今回から何回か「池(いけ)」にいて,万葉集を見ていきます。
「池」を広辞苑で見ると「土を掘って人工的に水をためた所。自然の土地のくぼみに水のたまった所。」とあります。
広辞苑では,池には人工的に作られたものと自然が偶然作ったものとがあることを説明していることになりそうです。
後者(自然の池)は,長野県上高地にある大正池,同じく長野県白馬村にある八方池,富山県立山室堂にあるミクリガ池,リンドウ池,ミドリガ池などがその事例でしょうか。
前者(人工に作られた池)は,一般的な言葉として「ため池」,「貯水池」,「遊水地」,「養魚池」(ウナギ養殖では特に「養鰻(ようまん)池」と呼ぶ)などがそれにあたるのでしょう。
万葉時代は,大陸からの新しい文化や建築技法が流入し,貴族や豪族といった富裕層が,積極的に当時としては豪華な住居や集会する場所を建設していった中で,「池」のある造園も盛んになったのだと思います。
また,高度な農業技術の流入もあり,干ばつを防止するたの「ため池」が農地の中や周辺に多数掘られたのだろうと思います。
さらに,それらの「ため池」には,川や湖沼にいる魚(ドジョウ,コイ,フナなど)や鳥を生きたまま移住,繁殖させ,タンパク源となる食糧の採取にも利用した可能性があります。
そのため,万葉集に出てくる「池」は人工の池が比較的多く出てきます。
最初は,天武天皇の子である草壁皇子が27歳で亡くなった時(689年),それに対して柿本人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)からです。
嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず(2-170)
<しまのみやまがりのいけの はなちとりひとめにこひて いけにかづかず>
<<嶋の宮(皇子の邸宅)の池に放し飼いにされている鳥も,皇子の目が恋しくて水に潜ることもしない>>
草壁皇子の邸宅には,立派な庭とその中に鳥を放し飼いにできるほど大きな池があったのだろうと想像できます。
次も人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)ですが,亡くなったのはやはり天武天皇の子である高市皇子(696年)です。享年42歳。
埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ(2-201)
<はにやすのいけのつつみの こもりぬのゆくへをしらに とねりはまとふ>
<<埴安にある周囲の堤に生えた草で水面が見えないほどになっている沼池の水がどこにあるか分からないように,これからどうしたものかわからず舎人は途方にくれて惑うばかりだ>>
埴安の池は天の香具山の近くあったようですが,「堤」とあるように人工的に作られた様子がうかがえます。
最後の池を詠んだ短歌は,あの有名な天武天皇の子である大津皇子の辞世(686年)の1首です。享年24歳。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<<磐余の池に鳴く鴨を今日までしか見ることができないようだ。私は雲に隠れてしまうから>>
この3人の天武天皇の皇子たちの死に対して「池」のイメージが何か独特の雰囲気を醸し出しているように私は感じます。
「池」が生の場所であり,そこから永遠に離れることが結局死をイメージするような雰囲気かなと思うのです。
「生ける」の文語表現である「生く」の已然形「生け」と「池」は同じ発音であったすればなおさらでしょうか。
今もあるシリーズ「池(2)」に続く。
2016年1月31日日曜日
2015年9月16日水曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(5)…高級「霜降り」の和牛ステーキが食べたいよ
日本では,ようやく異常な秋の長雨も終わり,秋晴れの日が続きそうな天気予報になりましたね。
茨城県常総市でおきた鬼怒川の堤防決壊の被害に遭われた方々,他の雨の被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
さて,今回からは,雨以外の降るモノを見ていきます。今回季節的に少し早いかもしれませんが「霜が降る」を万葉集で探します。
まず,次の詠み人知らずの短歌ですが,北海道,東北地方では,もうこんな季節に近づいているのかもしれませんね。
さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも(10-2220)
<さをしかのつまよぶやまの をかへなるわさだはからじ しもはふるとも>
<<牡鹿が妻を呼ぶ鳴き声がする丘のまわりにある早稲田の稲は刈らないで欲しい。霜が降るような季節になっても>>
解釈がいろいろできる短歌だと思いますが,作者にとってかけがいの無い風景,雰囲気なのでしょうね。ずっとこの風景の美しさと鹿の恋(自分たちの恋?)の季節が続いていてほしいと思ているのかもしれません。
さて,「霜が降る」を詠んだ有名な和歌がたくさん万葉集にはあります。このブログですでに紹介したものもありますが,次々と見ていきましょうか。
次は志貴皇子が慶雲3(706)年文武天皇(草壁皇子の長男)の行幸で難波に随行したときに詠んだ有名な短歌です。
葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ(1-64)
<あしへゆくかものはがひに しもふりてさむきゆふへは やまとしおもほゆ>
<<葦のまわりを行く鴨の羽がいに霜が降って寒い夕暮は,大和がしきりと思われることよ>>
文武天皇が宮中を離れて,難波に行くことは,志貴皇子には快く思われなかったのかもしれません。天皇はまだ23歳ほどの若さでしたが,恐らく脆弱な体調だったのでしょう(翌年死去)。実権は母(後の元明天皇)が握っていたと考えられます。
志貴皇子にとって,政治的に大和で何が進んでいるか気になるところだったのだろうと,私はこの短歌から感じます。
次は,天平8(736)年に聖武天皇が橘諸兄(葛城王から橘姓を聖武天皇から授かった時)に贈ったといわれる短歌です。
橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
<たちばなはみさへはなさへ そのはさへえにしもふれど いやとこはのき>
<<橘という木は,実も花もその葉も,枝に霜が降るような季節になっても葉は美しい緑であることよ>>
これを拝受した橘諸兄の地位はかなり盤石になったと私は想像します。
次は,悲運の皇子として語り継がれいる大津皇子が詠んだとされる短歌です。
経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね(8-1512)
<たてもなくぬきもさだめず をとめらがおるもみちばに しもなふりそね>
<<(機織で)縦糸も横糸も定めずに乙女らが(規則性無く)織ってしまったような黄葉に霜が降らないでほしいものだ>>
黄葉のグラデーションの美しさと色合いの多様さを見事に(おそらく錦織による)機織で例示した短歌だと私は思います。美しさに感動した強さを「霜が降らないでほしい」(いつまでも続いていてほしい)と皇子は表現しています。
こういった例示こそが万葉集に残された和歌の情報量の多さを物語っていると私は考えます。
一つのことを単に示すだけの情報量と,何かと何かを比較して示す情報量は,前者の2倍よりもかなり大きいと私は考えます。
すなわち,比較すれば,ぴったり合う部分と多少合わない部分が出てきます。それが,それぞれ個々の情報量に加え,比較で見えるさまざまな差という情報がプラスアルファされるのです。
<万葉集の和歌は多くの人に多くの情報を与える>
また,詠まれた和歌を聞いた人は,作者が具体的にどれとどれを比較して詠っているのかを考えたり,想像したり,後で調べたりすることになります。結果的に,その和歌を見た人に多くの情報を与えることになるのです。
説明的に違うものを比較するより,あるものにだけ焦点をあて素晴らしさを表現するほうが文学的には優れているという考え方もあるかもしれません。ただ,文学的には平凡といわれる和歌でも,考えたり,想像したり,調べたりして結果的にそこから得られる情報量が多ければ,私的には優れた和歌なのだと考えます。
この私的評価基準は,もし万葉集が文学作品集ではなく,万葉時代の社会の全体像を理解してもらうために編纂されたとすれば,なおさら明確です。
次は,天平5(733)年,我が子が遣唐使として送り出した母が,安全を祈って我が子に贈ったとさける短歌(長歌の反歌)です。
旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(9-1791)
<たびひとのやどりせむのに しもふらばあがこはぐくめ あめのたづむら>
<<旅人が一夜を明かす野に霜が降ったら,我が子を羽の下に包んでやっておくれ,空飛ぶ鶴の群よ>>
奈良時代,遣唐使船は,行き,帰りとも難破することが多く,何度も渡航し直したり,遣唐使の命を受けても辞退者が続出する状況だったようです。
そのような中で,我が子を送り出す母の気持ちは,この短歌で本当にわかる気がします。何せ,現代宇宙ステーションに人を送るよりはるかに死亡率が高かった航海ですから。母が詠んだ「霜が降る」は我が子が遭遇する苦難の象徴なのでしょう。
果たして,我が子は無事母のもとに帰ることができたのでしょうか。Wikipediaによると天平5年の遣唐使はすべての人が無事に帰れたわけではないようです。
でも,この人たちのような命を危険にさらす努力によって,(西方の大陸からさまざまな影響を受けた)今の日本の文化が育まれたことだけは事実でしょう。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6)に続く。
茨城県常総市でおきた鬼怒川の堤防決壊の被害に遭われた方々,他の雨の被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
さて,今回からは,雨以外の降るモノを見ていきます。今回季節的に少し早いかもしれませんが「霜が降る」を万葉集で探します。
まず,次の詠み人知らずの短歌ですが,北海道,東北地方では,もうこんな季節に近づいているのかもしれませんね。
さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも(10-2220)
<さをしかのつまよぶやまの をかへなるわさだはからじ しもはふるとも>
<<牡鹿が妻を呼ぶ鳴き声がする丘のまわりにある早稲田の稲は刈らないで欲しい。霜が降るような季節になっても>>
解釈がいろいろできる短歌だと思いますが,作者にとってかけがいの無い風景,雰囲気なのでしょうね。ずっとこの風景の美しさと鹿の恋(自分たちの恋?)の季節が続いていてほしいと思ているのかもしれません。
さて,「霜が降る」を詠んだ有名な和歌がたくさん万葉集にはあります。このブログですでに紹介したものもありますが,次々と見ていきましょうか。
次は志貴皇子が慶雲3(706)年文武天皇(草壁皇子の長男)の行幸で難波に随行したときに詠んだ有名な短歌です。
葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ(1-64)
<あしへゆくかものはがひに しもふりてさむきゆふへは やまとしおもほゆ>
<<葦のまわりを行く鴨の羽がいに霜が降って寒い夕暮は,大和がしきりと思われることよ>>
文武天皇が宮中を離れて,難波に行くことは,志貴皇子には快く思われなかったのかもしれません。天皇はまだ23歳ほどの若さでしたが,恐らく脆弱な体調だったのでしょう(翌年死去)。実権は母(後の元明天皇)が握っていたと考えられます。
志貴皇子にとって,政治的に大和で何が進んでいるか気になるところだったのだろうと,私はこの短歌から感じます。
次は,天平8(736)年に聖武天皇が橘諸兄(葛城王から橘姓を聖武天皇から授かった時)に贈ったといわれる短歌です。
橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
<たちばなはみさへはなさへ そのはさへえにしもふれど いやとこはのき>
<<橘という木は,実も花もその葉も,枝に霜が降るような季節になっても葉は美しい緑であることよ>>
これを拝受した橘諸兄の地位はかなり盤石になったと私は想像します。
次は,悲運の皇子として語り継がれいる大津皇子が詠んだとされる短歌です。
経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね(8-1512)
<たてもなくぬきもさだめず をとめらがおるもみちばに しもなふりそね>
<<(機織で)縦糸も横糸も定めずに乙女らが(規則性無く)織ってしまったような黄葉に霜が降らないでほしいものだ>>
黄葉のグラデーションの美しさと色合いの多様さを見事に(おそらく錦織による)機織で例示した短歌だと私は思います。美しさに感動した強さを「霜が降らないでほしい」(いつまでも続いていてほしい)と皇子は表現しています。
こういった例示こそが万葉集に残された和歌の情報量の多さを物語っていると私は考えます。
一つのことを単に示すだけの情報量と,何かと何かを比較して示す情報量は,前者の2倍よりもかなり大きいと私は考えます。
すなわち,比較すれば,ぴったり合う部分と多少合わない部分が出てきます。それが,それぞれ個々の情報量に加え,比較で見えるさまざまな差という情報がプラスアルファされるのです。
<万葉集の和歌は多くの人に多くの情報を与える>
また,詠まれた和歌を聞いた人は,作者が具体的にどれとどれを比較して詠っているのかを考えたり,想像したり,後で調べたりすることになります。結果的に,その和歌を見た人に多くの情報を与えることになるのです。
説明的に違うものを比較するより,あるものにだけ焦点をあて素晴らしさを表現するほうが文学的には優れているという考え方もあるかもしれません。ただ,文学的には平凡といわれる和歌でも,考えたり,想像したり,調べたりして結果的にそこから得られる情報量が多ければ,私的には優れた和歌なのだと考えます。
この私的評価基準は,もし万葉集が文学作品集ではなく,万葉時代の社会の全体像を理解してもらうために編纂されたとすれば,なおさら明確です。
次は,天平5(733)年,我が子が遣唐使として送り出した母が,安全を祈って我が子に贈ったとさける短歌(長歌の反歌)です。
旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(9-1791)
<たびひとのやどりせむのに しもふらばあがこはぐくめ あめのたづむら>
<<旅人が一夜を明かす野に霜が降ったら,我が子を羽の下に包んでやっておくれ,空飛ぶ鶴の群よ>>
奈良時代,遣唐使船は,行き,帰りとも難破することが多く,何度も渡航し直したり,遣唐使の命を受けても辞退者が続出する状況だったようです。
そのような中で,我が子を送り出す母の気持ちは,この短歌で本当にわかる気がします。何せ,現代宇宙ステーションに人を送るよりはるかに死亡率が高かった航海ですから。母が詠んだ「霜が降る」は我が子が遭遇する苦難の象徴なのでしょう。
果たして,我が子は無事母のもとに帰ることができたのでしょうか。Wikipediaによると天平5年の遣唐使はすべての人が無事に帰れたわけではないようです。
でも,この人たちのような命を危険にさらす努力によって,(西方の大陸からさまざまな影響を受けた)今の日本の文化が育まれたことだけは事実でしょう。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6)に続く。
2015年5月16日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1) 「Win・Winの関係」をより進めて「栄・栄の関係」へ
<日本人はすぐに謝る?>
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。
はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
<はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを>
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>
余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。
我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
<わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも>
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>
この短歌は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。
天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
<あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき>
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>
奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。
はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
<はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを>
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>
余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。
我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
<わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも>
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>
この短歌は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。
天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
<あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき>
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>
奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。
2015年5月9日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ) 植物は無闇に折らず,あるがままがいいですね
我が家の庭(マンションの専用庭)に20年以上前から植えていたサクランボは,例年全く実をつけないか,つけても数粒だったのですが,今年は比較的たくさん実をつけてくれました。
手で折ってしまうのは惜しい気がして,そのままにして,毎日色づきの変化を楽しんでいます。そのうち,鳥が食べてしまうかもしれませんが。
さて,「折る」の最後は初回に紹介した「梅の花を折る」以外の植物を「折る」について,万葉集を見ていきます。
まず,大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悲しむ挽歌に出てくる「馬酔木」からです。
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)
<いそのうへにおふるあしびを たをらめどみすべききみが ありといはなくに>
<<岩の上に咲く馬酔木を手折りました。ただ,お見せしたいあなたがまだ生きているとは誰も言う人はいない>>
馬酔木(アセビ)は,毒があるけれど,そのため虫にも食われず,清涼な白い小さな花を咲かせます。清潔感のイメージが強かった大津皇子にお似合いの花だったのかもしれませんね。
次は,大伴家持が(まだ若いころ?)詠んだ「なでしこ」です。
我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも(8-1496)
<わがやどのなでしこのはな さかりなりたをりてひとめ みせむこもがも>
<<私の庭の撫子の花が今を盛りと咲いています。手折って一目見せてあげられる娘がいたらなあ>>
恐らく,家持は撫子の可憐で美しい色に魅了されたのでしょう。
次は,高橋虫麻呂歌集から転載されたという短歌で「桜」です。
暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを(9-1750)
<いとまあらばなづさひわたり むかつをのさくらのはなも をらましものを>
<<時間があれば川を渡って向こうの峰まで行き,峰の桜の花を手にとってみたいほどだ>>
きっと,そばまで行ってみたくなほど見事な山桜が遠くに見えたのでしょう。
最後は,家持が越中で平城京いる妹の留女女郎(とどめのいらつめ)に贈った短歌に出てくる「山吹」です。
妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし(19-4197)
<いもににるくさとみしより わがしめしのへのやまぶき たれかたをりし>
<<あなたに似た可愛い草だと見たので、私がしるしをつけた野辺の山吹なのに、誰が手折ってしまったのだろう>>
この短歌は,女郎が家持に贈った短歌(山吹を採って,寂しく平城京の自宅に残った家持の妻坂上大嬢(さかのうへのおほをとめ)に渡したよ)への返歌です。渡した山吹できっと大嬢への私の恋しい思いは伝わったという意味かと私は解釈します。大嬢はその後越中の家持のもとへ行ったと想像しますが,この短歌のやり取りが,越中へ行くきっかけになったのなら,面白いですね。
では,これで「折る」はお終いにして,次回からは「栄ゆ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1)に続く。
手で折ってしまうのは惜しい気がして,そのままにして,毎日色づきの変化を楽しんでいます。そのうち,鳥が食べてしまうかもしれませんが。
さて,「折る」の最後は初回に紹介した「梅の花を折る」以外の植物を「折る」について,万葉集を見ていきます。
まず,大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悲しむ挽歌に出てくる「馬酔木」からです。
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)
<いそのうへにおふるあしびを たをらめどみすべききみが ありといはなくに>
<<岩の上に咲く馬酔木を手折りました。ただ,お見せしたいあなたがまだ生きているとは誰も言う人はいない>>
馬酔木(アセビ)は,毒があるけれど,そのため虫にも食われず,清涼な白い小さな花を咲かせます。清潔感のイメージが強かった大津皇子にお似合いの花だったのかもしれませんね。
次は,大伴家持が(まだ若いころ?)詠んだ「なでしこ」です。
我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも(8-1496)
<わがやどのなでしこのはな さかりなりたをりてひとめ みせむこもがも>
<<私の庭の撫子の花が今を盛りと咲いています。手折って一目見せてあげられる娘がいたらなあ>>
恐らく,家持は撫子の可憐で美しい色に魅了されたのでしょう。
次は,高橋虫麻呂歌集から転載されたという短歌で「桜」です。
暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを(9-1750)
<いとまあらばなづさひわたり むかつをのさくらのはなも をらましものを>
<<時間があれば川を渡って向こうの峰まで行き,峰の桜の花を手にとってみたいほどだ>>
きっと,そばまで行ってみたくなほど見事な山桜が遠くに見えたのでしょう。
最後は,家持が越中で平城京いる妹の留女女郎(とどめのいらつめ)に贈った短歌に出てくる「山吹」です。
妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし(19-4197)
<いもににるくさとみしより わがしめしのへのやまぶき たれかたをりし>
<<あなたに似た可愛い草だと見たので、私がしるしをつけた野辺の山吹なのに、誰が手折ってしまったのだろう>>
この短歌は,女郎が家持に贈った短歌(山吹を採って,寂しく平城京の自宅に残った家持の妻坂上大嬢(さかのうへのおほをとめ)に渡したよ)への返歌です。渡した山吹できっと大嬢への私の恋しい思いは伝わったという意味かと私は解釈します。大嬢はその後越中の家持のもとへ行ったと想像しますが,この短歌のやり取りが,越中へ行くきっかけになったのなら,面白いですね。
では,これで「折る」はお終いにして,次回からは「栄ゆ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1)に続く。
2015年2月8日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(4) 偉大なあのお方が不本意にもお隠れになってしまった
現代でも尊敬する人が亡くなることを「お隠れになる」と表現する場合があります。万葉集にも人が死ぬことを「隠る」を使って表現している和歌が出てきます。たとえば現代語でいえば「岩に隠れる」「岩に籠る」という表現です。
次は,河内王(かふちのおほきみ)が亡くなり,葬られたときに手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだとされる挽歌3首の中の1首です。
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず(3-418)
<とよくにのかがみのやまの いはとたてこもりにけらし まてどきまさず>
<<豊前の国にある鏡の山の岩戸を閉じて岩の中に籠ってしまわれたらしい。いくら待っても岩戸から出てこられない>>
その他,亡くなること(死ぬこと)の表現に,「隠る」の初回の投稿で示した「雲隠る」という表現も使われています。そのもっとも有名なのが天武天皇崩御直後(686年)のこと,大津皇子(おほつのみこ)の辞世の歌とされている短歌です。
このとき,大津皇子は24歳で,謀反の疑いを掛けられ,自害に追い込まれたと万葉集から読み取れるようです。大津皇子は後代の天皇候補の一人として目されていたのですが,不本意な死に至ったことを後世の人は語り継いだのだろうと私は思います。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<< 磐余の池で鳴く鴨を今日しか見られないのか。もう死ぬのだから>>
最後は,死を意味する「雲隠る」が詠まれたもう1首の短歌を紹介します。この短歌も政変(長屋王の変:神亀6<729>年)に関係しています。]謀反の罪を着せられ自害して死んだ対象はその長屋王です。短歌の作者は倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)であるとこの歌の題詞に書かれています。729>
大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります(3-441)
<おほきみのみことかしこみ おほあらきのときにはあらねど くもがくります>
<<天皇のお葬式ではないのにもうお亡くなりになってしまった>>
当時40歳代の半ばだったと考えられる長屋王は,平城京を担う重鎮として,天皇になってもおかしくない実力を持っていたようです。そのためか,この短歌では天皇になってから亡くなるはずという出だしとなっています。
大津皇子と同じように,長屋王の不本意な死を後世に語り継いだと考えられます。
<権力の魔性>
権力争いで,優秀な人が犠牲になることは歴史の常と言えばそれまでですが,一国のトップ争いをする集団や個人は自分の位置を守るために,優秀な人材を抹殺するという全体不最適なことをやってしまうのかもしれません。
21世紀は情報化革命で世界が一つの国になろうとしているよう私には思えます。それはそれで歴史の自然な流れのような気がします。
しかし,その過程でさまざまなもの(軍事物資,資源,思想など)を利用して,クーデターやテロリズムが発生してしまっているのが今の世界でもあるのではないかと私は感じます。
自分たちの立場を正当化するために,自分たちの立場を認めない人間は死をもって制裁しても構わないという考え方,それは結局非人間的な権力欲の魔性に取りつかれた人たちでしかないと私は見ています。
<権力欲に取りつかれてしまう人間の性の研究がもっと必要>
権力欲の魔性に取りつかれ,それを脅かす人間と判断すると平気でその人を殺してしまうのも人間,世の中が悪いのだから自分は何をしても構わないと勝手に思い込むのも人間。
一方で,自分の精神的,経済的な満足をさまざまな思想,生活環境,経済状況の人々と分かち合いたいと(社会への貢献・奉仕・援助等を)考えるのも人間。
人間がもつそのような多様性(例えば仏教の見方のひとつ「一念三千」)について,さらにさらに(歴史,人文,思想,宗教などの観点から)研究がなされ,後者のような人間の生き方がより世界に広まる活動を前提として,科学技術の発展や利用についても考えていく必要があると私は強く感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ)に続く。
次は,河内王(かふちのおほきみ)が亡くなり,葬られたときに手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだとされる挽歌3首の中の1首です。
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず(3-418)
<とよくにのかがみのやまの いはとたてこもりにけらし まてどきまさず>
<<豊前の国にある鏡の山の岩戸を閉じて岩の中に籠ってしまわれたらしい。いくら待っても岩戸から出てこられない>>
その他,亡くなること(死ぬこと)の表現に,「隠る」の初回の投稿で示した「雲隠る」という表現も使われています。そのもっとも有名なのが天武天皇崩御直後(686年)のこと,大津皇子(おほつのみこ)の辞世の歌とされている短歌です。
このとき,大津皇子は24歳で,謀反の疑いを掛けられ,自害に追い込まれたと万葉集から読み取れるようです。大津皇子は後代の天皇候補の一人として目されていたのですが,不本意な死に至ったことを後世の人は語り継いだのだろうと私は思います。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<< 磐余の池で鳴く鴨を今日しか見られないのか。もう死ぬのだから>>
最後は,死を意味する「雲隠る」が詠まれたもう1首の短歌を紹介します。この短歌も政変(長屋王の変:神亀6<729>年)に関係しています。]謀反の罪を着せられ自害して死んだ対象はその長屋王です。短歌の作者は倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)であるとこの歌の題詞に書かれています。729>
大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります(3-441)
<おほきみのみことかしこみ おほあらきのときにはあらねど くもがくります>
<<天皇のお葬式ではないのにもうお亡くなりになってしまった>>
当時40歳代の半ばだったと考えられる長屋王は,平城京を担う重鎮として,天皇になってもおかしくない実力を持っていたようです。そのためか,この短歌では天皇になってから亡くなるはずという出だしとなっています。
大津皇子と同じように,長屋王の不本意な死を後世に語り継いだと考えられます。
<権力の魔性>
権力争いで,優秀な人が犠牲になることは歴史の常と言えばそれまでですが,一国のトップ争いをする集団や個人は自分の位置を守るために,優秀な人材を抹殺するという全体不最適なことをやってしまうのかもしれません。
21世紀は情報化革命で世界が一つの国になろうとしているよう私には思えます。それはそれで歴史の自然な流れのような気がします。
しかし,その過程でさまざまなもの(軍事物資,資源,思想など)を利用して,クーデターやテロリズムが発生してしまっているのが今の世界でもあるのではないかと私は感じます。
自分たちの立場を正当化するために,自分たちの立場を認めない人間は死をもって制裁しても構わないという考え方,それは結局非人間的な権力欲の魔性に取りつかれた人たちでしかないと私は見ています。
<権力欲に取りつかれてしまう人間の性の研究がもっと必要>
権力欲の魔性に取りつかれ,それを脅かす人間と判断すると平気でその人を殺してしまうのも人間,世の中が悪いのだから自分は何をしても構わないと勝手に思い込むのも人間。
一方で,自分の精神的,経済的な満足をさまざまな思想,生活環境,経済状況の人々と分かち合いたいと(社会への貢献・奉仕・援助等を)考えるのも人間。
人間がもつそのような多様性(例えば仏教の見方のひとつ「一念三千」)について,さらにさらに(歴史,人文,思想,宗教などの観点から)研究がなされ,後者のような人間の生き方がより世界に広まる活動を前提として,科学技術の発展や利用についても考えていく必要があると私は強く感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ)に続く。
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