今回だけのテーマとして「石橋」をとりあげます。
「石橋」は日本では人名の姓で出くるのがポピュラーですね。「石橋」姓をもつ有名人もたくさんいます。また,地名でも「石橋」は出てきますが,多くは街道や川に面しているようです。
石造りの橋として有名なのが,現在の東京「日本橋」ですね。「日本橋」というと江戸時代の木造り橋のイメージがありますが,現在は石でできています。そうでないと,自動車やトラック,バスは通れませんからね。
さて,万葉時代では「石橋」はどんなふうに詠まれていたでしょうか。
まずは情熱の歌人笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った恋の短歌から1首です。
うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも(4-597)
<うつせみのひとめをしげみ いしはしのまちかききみに こひわたるかも>
<<この世の人たちの目がうるさいけれど,その目に留まらぬほどすぐ対岸に行ける石橋のように近い家持様にお慕いしています>>
「石橋の」を「間」に掛かる枕詞との説もあるようですが,私は以前からもこのブログで書いているように枕詞であったら訳さないで済ますことに疑問を持っています。
石造りの橋は当時一般にどうみられていたのか(多くの人の共通認識)をちゃんと理解できて初めてこの短歌が表現したいことが分かると私は思いたいです。
2009年3月11日のこのブログで書いたように,万葉時代では天橋(あまはし),石橋,浮橋,打橋,大橋,倉橋,高橋,棚橋,玉橋,継橋,檜橋(ひはし),広橋,舟橋,八橋(やばせ)など,既に様々な橋の形態や形容があったようです。
その中で「石橋」が一番丈夫で,安心して渡れたし,揺れないので走って渡っても安全で,馬などに乗って渡ることもできたのでしょうか。だから,石橋が作られると対岸と非常に近くなり,すぐに行けるというイメージが定着していたのに異論を感じる方いかもしれません。
当時の石橋というのは,立派な橋の形をしているものでは無く,川に石を歩幅間隔に置いて,その上を渡ることで,川の水に濡れずに渡ることができるだけのものというイメージが定着しているとすれば,「間」は歩幅の間となります。
いずれにしても,石橋のイメージによっては,解釈は微妙にことなってくるわけです。
次は,故郷の明日香川を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし(7-1126)
<としつきもいまだへなくに あすかがはせぜゆわたしし いしはしもなし>
<<年月もそんなに経っていない。けれど明日香川の多くの瀬に渡してあった石橋も今は無くなってしまいました>>
この石橋は比喩かもしれませんね。すなわち,故郷は変わらないと思っていたのに,少ししかたっていないのに変わってしまったという気持ちを石橋という強固なものでも変わるという喩えで表現しているように私は思います。
この気持ちは私にはよくわかります。以前にもこのブログで書いたように,私は4歳のころから15年ほど京都市の山科という所で育ちました。
炭焼きの煙が山肌をたなびき,水車小屋があちこちにあり,水田・野菜畑が多くあり,清らかな湧水を使ったセリ畑やニジマスの養殖場もあったような記憶があります。家の近くの斜面にはワラビやゼンマイが生えている場所もたくさんありました。
本当にのどかだった山科盆地が,急速に京都や大阪のベットタウンとして市街化していくのを毎日のように見て来たからです。名神高速道路,新幹線が山科を通るようになってからは,それまで遠くの山で鳴く鳥の声が聞こえそうな静かな山科盆地は,トラックの走行音や新幹線の風を切る音が響き渡る場所と化しました。
最後は,また恋の短歌です。
明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも(11-2701)
<あすかがはあすもわたらむ いしはしのとほきこころは おもほえぬかも>
<<明日香川を明日も渡ろう。明日香川の石橋のようにあなたとの心の距離は遠いとは思えないので>>
明日香川には石橋がいくつもあったのでしょう。その石橋を明日も渡る決意とは,相手との心の距離が近いということを信じてアプローチするぞという決意なのかもしれません。
いずれにしても,川が隔てる対岸との距離は生活面での行き来でも,恋人との逢瀬でも,短くあってほしいというのが人々の願いだった。それを短くする「石橋」を渡すことへの期待は大きかったのだろうと私は思います。
今もあるシリーズ「海女(あま)」に続く。
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