「池」に関するテーマの最終回は,万葉集から池に集まる鳥について取り上げます。
今は全国各地の池にハクチョウが飛来するシーズンです。新潟県には10箇所以上のハクチョウが飛来する湖沼や池があるようです。関東圏の茨城県でも水戸市にある大塚池を始め,飛来数は新潟県より比較的少ないですが,ハクチョウが飛来する池や沼が複数あるようです。
そのほか,北海道や東北の湖沼や池にもハクチョウが飛来して,貴重な冬の観光資源として訪れる人の目を楽しませていることでしょう。
さて,万葉集で池に来る水鳥についてどんな種類が出てくるでしょうか。まず,池で遊ぶ鴨を詠んだ丹波大女娘子(たにはのおほめのをとめ)の短歌1首です。
鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに(4-711)
<かもどりのあそぶこのいけに このはおちてうきたるこころ わがおもはなくに>
<<鴨鳥が遊ぶこの池に木の葉が落ちて浮かぶような浮いた心でわたしはあなた慕っているわけではないのです>>
相手に対する強い思いを詠んだ作者には大変失礼ですが,ここでは「鴨」に注目します。
季節は晩秋。飛来した鴨が水に浮かびながら羽をバタバタすると鴨の身体が動き水面に波ができます。それに木の葉が落ちると,水面に浮いた木の葉は揺れ動きます。こんな情景がこの短歌から伝わってきます。
次は,「鳰鳥(にほどり)」(今はカイツブリと呼ぶ鳥)を詠んで,聖武(しやうむ)天皇へ献上したという坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の短歌1首です。
鳰鳥の潜く池水心あらば君に我が恋ふる心示さね(4-725)
<にほどりのかづくいけみづ こころあらばきみにあがこふる こころしめさね>
<<にほ鳥の潜る池の水よ,心があるなら私が大君を恋ふる気持ちを伝えてくださいね>>
この池は聖武天皇も好んで見に行くところなのでしょうか。池の水は透き通っていて鳰鳥が潜って何をしているか透けて見える。だから私の心の中も知って,天皇に思いを透かして示してほしい。郎女はそんな気持ちを表現したのだと私は思います。
カイツブリは潜って魚などを捕るのが得意な鳥ですが,当時からそのことは知られていたと考えてもよいでしょうね。
鳥の名はないのですが,鴨でも鳰鳥でもなさそうな鳥を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし(10-2166)
<いもがてをとろしのいけの なみのまゆとりがねけになく あきすぎぬらし>
<<妻の手を取るという取石の池の波の間を過ぎた鳥の声が急に異様に鳴り響いた。秋が過ぎたようだ>>
異様な鳴き声が秋に渡る前に鳴く鳥となると,夏に日本に来て,冬に南に帰る水鳥を指しているのかもしれません。どんな鳥なのか想像してみるのも面白いですね。
これで「池」をテーマに万葉集を見ていきましたが,「池」に関する和歌だけでも,万葉時代の状況が万葉集からいろいろ分かりました。
日本で見ることができる自然の現象や生き物の生態の中で,万葉時代から認識されていたものを整理し,観光資源として活用することで,海外からくる人々にアピールできるポイントになると私は感じます。
さて,次は,このブログが満7年続き,8年目に入る節目として,スペシャル記事をアップします。
当ブログ8年目突入スペシャル(1)に続く。
2016年2月21日日曜日
2016年2月14日日曜日
今もあるシリーズ「池(3)」…池の中で生きている植物はどうだ?
「池」の3回目は池の水に生えている植物(水生植物など)を万葉集で見ていきます。
万葉時代に池が多く作られたり,自然の池が憩いの場として注目されるようになってきたためか,池の周りに生えているまたは植えられた植物だけでなく,池の水生植物についても万葉集で詠まれた和歌が出てきます。
たとえば,山部赤人が奈良で詠んだとされる次の短歌です。
いにしへの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり(3-378)
<いにしへのふるきつつみは としふかみいけのなぎさに みくさおひにけり>
<<昔からあるの古い堤は幾年も経て,池の渚に水草が生えていた>>
この短歌の題詞には「山部宿祢赤人詠故太上大臣藤原家之山池歌一首」とあるとのことです。
この題詞,亡くなった太政大臣の藤原家の庭園に造られた築山の池についての歌という意味でしょうか。
太政大臣とは持統天皇時代から頭角を現した藤原不比等(ふぢはらのふひと)のようです。
赤人は「藤原家の歴史を感じる」といいたかったのか,それとも「手入れがされていない」といいたかったのか私の想像力では確定ができません。
いずれにしても,水草がどんな種類で,どんな感じで繁茂していたか知たくなる短歌です。
次は,柿本朝臣人麻呂歌集から転載したという池に生息する菱について詠んだ短歌です。
君がため浮沼の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも(7-1249)
<きみがためうきぬのいけの ひしつむとわがそめしそで ぬれにけるかも>
<<君のために浮沼の池の菱を摘んだので,私の染めた袖を濡らしてしまいました>>
菱の実を茹でるか蒸したものは,万葉時代から健康食として食べられていたようです。
「浮沼の池」は島根県大田市にある池との説が有力のようで,そこに旅で訪れたとき,残してきた妻に贈ろうと菱の実を採ろうとしたのでしょう。
そうしたら,私のきれいに染めてある(染めてくれたのは妻)袖が濡れてしまった。
その結果,ますます妻のことが恋しくなったという思いを詠んだ短歌だと私は思います。
ところで,菱形は菱の葉か実の形から名付けられたとといいます。
また,三菱グループのロゴマークは白い菱形が三つで,長い方の1点が同じ位置にあり,それぞれ三方(上,左下,右下)に広がった形をしています。
他の大きな企業グループのロゴマークがある程度の年数が立つと変えられるのに対して,三菱グループのロゴマークがずっと変わらないのは正直すごいことだなと私は感心しています。
ところで,3月のひな祭りには菱餅がひな壇に飾られますが,菱形をした餅なので菱餅と呼ばれるようになったのでしょう。
次は,皆さんが池でよく見るものとして「蓮」を詠んだ女性(詠み人知らず)の長歌です。
み佩かしを剣の池の 蓮葉に溜まれる水の ゆくへなみ我がする時に 逢ふべしと逢ひたる君を な寐ねそと母聞こせども 我が心清隅の池の 池の底我れは忘れじ 直に逢ふまでに(13-3289)
<みはかしをつるぎのいけの はちすばにたまれるみづの ゆくへなみわがするときに あふべしとあひたるきみを ないねそとははきこせども あがこころきよすみのいけの いけのそこわれはわすれじ ただにあふまでに>
<<剣の池の蓮の葉に溜まっている水がころころとどちらこぼれるか予測できないように,私がどうすれば迷っていると「逢いなさい」と神のお告げがあったの。でも,お母さんは彼に体を許しちゃだめだっていうから,私の心は清隅の池の池の底に沈んだよう。でも,あなたのこと絶対忘れない。本当に逢えるまでは>>
なかなか,具体的な表現の相聞歌ですね。
池に蓮の葉が立派に現れるのは夏です。夏が終わるころに妻問が活発になります。それを待つ女性の気持ちでしょう,この長歌は。
最後は池に生える「菅(すげ)」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
真野の池の小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか(11-2772)
<まののいけのこすげをかさに ぬはずしてひとのとほなを たつべきものか>
<<真野の池に生える小菅を笠に縫わないのに(契りもしていないのに),世間の人は二人の浮き名を立てるものだ>>
菅は湿地,池,湖沼,川沿いの浅い場所など水が多い場所を好んで生育するようです。
ここで出てくる「真野の池」には,たくさんの菅が生えていたのでしょう。
その菅の小さいのを使って笠を編んで送り合うような深い関係にまだなっていないのに,世間の人はいろいろあらぬことを噂して,二人が愛を深め行くプロセスの邪魔をしていることを嘆いた短歌のような気がします。
このように池に生える植物も多様なものが万葉集に出てきて,当時の人が池に対する見方の多様性が改めて確認できたかもしれません。
今もあるシリーズ「池(4:まとめ)」に続く。
万葉時代に池が多く作られたり,自然の池が憩いの場として注目されるようになってきたためか,池の周りに生えているまたは植えられた植物だけでなく,池の水生植物についても万葉集で詠まれた和歌が出てきます。
たとえば,山部赤人が奈良で詠んだとされる次の短歌です。
いにしへの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり(3-378)
<いにしへのふるきつつみは としふかみいけのなぎさに みくさおひにけり>
<<昔からあるの古い堤は幾年も経て,池の渚に水草が生えていた>>
この短歌の題詞には「山部宿祢赤人詠故太上大臣藤原家之山池歌一首」とあるとのことです。
この題詞,亡くなった太政大臣の藤原家の庭園に造られた築山の池についての歌という意味でしょうか。
太政大臣とは持統天皇時代から頭角を現した藤原不比等(ふぢはらのふひと)のようです。
赤人は「藤原家の歴史を感じる」といいたかったのか,それとも「手入れがされていない」といいたかったのか私の想像力では確定ができません。
いずれにしても,水草がどんな種類で,どんな感じで繁茂していたか知たくなる短歌です。
次は,柿本朝臣人麻呂歌集から転載したという池に生息する菱について詠んだ短歌です。
君がため浮沼の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも(7-1249)
<きみがためうきぬのいけの ひしつむとわがそめしそで ぬれにけるかも>
<<君のために浮沼の池の菱を摘んだので,私の染めた袖を濡らしてしまいました>>
菱の実を茹でるか蒸したものは,万葉時代から健康食として食べられていたようです。
「浮沼の池」は島根県大田市にある池との説が有力のようで,そこに旅で訪れたとき,残してきた妻に贈ろうと菱の実を採ろうとしたのでしょう。
そうしたら,私のきれいに染めてある(染めてくれたのは妻)袖が濡れてしまった。
その結果,ますます妻のことが恋しくなったという思いを詠んだ短歌だと私は思います。
ところで,菱形は菱の葉か実の形から名付けられたとといいます。
また,三菱グループのロゴマークは白い菱形が三つで,長い方の1点が同じ位置にあり,それぞれ三方(上,左下,右下)に広がった形をしています。
他の大きな企業グループのロゴマークがある程度の年数が立つと変えられるのに対して,三菱グループのロゴマークがずっと変わらないのは正直すごいことだなと私は感心しています。
ところで,3月のひな祭りには菱餅がひな壇に飾られますが,菱形をした餅なので菱餅と呼ばれるようになったのでしょう。
次は,皆さんが池でよく見るものとして「蓮」を詠んだ女性(詠み人知らず)の長歌です。
み佩かしを剣の池の 蓮葉に溜まれる水の ゆくへなみ我がする時に 逢ふべしと逢ひたる君を な寐ねそと母聞こせども 我が心清隅の池の 池の底我れは忘れじ 直に逢ふまでに(13-3289)
<みはかしをつるぎのいけの はちすばにたまれるみづの ゆくへなみわがするときに あふべしとあひたるきみを ないねそとははきこせども あがこころきよすみのいけの いけのそこわれはわすれじ ただにあふまでに>
<<剣の池の蓮の葉に溜まっている水がころころとどちらこぼれるか予測できないように,私がどうすれば迷っていると「逢いなさい」と神のお告げがあったの。でも,お母さんは彼に体を許しちゃだめだっていうから,私の心は清隅の池の池の底に沈んだよう。でも,あなたのこと絶対忘れない。本当に逢えるまでは>>
なかなか,具体的な表現の相聞歌ですね。
池に蓮の葉が立派に現れるのは夏です。夏が終わるころに妻問が活発になります。それを待つ女性の気持ちでしょう,この長歌は。
最後は池に生える「菅(すげ)」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
真野の池の小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか(11-2772)
<まののいけのこすげをかさに ぬはずしてひとのとほなを たつべきものか>
<<真野の池に生える小菅を笠に縫わないのに(契りもしていないのに),世間の人は二人の浮き名を立てるものだ>>
菅は湿地,池,湖沼,川沿いの浅い場所など水が多い場所を好んで生育するようです。
ここで出てくる「真野の池」には,たくさんの菅が生えていたのでしょう。
その菅の小さいのを使って笠を編んで送り合うような深い関係にまだなっていないのに,世間の人はいろいろあらぬことを噂して,二人が愛を深め行くプロセスの邪魔をしていることを嘆いた短歌のような気がします。
このように池に生える植物も多様なものが万葉集に出てきて,当時の人が池に対する見方の多様性が改めて確認できたかもしれません。
今もあるシリーズ「池(4:まとめ)」に続く。
2016年2月8日月曜日
今もあるシリーズ「池(2)」…池のほとりに植えられた木は訪問者に安らぎを与える?
「池」の2回目は,池の周りに植えられていた植物について,見てみましょう。
当時,庭に掘った池やため池の周りには,植物を植えていたことが,万葉集から分かります。
さっそくその例を紹介します。まず,天平宝字2(758)年2月中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)邸の宴で甘南備伊香(かむなびのいかご)が詠んだとされる池の周りの馬酔木からです。
礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも(20-4513)
<いそかげのみゆるいけみづ てるまでにさけるあしびの ちらまくをしも>
<<磯影の映っている池の水面を照らすように咲いている馬酔木の花が散ってしまうのは惜しいですね>>
清麻呂邸の庭園の池の傍に植えられた馬酔木の白い可憐な花が満開で見事だったのでしょうね。
この前の短歌でも大伴家持が同様にその馬酔木を賛美して詠っています。
さて,次は池の傍に柳を植えることを詠んだ東歌です。
小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも(14-3492)
<をやまだのいけのつつみに さすやなぎなりもならずも なとふたりはも>
<<小山田の池の堤に挿し木した柳の小枝が,根を張り成長するかどうかのように,この恋が成るか成らないかはあなたと私のふたりが決めることですね>>
当時,柳も挿し木で増やすことが可能であることを知っており,池の堤に植えられた柳は挿し木で植えられた可能性を示唆する短歌だと私は思います。
それから,この恋人同士が挿した柳が育っていって,二人が結婚し,子供ができ,その子共たちに「この木がお父さんとお母さんが出逢ったときに植えた柳の木なんだよ」なんて話をする光景があるといいですね。
今度は短歌の作者は分からないが,聖武(しあうむ)天皇が池の傍で冬に開いた宴席で阿倍虫麻呂(あへのむしまろ)が覚えていて,伝誦したという池の松を詠んだという1首です。
池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む(8-1650)
<いけのへのまつのうらばに ふるゆきはいほへふりしけ あすさへもみむ>
<<池のほとりの松の葉先に降る雪は幾重にも積ってほしいですね。明日も見られますから>>
あまり雪が降らない平城京で,珍しく雪が降ったのでしょうか。池の傍で雪見の宴を催したのでしょうね。
池の傍に植えられた松の葉に雪が積もって,普段とは違う美しさを感じたのでしょうか。
最後は,池の傍に生えているケヤキの古名の槻と笹が出くる柿本人麻呂歌集よりの旋頭歌です。
池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ(7-1276)
<いけのへのをつきのしたのしのなかりそね それをだにきみがかたみにみつつしのはむ>
<<池のそばの槻の下の小竹を刈らないでぐたさいな。それだけでもあなたと見て,逢ったときのことを思い出すでしょう>>
恋人と池のほとりのケヤキの木の下で逢ったのでしょうか。
下に生えていた小竹を採って,恋人は渡してくれた。そんな思い出があったのに,それを刈ってしまってはその時のことが偲ばれなくなってしまうという気持ちが私には伝わってきます。
今も公園の池のほとりのベンチは恋人どうしが逢って話をする場所です。また,木蔭を作るためにいろいろな木を植えている状況は,当時は今と同じような雰囲気だったかもしれませんね。
今もあるシリーズ「池(3)」に続く。
当時,庭に掘った池やため池の周りには,植物を植えていたことが,万葉集から分かります。
さっそくその例を紹介します。まず,天平宝字2(758)年2月中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)邸の宴で甘南備伊香(かむなびのいかご)が詠んだとされる池の周りの馬酔木からです。
礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも(20-4513)
<いそかげのみゆるいけみづ てるまでにさけるあしびの ちらまくをしも>
<<磯影の映っている池の水面を照らすように咲いている馬酔木の花が散ってしまうのは惜しいですね>>
清麻呂邸の庭園の池の傍に植えられた馬酔木の白い可憐な花が満開で見事だったのでしょうね。
この前の短歌でも大伴家持が同様にその馬酔木を賛美して詠っています。
さて,次は池の傍に柳を植えることを詠んだ東歌です。
小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも(14-3492)
<をやまだのいけのつつみに さすやなぎなりもならずも なとふたりはも>
<<小山田の池の堤に挿し木した柳の小枝が,根を張り成長するかどうかのように,この恋が成るか成らないかはあなたと私のふたりが決めることですね>>
当時,柳も挿し木で増やすことが可能であることを知っており,池の堤に植えられた柳は挿し木で植えられた可能性を示唆する短歌だと私は思います。
それから,この恋人同士が挿した柳が育っていって,二人が結婚し,子供ができ,その子共たちに「この木がお父さんとお母さんが出逢ったときに植えた柳の木なんだよ」なんて話をする光景があるといいですね。
今度は短歌の作者は分からないが,聖武(しあうむ)天皇が池の傍で冬に開いた宴席で阿倍虫麻呂(あへのむしまろ)が覚えていて,伝誦したという池の松を詠んだという1首です。
池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む(8-1650)
<いけのへのまつのうらばに ふるゆきはいほへふりしけ あすさへもみむ>
<<池のほとりの松の葉先に降る雪は幾重にも積ってほしいですね。明日も見られますから>>
あまり雪が降らない平城京で,珍しく雪が降ったのでしょうか。池の傍で雪見の宴を催したのでしょうね。
池の傍に植えられた松の葉に雪が積もって,普段とは違う美しさを感じたのでしょうか。
最後は,池の傍に生えているケヤキの古名の槻と笹が出くる柿本人麻呂歌集よりの旋頭歌です。
池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ(7-1276)
<いけのへのをつきのしたのしのなかりそね それをだにきみがかたみにみつつしのはむ>
<<池のそばの槻の下の小竹を刈らないでぐたさいな。それだけでもあなたと見て,逢ったときのことを思い出すでしょう>>
恋人と池のほとりのケヤキの木の下で逢ったのでしょうか。
下に生えていた小竹を採って,恋人は渡してくれた。そんな思い出があったのに,それを刈ってしまってはその時のことが偲ばれなくなってしまうという気持ちが私には伝わってきます。
今も公園の池のほとりのベンチは恋人どうしが逢って話をする場所です。また,木蔭を作るためにいろいろな木を植えている状況は,当時は今と同じような雰囲気だったかもしれませんね。
今もあるシリーズ「池(3)」に続く。
2016年1月31日日曜日
今もあるシリーズ「池(1)」…万葉時代,「池」は「生ける」に通じるものだった?
今回から何回か「池(いけ)」にいて,万葉集を見ていきます。
「池」を広辞苑で見ると「土を掘って人工的に水をためた所。自然の土地のくぼみに水のたまった所。」とあります。
広辞苑では,池には人工的に作られたものと自然が偶然作ったものとがあることを説明していることになりそうです。
後者(自然の池)は,長野県上高地にある大正池,同じく長野県白馬村にある八方池,富山県立山室堂にあるミクリガ池,リンドウ池,ミドリガ池などがその事例でしょうか。
前者(人工に作られた池)は,一般的な言葉として「ため池」,「貯水池」,「遊水地」,「養魚池」(ウナギ養殖では特に「養鰻(ようまん)池」と呼ぶ)などがそれにあたるのでしょう。
万葉時代は,大陸からの新しい文化や建築技法が流入し,貴族や豪族といった富裕層が,積極的に当時としては豪華な住居や集会する場所を建設していった中で,「池」のある造園も盛んになったのだと思います。
また,高度な農業技術の流入もあり,干ばつを防止するたの「ため池」が農地の中や周辺に多数掘られたのだろうと思います。
さらに,それらの「ため池」には,川や湖沼にいる魚(ドジョウ,コイ,フナなど)や鳥を生きたまま移住,繁殖させ,タンパク源となる食糧の採取にも利用した可能性があります。
そのため,万葉集に出てくる「池」は人工の池が比較的多く出てきます。
最初は,天武天皇の子である草壁皇子が27歳で亡くなった時(689年),それに対して柿本人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)からです。
嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず(2-170)
<しまのみやまがりのいけの はなちとりひとめにこひて いけにかづかず>
<<嶋の宮(皇子の邸宅)の池に放し飼いにされている鳥も,皇子の目が恋しくて水に潜ることもしない>>
草壁皇子の邸宅には,立派な庭とその中に鳥を放し飼いにできるほど大きな池があったのだろうと想像できます。
次も人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)ですが,亡くなったのはやはり天武天皇の子である高市皇子(696年)です。享年42歳。
埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ(2-201)
<はにやすのいけのつつみの こもりぬのゆくへをしらに とねりはまとふ>
<<埴安にある周囲の堤に生えた草で水面が見えないほどになっている沼池の水がどこにあるか分からないように,これからどうしたものかわからず舎人は途方にくれて惑うばかりだ>>
埴安の池は天の香具山の近くあったようですが,「堤」とあるように人工的に作られた様子がうかがえます。
最後の池を詠んだ短歌は,あの有名な天武天皇の子である大津皇子の辞世(686年)の1首です。享年24歳。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<<磐余の池に鳴く鴨を今日までしか見ることができないようだ。私は雲に隠れてしまうから>>
この3人の天武天皇の皇子たちの死に対して「池」のイメージが何か独特の雰囲気を醸し出しているように私は感じます。
「池」が生の場所であり,そこから永遠に離れることが結局死をイメージするような雰囲気かなと思うのです。
「生ける」の文語表現である「生く」の已然形「生け」と「池」は同じ発音であったすればなおさらでしょうか。
今もあるシリーズ「池(2)」に続く。
「池」を広辞苑で見ると「土を掘って人工的に水をためた所。自然の土地のくぼみに水のたまった所。」とあります。
広辞苑では,池には人工的に作られたものと自然が偶然作ったものとがあることを説明していることになりそうです。
後者(自然の池)は,長野県上高地にある大正池,同じく長野県白馬村にある八方池,富山県立山室堂にあるミクリガ池,リンドウ池,ミドリガ池などがその事例でしょうか。
前者(人工に作られた池)は,一般的な言葉として「ため池」,「貯水池」,「遊水地」,「養魚池」(ウナギ養殖では特に「養鰻(ようまん)池」と呼ぶ)などがそれにあたるのでしょう。
万葉時代は,大陸からの新しい文化や建築技法が流入し,貴族や豪族といった富裕層が,積極的に当時としては豪華な住居や集会する場所を建設していった中で,「池」のある造園も盛んになったのだと思います。
また,高度な農業技術の流入もあり,干ばつを防止するたの「ため池」が農地の中や周辺に多数掘られたのだろうと思います。
さらに,それらの「ため池」には,川や湖沼にいる魚(ドジョウ,コイ,フナなど)や鳥を生きたまま移住,繁殖させ,タンパク源となる食糧の採取にも利用した可能性があります。
そのため,万葉集に出てくる「池」は人工の池が比較的多く出てきます。
最初は,天武天皇の子である草壁皇子が27歳で亡くなった時(689年),それに対して柿本人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)からです。
嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず(2-170)
<しまのみやまがりのいけの はなちとりひとめにこひて いけにかづかず>
<<嶋の宮(皇子の邸宅)の池に放し飼いにされている鳥も,皇子の目が恋しくて水に潜ることもしない>>
草壁皇子の邸宅には,立派な庭とその中に鳥を放し飼いにできるほど大きな池があったのだろうと想像できます。
次も人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)ですが,亡くなったのはやはり天武天皇の子である高市皇子(696年)です。享年42歳。
埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ(2-201)
<はにやすのいけのつつみの こもりぬのゆくへをしらに とねりはまとふ>
<<埴安にある周囲の堤に生えた草で水面が見えないほどになっている沼池の水がどこにあるか分からないように,これからどうしたものかわからず舎人は途方にくれて惑うばかりだ>>
埴安の池は天の香具山の近くあったようですが,「堤」とあるように人工的に作られた様子がうかがえます。
最後の池を詠んだ短歌は,あの有名な天武天皇の子である大津皇子の辞世(686年)の1首です。享年24歳。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<<磐余の池に鳴く鴨を今日までしか見ることができないようだ。私は雲に隠れてしまうから>>
この3人の天武天皇の皇子たちの死に対して「池」のイメージが何か独特の雰囲気を醸し出しているように私は感じます。
「池」が生の場所であり,そこから永遠に離れることが結局死をイメージするような雰囲気かなと思うのです。
「生ける」の文語表現である「生く」の已然形「生け」と「池」は同じ発音であったすればなおさらでしょうか。
今もあるシリーズ「池(2)」に続く。
2016年1月23日土曜日
今もあるシリーズ「むしろ」…万葉時代「むしろ」のイメージはムシロ良かった?
今「むしろ」を知っている若い人は少ないかもしれませんね。
『「ゴザ」なら知っているんだけど』という人はまだ多いかもしれません。しかし,名探偵ポアロや刑事コロンボなら『そう答えた人は実は「むしろ」を知っているのである』と断言することになりそうですね。結局同じものを指していますから。
さて,万葉集で「むしろ」やそれをイメージして詠んだ和歌は短歌3首(すべて詠み人知らず)しかありません。
まず,1首目は吉野の美しさを詠んだ短歌です。
み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰れか織りけむ経緯なしに(7-1120)
<みよしののあをねがたけの こけむしろたれかおりけむ たてぬきなしに>
<<美しい吉野の青根が岳の周辺では苔が一面むしろのように生えている。その苔のむしろは誰か人が丁寧に編んだように,経糸緯糸が感じられないくらいきれいだ>>
この作者は,当時でも観光地として有名であった吉野。そこからさらに奥にある青根が岳は,吉野とはまた違った趣がある風光明媚な場所だと,この短歌は詠んでいそうです。
今でも,奥飛騨,奥多摩,奥湯河原温泉,奥武蔵,奥道後温泉といった観光地があるように,青根が岳は奥吉野のようなイメージの場所だったのかもしれませんね。
そこは,人が踏み込んだことがないような一面に敷き詰められた「苔むしろ」。その美しさはまるで,緑の糸で細かく編んだむしろのようだと。
ここでの「むしろ」は「じゅうたん」に近い敷物のイメージかもしれませんね。
次は,夫として来るのを待つ女性の苦しい気持ちを詠んだ短歌です。
ひとり寝と薦朽ちめやも綾席緒になるまでに君をし待たむ(11-2538)
<ひとりぬとこもくちめやも あやむしろをになるまでに きみをしまたむ>
<<独り寝で薦が朽ちることはあるでしょうか。でも,綾むしろが解けて緒になるまで,もっとあなた「を」お待ちしましています>>
薦はマコモで編んだ敷物です。ある意味大衆品の代名詞ですが,それでも一人で使っている分には長持ちする。まして,高級品である綾織のむしろ(じゅうたん)はもっと丈夫で,それが「緒」(周囲が徐々にほつれてしまい紐のよう)になるまであなたを待つという,作者の強い気持ちを詠み込んだ短歌だと私は思います。
この短歌,本人の苦しい思いはもちろん強く私に伝わってきますが,『当時もう「綾織のむしろ」,すなわち高級な敷物が製造されていて,それなりに豊かな家では使われていた』ということに興味を覚えます。
万葉集は,いろいろな譬えを使って相手に気持ちを伝える手法が使われます。それが,文学的に高度な(上手い)表現かどうかは私にはあまり興味がありません。
それよりも,その例示によって当時の人々の生活が手に取るように分かり,見えることに万葉集の本当の価値を私は感じるのです。
最後は「むしろ」を序詞に使って,逢いたいことを表現した短歌です。
玉桙の道行き疲れ稲むしろしきても君を見むよしもがも(11-2643)
<たまほこのみちゆきつかれ いなむしろしきてもきみを みむよしもがも>
<<長い旅で歩き疲れて休むために稲筵を広げて敷くように,広くあなたにお逢いできる方法があるとよいのにね>>
この短歌の言いたいことは,もっと広く(たっぷり)あなたと逢いたいという思い。
「何だ,それだけ?」という人には,私がこの短歌を評価する価値が分からないのかもしれません。
・当時,稲わらで編んだ「むしろ」があり,「稲むしろ」と呼んでいた。
・旅(歩行中心)には,稲むしろを携帯していた。
・稲むしろは,旅道中の休憩に使っていた。
・野宿用に大きなサイズのものが在ったかもしれない。
・腰かけるときは折りたたんで,クッションのようにしたかもしれない。
こんな当時の旅行道具としての「むしろ」を想像させてくれるこの短歌は,私にとってはcool!。
今もあるシリーズ「池(1)」に続く。
『「ゴザ」なら知っているんだけど』という人はまだ多いかもしれません。しかし,名探偵ポアロや刑事コロンボなら『そう答えた人は実は「むしろ」を知っているのである』と断言することになりそうですね。結局同じものを指していますから。
さて,万葉集で「むしろ」やそれをイメージして詠んだ和歌は短歌3首(すべて詠み人知らず)しかありません。
まず,1首目は吉野の美しさを詠んだ短歌です。
み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰れか織りけむ経緯なしに(7-1120)
<みよしののあをねがたけの こけむしろたれかおりけむ たてぬきなしに>
<<美しい吉野の青根が岳の周辺では苔が一面むしろのように生えている。その苔のむしろは誰か人が丁寧に編んだように,経糸緯糸が感じられないくらいきれいだ>>
この作者は,当時でも観光地として有名であった吉野。そこからさらに奥にある青根が岳は,吉野とはまた違った趣がある風光明媚な場所だと,この短歌は詠んでいそうです。
今でも,奥飛騨,奥多摩,奥湯河原温泉,奥武蔵,奥道後温泉といった観光地があるように,青根が岳は奥吉野のようなイメージの場所だったのかもしれませんね。
そこは,人が踏み込んだことがないような一面に敷き詰められた「苔むしろ」。その美しさはまるで,緑の糸で細かく編んだむしろのようだと。
ここでの「むしろ」は「じゅうたん」に近い敷物のイメージかもしれませんね。
次は,夫として来るのを待つ女性の苦しい気持ちを詠んだ短歌です。
ひとり寝と薦朽ちめやも綾席緒になるまでに君をし待たむ(11-2538)
<ひとりぬとこもくちめやも あやむしろをになるまでに きみをしまたむ>
<<独り寝で薦が朽ちることはあるでしょうか。でも,綾むしろが解けて緒になるまで,もっとあなた「を」お待ちしましています>>
薦はマコモで編んだ敷物です。ある意味大衆品の代名詞ですが,それでも一人で使っている分には長持ちする。まして,高級品である綾織のむしろ(じゅうたん)はもっと丈夫で,それが「緒」(周囲が徐々にほつれてしまい紐のよう)になるまであなたを待つという,作者の強い気持ちを詠み込んだ短歌だと私は思います。
この短歌,本人の苦しい思いはもちろん強く私に伝わってきますが,『当時もう「綾織のむしろ」,すなわち高級な敷物が製造されていて,それなりに豊かな家では使われていた』ということに興味を覚えます。
万葉集は,いろいろな譬えを使って相手に気持ちを伝える手法が使われます。それが,文学的に高度な(上手い)表現かどうかは私にはあまり興味がありません。
それよりも,その例示によって当時の人々の生活が手に取るように分かり,見えることに万葉集の本当の価値を私は感じるのです。
最後は「むしろ」を序詞に使って,逢いたいことを表現した短歌です。
玉桙の道行き疲れ稲むしろしきても君を見むよしもがも(11-2643)
<たまほこのみちゆきつかれ いなむしろしきてもきみを みむよしもがも>
<<長い旅で歩き疲れて休むために稲筵を広げて敷くように,広くあなたにお逢いできる方法があるとよいのにね>>
この短歌の言いたいことは,もっと広く(たっぷり)あなたと逢いたいという思い。
「何だ,それだけ?」という人には,私がこの短歌を評価する価値が分からないのかもしれません。
・当時,稲わらで編んだ「むしろ」があり,「稲むしろ」と呼んでいた。
・旅(歩行中心)には,稲むしろを携帯していた。
・稲むしろは,旅道中の休憩に使っていた。
・野宿用に大きなサイズのものが在ったかもしれない。
・腰かけるときは折りたたんで,クッションのようにしたかもしれない。
こんな当時の旅行道具としての「むしろ」を想像させてくれるこの短歌は,私にとってはcool!。
今もあるシリーズ「池(1)」に続く。
2015年12月30日水曜日
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(6:まとめ)」…旅で聞こえる音は孤独感をさらに増加させる?
5回に渡ってアップしてきた「音(おと・ね)」については,今回が最後となります。
万葉集今もあるシリーズの各テーマについて中で,一番多い回数になったようです。
それだけ,万葉集において,何らかの音(自然が発する音,動植物が発する音,自分や他人が発する音)を詠み込んだ和歌が多いのかもしれません。
特に,人が発する音は新しい機械,道具,楽器などの導入により,多様性が増したのだと思います。
自然や動植物が発する音も万葉時代以前とあまり変わらなかったとしても,それを聞く人間側の感じ方はどうでしょうか。
万葉時代よりずっと前は,ほとんどの人が農業を営んでいたすると,多くの人が日が暮れて眠りにつき,夜が明けて田や畑に行くという生活で感じる自然や動植物のが発する音の感じ方も同じだったでしょう。
しかし,さまざまな守衛(津守,時守,崎守,玉守,島守,道守,野守,山守),京や地方の兵士,旅をする人,役人等で定期的に休みが取れる人,都会に住む人,鑑賞用の庭をもてる人,宴への参加が仕事のような人,人を楽しませる演芸が仕事の人,そして路上生活者などが現れた万葉時代では音を感じ方にも多様性が急速に広まった時代だと私は分析します。
これらの音の感じ方の多様性の広がりから感じられる社会の変化についても,万葉集はきめ細かく1300年以上も経った私たちに教えてくれているのです。
「音」の最終回は,丹比笠麻呂(たじひのかさまろ)が筑紫の国(九州北部)に下る旅に出た時,別れも告げずに来た恋人を恋しく思い詠んだとされる次の長歌1首を紹介しておきたいと思います。
臣の女の櫛笥に乗れる 鏡なす御津の浜辺に さ丹つらふ紐解き放けず 我妹子に恋ひつつ居れば 明け暮れの朝霧隠り 鳴く鶴の音のみし泣かゆ 我が恋ふる千重の一重も 慰もる心もありやと 家のあたり我が立ち見れば 青旗の葛城山に たなびける白雲隠る 天さがる鄙の国辺に 直向ふ淡路を過ぎ 粟島をそがひに見つつ 朝なぎに水手の声呼び 夕なぎに楫の音しつつ 波の上をい行きさぐくみ 岩の間をい行き廻り 稲日都麻浦廻を過ぎて 鳥じものなづさひ行けば 家の島荒磯の上に うち靡き繁に生ひたる なのりそがなどかも妹に 告らず来にけむ(4-509)
<おみのめのくしげにのれる かがみなすみつのはまへに さにつらふひもときさけず わぎもこにこひつつをれば あけくれのあさぎりごもり なくたづのねのみしなかゆ あがこふるちへのひとへも なぐさもるこころもありやと いへのあたりわがたちみれば あをはたのかづらきやまに たなびけるしらくもがくる あまさがるひなのくにべに ただむかふあはぢをすぎ あはしまをそがひにみつつ あさなぎにかこのこゑよび ゆふなぎにかぢのおとしつつ なみのうへをいゆきさぐくみ いはのまをいゆきもとほり いなびつまうらみをすぎて とりじものなづさひゆけば いへのしまありそのうへに うちなびきしじにおひたる なのりそがなどかもいもに のらずきにけむ>
<<女官の櫛笥に乗る鏡を見(み)つめる御津(みつ)の浜辺にて,下紐をまだ解くことも(共寝)できずの彼女を恋いしく思うと,折しも日々朝霧の中で鳴く鶴のように声を出して泣けてしかたがない。この恋しい気持ちの千分の一でも気が慰められるかと,我が家のある大和の方を背伸びして望むが,葛城山にたなびいている白雲に隠れ見えもしない。田舎の遠い国に向うことになる淡路を過ぎて,粟島もうしろに見えるようになり,朝凪には漕手が声をあげ,夕凪には櫓をきしらせて波を押し分け押し分け進み,岩のあいだをすり抜けて進み,稲日都麻の浦のあたりも通り過ぎた。まるで水鳥のようにもまれながら漂い行くと,(家と聞くと)聞くことさえ懐かしい家島の波荒い磯になのりそが靡いて生えているが,彼女にわけも告げず(のりそすることなく)来てしまった>>
この長歌で「音」に関連している私が思う部分を取りあげます。
鳴く鶴の音‥啼いている鶴の声
音のみし泣かゆ‥声出して泣く
水手の声呼び‥漕ぎ手の掛け声が出て
楫の音‥櫓を押すしたり引いたりする音
波の上をい行きさぐくみ‥舟が波を押しのける音
荒磯の上に うち靡き‥荒い波が寄せる音
結局,この1首でも万葉時代における「音」の感性に関する多様性が理解できるかもしれませんね,
今回で投稿398回です。次から2016年年末年始スペシャルを兼ねた投稿400回記念スペシャルを何回かに分けて投稿します。
投稿400回記念スペシャル(1)に続く。
万葉集今もあるシリーズの各テーマについて中で,一番多い回数になったようです。
それだけ,万葉集において,何らかの音(自然が発する音,動植物が発する音,自分や他人が発する音)を詠み込んだ和歌が多いのかもしれません。
特に,人が発する音は新しい機械,道具,楽器などの導入により,多様性が増したのだと思います。
自然や動植物が発する音も万葉時代以前とあまり変わらなかったとしても,それを聞く人間側の感じ方はどうでしょうか。
万葉時代よりずっと前は,ほとんどの人が農業を営んでいたすると,多くの人が日が暮れて眠りにつき,夜が明けて田や畑に行くという生活で感じる自然や動植物のが発する音の感じ方も同じだったでしょう。
しかし,さまざまな守衛(津守,時守,崎守,玉守,島守,道守,野守,山守),京や地方の兵士,旅をする人,役人等で定期的に休みが取れる人,都会に住む人,鑑賞用の庭をもてる人,宴への参加が仕事のような人,人を楽しませる演芸が仕事の人,そして路上生活者などが現れた万葉時代では音を感じ方にも多様性が急速に広まった時代だと私は分析します。
これらの音の感じ方の多様性の広がりから感じられる社会の変化についても,万葉集はきめ細かく1300年以上も経った私たちに教えてくれているのです。
「音」の最終回は,丹比笠麻呂(たじひのかさまろ)が筑紫の国(九州北部)に下る旅に出た時,別れも告げずに来た恋人を恋しく思い詠んだとされる次の長歌1首を紹介しておきたいと思います。
臣の女の櫛笥に乗れる 鏡なす御津の浜辺に さ丹つらふ紐解き放けず 我妹子に恋ひつつ居れば 明け暮れの朝霧隠り 鳴く鶴の音のみし泣かゆ 我が恋ふる千重の一重も 慰もる心もありやと 家のあたり我が立ち見れば 青旗の葛城山に たなびける白雲隠る 天さがる鄙の国辺に 直向ふ淡路を過ぎ 粟島をそがひに見つつ 朝なぎに水手の声呼び 夕なぎに楫の音しつつ 波の上をい行きさぐくみ 岩の間をい行き廻り 稲日都麻浦廻を過ぎて 鳥じものなづさひ行けば 家の島荒磯の上に うち靡き繁に生ひたる なのりそがなどかも妹に 告らず来にけむ(4-509)
<おみのめのくしげにのれる かがみなすみつのはまへに さにつらふひもときさけず わぎもこにこひつつをれば あけくれのあさぎりごもり なくたづのねのみしなかゆ あがこふるちへのひとへも なぐさもるこころもありやと いへのあたりわがたちみれば あをはたのかづらきやまに たなびけるしらくもがくる あまさがるひなのくにべに ただむかふあはぢをすぎ あはしまをそがひにみつつ あさなぎにかこのこゑよび ゆふなぎにかぢのおとしつつ なみのうへをいゆきさぐくみ いはのまをいゆきもとほり いなびつまうらみをすぎて とりじものなづさひゆけば いへのしまありそのうへに うちなびきしじにおひたる なのりそがなどかもいもに のらずきにけむ>
<<女官の櫛笥に乗る鏡を見(み)つめる御津(みつ)の浜辺にて,下紐をまだ解くことも(共寝)できずの彼女を恋いしく思うと,折しも日々朝霧の中で鳴く鶴のように声を出して泣けてしかたがない。この恋しい気持ちの千分の一でも気が慰められるかと,我が家のある大和の方を背伸びして望むが,葛城山にたなびいている白雲に隠れ見えもしない。田舎の遠い国に向うことになる淡路を過ぎて,粟島もうしろに見えるようになり,朝凪には漕手が声をあげ,夕凪には櫓をきしらせて波を押し分け押し分け進み,岩のあいだをすり抜けて進み,稲日都麻の浦のあたりも通り過ぎた。まるで水鳥のようにもまれながら漂い行くと,(家と聞くと)聞くことさえ懐かしい家島の波荒い磯になのりそが靡いて生えているが,彼女にわけも告げず(のりそすることなく)来てしまった>>
この長歌で「音」に関連している私が思う部分を取りあげます。
鳴く鶴の音‥啼いている鶴の声
音のみし泣かゆ‥声出して泣く
水手の声呼び‥漕ぎ手の掛け声が出て
楫の音‥櫓を押すしたり引いたりする音
波の上をい行きさぐくみ‥舟が波を押しのける音
荒磯の上に うち靡き‥荒い波が寄せる音
結局,この1首でも万葉時代における「音」の感性に関する多様性が理解できるかもしれませんね,
今回で投稿398回です。次から2016年年末年始スペシャルを兼ねた投稿400回記念スペシャルを何回かに分けて投稿します。
投稿400回記念スペシャル(1)に続く。
2015年12月17日木曜日
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(5)」…慟哭のシーンは大声で泣く姿か?泣くのを我慢している姿か?
「音(おと,ね)」の5回目は人が「泣く音(声)」について万葉集を見ていきます。
韓国の人が,家族が事故や災害で亡くなると,たいへんな大声で泣く姿が報道されることがあります。
おそらく,韓国ではその声の大きさが悲しみの大きさと比例していると感じられ,悲しみを表現する代表的なシーンとなるのでしょう。
ところが,日本では「悲しみを堪え,耐えている姿」が悲しみの大きさを表すようです。
本当は大声で泣きたいのだけれど,必死に堪えている・常に自制することを美徳とする日本人にはそれが深い悲しみを他者が感じるシーンと映るのでしょう。
このように,慟哭の感情表現の仕方は国(たとえ隣国といえども)の文化や美徳とする考え方の違いで結構異なることがあります。
これを理解しない人が見ると「なんて日本人は冷たい人種なんだろう」「韓国人は意図して大袈裟にやっているだけだろう」というように,間違ったとらえ方をしてしまうことがあります。
自分たちの美徳や感情表現がどの国でも通用すると思い込むことは,相手から理解されない価値観の押し付けになってしまうことにお互いが注意していく必要あると私は思います。
さて,万葉集では「音のみし泣く」という表現が出てきます。意味は「声をあげて泣くばかり」となりそうです。
例として,中臣宅守(なかとみのやかもり)が越前に配流のとき狭野茅上娘子(さちのちがみのをとめ)に贈った短歌1首と逆に娘子から宅守に贈った短歌2首を紹介します。
あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに音のみし泣かゆ(15-3732)
<あかねさすひるはものもひ ぬばたまのよるはすがらに ねのみしなかゆ>
<<昼はただぼ~思い悩み,そして夜はずっと声をあげて泣いてばかりになりそうだ>>
このころは君を思ふとすべもなき恋のみしつつ音のみしぞ泣く(15-3768)
<このころはきみをおもふと すべもなきこひのみしつつ ねのみしぞなく>
<<この頃は,あなたを思うとどうしてよいかも分からず,恋しい思いが募り,ただ声をあげて泣いてばかりなのです>>
昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く(15-3777)
<きのふけふきみにあはずて するすべのたどきをしらに ねのみしぞなく>
<<昨日も今日も,あなたに逢えないので,どうすることもできず,声を上げて泣いてばかりなのです>>
最初の宅守の贈歌(夜泣いている)に対して,娘子は昼も夜も,昨日も今日も声をあげて泣いていることを返します。
枕詞を2つも使って詠んだ宅守(線が弱そう)に対して,強い言葉をたくさん使って詠んだ(線の強そうな)娘子という構図が見えてきそうですね。
最後は,別の声を出してなく表現の言葉を使った詠み人知らず(女性)の短歌です。
思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ(11-2604)
<おもひいでてねにはなくとも いちしろくひとのしるべく なげかすなゆめ>
<<思い出して声に出して泣いたとしても,はっきりと人に知られてしまうように嘆いたりしないわ>>
恋人の彼と離別したのでしょうか,それとも果敢ない恋と悟ったのでしょうか。
作者が泣くことで,気持ちの整理をつけようとするが,忘れられないのでしょう。下の句の内容は,まさに気持ちの整理ができなさそうだからでしょうか。
冒頭で示した日本人が泣くときに耐える,堪える美学は,万葉集の時代からあったのかもしれませんね。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(6:まとめ)」に続く。
韓国の人が,家族が事故や災害で亡くなると,たいへんな大声で泣く姿が報道されることがあります。
おそらく,韓国ではその声の大きさが悲しみの大きさと比例していると感じられ,悲しみを表現する代表的なシーンとなるのでしょう。
ところが,日本では「悲しみを堪え,耐えている姿」が悲しみの大きさを表すようです。
本当は大声で泣きたいのだけれど,必死に堪えている・常に自制することを美徳とする日本人にはそれが深い悲しみを他者が感じるシーンと映るのでしょう。
このように,慟哭の感情表現の仕方は国(たとえ隣国といえども)の文化や美徳とする考え方の違いで結構異なることがあります。
これを理解しない人が見ると「なんて日本人は冷たい人種なんだろう」「韓国人は意図して大袈裟にやっているだけだろう」というように,間違ったとらえ方をしてしまうことがあります。
自分たちの美徳や感情表現がどの国でも通用すると思い込むことは,相手から理解されない価値観の押し付けになってしまうことにお互いが注意していく必要あると私は思います。
さて,万葉集では「音のみし泣く」という表現が出てきます。意味は「声をあげて泣くばかり」となりそうです。
例として,中臣宅守(なかとみのやかもり)が越前に配流のとき狭野茅上娘子(さちのちがみのをとめ)に贈った短歌1首と逆に娘子から宅守に贈った短歌2首を紹介します。
あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに音のみし泣かゆ(15-3732)
<あかねさすひるはものもひ ぬばたまのよるはすがらに ねのみしなかゆ>
<<昼はただぼ~思い悩み,そして夜はずっと声をあげて泣いてばかりになりそうだ>>
このころは君を思ふとすべもなき恋のみしつつ音のみしぞ泣く(15-3768)
<このころはきみをおもふと すべもなきこひのみしつつ ねのみしぞなく>
<<この頃は,あなたを思うとどうしてよいかも分からず,恋しい思いが募り,ただ声をあげて泣いてばかりなのです>>
昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く(15-3777)
<きのふけふきみにあはずて するすべのたどきをしらに ねのみしぞなく>
<<昨日も今日も,あなたに逢えないので,どうすることもできず,声を上げて泣いてばかりなのです>>
最初の宅守の贈歌(夜泣いている)に対して,娘子は昼も夜も,昨日も今日も声をあげて泣いていることを返します。
枕詞を2つも使って詠んだ宅守(線が弱そう)に対して,強い言葉をたくさん使って詠んだ(線の強そうな)娘子という構図が見えてきそうですね。
最後は,別の声を出してなく表現の言葉を使った詠み人知らず(女性)の短歌です。
思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ(11-2604)
<おもひいでてねにはなくとも いちしろくひとのしるべく なげかすなゆめ>
<<思い出して声に出して泣いたとしても,はっきりと人に知られてしまうように嘆いたりしないわ>>
恋人の彼と離別したのでしょうか,それとも果敢ない恋と悟ったのでしょうか。
作者が泣くことで,気持ちの整理をつけようとするが,忘れられないのでしょう。下の句の内容は,まさに気持ちの整理ができなさそうだからでしょうか。
冒頭で示した日本人が泣くときに耐える,堪える美学は,万葉集の時代からあったのかもしれませんね。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(6:まとめ)」に続く。
2015年12月12日土曜日
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(4)」 …もう鳥の鳴き声は田舎に行かないと聞けないのか?
「音(おと,ね)」の4回目は「鳥」に関する「音」を万葉集で見ていきます。
現代,都会に住む私たちがよく見かける鳥はカラスでしょうか。
スズメもよく見かけると思いますが,カラスが圧倒的に大きいので,どうしても印象に残ってしまいますね。最近ではムクドリの大群の鳴き声が気になるときがあります(鳴き声だけでなく,フンの心配もしますが)。
さて,万葉集では鳥がたくさん詠まれています。
ホトトギス,ウグイス,カリ(雁),ツル(鶴),チドリ(千鳥),ワシ(鷲)のように鳴き声が印象的な鳥も多く出てきます。
最初は「雁が音」を詠んだ聖武天皇の短歌1首を紹介しますが,「雁が音」を詠んだ和歌は万葉集で実に30数首もあります。
今朝の明雁が音寒く聞きしなへ野辺の浅茅ぞ色づきにける(8-1540)
<けさのあけかりがねさむく ききしなへのへのあさぢぞ いろづきにける>
<<今朝の明け方に雁の鳴き声が寒々と聞え,そして野辺の浅茅が色づいたなあ>>
聖武天皇が,季節が秋になっことを,早朝「雁が音」という「音」で知り,外に出てみれば浅茅(背の低い草)が緑から黄色に変わっていて,秋が深まったことを感じられたという短歌でしょう。
聖武天皇ぐらいになると,忙しくて中々外に出られない身であり,外出時があったとしても,駕籠に乗って移動し,外の風景をじっくり見ることもできなかったのかもしれません。
簡潔に言えば「雁が音」と「秋」の相関関係を「浅茅」の色付きで確認しただけの短歌ということになり,文学的な深みはどうかと思う人もいるかもしれません。しかし,私は当時の人の自然に対する感性を知る上での1例とし,この短歌に対して何のネガティブイメージもありません。
さて,次は「雁」ではなく「鶴(たづ)」の「鶴が音」または「鶴の音」を詠んだ,飛鳥時代の歌人高安大嶋(たかやすのおほじま)の短歌を見ます。
旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえずありせば恋ひて死なまし(1-67)
<たびにしてものこほしきに たづがねもきこえずありせば こひてしなまし>
<<旅先でもの恋しく感じている。鶴の鳴き声も聞こえないとしたら,ひの恋しさで死んでしまうかもしれない>>
この短歌は,持統天皇が文武天皇に譲位したあと,難波の宮に行幸した時,お付の者たちが詠んだ和歌の1首です。
持統天皇が譲位する前は,藤原京での賑わいがあった。それに比べて,今来ている難波の宮は静かで,藤原京が慕われるという気持ちの表れでしょうか。唯一ツルの鳴き声だけが聞こえるだけ。もしそれも無ければ,あまりにも変化が無くて,「もの恋しい」を通り越して,死んでしまいそうということなのでしょう。
この短歌は,結局持統天皇の業績をたたえる気持ちを表したのだろうと私は思います。
次は,ホトトギスの鳴く音を越中赴任中に詠んだとされる大伴家持の短歌です。
ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも(17-3988)
<ぬばたまのつきにむかひて ほととぎすなくおとはるけし さとどほみかも>
<<月に向かって霍公鳥が鳴く声がはるかに聞こえてくる。霍公鳥は人里から離れたところにいるのだろうか>>
「ホトトギスが月に向かって鳴く」という表現が面白いと私は思います。「月」が出てきますから時間帯は当然夜ですね。但し,鳴いているホトトギスの姿は見えませんから,月に向かって鳴いているかどうか分かりません。何が月に向かっているように家持は思ったのでしょうか。
私の解釈です。ホトトギスは「テッペンカケタカ」と鳴きます。その「音(おん)」から,次に向かって鳴くと感じたか,当時はそう思われていた可能性があります。
遠くで鳴いているホトトギスに,近くまで来て欲しい。そして,月に向かって大きな声で鳴いて,綺麗な月が現れてほしい。そくな感情を家持は詠んだのだと私は思いたいです。
最後は,鷲(ワシ)の鳴き声の音を詠んだ東歌を紹介します。
筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに(14-3390)
<つくはねにかかなくわしの ねのみをかなきわたりなむ あふとはなしに>
<<筑波嶺でけたたましく鳴く鷲の大きな音で泣き続けよう。もう逢えないのだから>>
鷲の書き声は,犬の鳴き声に似ているような気がします。こり書き声がけたたましく続くと確かに大きな音に感じられるような気がします。この鷲の書き声に負けないほど大きな声で泣きたくなるこの失恋は本当に悲しかったのでしょうね。
ところで,私は鷲の鳴き声をあまり聞いたことがありません。でも,YouTubeにはちゃんと出てきます。万葉集の和歌を鑑賞するうえでも,ITC(情報通信技術)の利用価値が高くなっていくと私は思います。逆に,その技術が万葉集の歌人の感性の素晴らしさを証明する手段になるのかもしれません。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(5)」に続く。
現代,都会に住む私たちがよく見かける鳥はカラスでしょうか。
スズメもよく見かけると思いますが,カラスが圧倒的に大きいので,どうしても印象に残ってしまいますね。最近ではムクドリの大群の鳴き声が気になるときがあります(鳴き声だけでなく,フンの心配もしますが)。
さて,万葉集では鳥がたくさん詠まれています。
ホトトギス,ウグイス,カリ(雁),ツル(鶴),チドリ(千鳥),ワシ(鷲)のように鳴き声が印象的な鳥も多く出てきます。
最初は「雁が音」を詠んだ聖武天皇の短歌1首を紹介しますが,「雁が音」を詠んだ和歌は万葉集で実に30数首もあります。
今朝の明雁が音寒く聞きしなへ野辺の浅茅ぞ色づきにける(8-1540)
<けさのあけかりがねさむく ききしなへのへのあさぢぞ いろづきにける>
<<今朝の明け方に雁の鳴き声が寒々と聞え,そして野辺の浅茅が色づいたなあ>>
聖武天皇が,季節が秋になっことを,早朝「雁が音」という「音」で知り,外に出てみれば浅茅(背の低い草)が緑から黄色に変わっていて,秋が深まったことを感じられたという短歌でしょう。
聖武天皇ぐらいになると,忙しくて中々外に出られない身であり,外出時があったとしても,駕籠に乗って移動し,外の風景をじっくり見ることもできなかったのかもしれません。
簡潔に言えば「雁が音」と「秋」の相関関係を「浅茅」の色付きで確認しただけの短歌ということになり,文学的な深みはどうかと思う人もいるかもしれません。しかし,私は当時の人の自然に対する感性を知る上での1例とし,この短歌に対して何のネガティブイメージもありません。
さて,次は「雁」ではなく「鶴(たづ)」の「鶴が音」または「鶴の音」を詠んだ,飛鳥時代の歌人高安大嶋(たかやすのおほじま)の短歌を見ます。
旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえずありせば恋ひて死なまし(1-67)
<たびにしてものこほしきに たづがねもきこえずありせば こひてしなまし>
<<旅先でもの恋しく感じている。鶴の鳴き声も聞こえないとしたら,ひの恋しさで死んでしまうかもしれない>>
この短歌は,持統天皇が文武天皇に譲位したあと,難波の宮に行幸した時,お付の者たちが詠んだ和歌の1首です。
持統天皇が譲位する前は,藤原京での賑わいがあった。それに比べて,今来ている難波の宮は静かで,藤原京が慕われるという気持ちの表れでしょうか。唯一ツルの鳴き声だけが聞こえるだけ。もしそれも無ければ,あまりにも変化が無くて,「もの恋しい」を通り越して,死んでしまいそうということなのでしょう。
この短歌は,結局持統天皇の業績をたたえる気持ちを表したのだろうと私は思います。
次は,ホトトギスの鳴く音を越中赴任中に詠んだとされる大伴家持の短歌です。
ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも(17-3988)
<ぬばたまのつきにむかひて ほととぎすなくおとはるけし さとどほみかも>
<<月に向かって霍公鳥が鳴く声がはるかに聞こえてくる。霍公鳥は人里から離れたところにいるのだろうか>>
「ホトトギスが月に向かって鳴く」という表現が面白いと私は思います。「月」が出てきますから時間帯は当然夜ですね。但し,鳴いているホトトギスの姿は見えませんから,月に向かって鳴いているかどうか分かりません。何が月に向かっているように家持は思ったのでしょうか。
私の解釈です。ホトトギスは「テッペンカケタカ」と鳴きます。その「音(おん)」から,次に向かって鳴くと感じたか,当時はそう思われていた可能性があります。
遠くで鳴いているホトトギスに,近くまで来て欲しい。そして,月に向かって大きな声で鳴いて,綺麗な月が現れてほしい。そくな感情を家持は詠んだのだと私は思いたいです。
最後は,鷲(ワシ)の鳴き声の音を詠んだ東歌を紹介します。
筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに(14-3390)
<つくはねにかかなくわしの ねのみをかなきわたりなむ あふとはなしに>
<<筑波嶺でけたたましく鳴く鷲の大きな音で泣き続けよう。もう逢えないのだから>>
鷲の書き声は,犬の鳴き声に似ているような気がします。こり書き声がけたたましく続くと確かに大きな音に感じられるような気がします。この鷲の書き声に負けないほど大きな声で泣きたくなるこの失恋は本当に悲しかったのでしょうね。
ところで,私は鷲の鳴き声をあまり聞いたことがありません。でも,YouTubeにはちゃんと出てきます。万葉集の和歌を鑑賞するうえでも,ITC(情報通信技術)の利用価値が高くなっていくと私は思います。逆に,その技術が万葉集の歌人の感性の素晴らしさを証明する手段になるのかもしれません。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(5)」に続く。
2015年11月29日日曜日
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(3)」 ‥清流のイメージは「美しい水」+「流れる水の音」のコラボで決まる?
「音(おと)」の3回目は「水」に関する「音」について万葉集を見ていきます。
その音として,そのままの「水の音」のほか,「川の音」「瀬の音」「波の音」が万葉集に出てきます。
ここでは,それぞれ1首ずつ紹介していきます。
最初は「水の音」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
奥山の木の葉隠りて行く水の音聞きしより常忘らえず(11-2711)
<おくやまのこのはがくりて ゆくみづのおとききしより つねわすらえず>
<<奥山の木の葉に隠れて流れていく水の音を聞いてからは,(水がきれいだろうなと想像して)もう忘れられないのです>>
おそらく「水」は「女性」のたとえでしょう。
女性の噂を聞いて,そのうわさから「きっとたいへん美しい人に違いない」と思い,「見たい」「会いたい」といった気持ちが強くて,昼夜を問わず忘れられない自分の気持ちを詠んだのだろうと私は想像します。
次は,「川の音」を詠んだ短歌で,九州で防人(さきもり)の佑(すけ)をしていた大伴四綱(よつな)が大伴旅人が大宰府から帰任する時の宴で旅人に贈った1首です。
月夜よし川の音清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ(4-571)
<つくよよしかはのおときよし いざここにゆくもゆかぬも あそびてゆかむ>
<<月夜が素晴らしく,川の流れる音も清々しい。さあ!ここで都へ帰られる人も残る人も楽しく遊びましょう!>>
今後は大納言旅人様と一緒に楽しいひと時を過ごせなくなるので,今宵限りは美しい川のせせらぎが聞こえ,名月が見られる宴(うたげ)の場所(おそらく宴開催の場所としては最高の場所)で,旅人様と一緒に過ごせる最後の宴を楽しく進めましょうという意図の表わした短歌だと思います。
会社の送別会などの途中にあいさつを頼まれた人は,この短歌をパロディー化して紹介しても良いかもしれませんね。
たとえば,「眺めよし飲む音忙(せわ)しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ」というような感じですかね。
さて,次は「瀬の音」を詠んだ詠み人知らずの短歌1首です。
夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくしよしも(10-2222)
<ゆふさらずかはづなくなる みわがはのきよきせのおとを きかくしよしも>
<<夕方になると河鹿が鳴き声が聞こえる三輪の川で,さらに清らかな瀬の音が聞こえるのはよい気持ちだなあ>>
平城京の前の京(みやこ)である藤原京から数キロはなれた三輪の地で流れる川(今の大和川?)の瀬の音がカジカの声と混じってさわやかに聞こえることを詠んだと私は感じます。
この地は「三輪そうめん」が有名です。美味しいそうめんを作るために必要なきれいな水が豊富な土地だったのでしょうか。
最後は,「波の音」を詠んだこれも詠み人知らずの短歌です。ただし,この短歌で出くる波は海の波ではなく,川でできる波の音です。
泊瀬川流るる水脈の瀬を早みゐで越す波の音の清けく(7-1108)
<はつせがはながるるみをの せをはやみゐでこすなみの おとのきよけく>
<<泊瀬川の水の流れが速く、水が浅瀬を越えてできる波の音が清らかだ>>
泊瀬川は,前の短歌に出ている三輪から南に少し行き,伊勢方面へ行く今の初瀬街道沿いに流れる川といわれています。
奈良盆地(大和平野)から名張方面へ向かって山の中に入りますので,泊瀬川は清流でかつ急流の部分がたくさんあったのでしょうか。
急流の部分の瀬(浅いところ)では,川の表面に波が立ち,さらさらと波の音がして,その音はさらにきれいな水を引き立たせる効果が作者には感じられたのでしょう。
さて,今回あげた4首の内3首は万葉集に作者が載っていない(詠み人知らずの)短歌です。
この人たちは,万葉集に作者として名前が載っている人麻呂,赤人,旅人,家持,黒人,天皇,名だたる貴族たちに比べて有名では無かった(一般庶民とは限りませんが)のだろうと私は思います。
でも,これら3首の短歌から,作者の「川の水」で「音」を感じる感性が非常に繊細かつ鋭敏であること,そしてその表現力が優れていると私は感じます。
では,なぜこんな「音」を感性豊かに感じる和歌が多く作られたのでしょうか?
多くの名も無い人が作歌する目的があったはずです(和歌を作る自体はその目的を達するためのあくまで手段にすぎない)。
その目的を探るため,私の万葉集をリバースエンジニアリングする旅はまだまだ続きそうです。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(4)」に続く。
その音として,そのままの「水の音」のほか,「川の音」「瀬の音」「波の音」が万葉集に出てきます。
ここでは,それぞれ1首ずつ紹介していきます。
最初は「水の音」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
奥山の木の葉隠りて行く水の音聞きしより常忘らえず(11-2711)
<おくやまのこのはがくりて ゆくみづのおとききしより つねわすらえず>
<<奥山の木の葉に隠れて流れていく水の音を聞いてからは,(水がきれいだろうなと想像して)もう忘れられないのです>>
おそらく「水」は「女性」のたとえでしょう。
女性の噂を聞いて,そのうわさから「きっとたいへん美しい人に違いない」と思い,「見たい」「会いたい」といった気持ちが強くて,昼夜を問わず忘れられない自分の気持ちを詠んだのだろうと私は想像します。
次は,「川の音」を詠んだ短歌で,九州で防人(さきもり)の佑(すけ)をしていた大伴四綱(よつな)が大伴旅人が大宰府から帰任する時の宴で旅人に贈った1首です。
月夜よし川の音清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ(4-571)
<つくよよしかはのおときよし いざここにゆくもゆかぬも あそびてゆかむ>
<<月夜が素晴らしく,川の流れる音も清々しい。さあ!ここで都へ帰られる人も残る人も楽しく遊びましょう!>>
今後は大納言旅人様と一緒に楽しいひと時を過ごせなくなるので,今宵限りは美しい川のせせらぎが聞こえ,名月が見られる宴(うたげ)の場所(おそらく宴開催の場所としては最高の場所)で,旅人様と一緒に過ごせる最後の宴を楽しく進めましょうという意図の表わした短歌だと思います。
会社の送別会などの途中にあいさつを頼まれた人は,この短歌をパロディー化して紹介しても良いかもしれませんね。
たとえば,「眺めよし飲む音忙(せわ)しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ」というような感じですかね。
さて,次は「瀬の音」を詠んだ詠み人知らずの短歌1首です。
夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくしよしも(10-2222)
<ゆふさらずかはづなくなる みわがはのきよきせのおとを きかくしよしも>
<<夕方になると河鹿が鳴き声が聞こえる三輪の川で,さらに清らかな瀬の音が聞こえるのはよい気持ちだなあ>>
平城京の前の京(みやこ)である藤原京から数キロはなれた三輪の地で流れる川(今の大和川?)の瀬の音がカジカの声と混じってさわやかに聞こえることを詠んだと私は感じます。
この地は「三輪そうめん」が有名です。美味しいそうめんを作るために必要なきれいな水が豊富な土地だったのでしょうか。
最後は,「波の音」を詠んだこれも詠み人知らずの短歌です。ただし,この短歌で出くる波は海の波ではなく,川でできる波の音です。
泊瀬川流るる水脈の瀬を早みゐで越す波の音の清けく(7-1108)
<はつせがはながるるみをの せをはやみゐでこすなみの おとのきよけく>
<<泊瀬川の水の流れが速く、水が浅瀬を越えてできる波の音が清らかだ>>
泊瀬川は,前の短歌に出ている三輪から南に少し行き,伊勢方面へ行く今の初瀬街道沿いに流れる川といわれています。
奈良盆地(大和平野)から名張方面へ向かって山の中に入りますので,泊瀬川は清流でかつ急流の部分がたくさんあったのでしょうか。
急流の部分の瀬(浅いところ)では,川の表面に波が立ち,さらさらと波の音がして,その音はさらにきれいな水を引き立たせる効果が作者には感じられたのでしょう。
さて,今回あげた4首の内3首は万葉集に作者が載っていない(詠み人知らずの)短歌です。
この人たちは,万葉集に作者として名前が載っている人麻呂,赤人,旅人,家持,黒人,天皇,名だたる貴族たちに比べて有名では無かった(一般庶民とは限りませんが)のだろうと私は思います。
でも,これら3首の短歌から,作者の「川の水」で「音」を感じる感性が非常に繊細かつ鋭敏であること,そしてその表現力が優れていると私は感じます。
では,なぜこんな「音」を感性豊かに感じる和歌が多く作られたのでしょうか?
多くの名も無い人が作歌する目的があったはずです(和歌を作る自体はその目的を達するためのあくまで手段にすぎない)。
その目的を探るため,私の万葉集をリバースエンジニアリングする旅はまだまだ続きそうです。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(4)」に続く。
2015年11月21日土曜日
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(2)」…万葉時代,舟の楫の音は何の変化を想像させていた?
「音」の2回目は,「楫(かぢ)の音」を取りあげます。
万葉集では「楫の音」を詠んだ和歌が20首近く出てきます。
当時,「楫の音」は,今に例えるとジェット飛行機やヘリコプターの飛ぶ音,新幹線の走行音のように,その時代の近代化を象徴する音だったのではないかと私は想像します。万葉時代には造船技術が向上し,さまざまなタイプの船がそれまでに比べ,低コスト,短期間で作ることができるようになったようです。
また,各地の海辺や海につながる川辺には,船着き場や港が次々と作られていき,経済の発展による物流量の増加とともに,船の交通量が大きく拡大していた時代。その拡大を感じさせる音の象徴が「楫の音」だったと私は考えます。
楫は,小さな舟では櫓(ろ)のようなもので,大きな船では櫂(かい)のようなもの指していたのではないでしょうか。それは,当時木でできていて,動かすには,いわゆる「てこの原理」で,支点になる部分が必要になります。その支点は,楫全体がぶれないようにしっかりと支える臍や穴が開いている構造になっていたと想像できます。
そうすると,楫を動かしたとき,その支点部分に力が集中し,木と木が強く摩擦する音が発生します。それが「ギーコー,ギーコー,..」という「楫の音」の源です。
では,実際の万葉集の和歌を見てきましょう。
最初は,代表的万葉歌人の一人笠金村(かさのかなむら)が神亀2年10月に難波宮を訪問した際に詠んだ短歌です。
海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ(6-930)
<あまをとめ たななしをぶねこぎづらし たびのやどりにかぢのおときこゆ>
<<海人の娘たちが屋根の無い小舟を漕ぎ出すらしい。旅寝の宿で櫓(ろ)の音が聞こえる>>
難波(なには)宮は,今の大阪城付近にあったという説が有力だそうですが,当時の海岸線はその近くまで来ていたとすれば,海の傍に建つ豪華な別荘宮だったと考えてもよいかもしれません。
地元の漁師の若い娘たちが,早朝小さな舟に乗って,漁に漕ぎ出す時の勢いのよい「楫の音」が,宮の近くの宿で聞こえたことを詠んでいると私は考えます。
それを長閑(のどか)と感じたのか,活気があると感じたのか,当時の感性でないと正しく理解ができないような気がします。
次は,同じ大阪(難波)で積極的に掘られたと考えられる運河を航行する舟の梶の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも(7-1143)
<さよふけてほりえこぐなる まつらぶねかぢのおとたかし みをはやみかも>
<<夜が更けても堀江を漕ぎ進む松浦舟の梶の音が大きく聞こえる。堀江の水の流れが速いからであろうか>>
松浦舟の松浦は九州の肥前の国の地名で,そこで作られた良い舟であり,万葉集の歌人が詠むくらいなので,松浦舟はきっと舟の有名ブランドだったのでしょう。
この短歌が詠んでいるように,その松浦舟の楫の音が大きく聞こえるほど,運河の水流が速かったのでしょうか。
それだけではないような気が私にはします。実は夜遅くまで荷物を運ばなければならないほど運ぶべき荷物の量が多かったのかもしれませんね。今で言うと夜行トラック便のような,猛スピードで走る夜便の舟の運行もあった可能性はあります。
どんな世の中でも同じかもしれませんが,利用に対して道路,運河,橋などのインフラが追い付かないことが往々にしてあります。それをカバーするのは人間の必死の努力ということになり,万葉時代はこのような夜遅くまで頑張る人の音を聞いた歌人が和歌を詠むテーマとするような時代だったのかもしれませんね。
最後は,少し季節はずれですが,天の川に浮かべる舟の楫の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ(10-2072)
<わたりもりふねわたせをと よぶこゑのいたらねばかも かぢのおとのせぬ>
<<天の川の渡り舟の管理人が「舟を渡してよいぞ」という声が相手にとどいていないのだろうか。彦星が乗る舟の楫の音がしないのです>>
七夕に天の川を渡って来てくれるはずの夫(彦星)が一向にくる気配がない。それは渡し守が渡しを許可する声が小さいからと嘆いている。
当時の妻問婚では,夫が妻問する場合,親の許可が必要だったことも想像できるため,親に対するクレームめいた短歌とも取れそうですね。
待つ者にとって,相手が来る気配の音の一つとして「楫の音」は当時では定着していた可能性があると私は思ってしまいます。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(3)」に続く。
万葉集では「楫の音」を詠んだ和歌が20首近く出てきます。
当時,「楫の音」は,今に例えるとジェット飛行機やヘリコプターの飛ぶ音,新幹線の走行音のように,その時代の近代化を象徴する音だったのではないかと私は想像します。万葉時代には造船技術が向上し,さまざまなタイプの船がそれまでに比べ,低コスト,短期間で作ることができるようになったようです。
また,各地の海辺や海につながる川辺には,船着き場や港が次々と作られていき,経済の発展による物流量の増加とともに,船の交通量が大きく拡大していた時代。その拡大を感じさせる音の象徴が「楫の音」だったと私は考えます。
楫は,小さな舟では櫓(ろ)のようなもので,大きな船では櫂(かい)のようなもの指していたのではないでしょうか。それは,当時木でできていて,動かすには,いわゆる「てこの原理」で,支点になる部分が必要になります。その支点は,楫全体がぶれないようにしっかりと支える臍や穴が開いている構造になっていたと想像できます。
そうすると,楫を動かしたとき,その支点部分に力が集中し,木と木が強く摩擦する音が発生します。それが「ギーコー,ギーコー,..」という「楫の音」の源です。
では,実際の万葉集の和歌を見てきましょう。
最初は,代表的万葉歌人の一人笠金村(かさのかなむら)が神亀2年10月に難波宮を訪問した際に詠んだ短歌です。
海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ(6-930)
<あまをとめ たななしをぶねこぎづらし たびのやどりにかぢのおときこゆ>
<<海人の娘たちが屋根の無い小舟を漕ぎ出すらしい。旅寝の宿で櫓(ろ)の音が聞こえる>>
難波(なには)宮は,今の大阪城付近にあったという説が有力だそうですが,当時の海岸線はその近くまで来ていたとすれば,海の傍に建つ豪華な別荘宮だったと考えてもよいかもしれません。
地元の漁師の若い娘たちが,早朝小さな舟に乗って,漁に漕ぎ出す時の勢いのよい「楫の音」が,宮の近くの宿で聞こえたことを詠んでいると私は考えます。
それを長閑(のどか)と感じたのか,活気があると感じたのか,当時の感性でないと正しく理解ができないような気がします。
次は,同じ大阪(難波)で積極的に掘られたと考えられる運河を航行する舟の梶の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも(7-1143)
<さよふけてほりえこぐなる まつらぶねかぢのおとたかし みをはやみかも>
<<夜が更けても堀江を漕ぎ進む松浦舟の梶の音が大きく聞こえる。堀江の水の流れが速いからであろうか>>
松浦舟の松浦は九州の肥前の国の地名で,そこで作られた良い舟であり,万葉集の歌人が詠むくらいなので,松浦舟はきっと舟の有名ブランドだったのでしょう。
この短歌が詠んでいるように,その松浦舟の楫の音が大きく聞こえるほど,運河の水流が速かったのでしょうか。
それだけではないような気が私にはします。実は夜遅くまで荷物を運ばなければならないほど運ぶべき荷物の量が多かったのかもしれませんね。今で言うと夜行トラック便のような,猛スピードで走る夜便の舟の運行もあった可能性はあります。
どんな世の中でも同じかもしれませんが,利用に対して道路,運河,橋などのインフラが追い付かないことが往々にしてあります。それをカバーするのは人間の必死の努力ということになり,万葉時代はこのような夜遅くまで頑張る人の音を聞いた歌人が和歌を詠むテーマとするような時代だったのかもしれませんね。
最後は,少し季節はずれですが,天の川に浮かべる舟の楫の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ(10-2072)
<わたりもりふねわたせをと よぶこゑのいたらねばかも かぢのおとのせぬ>
<<天の川の渡り舟の管理人が「舟を渡してよいぞ」という声が相手にとどいていないのだろうか。彦星が乗る舟の楫の音がしないのです>>
七夕に天の川を渡って来てくれるはずの夫(彦星)が一向にくる気配がない。それは渡し守が渡しを許可する声が小さいからと嘆いている。
当時の妻問婚では,夫が妻問する場合,親の許可が必要だったことも想像できるため,親に対するクレームめいた短歌とも取れそうですね。
待つ者にとって,相手が来る気配の音の一つとして「楫の音」は当時では定着していた可能性があると私は思ってしまいます。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(3)」に続く。
2015年11月15日日曜日
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(1)」…新しい変化の始まりは新しい音から始まる?
<聴覚について>
人間の感覚器の一つ「耳」が非常に重要な器官であることは,常識の範疇なのかもしれません。
補聴器が役に立たないくらい聴覚が機能しなくなると,正しい発声にも障害がでます。
その場合,人とのコミュニケーションでは,手話や読唇術,相手の顔の表情などから,訓練すればかなり円滑なコミュニケーションがでしょう。しかし,危険を知らせる警報音に気付くのが遅れ,災害や事故に遭いやすくなるというハンディキャップは残ってしまうと思います。
また,自然や生活の営みが織りなす音(例:鳥のさえずり,小川のせせらぎ,秋の虫の合唱,そよ風を感じる木々のざわめき,早朝の釣舟のエンジン音,遠くに聞こえる霧笛の音,大晦日の除夜の鐘の音,水琴窟の音など)で風情を感じることができにくくなってしまうと考えると,聴覚器官は本当に大切にしなければならないものだと改めて感じます。
<新しい文化は新しい音を聞かせる>
さて,万葉時代は大陸からの新しい文化・宗教・生活習慣がそれまでに比べてはるかに速いスピードで流入し,それに伴って新しい音も出てきたと思われます。同時に昔から暮らしや自然で発生する音への愛着も感じる時代だったのではないでしょうか。
そんな時代のためか,万葉集には「音(おと・ね)」を詠んだ和歌が多数(130首以上)出てきます。
今回から数回にわたり,万葉集で詠まれた「音」について見ていきます。
まず「おと」と発音すると考えられる和歌を見ていきますが,「何の音(おと)」を詠んでいるか気になるところです。
万葉集でどんな音がで出くるか,最初に示しましょう(‥の右の意味は,万葉集の和歌での意味を意識している)。
足の音(あしのおと)‥馬の足音。
鶯の音(うぐひすのおと)‥鶯の鳴き声。
馬の音(うまのおと)‥馬の足音。
風の音(かぜのおと)‥風が吹く音。
楫の音(かぢのおと),楫音(かぢおと)‥楫を漕ぐ音。
川音(かはと,かはおと),川の音(かはのおと)‥川水が流れる音。
小角の音(くだのおと)‥角をくり抜いた小型のラッパを吹く音。
声の音(こゑのおと)‥鳥の鳴き声の音。
鈴が音(すずがおと)‥馬につけた鈴の音。
瀬の音(せのおと)‥川の瀬(浅い場所)で水が流れる音。
鶴の音(たづのおと)‥鶴の鳴き声。
鼓の音(つつみのおと)‥鼓をたたく音。
遠音(とほと)‥遠くで聞こえる音。
鞆の音(とものおと)‥鞆とは,弓を引く人が射った後の衝撃を和らけるため,左手手首から肘までをカバーした布や毛皮を指す。弓を射るとツルが鞆にあたるときの音。
中弭の音(なかはずのおと)‥弓を射ったとき,弓の中央部分を矢が通過する音か?
鳴く音(なくおと)‥鳥が鳴くまたは囀(さえず)る音。
波音(なみおと,なみと),波の音(なみのおと)‥波が寄せる音。波しぶきの音。
鳴る神の音(なるかみのおと)‥雷の音。
羽音(はおと)‥鳥の羽をばたつかせる音。
人音(ひとおと)‥人々が動く音。
笛の音(ふえのおと)‥笛を吹く音。
水の音(みづのおと)‥川の水が流れる音。
夜音(よおと)‥夜爪弾く琴の音。
これらの「音」に関する表現から,当時の社会の様子が分かってくるように私には思えます。
・笛,鼓,琴,ラッパといった楽器の演奏が頻繁に行われるようになった。
・舟の運行が盛んであり,楫の音をみんなが知っていた。
・馬が陸上の交通手段として一般的であった。
鳥の鳴き声や羽音,川の音,波の音,雷鳴などが万葉集の多くの和歌で取り上げられていることは,「音」に対する万葉人の感性は割と繊細なものがあったのかもしれません。
今回は,そのなかで大伴家持の有名な1首のみを紹介します。
我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(19-4291)
<わがやどのいささむらたけ ふくかぜのおとのかそけき このゆふへかも>
<<自宅に植えた細い竹の植え込みに吹く風の音がかすかに聞こえるこの夕方である>>
風はそれ自体相当強く吹かないと音は聞こえません。
風がかすかに吹いているだけの場合,家の中ではそれに気が付かないことが多いでしょう。家持は笹の葉が振れる音で,風が吹き出したを感じ取ったのでしょう。
熱い1日が終わり,夕方の風が出てくると涼しくなる期待が高まります。
以前にもこのブログで述べたと思いますが,日本人は昔から変化の始まりを感じ取る繊細な感性を持ち合わせているのです。
その感性も,外国と比較すると多様に変化する自然があるからであり,その変化の前兆に「音」が占める割合が多いので,万葉集にも多く出てくることになったのかもしれませんね。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(2)」に続く。
人間の感覚器の一つ「耳」が非常に重要な器官であることは,常識の範疇なのかもしれません。
補聴器が役に立たないくらい聴覚が機能しなくなると,正しい発声にも障害がでます。
その場合,人とのコミュニケーションでは,手話や読唇術,相手の顔の表情などから,訓練すればかなり円滑なコミュニケーションがでしょう。しかし,危険を知らせる警報音に気付くのが遅れ,災害や事故に遭いやすくなるというハンディキャップは残ってしまうと思います。
また,自然や生活の営みが織りなす音(例:鳥のさえずり,小川のせせらぎ,秋の虫の合唱,そよ風を感じる木々のざわめき,早朝の釣舟のエンジン音,遠くに聞こえる霧笛の音,大晦日の除夜の鐘の音,水琴窟の音など)で風情を感じることができにくくなってしまうと考えると,聴覚器官は本当に大切にしなければならないものだと改めて感じます。
<新しい文化は新しい音を聞かせる>
さて,万葉時代は大陸からの新しい文化・宗教・生活習慣がそれまでに比べてはるかに速いスピードで流入し,それに伴って新しい音も出てきたと思われます。同時に昔から暮らしや自然で発生する音への愛着も感じる時代だったのではないでしょうか。
そんな時代のためか,万葉集には「音(おと・ね)」を詠んだ和歌が多数(130首以上)出てきます。
今回から数回にわたり,万葉集で詠まれた「音」について見ていきます。
まず「おと」と発音すると考えられる和歌を見ていきますが,「何の音(おと)」を詠んでいるか気になるところです。
万葉集でどんな音がで出くるか,最初に示しましょう(‥の右の意味は,万葉集の和歌での意味を意識している)。
足の音(あしのおと)‥馬の足音。
鶯の音(うぐひすのおと)‥鶯の鳴き声。
馬の音(うまのおと)‥馬の足音。
風の音(かぜのおと)‥風が吹く音。
楫の音(かぢのおと),楫音(かぢおと)‥楫を漕ぐ音。
川音(かはと,かはおと),川の音(かはのおと)‥川水が流れる音。
小角の音(くだのおと)‥角をくり抜いた小型のラッパを吹く音。
声の音(こゑのおと)‥鳥の鳴き声の音。
鈴が音(すずがおと)‥馬につけた鈴の音。
瀬の音(せのおと)‥川の瀬(浅い場所)で水が流れる音。
鶴の音(たづのおと)‥鶴の鳴き声。
鼓の音(つつみのおと)‥鼓をたたく音。
遠音(とほと)‥遠くで聞こえる音。
鞆の音(とものおと)‥鞆とは,弓を引く人が射った後の衝撃を和らけるため,左手手首から肘までをカバーした布や毛皮を指す。弓を射るとツルが鞆にあたるときの音。
中弭の音(なかはずのおと)‥弓を射ったとき,弓の中央部分を矢が通過する音か?
鳴く音(なくおと)‥鳥が鳴くまたは囀(さえず)る音。
波音(なみおと,なみと),波の音(なみのおと)‥波が寄せる音。波しぶきの音。
鳴る神の音(なるかみのおと)‥雷の音。
羽音(はおと)‥鳥の羽をばたつかせる音。
人音(ひとおと)‥人々が動く音。
笛の音(ふえのおと)‥笛を吹く音。
水の音(みづのおと)‥川の水が流れる音。
夜音(よおと)‥夜爪弾く琴の音。
これらの「音」に関する表現から,当時の社会の様子が分かってくるように私には思えます。
・笛,鼓,琴,ラッパといった楽器の演奏が頻繁に行われるようになった。
・舟の運行が盛んであり,楫の音をみんなが知っていた。
・馬が陸上の交通手段として一般的であった。
鳥の鳴き声や羽音,川の音,波の音,雷鳴などが万葉集の多くの和歌で取り上げられていることは,「音」に対する万葉人の感性は割と繊細なものがあったのかもしれません。
今回は,そのなかで大伴家持の有名な1首のみを紹介します。
我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(19-4291)
<わがやどのいささむらたけ ふくかぜのおとのかそけき このゆふへかも>
<<自宅に植えた細い竹の植え込みに吹く風の音がかすかに聞こえるこの夕方である>>
風はそれ自体相当強く吹かないと音は聞こえません。
風がかすかに吹いているだけの場合,家の中ではそれに気が付かないことが多いでしょう。家持は笹の葉が振れる音で,風が吹き出したを感じ取ったのでしょう。
熱い1日が終わり,夕方の風が出てくると涼しくなる期待が高まります。
以前にもこのブログで述べたと思いますが,日本人は昔から変化の始まりを感じ取る繊細な感性を持ち合わせているのです。
その感性も,外国と比較すると多様に変化する自然があるからであり,その変化の前兆に「音」が占める割合が多いので,万葉集にも多く出てくることになったのかもしれませんね。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(2)」に続く。
2015年11月6日金曜日
今もあるシリーズ「海女(あま)」…海水に濡れた海女の姿,男には魅力的?
現代の「海女」は,水中メガネを付けて海に潜り,ウニ,アワビ,イセエビ,サザエなどを採っている女性がイメージされるかと思います。
さらに若い海女は,2013年4月~9月に放送されたNHKの朝ドラ「あまちゃん」で有名になったように,さらに可愛さや魅力的なイメージがありますよね。
やはり,健康で明るいイメージ,人魚のような魅惑的なイメージがポジティブにみられるのでしょうか。
私は,小学校の修学旅行で,三重県伊勢志摩での海女の観光実演を見たのが,初めてでした。
しかし,万葉時代の「海女」は漁り(いさり)やそれに関連する作業をする女性を広く指しますから,必ずしも海に潜ったり,船に乗ったりするだけの女性を指していたわけではなさそうです。
当時の海女がどんなイメージだったのか,さっそく万葉集の和歌をみていくことにしましょう。今回も「海女」は,この1回のみです。
最初は,奈良時代の役人である石川君子(いしかはのきみこ)が北九州に赴任または訪問したときに詠んだ短歌です。
志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに(3-278)
<しかのあまはめかりしほやき いとまなみくしげのをぐし とりもみなくに>
<<志賀の海女は,海藻を刈ったり,塩を焼いたりして忙しそう。櫛笥の小さな櫛を手にとって髪をすいているところを見ることがない>>
せっせと浜で働いでいる女性姿を見て,髪の毛が乱れていても,身だしなみを気にすることなしに働いている姿を君子はどう感じたのでしょう。
膚が日焼けして黒いが,若々しく健康的な良い印象をもった。その上で髪をきれいに櫛でとくと,きっと魅力的な女性たちになると考え方のかもしれませんね。
次は角麻呂(つののまろ)という伝不詳の歌人が難波の海女を見て詠んだ短歌です。
潮干の御津の海女のくぐつ持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む(3-293)
<しほひのみつのあまの くぐつもちたまもかるらむ いざゆきてみむ>
<<潮がひいた御津の海岸で,海女たちがくぐつ(草で編んだ袋)をもって,綺麗な海藻を刈っているらしいので,見に行こう>>
海藻といっても,海苔のようなものでしょうか。たくさんの海女が海岸にでで楽しそうに話をしたり,大声で笑いながら作業をしているのは,たび人も見ていて楽しいのでしょうね。
また,こういう和歌を京で披露すると,そんなに遠くない(健脚なら1日で着ける)ので,「見に行こう」と思った人はたくさん現れたのではないでしょうか。
最後は,これも九州の筑後守をしていた葛井大成(ふぢゐのおほなり)が海岸で海女の姿をみて詠んだとされる短歌です。
海女娘子玉求むらし沖つ波畏き海に舟出せり見ゆ(6-1003)
<あまをとめたまもとむらし おきつなみかしこきうみに ふなでせりみゆ>
<<海女の若い娘が真珠を求め,沖の荒い波が立つ海に舟を出して行くのが見える>>
この海女は,まさに現代の海女と同じ漁法でしょうか。野生の真珠貝やアワビの中に潜む真珠は,京に献上すると大変喜ばれるを知っている大成としては,漁の結果がどうだったかは気になるところでしょう。
ただ,偉い長官が見に来たので,地元の長は,沖が荒れていても,無理して舟を出したのかもしれませんね。
そういう状況なら,舟で沖に行った海女は気の毒な気が私にはします。
今もあるシリーズ「音(おと)(1)」に続く。
さらに若い海女は,2013年4月~9月に放送されたNHKの朝ドラ「あまちゃん」で有名になったように,さらに可愛さや魅力的なイメージがありますよね。
やはり,健康で明るいイメージ,人魚のような魅惑的なイメージがポジティブにみられるのでしょうか。
私は,小学校の修学旅行で,三重県伊勢志摩での海女の観光実演を見たのが,初めてでした。
しかし,万葉時代の「海女」は漁り(いさり)やそれに関連する作業をする女性を広く指しますから,必ずしも海に潜ったり,船に乗ったりするだけの女性を指していたわけではなさそうです。
当時の海女がどんなイメージだったのか,さっそく万葉集の和歌をみていくことにしましょう。今回も「海女」は,この1回のみです。
最初は,奈良時代の役人である石川君子(いしかはのきみこ)が北九州に赴任または訪問したときに詠んだ短歌です。
志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに(3-278)
<しかのあまはめかりしほやき いとまなみくしげのをぐし とりもみなくに>
<<志賀の海女は,海藻を刈ったり,塩を焼いたりして忙しそう。櫛笥の小さな櫛を手にとって髪をすいているところを見ることがない>>
せっせと浜で働いでいる女性姿を見て,髪の毛が乱れていても,身だしなみを気にすることなしに働いている姿を君子はどう感じたのでしょう。
膚が日焼けして黒いが,若々しく健康的な良い印象をもった。その上で髪をきれいに櫛でとくと,きっと魅力的な女性たちになると考え方のかもしれませんね。
次は角麻呂(つののまろ)という伝不詳の歌人が難波の海女を見て詠んだ短歌です。
潮干の御津の海女のくぐつ持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む(3-293)
<しほひのみつのあまの くぐつもちたまもかるらむ いざゆきてみむ>
<<潮がひいた御津の海岸で,海女たちがくぐつ(草で編んだ袋)をもって,綺麗な海藻を刈っているらしいので,見に行こう>>
海藻といっても,海苔のようなものでしょうか。たくさんの海女が海岸にでで楽しそうに話をしたり,大声で笑いながら作業をしているのは,たび人も見ていて楽しいのでしょうね。
また,こういう和歌を京で披露すると,そんなに遠くない(健脚なら1日で着ける)ので,「見に行こう」と思った人はたくさん現れたのではないでしょうか。
最後は,これも九州の筑後守をしていた葛井大成(ふぢゐのおほなり)が海岸で海女の姿をみて詠んだとされる短歌です。
海女娘子玉求むらし沖つ波畏き海に舟出せり見ゆ(6-1003)
<あまをとめたまもとむらし おきつなみかしこきうみに ふなでせりみゆ>
<<海女の若い娘が真珠を求め,沖の荒い波が立つ海に舟を出して行くのが見える>>
この海女は,まさに現代の海女と同じ漁法でしょうか。野生の真珠貝やアワビの中に潜む真珠は,京に献上すると大変喜ばれるを知っている大成としては,漁の結果がどうだったかは気になるところでしょう。
ただ,偉い長官が見に来たので,地元の長は,沖が荒れていても,無理して舟を出したのかもしれませんね。
そういう状況なら,舟で沖に行った海女は気の毒な気が私にはします。
今もあるシリーズ「音(おと)(1)」に続く。
2015年11月1日日曜日
今もあるシリーズ「石橋(いしはし)」 … 石橋は人と人との距離を短くする?
今回だけのテーマとして「石橋」をとりあげます。
「石橋」は日本では人名の姓で出くるのがポピュラーですね。「石橋」姓をもつ有名人もたくさんいます。また,地名でも「石橋」は出てきますが,多くは街道や川に面しているようです。
石造りの橋として有名なのが,現在の東京「日本橋」ですね。「日本橋」というと江戸時代の木造り橋のイメージがありますが,現在は石でできています。そうでないと,自動車やトラック,バスは通れませんからね。
さて,万葉時代では「石橋」はどんなふうに詠まれていたでしょうか。
まずは情熱の歌人笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った恋の短歌から1首です。
うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも(4-597)
<うつせみのひとめをしげみ いしはしのまちかききみに こひわたるかも>
<<この世の人たちの目がうるさいけれど,その目に留まらぬほどすぐ対岸に行ける石橋のように近い家持様にお慕いしています>>
「石橋の」を「間」に掛かる枕詞との説もあるようですが,私は以前からもこのブログで書いているように枕詞であったら訳さないで済ますことに疑問を持っています。
石造りの橋は当時一般にどうみられていたのか(多くの人の共通認識)をちゃんと理解できて初めてこの短歌が表現したいことが分かると私は思いたいです。
2009年3月11日のこのブログで書いたように,万葉時代では天橋(あまはし),石橋,浮橋,打橋,大橋,倉橋,高橋,棚橋,玉橋,継橋,檜橋(ひはし),広橋,舟橋,八橋(やばせ)など,既に様々な橋の形態や形容があったようです。
その中で「石橋」が一番丈夫で,安心して渡れたし,揺れないので走って渡っても安全で,馬などに乗って渡ることもできたのでしょうか。だから,石橋が作られると対岸と非常に近くなり,すぐに行けるというイメージが定着していたのに異論を感じる方いかもしれません。
当時の石橋というのは,立派な橋の形をしているものでは無く,川に石を歩幅間隔に置いて,その上を渡ることで,川の水に濡れずに渡ることができるだけのものというイメージが定着しているとすれば,「間」は歩幅の間となります。
いずれにしても,石橋のイメージによっては,解釈は微妙にことなってくるわけです。
次は,故郷の明日香川を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし(7-1126)
<としつきもいまだへなくに あすかがはせぜゆわたしし いしはしもなし>
<<年月もそんなに経っていない。けれど明日香川の多くの瀬に渡してあった石橋も今は無くなってしまいました>>
この石橋は比喩かもしれませんね。すなわち,故郷は変わらないと思っていたのに,少ししかたっていないのに変わってしまったという気持ちを石橋という強固なものでも変わるという喩えで表現しているように私は思います。
この気持ちは私にはよくわかります。以前にもこのブログで書いたように,私は4歳のころから15年ほど京都市の山科という所で育ちました。
炭焼きの煙が山肌をたなびき,水車小屋があちこちにあり,水田・野菜畑が多くあり,清らかな湧水を使ったセリ畑やニジマスの養殖場もあったような記憶があります。家の近くの斜面にはワラビやゼンマイが生えている場所もたくさんありました。
本当にのどかだった山科盆地が,急速に京都や大阪のベットタウンとして市街化していくのを毎日のように見て来たからです。名神高速道路,新幹線が山科を通るようになってからは,それまで遠くの山で鳴く鳥の声が聞こえそうな静かな山科盆地は,トラックの走行音や新幹線の風を切る音が響き渡る場所と化しました。
最後は,また恋の短歌です。
明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも(11-2701)
<あすかがはあすもわたらむ いしはしのとほきこころは おもほえぬかも>
<<明日香川を明日も渡ろう。明日香川の石橋のようにあなたとの心の距離は遠いとは思えないので>>
明日香川には石橋がいくつもあったのでしょう。その石橋を明日も渡る決意とは,相手との心の距離が近いということを信じてアプローチするぞという決意なのかもしれません。
いずれにしても,川が隔てる対岸との距離は生活面での行き来でも,恋人との逢瀬でも,短くあってほしいというのが人々の願いだった。それを短くする「石橋」を渡すことへの期待は大きかったのだろうと私は思います。
今もあるシリーズ「海女(あま)」に続く。
「石橋」は日本では人名の姓で出くるのがポピュラーですね。「石橋」姓をもつ有名人もたくさんいます。また,地名でも「石橋」は出てきますが,多くは街道や川に面しているようです。
石造りの橋として有名なのが,現在の東京「日本橋」ですね。「日本橋」というと江戸時代の木造り橋のイメージがありますが,現在は石でできています。そうでないと,自動車やトラック,バスは通れませんからね。
さて,万葉時代では「石橋」はどんなふうに詠まれていたでしょうか。
まずは情熱の歌人笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った恋の短歌から1首です。
うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも(4-597)
<うつせみのひとめをしげみ いしはしのまちかききみに こひわたるかも>
<<この世の人たちの目がうるさいけれど,その目に留まらぬほどすぐ対岸に行ける石橋のように近い家持様にお慕いしています>>
「石橋の」を「間」に掛かる枕詞との説もあるようですが,私は以前からもこのブログで書いているように枕詞であったら訳さないで済ますことに疑問を持っています。
石造りの橋は当時一般にどうみられていたのか(多くの人の共通認識)をちゃんと理解できて初めてこの短歌が表現したいことが分かると私は思いたいです。
2009年3月11日のこのブログで書いたように,万葉時代では天橋(あまはし),石橋,浮橋,打橋,大橋,倉橋,高橋,棚橋,玉橋,継橋,檜橋(ひはし),広橋,舟橋,八橋(やばせ)など,既に様々な橋の形態や形容があったようです。
その中で「石橋」が一番丈夫で,安心して渡れたし,揺れないので走って渡っても安全で,馬などに乗って渡ることもできたのでしょうか。だから,石橋が作られると対岸と非常に近くなり,すぐに行けるというイメージが定着していたのに異論を感じる方いかもしれません。
当時の石橋というのは,立派な橋の形をしているものでは無く,川に石を歩幅間隔に置いて,その上を渡ることで,川の水に濡れずに渡ることができるだけのものというイメージが定着しているとすれば,「間」は歩幅の間となります。
いずれにしても,石橋のイメージによっては,解釈は微妙にことなってくるわけです。
次は,故郷の明日香川を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし(7-1126)
<としつきもいまだへなくに あすかがはせぜゆわたしし いしはしもなし>
<<年月もそんなに経っていない。けれど明日香川の多くの瀬に渡してあった石橋も今は無くなってしまいました>>
この石橋は比喩かもしれませんね。すなわち,故郷は変わらないと思っていたのに,少ししかたっていないのに変わってしまったという気持ちを石橋という強固なものでも変わるという喩えで表現しているように私は思います。
この気持ちは私にはよくわかります。以前にもこのブログで書いたように,私は4歳のころから15年ほど京都市の山科という所で育ちました。
炭焼きの煙が山肌をたなびき,水車小屋があちこちにあり,水田・野菜畑が多くあり,清らかな湧水を使ったセリ畑やニジマスの養殖場もあったような記憶があります。家の近くの斜面にはワラビやゼンマイが生えている場所もたくさんありました。
本当にのどかだった山科盆地が,急速に京都や大阪のベットタウンとして市街化していくのを毎日のように見て来たからです。名神高速道路,新幹線が山科を通るようになってからは,それまで遠くの山で鳴く鳥の声が聞こえそうな静かな山科盆地は,トラックの走行音や新幹線の風を切る音が響き渡る場所と化しました。
最後は,また恋の短歌です。
明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも(11-2701)
<あすかがはあすもわたらむ いしはしのとほきこころは おもほえぬかも>
<<明日香川を明日も渡ろう。明日香川の石橋のようにあなたとの心の距離は遠いとは思えないので>>
明日香川には石橋がいくつもあったのでしょう。その石橋を明日も渡る決意とは,相手との心の距離が近いということを信じてアプローチするぞという決意なのかもしれません。
いずれにしても,川が隔てる対岸との距離は生活面での行き来でも,恋人との逢瀬でも,短くあってほしいというのが人々の願いだった。それを短くする「石橋」を渡すことへの期待は大きかったのだろうと私は思います。
今もあるシリーズ「海女(あま)」に続く。
2015年10月25日日曜日
今もあるシリーズ「麻(あさ)(3:まとめ)」 …妻問では「麻生(をふ)の下草」がポイント?
「麻」の最後は男女の恋愛の和歌でどのように使われたか万葉集を見ていきましょう。
万葉集で恋愛の和歌はやはり詠み人知らずが多いですね。次もそんな女性の短歌です。
桜麻の麻生の下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも(11-2687)
<さくらをのをふのしたくさ つゆしあればあかしていゆけ はははしるとも>
<<桜麻の麻が生えている庭の下草は露が降り始めているので,お泊りになってくださいな。おなた様が来られていることを母が知ったとしても>>
いいですね。こんな短歌を女性からもらいたいですね(もちろん妻には内緒で)。
当時は妻問婚であり,男性が女性の部屋に密かに忍び込んで床を共にする(夜這い)のが一般的だったようです。
そうであるものの,親が気づかないはずはありません。気づかないふりをしているだけです。
この短歌は,自分自身も気に入り,親も気に入り,親を正式に紹介したいという口実ですね。
こうすることで,正式な婚姻の成立へ向かうことができたのでしょう。
正式な婚姻が成立すれば,男性(夫)が夜這いをする場合も,親に知られないように気を使う必要がなくなります。
もちろん親は正式な婚姻が成立した後も,両親は夫が夜妻問に来ても完全に知らぬふりをするでしょうね。
さて,次は前の短歌のパロディか返事ともとれそうな男性作の短歌です。
桜麻の麻生の下草早く生ひば妹が下紐解かずあらましを(12-3049)
<さくらをのをふのしたくさ はやくおひばいもがしたびも とかずあらましを>
<<桜麻の麻が生えている庭の下草が早く生えていれば,あなたの下紐を解かずにいただろうに>>
さて,この短歌の意味を素直に考えると,麻の下に草が生えておらず露に濡れる心配が無かったので,あなたと共寝をしたのですよということになりそうです。
そうなると,当然帰りも露に濡れる心配はないので,事を終えると男はさっさと帰ってしまった状況が推測できます。
今回の妻問は行きずりの逢瀬であり,結婚までは考えていませんよという男の言い訳(返信)ともとれます。
ただ,相聞ならば,万葉集内でもっと近くに置いても良さそうですが,巻も違います。
パロディとすると,いろいろな解釈ができそうですが,「麻生(をふ)」は「生ふ」,「終ふ」と同じ発音になります。
以降は,みなさんの想像力の豊かさにお任せします。
最後は,上質の麻布を織るために,織り子達が切れ目なく作業する姿を序詞として詠んだ短歌です。
娘子らが績み麻のたたり打ち麻懸けうむ時なしに恋ひわたるかも(12-2990)
<をとめらがうみをのたたり うちそかけうむときなしに こひわたるかも>
<<娘子たちが織る麻用のたたり(絡垜)を使い,柔らかい打ち麻にするよう丁寧に織り続けるように,間無く恋い続けているのです>>
この短歌から,作者の恋する気持ちの切れ目の無さを表現したと解釈するよりも,私は麻布を織る作業に使う道具や手順を想像したくなります。
このことで,この時代にどの程度の織布の技術があったか,また繊維産業がどの程度専業化し,どんな人が担ってきたのかなどを知ることができそうです。
今も残る麻の衣服。1,300年もの間,日本人の身体を暑さ,寒さ,日光,汚れなどから守ってきたのです。
これからも,「麻布」は我々の身近で使われていくのでしょうね。
今もあるシリーズ「石橋(いしはし)に続く。
万葉集で恋愛の和歌はやはり詠み人知らずが多いですね。次もそんな女性の短歌です。
桜麻の麻生の下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも(11-2687)
<さくらをのをふのしたくさ つゆしあればあかしていゆけ はははしるとも>
<<桜麻の麻が生えている庭の下草は露が降り始めているので,お泊りになってくださいな。おなた様が来られていることを母が知ったとしても>>
いいですね。こんな短歌を女性からもらいたいですね(もちろん妻には内緒で)。
当時は妻問婚であり,男性が女性の部屋に密かに忍び込んで床を共にする(夜這い)のが一般的だったようです。
そうであるものの,親が気づかないはずはありません。気づかないふりをしているだけです。
この短歌は,自分自身も気に入り,親も気に入り,親を正式に紹介したいという口実ですね。
こうすることで,正式な婚姻の成立へ向かうことができたのでしょう。
正式な婚姻が成立すれば,男性(夫)が夜這いをする場合も,親に知られないように気を使う必要がなくなります。
もちろん親は正式な婚姻が成立した後も,両親は夫が夜妻問に来ても完全に知らぬふりをするでしょうね。
さて,次は前の短歌のパロディか返事ともとれそうな男性作の短歌です。
桜麻の麻生の下草早く生ひば妹が下紐解かずあらましを(12-3049)
<さくらをのをふのしたくさ はやくおひばいもがしたびも とかずあらましを>
<<桜麻の麻が生えている庭の下草が早く生えていれば,あなたの下紐を解かずにいただろうに>>
さて,この短歌の意味を素直に考えると,麻の下に草が生えておらず露に濡れる心配が無かったので,あなたと共寝をしたのですよということになりそうです。
そうなると,当然帰りも露に濡れる心配はないので,事を終えると男はさっさと帰ってしまった状況が推測できます。
今回の妻問は行きずりの逢瀬であり,結婚までは考えていませんよという男の言い訳(返信)ともとれます。
ただ,相聞ならば,万葉集内でもっと近くに置いても良さそうですが,巻も違います。
パロディとすると,いろいろな解釈ができそうですが,「麻生(をふ)」は「生ふ」,「終ふ」と同じ発音になります。
以降は,みなさんの想像力の豊かさにお任せします。
最後は,上質の麻布を織るために,織り子達が切れ目なく作業する姿を序詞として詠んだ短歌です。
娘子らが績み麻のたたり打ち麻懸けうむ時なしに恋ひわたるかも(12-2990)
<をとめらがうみをのたたり うちそかけうむときなしに こひわたるかも>
<<娘子たちが織る麻用のたたり(絡垜)を使い,柔らかい打ち麻にするよう丁寧に織り続けるように,間無く恋い続けているのです>>
この短歌から,作者の恋する気持ちの切れ目の無さを表現したと解釈するよりも,私は麻布を織る作業に使う道具や手順を想像したくなります。
このことで,この時代にどの程度の織布の技術があったか,また繊維産業がどの程度専業化し,どんな人が担ってきたのかなどを知ることができそうです。
今も残る麻の衣服。1,300年もの間,日本人の身体を暑さ,寒さ,日光,汚れなどから守ってきたのです。
これからも,「麻布」は我々の身近で使われていくのでしょうね。
今もあるシリーズ「石橋(いしはし)に続く。
2015年10月18日日曜日
今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」 … 麻の栽培は田舎の代名詞?
前回は東歌から「麻」を見ましたが,今回は東歌以外で「麻」が詠まれた万葉集の和歌をいていきましょう。
とはいえ,最初はの短歌は,東歌には分類されませんが,常陸娘子(ひたちのをとめ)という東国の女性が,現地で詠んだ短歌です。
庭に立つ麻手刈り干し布曝す東女を忘れたまふな(4-521)
<にはにたつあさでかりほし ぬのさらすあづまをみなを わすれたまふな>
<<庭に立つ麻を手で刈り干したり,布にしてさらしたりするような田舎者の東女ですが,どうかわたしをお忘れにならないでください>>
この短歌,藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が按察使(あぜち)設置時に常陸守として安房(あは),上総(かずさ)及び下総(しもふさ)3国の按察使に任命されるに赴いたのは養老3(719)年で,接待をした常陸娘子から赴任終了時に贈られたもののようです。
常陸娘子は庶民の出ではなく,現地で中央役人を接待するために,当時の教養,京人の作法,和歌を詠む素養,言葉遣いなどの教育をしっかり受けた豪族の家に生まれた女性だったのでしょう。
この短歌の前半部分は娘子が謙遜している部分ですが,東国では「麻」を自宅で栽培,製糸,機織,漂泊するような田舎であるというイメージが京人にはあったのでしょうね。
当然,娘子がそんなことはしていないし,する必要もないほど着るモノに困っていなかったとは思いますが。
次は,田辺福麻呂歌集に出ていたという新しくできた久邇京(恭仁京)を賛美する短歌です。
娘子らが続麻懸くといふ鹿背の山時しゆければ都となりぬ(6-1056)
<をとめらがうみをかくといふ かせのやまときしゆければ みやことなりぬ>
<<乙女らが麻糸に紡いで懸けておいたという桛(かせ),その名と同じ鹿背の山が時移り都となった>>
万葉時代には,製糸用具や織機のさまざまなパーツ,関連で使用する道具について,知っている人が多かったのでしょうか。
多くの人が着る服が麻布でできていた時代と考えると,麻糸の製糸,麻布を織ることに,多くの人が携わっていたのかもしれませんね。
ただ,新しい久邇京周辺で織物産業が活性化することを期待して,麻糸を製糸することを商売にする人が詠んだのかもしれないというと,万葉集を汚したという人が出そうですね。
久邇京はこの詠み手の思いとは裏腹に,天平12(740)年~同16(744)年の間しか存在しない仮の都のようなもので終わりました。
さて,最後は,藤原房前(ふぢはらのふささき)が詠んだとされる紀行風の短歌です。
麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹(7-1195)
<あさごろもきればなつかし きのくにのいもせのやまに あさまくわぎも>
<<麻衣を着るとなつかしく思い出されることだ。紀伊の国の妹背の山で麻の種を蒔いていたあの娘ことを>>
奈良の京の公卿が紀の国への天皇行幸に同伴したときといわれていますが,業務そっちのけで農家の可愛い娘を目ざとく見ているとはね~と思う人もいても不思議ではありません。
しかし,別の見方として,そんな可愛い女の子がいるなら,次の行幸では私も同行しようと思う公卿や紀の国へ旅してみようと思う人が増えることを願って詠ったのかもしれません。
紀の国は,平城京からの距離は,山城(京都)や難波(大阪)に比べてそれほど近くはありません。
しかし,平城京から南行し,今の橿原市,御所市,五條市まで行って,後は水量が豊かな紀の川を下って行けば,急峻な山越え無く,紀の国(和歌山)に到達できます。
万葉時代,紀の国は平城京へさまざまな海の幸,川の幸,山の幸,紀の川が氾濫した肥沃な土地で栽培される麻やコメなどの農作物,そして建材を供給する有望な地域となっていたのでしょう。
今もあるシリーズ「麻(あさ)(3:まとめ)」に続く。
とはいえ,最初はの短歌は,東歌には分類されませんが,常陸娘子(ひたちのをとめ)という東国の女性が,現地で詠んだ短歌です。
庭に立つ麻手刈り干し布曝す東女を忘れたまふな(4-521)
<にはにたつあさでかりほし ぬのさらすあづまをみなを わすれたまふな>
<<庭に立つ麻を手で刈り干したり,布にしてさらしたりするような田舎者の東女ですが,どうかわたしをお忘れにならないでください>>
この短歌,藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が按察使(あぜち)設置時に常陸守として安房(あは),上総(かずさ)及び下総(しもふさ)3国の按察使に任命されるに赴いたのは養老3(719)年で,接待をした常陸娘子から赴任終了時に贈られたもののようです。
常陸娘子は庶民の出ではなく,現地で中央役人を接待するために,当時の教養,京人の作法,和歌を詠む素養,言葉遣いなどの教育をしっかり受けた豪族の家に生まれた女性だったのでしょう。
この短歌の前半部分は娘子が謙遜している部分ですが,東国では「麻」を自宅で栽培,製糸,機織,漂泊するような田舎であるというイメージが京人にはあったのでしょうね。
当然,娘子がそんなことはしていないし,する必要もないほど着るモノに困っていなかったとは思いますが。
次は,田辺福麻呂歌集に出ていたという新しくできた久邇京(恭仁京)を賛美する短歌です。
娘子らが続麻懸くといふ鹿背の山時しゆければ都となりぬ(6-1056)
<をとめらがうみをかくといふ かせのやまときしゆければ みやことなりぬ>
<<乙女らが麻糸に紡いで懸けておいたという桛(かせ),その名と同じ鹿背の山が時移り都となった>>
万葉時代には,製糸用具や織機のさまざまなパーツ,関連で使用する道具について,知っている人が多かったのでしょうか。
多くの人が着る服が麻布でできていた時代と考えると,麻糸の製糸,麻布を織ることに,多くの人が携わっていたのかもしれませんね。
ただ,新しい久邇京周辺で織物産業が活性化することを期待して,麻糸を製糸することを商売にする人が詠んだのかもしれないというと,万葉集を汚したという人が出そうですね。
久邇京はこの詠み手の思いとは裏腹に,天平12(740)年~同16(744)年の間しか存在しない仮の都のようなもので終わりました。
さて,最後は,藤原房前(ふぢはらのふささき)が詠んだとされる紀行風の短歌です。
麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹(7-1195)
<あさごろもきればなつかし きのくにのいもせのやまに あさまくわぎも>
<<麻衣を着るとなつかしく思い出されることだ。紀伊の国の妹背の山で麻の種を蒔いていたあの娘ことを>>
奈良の京の公卿が紀の国への天皇行幸に同伴したときといわれていますが,業務そっちのけで農家の可愛い娘を目ざとく見ているとはね~と思う人もいても不思議ではありません。
しかし,別の見方として,そんな可愛い女の子がいるなら,次の行幸では私も同行しようと思う公卿や紀の国へ旅してみようと思う人が増えることを願って詠ったのかもしれません。
紀の国は,平城京からの距離は,山城(京都)や難波(大阪)に比べてそれほど近くはありません。
しかし,平城京から南行し,今の橿原市,御所市,五條市まで行って,後は水量が豊かな紀の川を下って行けば,急峻な山越え無く,紀の国(和歌山)に到達できます。
万葉時代,紀の国は平城京へさまざまな海の幸,川の幸,山の幸,紀の川が氾濫した肥沃な土地で栽培される麻やコメなどの農作物,そして建材を供給する有望な地域となっていたのでしょう。
今もあるシリーズ「麻(あさ)(3:まとめ)」に続く。
2015年10月10日土曜日
今もあるシリーズ「麻(あさ)(1)」 … 万葉時代の東国は絹の産地。でも庶民は麻を着ていた?
麻は,今も衣類の繊維として利用されています。強く,風通しが良いので,蒸し暑い季節に爽やかな感じて着られるシャツなどに利用されています。
また,麻という漢字は次のように,植物や繊維以外いろいろなところに使われています。
麻雀(ゲーム),麻薬(医療),麻婆豆腐(料理),麻生(人名),麻布(地名),麻田(人名)などがあります。
万葉時代は,木綿の栽培は今ほど盛んではないく,絹の生産も今と同じ高級服用に限られていたようです。
そうすると,庶民が着る服は丈夫で軽い麻の布で作られた服となります。
万葉集でも,麻はたくさん詠まれていますが,何といっても万葉集に載っている和歌の男性作者の名前の最後によく出てくる「~麻呂」は,「麻」の字が使われています。
では,実際の万葉集の和歌を見ていきましょう。「麻」が一番たくさん詠まれいる万葉集の巻は14(東歌)です。
確かに,東歌は東国の庶民(多くは農民)の歌が多いので,分かるような気がします。
麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に(14-3484)
<あさをらををけにふすさに うまずともあすきせさめや いざせをどこに>
<<麻の糸を桶いっぱいになるまでよりあわせなくても,それで明日着せる服に間に合うはずもないから,さあ床で寝よう>>
夫が一生懸命夜まで働いている妻に対して,早く床に来いよと誘っている短歌と私は感じます。
麻の繊維をほぐして,糸に縒りあわせるのは結構面倒な作業だったのでしょうか。
そのため,庶民の妻の内職として,当時すでに定着していたのかもしれません。
妻は子どものためにせっせと内職をしているが,昼の仕事が終わった亭主は夜の営みをまだかまだかと待っている雰囲気が良く伝わってきます。
次も東歌です。
上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
<かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ>
<<上毛野の安蘇の群生した麻を腕一杯にかかえて寝たけれど、まだ満足できないが,どうすればよいのだろう>>
今の栃木県の安蘇郡で,渡良瀬川の流域で麻が群生しているところがあったのでしょうか。
麻は大麻(マリファナ)の原料となるように,その乾燥させたものには,精神を麻痺させるような薬理作用があるとされています。
そういったものを大量に抱きしめても,彼女を抱くのに比べたら全然満足できないといったことをこの短歌は表しているように私は思います。
最後も東歌です。
庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
<にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま>
<<庭に生えている麻で作った小さな掛布団よ,今宵は夫が来るように願ってね,麻で作った小さな掛布団よ>>
自宅の庭に生えている麻で丹精込めて作った小さな掛布団は,二人がしっかり抱き合わないとはみ出てしまうような可愛いものだったのでしょうか。
夫が来てくれるのを今か今かと心待ちにしている様子がしっかりと伺えますね。
東歌では,次の短歌から養蚕は始まっていたと思われますが,庶民の普段着には使えない高級品だったのでしょう。
また,東歌には木綿の布を詠んだ和歌が出てこないため,当時の東国では衣類や寝具の生地して麻布が多く使われていたことも想像できます。
筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも(14-3350)
<つくはねのにひぐはまよの きぬはあれどきみがみけしし あやにきほしも>
<<筑波嶺の新桑で作った絹の最高級な衣があると聞くけど,私はあなたの衣を身につけてみたいのよ>>
今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」に続く。
また,麻という漢字は次のように,植物や繊維以外いろいろなところに使われています。
麻雀(ゲーム),麻薬(医療),麻婆豆腐(料理),麻生(人名),麻布(地名),麻田(人名)などがあります。
万葉時代は,木綿の栽培は今ほど盛んではないく,絹の生産も今と同じ高級服用に限られていたようです。
そうすると,庶民が着る服は丈夫で軽い麻の布で作られた服となります。
万葉集でも,麻はたくさん詠まれていますが,何といっても万葉集に載っている和歌の男性作者の名前の最後によく出てくる「~麻呂」は,「麻」の字が使われています。
では,実際の万葉集の和歌を見ていきましょう。「麻」が一番たくさん詠まれいる万葉集の巻は14(東歌)です。
確かに,東歌は東国の庶民(多くは農民)の歌が多いので,分かるような気がします。
麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に(14-3484)
<あさをらををけにふすさに うまずともあすきせさめや いざせをどこに>
<<麻の糸を桶いっぱいになるまでよりあわせなくても,それで明日着せる服に間に合うはずもないから,さあ床で寝よう>>
夫が一生懸命夜まで働いている妻に対して,早く床に来いよと誘っている短歌と私は感じます。
麻の繊維をほぐして,糸に縒りあわせるのは結構面倒な作業だったのでしょうか。
そのため,庶民の妻の内職として,当時すでに定着していたのかもしれません。
妻は子どものためにせっせと内職をしているが,昼の仕事が終わった亭主は夜の営みをまだかまだかと待っている雰囲気が良く伝わってきます。
次も東歌です。
上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
<かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ>
<<上毛野の安蘇の群生した麻を腕一杯にかかえて寝たけれど、まだ満足できないが,どうすればよいのだろう>>
今の栃木県の安蘇郡で,渡良瀬川の流域で麻が群生しているところがあったのでしょうか。
麻は大麻(マリファナ)の原料となるように,その乾燥させたものには,精神を麻痺させるような薬理作用があるとされています。
そういったものを大量に抱きしめても,彼女を抱くのに比べたら全然満足できないといったことをこの短歌は表しているように私は思います。
最後も東歌です。
庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
<にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま>
<<庭に生えている麻で作った小さな掛布団よ,今宵は夫が来るように願ってね,麻で作った小さな掛布団よ>>
自宅の庭に生えている麻で丹精込めて作った小さな掛布団は,二人がしっかり抱き合わないとはみ出てしまうような可愛いものだったのでしょうか。
夫が来てくれるのを今か今かと心待ちにしている様子がしっかりと伺えますね。
東歌では,次の短歌から養蚕は始まっていたと思われますが,庶民の普段着には使えない高級品だったのでしょう。
また,東歌には木綿の布を詠んだ和歌が出てこないため,当時の東国では衣類や寝具の生地して麻布が多く使われていたことも想像できます。
筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも(14-3350)
<つくはねのにひぐはまよの きぬはあれどきみがみけしし あやにきほしも>
<<筑波嶺の新桑で作った絹の最高級な衣があると聞くけど,私はあなたの衣を身につけてみたいのよ>>
今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」に続く。
2013年12月28日土曜日
年末年始スペシャル「2013年本ブログを振り返って」
万葉集で12月に詠んだ和歌は何首もありますが,十二月という言葉を入れて詠んだ短歌は次の紀女郎が詠んだ1首のみのようです。
十二月には沫雪降ると知らねかも梅の花咲くふふめらずして(8-1648)
<しはすにはあわゆきふると しらねかもうめのはなさく ふふめらずして>
<<十二月には沫雪が降ることを知らないのでしょうか。梅の花が咲きました(蕾のままでなく)>>
旧暦の12月は新暦では1月下旬から2月上旬ですから梅は咲いてもおかしくありません。でも,雪が降ることも珍しいことではないので,こんな短歌になったのでしょうか。自分の年齢から開ききった梅の花に譬えているよう思えなくもないですね。
<この1年を振り返る>
さて,私は昨年の今頃と同様,今年もこの1年本ブログに投稿したことをまとめてみたいと思います。投稿数は昨年より少し多い62件になる見込みです(年内にまだ投稿する予定のため)。
2013年のアクセス数(閲覧件数)はおかげさまで2012年の年間アクセス数の1.7倍を超えることは確実な勢いです。特に,今月は今年の年頭に投稿した「新春の和歌(1)」~「新春の和歌(4:まとめ)」の4件にアクセスが集中して,12月としては今までにない大幅なアクセス数の伸び(前年同月の2.5倍超のアクセス数)となっています。また,2013年7月にはひと月のアクセス数が過去最高になりました。季節的な要素が原因かもしれませんが,その他の投稿もついでに詠んでいただける可能性があるので,素直に大変嬉しいと感じています。
<シリーズ物が好調>
2013年を振り返ると,1月の年末年始スペシャルの後,「今もあるシリーズ」に戻って投稿を進めました。2月になると「投稿5年目突入スペシャル」が割込みまとたが,ゴールデンウィーク(GW)の前まで「今もあるシリーズ」は続けました。GWに入ると『2013GWスペシャル「武蔵野シリーズ」』を投稿しました。その後,「心が動いた詞シリーズ」という万葉集に出てくる形容詞にスポットライトを当てた新企画を開始しました。8月から9月にかけては1件1件独立したテーマで「2013夏休みスペシャル」を投稿しました。9月中旬からは「心が動いた詞シリーズ」に戻りました。
そして,11月には投稿数がついに300回になったので,投稿300回記念特集「四国シリーズ」をお送りしました。
<年末の大阪出張>
私の仕事面では,一応昨日が仕事納めでした。それまでは年内に終わらせなければならないことが山ほどあり,かなり慌ただしかったのですが,何とか一息つけました。振り返ってみると2013年は大阪出張が多かった年でした。
今月25日,26日と年末の押し迫った時期にも関わらず,大阪に出張に行ってきました。出張での仕事が今回は思いのほか順調で,少し空いた時間を見計らって,大阪ミナミの法善寺横丁近くにある神座(かむくら)千日前店に寄って,白菜たっぷりラーメンにさらにネギをトッピングして食べました。
美味しかったです。
そして,写真はないですが,黒門市場にも行ってきました。なんと一匹20万円の巨大な天然クエ,1万円近くするトラフグ(てっぽう)がずらっと並んでいたり,さばく前のアンコウ丸ごとなど,冬の鍋物の高級食材が売られていました。
また,夜はキタの東梅田近辺の「お初天神通り商店街」や大阪駅内のレストラン街を散策しました。
来年も大阪には結構行くことになりそうですが,面白い場所があったら報告していきます。
年末年始スペシャル「年越の和歌」に続く。
十二月には沫雪降ると知らねかも梅の花咲くふふめらずして(8-1648)
<しはすにはあわゆきふると しらねかもうめのはなさく ふふめらずして>
<<十二月には沫雪が降ることを知らないのでしょうか。梅の花が咲きました(蕾のままでなく)>>
旧暦の12月は新暦では1月下旬から2月上旬ですから梅は咲いてもおかしくありません。でも,雪が降ることも珍しいことではないので,こんな短歌になったのでしょうか。自分の年齢から開ききった梅の花に譬えているよう思えなくもないですね。
<この1年を振り返る>
さて,私は昨年の今頃と同様,今年もこの1年本ブログに投稿したことをまとめてみたいと思います。投稿数は昨年より少し多い62件になる見込みです(年内にまだ投稿する予定のため)。
2013年のアクセス数(閲覧件数)はおかげさまで2012年の年間アクセス数の1.7倍を超えることは確実な勢いです。特に,今月は今年の年頭に投稿した「新春の和歌(1)」~「新春の和歌(4:まとめ)」の4件にアクセスが集中して,12月としては今までにない大幅なアクセス数の伸び(前年同月の2.5倍超のアクセス数)となっています。また,2013年7月にはひと月のアクセス数が過去最高になりました。季節的な要素が原因かもしれませんが,その他の投稿もついでに詠んでいただける可能性があるので,素直に大変嬉しいと感じています。
<シリーズ物が好調>
2013年を振り返ると,1月の年末年始スペシャルの後,「今もあるシリーズ」に戻って投稿を進めました。2月になると「投稿5年目突入スペシャル」が割込みまとたが,ゴールデンウィーク(GW)の前まで「今もあるシリーズ」は続けました。GWに入ると『2013GWスペシャル「武蔵野シリーズ」』を投稿しました。その後,「心が動いた詞シリーズ」という万葉集に出てくる形容詞にスポットライトを当てた新企画を開始しました。8月から9月にかけては1件1件独立したテーマで「2013夏休みスペシャル」を投稿しました。9月中旬からは「心が動いた詞シリーズ」に戻りました。
そして,11月には投稿数がついに300回になったので,投稿300回記念特集「四国シリーズ」をお送りしました。
<年末の大阪出張>
私の仕事面では,一応昨日が仕事納めでした。それまでは年内に終わらせなければならないことが山ほどあり,かなり慌ただしかったのですが,何とか一息つけました。振り返ってみると2013年は大阪出張が多かった年でした。
今月25日,26日と年末の押し迫った時期にも関わらず,大阪に出張に行ってきました。出張での仕事が今回は思いのほか順調で,少し空いた時間を見計らって,大阪ミナミの法善寺横丁近くにある神座(かむくら)千日前店に寄って,白菜たっぷりラーメンにさらにネギをトッピングして食べました。
美味しかったです。
そして,写真はないですが,黒門市場にも行ってきました。なんと一匹20万円の巨大な天然クエ,1万円近くするトラフグ(てっぽう)がずらっと並んでいたり,さばく前のアンコウ丸ごとなど,冬の鍋物の高級食材が売られていました。
また,夜はキタの東梅田近辺の「お初天神通り商店街」や大阪駅内のレストラン街を散策しました。
来年も大阪には結構行くことになりそうですが,面白い場所があったら報告していきます。
年末年始スペシャル「年越の和歌」に続く。
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