現代でも尊敬する人が亡くなることを「お隠れになる」と表現する場合があります。万葉集にも人が死ぬことを「隠る」を使って表現している和歌が出てきます。たとえば現代語でいえば「岩に隠れる」「岩に籠る」という表現です。
次は,河内王(かふちのおほきみ)が亡くなり,葬られたときに手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだとされる挽歌3首の中の1首です。
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず(3-418)
<とよくにのかがみのやまの いはとたてこもりにけらし まてどきまさず>
<<豊前の国にある鏡の山の岩戸を閉じて岩の中に籠ってしまわれたらしい。いくら待っても岩戸から出てこられない>>
その他,亡くなること(死ぬこと)の表現に,「隠る」の初回の投稿で示した「雲隠る」という表現も使われています。そのもっとも有名なのが天武天皇崩御直後(686年)のこと,大津皇子(おほつのみこ)の辞世の歌とされている短歌です。
このとき,大津皇子は24歳で,謀反の疑いを掛けられ,自害に追い込まれたと万葉集から読み取れるようです。大津皇子は後代の天皇候補の一人として目されていたのですが,不本意な死に至ったことを後世の人は語り継いだのだろうと私は思います。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<< 磐余の池で鳴く鴨を今日しか見られないのか。もう死ぬのだから>>
最後は,死を意味する「雲隠る」が詠まれたもう1首の短歌を紹介します。この短歌も政変(長屋王の変:神亀6<729>年)に関係しています。]謀反の罪を着せられ自害して死んだ対象はその長屋王です。短歌の作者は倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)であるとこの歌の題詞に書かれています。729>
大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります(3-441)
<おほきみのみことかしこみ おほあらきのときにはあらねど くもがくります>
<<天皇のお葬式ではないのにもうお亡くなりになってしまった>>
当時40歳代の半ばだったと考えられる長屋王は,平城京を担う重鎮として,天皇になってもおかしくない実力を持っていたようです。そのためか,この短歌では天皇になってから亡くなるはずという出だしとなっています。
大津皇子と同じように,長屋王の不本意な死を後世に語り継いだと考えられます。
<権力の魔性>
権力争いで,優秀な人が犠牲になることは歴史の常と言えばそれまでですが,一国のトップ争いをする集団や個人は自分の位置を守るために,優秀な人材を抹殺するという全体不最適なことをやってしまうのかもしれません。
21世紀は情報化革命で世界が一つの国になろうとしているよう私には思えます。それはそれで歴史の自然な流れのような気がします。
しかし,その過程でさまざまなもの(軍事物資,資源,思想など)を利用して,クーデターやテロリズムが発生してしまっているのが今の世界でもあるのではないかと私は感じます。
自分たちの立場を正当化するために,自分たちの立場を認めない人間は死をもって制裁しても構わないという考え方,それは結局非人間的な権力欲の魔性に取りつかれた人たちでしかないと私は見ています。
<権力欲に取りつかれてしまう人間の性の研究がもっと必要>
権力欲の魔性に取りつかれ,それを脅かす人間と判断すると平気でその人を殺してしまうのも人間,世の中が悪いのだから自分は何をしても構わないと勝手に思い込むのも人間。
一方で,自分の精神的,経済的な満足をさまざまな思想,生活環境,経済状況の人々と分かち合いたいと(社会への貢献・奉仕・援助等を)考えるのも人間。
人間がもつそのような多様性(例えば仏教の見方のひとつ「一念三千」)について,さらにさらに(歴史,人文,思想,宗教などの観点から)研究がなされ,後者のような人間の生き方がより世界に広まる活動を前提として,科学技術の発展や利用についても考えていく必要があると私は強く感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ)に続く。
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