2016年1月31日日曜日

今もあるシリーズ「池(1)」…万葉時代,「池」は「生ける」に通じるものだった?

今回から何回か「池(いけ)」にいて,万葉集を見ていきます。
「池」を広辞苑で見ると「土を掘って人工的に水をためた所。自然の土地のくぼみに水のたまった所。」とあります。
広辞苑では,池には人工的に作られたものと自然が偶然作ったものとがあることを説明していることになりそうです。
後者(自然の池)は,長野県上高地にある大正池,同じく長野県白馬村にある八方池,富山県立山室堂にあるミクリガ池リンドウ池ミドリガ池などがその事例でしょうか。
前者(人工に作られた池)は,一般的な言葉として「ため池」,「貯水池」,「遊水地」,「養魚池」(ウナギ養殖では特に「養鰻(ようまん)池」と呼ぶ)などがそれにあたるのでしょう。
万葉時代は,大陸からの新しい文化や建築技法が流入し,貴族や豪族といった富裕層が,積極的に当時としては豪華な住居や集会する場所を建設していった中で,「池」のある造園も盛んになったのだと思います。
また,高度な農業技術の流入もあり,干ばつを防止するたの「ため池」が農地の中や周辺に多数掘られたのだろうと思います。
さらに,それらの「ため池」には,川や湖沼にいる魚(ドジョウコイフナなど)や鳥を生きたまま移住,繁殖させ,タンパク源となる食糧の採取にも利用した可能性があります。
そのため,万葉集に出てくる「池」は人工の池が比較的多く出てきます。
最初は,天武天皇の子である草壁皇子が27歳で亡くなった時(689年),それに対して柿本人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)からです。

嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず(2-170)
しまのみやまがりのいけの はなちとりひとめにこひて いけにかづかず
<<嶋の宮(皇子の邸宅)の池に放し飼いにされている鳥も,皇子の目が恋しくて水に潜ることもしない>>

草壁皇子の邸宅には,立派な庭とその中に鳥を放し飼いにできるほど大きな池があったのだろうと想像できます。
次も人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)ですが,亡くなったのはやはり天武天皇の子である高市皇子(696年)です。享年42歳。

埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ(2-201)
はにやすのいけのつつみの こもりぬのゆくへをしらに とねりはまとふ
<<埴安にある周囲の堤に生えた草で水面が見えないほどになっている沼池の水がどこにあるか分からないように,これからどうしたものかわからず舎人は途方にくれて惑うばかりだ>>

埴安の池天の香具山の近くあったようですが,「堤」とあるように人工的に作られた様子がうかがえます。
最後の池を詠んだ短歌は,あの有名な天武天皇の子である大津皇子の辞世(686年)の1首です。享年24歳。

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ
<<磐余の池に鳴く鴨を今日までしか見ることができないようだ。私は雲に隠れてしまうから>>

この3人の天武天皇の皇子たちの死に対して「池」のイメージが何か独特の雰囲気を醸し出しているように私は感じます。
「池」が生の場所であり,そこから永遠に離れることが結局死をイメージするような雰囲気かなと思うのです。
「生ける」の文語表現である「生く」の已然形「生け」と「池」は同じ発音であったすればなおさらでしょうか。
今もあるシリーズ「池(2)」に続く。

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