟の梶の音が大きく聞こえる。堀江の水の流れが速いからであろうか>>

松浦舟の松浦は九州の肥前の国の地名で,そこで作られた良い舟であり,万葉集の歌人が詠むくらいなので,松浦舟はきっと舟の有名ブランドだったのでしょう。
この短歌が詠んでいるように,その松浦舟の楫の音が大きく聞こえるほど,運河の水流が速かったのでしょうか。
それだけではないような気が私にはします。実は夜遅くまで荷物を運ばなければならないほど運ぶべき荷物の量が多かったのかもしれませんね。今で言うと夜行トラック便のような,猛スピードで走る夜便の舟の運行もあった可能性はあります。
どんな世の中でも同じかもしれませんが,利用に対して道路,運河,橋などのインフラが追い付かないことが往々にしてあります。それをカバーするのは人間の必死の努力ということになり,万葉時代はこのような夜遅くまで頑張る人の音を聞いた歌人が和歌を詠むテーマとするような時代だったのかもしれませんね。
最後は,少し季節はずれですが,天の川に浮かべる舟の楫の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ(10-2072)
<わたりもりふねわたせをと よぶこゑのいたらねばかも かぢのおとのせぬ>
<<天の川の渡り舟の管理人が「舟を渡してよいぞ」という声が相手にとどいていないのだろうか。彦星が乗る舟の楫の音がしないのです>>

七夕に天の川を渡って来てくれるはずの夫(彦星)が一向にくる気配がない。それは渡し守が渡しを許可する声が小さいからと嘆いている。
当時の妻問婚では,夫が妻問する場合,親の許可が必要だったことも想像できるため,親に対するクレームめいた短歌とも取れそうですね。
待つ者にとって,相手が来る気配の音の一つとして「楫の音」は当時では定着していた可能性があると私は思ってしまいます。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(3)」に続く。

2015年7月4日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(2) さ~,七夕だ!天の川に舟を浮かべて逢いに行こう!

「浮く」の2回目は,今の時期に合せて,万葉集には七夕の天の川に舟を浮かべて逢いに行こうとする和歌がでてきますので,それをとりあげてみます。
まず,1首目は山上憶良が神亀元(724)年7月7日に七夕について詠んだされる12首の中の1首(彦星を待つ織姫の立場で)です。

久方の天の川瀬に舟浮けて今夜か君が我がり来まさむ(8-1519)
ひさかたのあまのかはせに ふねうけてこよひかきみが わがりきまさむ
<<天の川の瀬に舟を浮かべて今夜こそあなたは私のところに来てくださるのね>>

2011年7月2日のこのブログでも取り上げていますが,憶良は七夕の謂れに対する造詣が深かかったようです。
<憶良は七夕の行事を日本に広めたかった?>
万葉時代,七夕の日に若い女性が居る家庭では,夫または恋人が妻問に来るのを今か今かと待ち望んでいるのです。
たとえしばらく妻問に来なかったとしても,七夕の謂れから年に1度は来てくれるはずだと信じたい。そんな待つ側の女性の気持ちを憶良は代弁して詠っています。
実は憶良が七夕の物語を一般市民に流行らせようとしていたのではないかと私は想像します。
七夕行事が流行れば,7月7日は確実に妻問が増え,その妻問に行くためや待つ女性が着る衣装や準備グッズが売れるはずです。
そのあたりは,2011年7月7日のこのブログでも少し取り上げています。
さて,次の1首も憶良作とされる七夕歌12首の中の1首です。同様に彦星を待つ織姫の気持ちを詠んでいます。

天の川浮津の波音騒くなり我が待つ君し舟出すらしも(8-1529)
あまのがはうきつのなみおと さわくなりわがまつきみし ふなですらしも
<<天の川に浮かんでいる船着き場の波音が騒がしくなってきました。私が待っている、あなたが舟を漕ぎ出しになったようです>>

妻問を待っている女性は家の外での物音に敏感になります。もちろん,妻問で家に近づく足音はしますし,夫または恋人が家に着くと,まず親が妻問に来る予定の人物か確認をします(妻問の前には和歌をやり取りして,妻問の事前合意)。
妻問に来た男性は,最初に親とも小声であいさつはするでしょうし,親は娘のいる場所へはどうやって行けば良いかを教えたりするでしょう。そんな情景を天の川の船が着き,船の波が岸に打ち寄せる音が騒がしくなったことに重ねて表現しているのだろうと私は解釈します。
最後は,飛鳥時代から奈良事態初期にかけて活躍した藤原房前(ふぢはらのふささき)が自宅での宴席で詠んだと伝わる七夕の長歌です。

久方の天の川に 上つ瀬に玉橋渡し 下つ瀬に舟浮け据ゑ 雨降りて風吹かずとも 風吹きて雨降らずとも 裳濡らさずやまず来ませと 玉橋渡す(9-1764)
ひさかたのあまのかはに かみつせにたまはしわたし しもつせにふねうけすゑ あめふりてかぜふかずとも かぜふきてあめふらずとも もぬらさずやまずきませと たまはしわたす
<<天の川の上流にある瀬に玉のような美しい橋を渡し,下流にある瀬に舟を浮べて舟橋を備えつけ,雨が降って風は吹かないときでも,風が吹いて雨は降らないときでも,裳を濡らさず,間を置かずお出で下さいとの気持ちを込めて玉の橋を天の川に渡す私です>>

さすがに,スケールが違いますね。房前だったらこの程度の公共工事は何でもなかったのでしょうから。
この長歌は,房前自身が作歌したのではなく,お付の人(秘書のような人)が作って,房前が宴の席で詠んだのかもしれません。
宴の出席者は,各地域や各組織の実力者ばかりで,この後玉の橋浮橋をどの川に作るかで盛り上がったのかもしれませんね。
そして,「その川はいっそのこと『天の川』に変えちゃえば?」といった話まで飛び出したりしたかもです。
結局,あまりに盛り上がり過ぎて,「浮かれた話」ばかりになったのではと私は想像しますが,いかがですか?
それでは皆さん,幸せな七夕をお過ごしください。なお,最近顔を出さない天の川君はおとなしくずっと寝ています。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(3:まとめ)に続く。

2014年7月6日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…引く(3) 海で引くといえば何?

「引く」の3回目は,何らかのモノを引くことを詠んだ万葉集の和歌をみていきましょう。
最初は「舟(船)を引く」からです。次は山上憶良福岡にある志賀の島に住む若き漁師荒雄の遭難死の悲しさを,その妻の立場で詠んだかもしれないとされる1首です。

大船に小舟引き添へ潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも(16-3869)
おほぶねにをぶねひきそへ かづくともしかのあらをに かづきあはめやも
<<大船に小舟を引き添えて海に潜って捜そうとも志賀の荒雄に海中で逢うことができるだろうか>>

この短歌は10首詠まれた中の最後の1首です。10首が詠まれた背景として,荒雄が出港したいきさつなどが左注として詳しく書かれています。遭難し,行方不明になった荒雄を探すため,大きな船で遭難した可能性のある海域まで行き,一緒に引いて行った小舟に素潜りができる海人が乗り移り,小舟を浮きとして潜っては浮かびを繰り返して捜索をしようとした様子が伺えます。いくら多くの舟を出しても広い海の中から沈んでいる荒雄を見つけることは困難ですが,大船に小舟を引かせることが当時行われていたことを伺わせます。
次は「網を引く」を見ましょう。

大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声(3-238)
おほみやのうちまできこゆ あびきすとあごととのふる あまのよびこゑ
<<宮殿の中まで聞こえてきます。「網を引くぞ!」と網子を指揮する漁師の呼び声が>>

この短歌は,長意吉麻呂(ながのおきまろ)が難波の宮に行幸していた天皇から和歌を詠むよう指示されて詠んだとされる1首です。難波の宮は海の近くにあり,地引網漁をしている声が宮中まで聞こえてきたのでしょう。恐らく地引網漁は行幸に来た天皇のために行ったイベントであり,網子を指揮する漁師の声が宮中まで届いたので,意吉麻呂は地引網漁が始まったことを知らせ,御簾越にご覧になることを天皇に勧めたのかもしれません。地引網漁は,奈良や飛鳥の盆地ではけっして体験できないイベントですから,さぞや盛り上がったのではないかと私は想像します。
次は「楫を引く」を見ましょう。

我が舟の楫はな引きそ大和より恋ひ来し心いまだ飽かなくに(7-1221)
わがふねのかぢはなひきそ やまとよりこひこしこころ いまだあかなくに
<<舟の梶を引かないで欲しい。大和よりもってきた恋しい心は,まだ萎えてしまっていないのに>>

この短歌は,左注に藤原卿作とあり,藤原房前(ふささき)か藤原麻呂(まろ)のどちらかが詠んだとの説があるそうです。旅先で,舟が先に進んで大和の京から離れていくにしたがって,都に残した恋人への思いが薄くなるどころか,さらに募り,舟を止めてほしいという思いを詠んだのでしょうか。楫は舟の方向を決めるもの(舵)とは異なり,櫓(ろ)や櫂(かい)をさします。したがって「楫を引く」ということは舟を漕ぐことと同じ意味になります。
さて,次回はその他の引くものを取り上げ「引く」のまとめとします。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(4:まとめ)に続く。