「音」の2回目は,「楫(かぢ)の音」を取りあげます。
万葉集では「楫の音」を詠んだ和歌が20首近く出てきます。
当時,「楫の音」は,今に例えるとジェット飛行機やヘリコプターの飛ぶ音,新幹線の走行音のように,その時代の近代化を象徴する音だったのではないかと私は想像します。万葉時代には造船技術が向上し,さまざまなタイプの船がそれまでに比べ,低コスト,短期間で作ることができるようになったようです。
また,各地の海辺や海につながる川辺には,船着き場や港が次々と作られていき,経済の発展による物流量の増加とともに,船の交通量が大きく拡大していた時代。その拡大を感じさせる音の象徴が「楫の音」だったと私は考えます。
楫は,小さな舟では櫓(ろ)のようなもので,大きな船では櫂(かい)のようなもの指していたのではないでしょうか。それは,当時木でできていて,動かすには,いわゆる「てこの原理」で,支点になる部分が必要になります。その支点は,楫全体がぶれないようにしっかりと支える臍や穴が開いている構造になっていたと想像できます。
そうすると,楫を動かしたとき,その支点部分に力が集中し,木と木が強く摩擦する音が発生します。それが「ギーコー,ギーコー,..」という「楫の音」の源です。
では,実際の万葉集の和歌を見てきましょう。
最初は,代表的万葉歌人の一人笠金村(かさのかなむら)が神亀2年10月に難波宮を訪問した際に詠んだ短歌です。
海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ(6-930)
<あまをとめ たななしをぶねこぎづらし たびのやどりにかぢのおときこゆ>
<<海人の娘たちが屋根の無い小舟を漕ぎ出すらしい。旅寝の宿で櫓(ろ)の音が聞こえる>>
難波(なには)宮は,今の大阪城付近にあったという説が有力だそうですが,当時の海岸線はその近くまで来ていたとすれば,海の傍に建つ豪華な別荘宮だったと考えてもよいかもしれません。
地元の漁師の若い娘たちが,早朝小さな舟に乗って,漁に漕ぎ出す時の勢いのよい「楫の音」が,宮の近くの宿で聞こえたことを詠んでいると私は考えます。
それを長閑(のどか)と感じたのか,活気があると感じたのか,当時の感性でないと正しく理解ができないような気がします。
次は,同じ大阪(難波)で積極的に掘られたと考えられる運河を航行する舟の梶の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも(7-1143)
<さよふけてほりえこぐなる まつらぶねかぢのおとたかし みをはやみかも>
<<夜が更けても堀江を漕ぎ進む松浦舟の梶の音が大きく聞こえる。堀江の水の流れが速いからであろうか>>
松浦舟の松浦は九州の肥前の国の地名で,そこで作られた良い舟であり,万葉集の歌人が詠むくらいなので,松浦舟はきっと舟の有名ブランドだったのでしょう。
この短歌が詠んでいるように,その松浦舟の楫の音が大きく聞こえるほど,運河の水流が速かったのでしょうか。
それだけではないような気が私にはします。実は夜遅くまで荷物を運ばなければならないほど運ぶべき荷物の量が多かったのかもしれませんね。今で言うと夜行トラック便のような,猛スピードで走る夜便の舟の運行もあった可能性はあります。
どんな世の中でも同じかもしれませんが,利用に対して道路,運河,橋などのインフラが追い付かないことが往々にしてあります。それをカバーするのは人間の必死の努力ということになり,万葉時代はこのような夜遅くまで頑張る人の音を聞いた歌人が和歌を詠むテーマとするような時代だったのかもしれませんね。
最後は,少し季節はずれですが,天の川に浮かべる舟の楫の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ(10-2072)
<わたりもりふねわたせをと よぶこゑのいたらねばかも かぢのおとのせぬ>
<<天の川の渡り舟の管理人が「舟を渡してよいぞ」という声が相手にとどいていないのだろうか。彦星が乗る舟の楫の音がしないのです>>
七夕に天の川を渡って来てくれるはずの夫(彦星)が一向にくる気配がない。それは渡し守が渡しを許可する声が小さいからと嘆いている。
当時の妻問婚では,夫が妻問する場合,親の許可が必要だったことも想像できるため,親に対するクレームめいた短歌とも取れそうですね。
待つ者にとって,相手が来る気配の音の一つとして「楫の音」は当時では定着していた可能性があると私は思ってしまいます。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(3)」に続く。
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