今「むしろ」を知っている若い人は少ないかもしれませんね。
『「ゴザ」なら知っているんだけど』という人はまだ多いかもしれません。しかし,名探偵ポアロや刑事コロンボなら『そう答えた人は実は「むしろ」を知っているのである』と断言することになりそうですね。結局同じものを指していますから。
さて,万葉集で「むしろ」やそれをイメージして詠んだ和歌は短歌3首(すべて詠み人知らず)しかありません。
まず,1首目は吉野の美しさを詠んだ短歌です。
み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰れか織りけむ経緯なしに(7-1120)
<みよしののあをねがたけの こけむしろたれかおりけむ たてぬきなしに>
<<美しい吉野の青根が岳の周辺では苔が一面むしろのように生えている。その苔のむしろは誰か人が丁寧に編んだように,経糸緯糸が感じられないくらいきれいだ>>
この作者は,当時でも観光地として有名であった吉野。そこからさらに奥にある青根が岳は,吉野とはまた違った趣がある風光明媚な場所だと,この短歌は詠んでいそうです。
今でも,奥飛騨,奥多摩,奥湯河原温泉,奥武蔵,奥道後温泉といった観光地があるように,青根が岳は奥吉野のようなイメージの場所だったのかもしれませんね。
そこは,人が踏み込んだことがないような一面に敷き詰められた「苔むしろ」。その美しさはまるで,緑の糸で細かく編んだむしろのようだと。
ここでの「むしろ」は「じゅうたん」に近い敷物のイメージかもしれませんね。
次は,夫として来るのを待つ女性の苦しい気持ちを詠んだ短歌です。
ひとり寝と薦朽ちめやも綾席緒になるまでに君をし待たむ(11-2538)
<ひとりぬとこもくちめやも あやむしろをになるまでに きみをしまたむ>
<<独り寝で薦が朽ちることはあるでしょうか。でも,綾むしろが解けて緒になるまで,もっとあなた「を」お待ちしましています>>
薦はマコモで編んだ敷物です。ある意味大衆品の代名詞ですが,それでも一人で使っている分には長持ちする。まして,高級品である綾織のむしろ(じゅうたん)はもっと丈夫で,それが「緒」(周囲が徐々にほつれてしまい紐のよう)になるまであなたを待つという,作者の強い気持ちを詠み込んだ短歌だと私は思います。
この短歌,本人の苦しい思いはもちろん強く私に伝わってきますが,『当時もう「綾織のむしろ」,すなわち高級な敷物が製造されていて,それなりに豊かな家では使われていた』ということに興味を覚えます。
万葉集は,いろいろな譬えを使って相手に気持ちを伝える手法が使われます。それが,文学的に高度な(上手い)表現かどうかは私にはあまり興味がありません。
それよりも,その例示によって当時の人々の生活が手に取るように分かり,見えることに万葉集の本当の価値を私は感じるのです。
最後は「むしろ」を序詞に使って,逢いたいことを表現した短歌です。
玉桙の道行き疲れ稲むしろしきても君を見むよしもがも(11-2643)
<たまほこのみちゆきつかれ いなむしろしきてもきみを みむよしもがも>
<<長い旅で歩き疲れて休むために稲筵を広げて敷くように,広くあなたにお逢いできる方法があるとよいのにね>>
この短歌の言いたいことは,もっと広く(たっぷり)あなたと逢いたいという思い。
「何だ,それだけ?」という人には,私がこの短歌を評価する価値が分からないのかもしれません。
・当時,稲わらで編んだ「むしろ」があり,「稲むしろ」と呼んでいた。
・旅(歩行中心)には,稲むしろを携帯していた。
・稲むしろは,旅道中の休憩に使っていた。
・野宿用に大きなサイズのものが在ったかもしれない。
・腰かけるときは折りたたんで,クッションのようにしたかもしれない。
こんな当時の旅行道具としての「むしろ」を想像させてくれるこの短歌は,私にとってはcool!。
今もあるシリーズ「池(1)」に続く。
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