前回までで植物を詠んだ万葉集の序詞をもつ短歌の紹介を終わり,今回からは序詞に動物を詠んだ短歌を見ていくことにしましょう。
今回と次回は鳥を見ていきます。
最初は尾が長いヤマドリを序詞で詠んだ短歌です。
思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を(11-2802)
<おもへどもおもひもかねつ あしひきのやまどりのをの ながきこのよを>
<<思っても思っても思い尽きない。あしひきの山鳥の尾のように長いこの夜は>>
ヤマドリはキジ科の野鳥で,群馬県の県鳥に指定されているそうです。ただ,なかなか見かけることが少ない鳥のようです。私は実物を自然の中で見たことがありません。
この短歌から,ヤマドリの尾が長いことは当時からよく知られており,長いことの喩えとしてヤマドリの尾という表現がよくつかわれていたのだろうと感じます。
この短歌の類型として次の短歌が万葉集に出てきます。
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む(11-2802S)
<あしひきのやまどりのをのしだりをの ながながしよをひとりかもねむ>
<<あしひきの山鳥の尾が垂れてしまうほど長いのと同じほど非常に長く感じるこの夜を一人で寝ることになるのだろうか>>
これ,どこかで見たことがありますよね。そう百人一首の中に柿本人麻呂が詠んだとして出てくる短歌と同じです。
この短歌は,最初の短歌に対して,ある本ではこのように読まれているとされているものです。
どの写本にこの短歌があって,いつごろ誰が詠んだか,そして,これがどうして人麻呂作として百人一首に入ったかは不明のようです。
ただ,いずれにしても持統天皇や山部赤人の短歌のように,万葉集が百人一首を選ぶ際に何らかの形で影響したのは間違いがなく,この短歌もその一つかもしれませんね。
次は,万葉集によく出てくるホトトギスを序詞に詠んだ短歌です。
霍公鳥飛幡の浦にしく波のしくしく君を見むよしもがも(12-3165)
<ほととぎすとばたのうらに しくなみのしくしくきみをみむよしもがも>
<<霍公鳥が飛ぶ飛幡の浦に絶え間なく寄せては返す波のように君と絶え間なく何度も逢える方法はないものか>>
この飛幡の浦は,今の北九州戸畑区を指しているようです。ホトトギスとの関係は不明ですが,万葉時代,北九州にもホトトギスがいた可能性は否定できません。
もしかしたら,飛幡の浦は東南アジアから日本に渡ってくるホトトギスの経由地だったのかもしれません。ちなみにホトトギスの尾も少し長めです。
万葉時代に鳥たちもいろいろなイメージをもって和歌に詠まれたのでしょう。次回も鳥を扱います。
(序詞再発見シリーズ(18)に続く)
2017年6月2日金曜日
2016年3月28日月曜日
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(1) 世の中も人もいずれは変わっていく?
今回万葉集で,枕詞「うつせみの」を取りあげます。
<世の中は無常。だから人間は絶対的なものを求める>
「うつせみ」とは,「この世に生きる人のことを表す」と国語の辞書には載っています。
生きている人はいずれ死ぬ,どんなに若々しく力強い人でもいずれ年老いる,人の心はいつまでも同じだと限らない,少し長い目で見れば「人」は無常なものとなるようです。また,「人」が暮らす「世の中(世間)」も「人」が無常であるがゆえに無常(ダイナミックに変化)とならざるを得ないと演繹できそうです。
他方で,「人」はいつまでも変わらず,ブレず,頼りになり,絶対的なモノを求めたいと願うことも事実です。それを「神」と名付けて崇めようとしたり,加護を受けよう(救いをもとめよう)としたりする人も少なくないでしょう。
<無常を楽しむ>
そのような中で,「世の中」や「人」の無常状態がどんなものかを分析し,その変化を予測し,変化を楽しむという生き方にもあるかと私は思うのです。その変化の予測精度を高めるには,「世の中」の動きや「人」の心理についてのより多くの情報収集が必要となるでしょう。
情報収集では,形式知(本,雑誌,ニュース等)だけの収集ではなく,積極的により多く社会への貢献的な経験を積むこと,多様な「人」との交流から得られる情報も貴重だと感じます。
そういったチャレンジ行動の中に,実は安定した,ブレることがない自分が形成されていく,そんな生き方が今の変化の激しい時代に合ったものかも知れないと私は思うのです(実践はそう簡単ではありませんが)。
<本題>
さて,本題の「うつせみの」の枕詞を使った万葉集の和歌を見ていきましょう。
まず,巻1の最初のほうに出てくる麻續王(をみのおほきみ)が伊良虞(いらご)の島に流罪となったときに詠んだと伝えられる短歌です。
うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食す(1-24)
<うつせみのいのちををしみ なみにぬれいらごのしまの たまもかりをす>
<<(世の中で今も生きている)命を惜しんで(繋ぐために),波に濡れようとも伊良虞の島の玉藻を刈って食料とするのだ>>
この前の短歌は,その時に伊良虞の島にいた人が,麻續王に海人(漁業者)になって,これから玉藻を刈って行かれるのですか?と問う短歌を発しています。それに麻續王が答えたのが,この短歌です。
まるで,流罪となった麻續王に地元の記者が「お気持ちはいかがですか? これからどうされるのですか?」と無神経な質問し,その反応をゴシップ記事として京に伝えようとしているみたいですね。王と呼ばれた人の末路を気にする人は万葉時代でもたくさんいたのかもしれません。激変の時代,「明日は我が身」かもしれませんから。
次は,「うつそみの」という発音が異なっていますが,同じ枕詞と解釈されている大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悼む有名な短歌です。
うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(2-165)
<うつそみのひとにあるわれや あすよりはふたかみやまを いろせとわがみむ>
<<この世に生き残った私は明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか>>
大津皇子は天武天皇の皇子であっても,異母である持統天皇に粛清されてしまうのです。
このような短歌は,時の為政者(持統天皇系)にとっては邪魔なものでしかないのですが,万葉集に残されたのはどうしてでしょうか。
それは,万葉集の編者の意図だと思うのが自然だと私は感じます。
編者は少なくとも天武・持統系の崇拝者ではないことは確かだと私は想像します。そういう目で万葉集を見ていくと興味深い面も見えてくるのかもしれませんね。
今回の最後は,大伴家持が21歳前後のとき,亡き妻(最初の妻?)を悼んで詠んだ短歌です。
うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも(3-465)
<うつせみのよはつねなしと しるものをあきかぜさむみ しのひつるかも>
<<この世の中は無常であると知っているつもりだが、秋風が寒く感じ(早く亡くなった妻を)偲んでしまうなあ>>
名家大伴家としては将来を期待される家持には,最初の妻として年上の女性と結ばれることがあったかもしれません。若き家持の面倒を見てくれた妻が亡くなってしまったことで,世の中の果敢なさを改めて知ったという気持ちの表れでしょうか。
大切な人が亡くなってしまうことを目の当たりにすることで,「世の中」の無常さ,「人」の果敢なさをしっかり受け止め,その結果として「世の中」や「人」の大切さを感じることができると私は思います。
今,「世の中」や「人」を大切にせず,「○以外はすべて×という二元的な否定」,そして「破壊」と「殺戮」を自分の主張を認めされる有効な手段としている状況を無くす必要性を私は強く感じます。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(2)に続く。
<世の中は無常。だから人間は絶対的なものを求める>
「うつせみ」とは,「この世に生きる人のことを表す」と国語の辞書には載っています。
生きている人はいずれ死ぬ,どんなに若々しく力強い人でもいずれ年老いる,人の心はいつまでも同じだと限らない,少し長い目で見れば「人」は無常なものとなるようです。また,「人」が暮らす「世の中(世間)」も「人」が無常であるがゆえに無常(ダイナミックに変化)とならざるを得ないと演繹できそうです。
他方で,「人」はいつまでも変わらず,ブレず,頼りになり,絶対的なモノを求めたいと願うことも事実です。それを「神」と名付けて崇めようとしたり,加護を受けよう(救いをもとめよう)としたりする人も少なくないでしょう。
<無常を楽しむ>
そのような中で,「世の中」や「人」の無常状態がどんなものかを分析し,その変化を予測し,変化を楽しむという生き方にもあるかと私は思うのです。その変化の予測精度を高めるには,「世の中」の動きや「人」の心理についてのより多くの情報収集が必要となるでしょう。
情報収集では,形式知(本,雑誌,ニュース等)だけの収集ではなく,積極的により多く社会への貢献的な経験を積むこと,多様な「人」との交流から得られる情報も貴重だと感じます。
そういったチャレンジ行動の中に,実は安定した,ブレることがない自分が形成されていく,そんな生き方が今の変化の激しい時代に合ったものかも知れないと私は思うのです(実践はそう簡単ではありませんが)。
<本題>
さて,本題の「うつせみの」の枕詞を使った万葉集の和歌を見ていきましょう。
まず,巻1の最初のほうに出てくる麻續王(をみのおほきみ)が伊良虞(いらご)の島に流罪となったときに詠んだと伝えられる短歌です。
うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食す(1-24)
<うつせみのいのちををしみ なみにぬれいらごのしまの たまもかりをす>
<<(世の中で今も生きている)命を惜しんで(繋ぐために),波に濡れようとも伊良虞の島の玉藻を刈って食料とするのだ>>
この前の短歌は,その時に伊良虞の島にいた人が,麻續王に海人(漁業者)になって,これから玉藻を刈って行かれるのですか?と問う短歌を発しています。それに麻續王が答えたのが,この短歌です。
まるで,流罪となった麻續王に地元の記者が「お気持ちはいかがですか? これからどうされるのですか?」と無神経な質問し,その反応をゴシップ記事として京に伝えようとしているみたいですね。王と呼ばれた人の末路を気にする人は万葉時代でもたくさんいたのかもしれません。激変の時代,「明日は我が身」かもしれませんから。
次は,「うつそみの」という発音が異なっていますが,同じ枕詞と解釈されている大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悼む有名な短歌です。
うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(2-165)
<うつそみのひとにあるわれや あすよりはふたかみやまを いろせとわがみむ>
<<この世に生き残った私は明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか>>
大津皇子は天武天皇の皇子であっても,異母である持統天皇に粛清されてしまうのです。
このような短歌は,時の為政者(持統天皇系)にとっては邪魔なものでしかないのですが,万葉集に残されたのはどうしてでしょうか。
それは,万葉集の編者の意図だと思うのが自然だと私は感じます。
編者は少なくとも天武・持統系の崇拝者ではないことは確かだと私は想像します。そういう目で万葉集を見ていくと興味深い面も見えてくるのかもしれませんね。
今回の最後は,大伴家持が21歳前後のとき,亡き妻(最初の妻?)を悼んで詠んだ短歌です。
うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも(3-465)
<うつせみのよはつねなしと しるものをあきかぜさむみ しのひつるかも>
<<この世の中は無常であると知っているつもりだが、秋風が寒く感じ(早く亡くなった妻を)偲んでしまうなあ>>
名家大伴家としては将来を期待される家持には,最初の妻として年上の女性と結ばれることがあったかもしれません。若き家持の面倒を見てくれた妻が亡くなってしまったことで,世の中の果敢なさを改めて知ったという気持ちの表れでしょうか。
大切な人が亡くなってしまうことを目の当たりにすることで,「世の中」の無常さ,「人」の果敢なさをしっかり受け止め,その結果として「世の中」や「人」の大切さを感じることができると私は思います。
今,「世の中」や「人」を大切にせず,「○以外はすべて×という二元的な否定」,そして「破壊」と「殺戮」を自分の主張を認めされる有効な手段としている状況を無くす必要性を私は強く感じます。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(2)に続く。
2015年7月25日土曜日
2015 盛夏スペシャル(2) … 三重県名張に着いたぞ!
<名張に1泊>
今日も暑いですね。まさに盛夏です。私は午後自宅を出て,新幹線,近鉄線特急で三重県の名張に到着し,今晩泊まるホテルに入りました。
事前に何も調べていなかったので,名張駅に着くと浴衣姿の若い女性が沢山いました。どうも,花火大会があるようです。
駅から,宿泊先のビジネスホテル(昔の街道沿いの民家を改築したもので,オーナーは老夫婦。のどかな感じが良い)までの途中,さっそく初瀬街道の街並みを見ながらで雰囲気のある町であることが分かりました。ビジネスホテルの裏はこんな感じです。そして,花火は良い場所で見ることができました。
なぜ,名張に来たかというと,毎年この時期,奈良の明日香村にある農園のみかんの木1本のオーナーになっていて,摘果(育ちの良くない実を取り去る)のために明日香村を訪れます。
今年は,明日早朝,名張から初瀬街道を歩いて,桜井市,そして明日香村に入る予定です。
初瀬街道は,万葉時代から明日香と伊勢を結ぶ街道の一つとして人々の往来があったようです。
もちろん,今の街道は当時と違い舗装されていたり,周辺の家は現代風のものにななっていますので,当時の面影はないでしょう。
ただ,山の形や川の流れ方はあまり変わっていないかもしれないので,今年はこの道をあることにしました。
初瀬街道の報告は次回にして,名張が万葉集に何首か詠われているため,今回は名張について万葉集を見ていきます。
最初は,當麻真人麻呂妻(たきまがまひとまめろのめ)が詠んだとされる短歌です。
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ(1-43,4-511)
<わがせこはいづくゆくらむ おきつものなばりのやまを けふかこゆらむ>
<<私の愛しい人はどこを旅しているのだろう。名張の山を今日あたり越えるのだろうか>>
夫である當麻真人麻呂が持統天皇が伊勢に行幸したとき,お供として同行したようです。
そのとき,奈良の都で留守を守った妻が詠んだとされています。名張の山は結構厳しい峠道だったのでしょう。名張の市内は街道という感じですが,明日の山中が楽しみです。
次は,長皇子(ながのみこ)が持統天皇の伊勢行幸に同行した妻を偲んで京で詠んだとされる短歌です。
宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ(1-60)
<よひにあひてあしたおもなみ なばりにかけながくいもが いほりせりけむ>
<<夜に逢って翌朝恥ずかしくて顔を隠(なば)るその名張で幾日も妻は庵(行宮)に籠っているのか>>
このように,名張で詠んだのではなく,名張(もともと隠れるという意味)という場所へ行くには,大変で,それを心配して詠んだのが,この2首です。
さて,最後は,2番目の短歌のパロディーとして縁達帥(えんだちのはふし)という人物が詠んだ思われる短歌です。
宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早継げ(8-1536)
<よひにあひてあしたおもなみ なばりののはぎはちりにき もみちはやつげ>
<<夜に逢って翌朝恥ずかしくて顔を隠(なば)るその名張野の萩は散っても次なる黄葉よ早く継いで色づいてくれ>>
この短歌を詠んだ時期は不明ですが,恐らく巻八の時期(平城京初期)で,名張には観光や商取引で行き来が活発になった頃,黄葉がきれいだという評判が出てきたのかもしれませんね。
2015 盛夏スペシャル(3)に続く。
今日も暑いですね。まさに盛夏です。私は午後自宅を出て,新幹線,近鉄線特急で三重県の名張に到着し,今晩泊まるホテルに入りました。
事前に何も調べていなかったので,名張駅に着くと浴衣姿の若い女性が沢山いました。どうも,花火大会があるようです。
駅から,宿泊先のビジネスホテル(昔の街道沿いの民家を改築したもので,オーナーは老夫婦。のどかな感じが良い)までの途中,さっそく初瀬街道の街並みを見ながらで雰囲気のある町であることが分かりました。ビジネスホテルの裏はこんな感じです。そして,花火は良い場所で見ることができました。
なぜ,名張に来たかというと,毎年この時期,奈良の明日香村にある農園のみかんの木1本のオーナーになっていて,摘果(育ちの良くない実を取り去る)のために明日香村を訪れます。
今年は,明日早朝,名張から初瀬街道を歩いて,桜井市,そして明日香村に入る予定です。
初瀬街道は,万葉時代から明日香と伊勢を結ぶ街道の一つとして人々の往来があったようです。
もちろん,今の街道は当時と違い舗装されていたり,周辺の家は現代風のものにななっていますので,当時の面影はないでしょう。
ただ,山の形や川の流れ方はあまり変わっていないかもしれないので,今年はこの道をあることにしました。
初瀬街道の報告は次回にして,名張が万葉集に何首か詠われているため,今回は名張について万葉集を見ていきます。
最初は,當麻真人麻呂妻(たきまがまひとまめろのめ)が詠んだとされる短歌です。
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ(1-43,4-511)
<わがせこはいづくゆくらむ おきつものなばりのやまを けふかこゆらむ>
<<私の愛しい人はどこを旅しているのだろう。名張の山を今日あたり越えるのだろうか>>
夫である當麻真人麻呂が持統天皇が伊勢に行幸したとき,お供として同行したようです。
そのとき,奈良の都で留守を守った妻が詠んだとされています。名張の山は結構厳しい峠道だったのでしょう。名張の市内は街道という感じですが,明日の山中が楽しみです。
次は,長皇子(ながのみこ)が持統天皇の伊勢行幸に同行した妻を偲んで京で詠んだとされる短歌です。
宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ(1-60)
<よひにあひてあしたおもなみ なばりにかけながくいもが いほりせりけむ>
<<夜に逢って翌朝恥ずかしくて顔を隠(なば)るその名張で幾日も妻は庵(行宮)に籠っているのか>>
このように,名張で詠んだのではなく,名張(もともと隠れるという意味)という場所へ行くには,大変で,それを心配して詠んだのが,この2首です。
さて,最後は,2番目の短歌のパロディーとして縁達帥(えんだちのはふし)という人物が詠んだ思われる短歌です。
宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早継げ(8-1536)
<よひにあひてあしたおもなみ なばりののはぎはちりにき もみちはやつげ>
<<夜に逢って翌朝恥ずかしくて顔を隠(なば)るその名張野の萩は散っても次なる黄葉よ早く継いで色づいてくれ>>
この短歌を詠んだ時期は不明ですが,恐らく巻八の時期(平城京初期)で,名張には観光や商取引で行き来が活発になった頃,黄葉がきれいだという評判が出てきたのかもしれませんね。
2015 盛夏スペシャル(3)に続く。
2015年6月14日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(2) さまざまな別れの和歌に使われる「参ゐる」
今回は,「参ゐる」を詠んだ悲しい万葉集の和歌3連発で行きます。
まず最初は,草壁皇子(くさかべのみこ)の死を悼んで舎人(とねり)たちが詠んだ二十三首の晩歌のうちの一首です。
一日には千たび参ゐりし東の大き御門を入りかてぬかも(2-186)
<ひとひにはちたびまゐりし ひむがしのおほきみかどを いりかてぬかも>
<<一日に何度も参上した東の大きな御門も,今となっては入ることができないなあ>>
この挽歌を詠んだ舎人は草壁皇子に仕えた人でしょう。訪問客の相手や連絡事項を伝えるため,草壁皇子が仕事をする建物がある東の門を何度もくぐって参上したが,その仕事も皇子が死去した今となっては必要がなくなったのですね。
次は,持統(ぢとう)天皇,文武(もんむ)天皇の時代に活躍し,左大臣・大納言まで勤めた石上麻呂(いそのかみのまろ)の息子であった石上乙麻呂(おとまろ)の長歌です。
父君に我れは愛子ぞ 母刀自に我れは愛子ぞ 参ゐ上る八十氏人の 手向けする畏の坂に 幣奉り我れはぞ追へる 遠き土佐道を(6-1022)
<ちちぎみにわれはまなごぞ ははとじにわれはまなごぞ まゐのぼるやそうぢひとの たむけするかしこのさかに ぬさまつりわれはぞおへる とほきとさぢを>
<<父君にとって私は愛おしい子である。母君にとっても私は愛おしい子である。京へ参上する多くの人々が無事を祈り手向けして越える恐坂に私が幣を奉り、長い土佐道を>>
乙麻呂は藤原宇合の妻で女官であった久米若賣(くめのわかめ)と密通した(今で言う不倫関係になった)という罪で土佐に流された際に詠んだとされるものです。この長歌に出てくる「畏の坂」はどこか分かりませんが,平城京から土佐まで行く主要街道の一つの峠だったのだと私は思います。
さて,最後は下総(今の千葉県)出身の防人雀部廣嶋(きざきべのひろしま)が詠んだとされる防人歌です。
大君の命にされば父母を斎瓮と置きて参ゐ出来にしを(20-4393)
<おほきみのみことにされば ちちははをいはひへとおきて まゐできにしを>
<<大君のご命令なので父母を斎瓶(神に捧げる壺)とともに家に置いて参り来たのだなあ>>
自分には,頼りにできる父母も,無事を祈ることができる神も家に置いて,天皇を命により防人として参上したことに対する不安がよく表れた秀歌だと私は思います。
これから何を頼りにしていけばいいのか?天皇は自分を守ってくれるのか?九州の地での自分の状況を家の父母に知らせてくれるのか?
また,父母の健康状態を九州まで知らせてくれるのか?など,不安と表に出せない怒りを精いっぱいこの短歌は表していると私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ)に続く。
まず最初は,草壁皇子(くさかべのみこ)の死を悼んで舎人(とねり)たちが詠んだ二十三首の晩歌のうちの一首です。
一日には千たび参ゐりし東の大き御門を入りかてぬかも(2-186)
<ひとひにはちたびまゐりし ひむがしのおほきみかどを いりかてぬかも>
<<一日に何度も参上した東の大きな御門も,今となっては入ることができないなあ>>
この挽歌を詠んだ舎人は草壁皇子に仕えた人でしょう。訪問客の相手や連絡事項を伝えるため,草壁皇子が仕事をする建物がある東の門を何度もくぐって参上したが,その仕事も皇子が死去した今となっては必要がなくなったのですね。
次は,持統(ぢとう)天皇,文武(もんむ)天皇の時代に活躍し,左大臣・大納言まで勤めた石上麻呂(いそのかみのまろ)の息子であった石上乙麻呂(おとまろ)の長歌です。
父君に我れは愛子ぞ 母刀自に我れは愛子ぞ 参ゐ上る八十氏人の 手向けする畏の坂に 幣奉り我れはぞ追へる 遠き土佐道を(6-1022)
<ちちぎみにわれはまなごぞ ははとじにわれはまなごぞ まゐのぼるやそうぢひとの たむけするかしこのさかに ぬさまつりわれはぞおへる とほきとさぢを>
<<父君にとって私は愛おしい子である。母君にとっても私は愛おしい子である。京へ参上する多くの人々が無事を祈り手向けして越える恐坂に私が幣を奉り、長い土佐道を>>
乙麻呂は藤原宇合の妻で女官であった久米若賣(くめのわかめ)と密通した(今で言う不倫関係になった)という罪で土佐に流された際に詠んだとされるものです。この長歌に出てくる「畏の坂」はどこか分かりませんが,平城京から土佐まで行く主要街道の一つの峠だったのだと私は思います。
さて,最後は下総(今の千葉県)出身の防人雀部廣嶋(きざきべのひろしま)が詠んだとされる防人歌です。
大君の命にされば父母を斎瓮と置きて参ゐ出来にしを(20-4393)
<おほきみのみことにされば ちちははをいはひへとおきて まゐできにしを>
<<大君のご命令なので父母を斎瓶(神に捧げる壺)とともに家に置いて参り来たのだなあ>>
自分には,頼りにできる父母も,無事を祈ることができる神も家に置いて,天皇を命により防人として参上したことに対する不安がよく表れた秀歌だと私は思います。
これから何を頼りにしていけばいいのか?天皇は自分を守ってくれるのか?九州の地での自分の状況を家の父母に知らせてくれるのか?
また,父母の健康状態を九州まで知らせてくれるのか?など,不安と表に出せない怒りを精いっぱいこの短歌は表していると私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ)に続く。
2015年5月16日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1) 「Win・Winの関係」をより進めて「栄・栄の関係」へ
<日本人はすぐに謝る?>
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。
はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
<はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを>
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>
余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。
我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
<わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも>
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>
この短歌は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。
天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
<あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき>
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>
奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。
はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
<はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを>
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>
余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。
我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
<わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも>
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>
この短歌は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。
天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
<あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき>
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>
奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。
2015年3月14日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(1) 「もろえ」さんはモロ・ええなあ~
今回から,また動きの詞(ことば)シリーズに戻ります。今回は,今でも使う「申す」を見ていきましょう。
万葉集の万葉仮名から,万葉時代「申す」は「まをす」と発音していたようです。ただ,一部には「まうす」とも発音していたことも考えられます。
万葉時代での「申す」の意味は今と同じ「言う」「告げる」の謙譲語であること以外に「政事を執奏(しっそう)する」といった意味もあったようです。
具体的な万葉集の和歌を見ていきましょう。次の短歌は志斐嫗(しひのをうな)と呼ばれた老女が,持統天皇の問いかけた短歌に答えたものです。
いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る(3-237)
<いなといへどかたれかたれと のらせこそしひいはまをせ しひかたりとのる>
<<遠慮しますと言っておりますのに,陛下が語れ語れと指示され,私に申すように強制しておきながら,それを「私が勝手に話したいと思って話したお話」とおっしゃるなんて,それはあんまりです>>
最初の「言う」は謙譲語ではないので,天皇に直接言ったのではなく,使者に「お断りしたい」言ったのでしょう。それでも,持統天皇は志斐嫗の話がききたくて,家臣に語らせよ,語らせよと指示をした。そうして,結局「申す」とあるように,直接天皇に語りをすることになったのです。
そうすると,この短歌の前に持統天皇がどんな短歌を志斐嫗に贈ったか気になりますね。
いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり(3-236)
<いなといへどしふるしひのが しひかたりこのころきかずて あれこひにけり>
<<特別聞きたくもないと言うのに志斐の婆さんがどうしても話したいといって以前話してくれた語り。それが最近は聞かれなくて物足りないのよね>>
なるほど,天皇は志斐嫗の面白い話を聞きたいが,立場上直接命令するのは律令に反する。だから,志斐嫗が乗り込んできてどうしても話したいということにしたかったのでしょうか。しかし,志斐嫗も負けてはいません。「陛下の方こそ私の話をすごくお聞きになりたいのでしょ?」とやり返します。
<オモロイ話はいつでも聞きたいもの>
万葉時代,テレビもラジオもインターネットもない時代です。文字すらも特別な役人だけのモノでした。そんなとき,人気の語り部(今で言えば,落語家,漫談家,講談師,ピン芸人などに当る)の話を聞くのが,多くの人たちの娯楽の一つとなっていたと私は思います。
志斐嫗は,皇室専属ではなく,当時有名な語り部だったのかもしれません。なので,なかなかスケジュールの調整が付かず,持統天皇もしばらく聞けなかったのでしょう。
さて,次は年が大きく下りますが,聖武天皇が難波宮に行幸したとき,元正上皇を囲んだ宴席で,そのとき権力の中枢にいた橘諸兄(たちばなのもろえ)を出席者が讃嘆する和歌が残っています。
その中の1首(誰が詠んだか未詳)に「申す」が出てきます。
堀江より水脈引きしつつ御船さすしつ男の伴は川の瀬申せ(18-4061)
<ほりえよりみをびきしつつ みふねさすしつをのともは かはのせまうせ>
<<堀江を川岸から綱で御船を曳き操る下男たちは,いつまでも御船に伴って川の浅瀬にご注意あれと申すようにいたします>>
この短歌に出てくる「しつ男」は,橘諸兄に対して謙遜した参加者たちを指しているように思えます。「我々は諸兄様の下人で,みんなで船にお乗りになっている諸兄様をお守りいたします」といった意味でしょうか。
この後の短歌では,みんなで一緒に船に乗って,竿をさして浅瀬に注意して無事な航行を達成していくといった短歌が続きます。いずれにしても,橘諸兄に対する忠誠心を表した短歌であることは間違いないでしょう。
今回の最後は,前首よりさらに年は下ります。大伴家持が越中守を解かれ,帰京する途中(天平勝宝3(751)年8月),帰京後の後継人として期待している橘諸兄宛てに贈るために詠んだとされる短歌です。
いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね(19-4256)
<いにしへにきみがみよへて つかへけりあがおほぬしは ななよまをさね>
<<昔天皇の三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたもの(政権をとった藤原不比等)がいたのですが,わが主君(橘諸兄様)はどうか七代もお仕え(政権をおとり)下さいますよう申し上げたいのです>>
約4年も越中で過ごし,京に帰任する家持にとって,自分を守ってくれる権力者が欲しかったのでしょう。最後の「申さね」という言葉が,橘諸兄にすがりたい家持の気持ちを強く表れしていると私は感じます。
家持は,この短歌を実際に諸兄に贈ったかどうかは分かりません。でも,その当時の家持の不安な気持ちを表すものとして,家持は記録し,万葉集に残したのだろうと私は思います。
しかし,諸兄の威光はこのころから下り坂で,藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)が勢力を伸ばしていきます。
越中での比較的穏やかな生活は終わりを告げ,京での家持の試練が待っているのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)に続く。
万葉集の万葉仮名から,万葉時代「申す」は「まをす」と発音していたようです。ただ,一部には「まうす」とも発音していたことも考えられます。
万葉時代での「申す」の意味は今と同じ「言う」「告げる」の謙譲語であること以外に「政事を執奏(しっそう)する」といった意味もあったようです。
具体的な万葉集の和歌を見ていきましょう。次の短歌は志斐嫗(しひのをうな)と呼ばれた老女が,持統天皇の問いかけた短歌に答えたものです。
いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る(3-237)
<いなといへどかたれかたれと のらせこそしひいはまをせ しひかたりとのる>
<<遠慮しますと言っておりますのに,陛下が語れ語れと指示され,私に申すように強制しておきながら,それを「私が勝手に話したいと思って話したお話」とおっしゃるなんて,それはあんまりです>>
最初の「言う」は謙譲語ではないので,天皇に直接言ったのではなく,使者に「お断りしたい」言ったのでしょう。それでも,持統天皇は志斐嫗の話がききたくて,家臣に語らせよ,語らせよと指示をした。そうして,結局「申す」とあるように,直接天皇に語りをすることになったのです。
そうすると,この短歌の前に持統天皇がどんな短歌を志斐嫗に贈ったか気になりますね。
いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり(3-236)
<いなといへどしふるしひのが しひかたりこのころきかずて あれこひにけり>
<<特別聞きたくもないと言うのに志斐の婆さんがどうしても話したいといって以前話してくれた語り。それが最近は聞かれなくて物足りないのよね>>
なるほど,天皇は志斐嫗の面白い話を聞きたいが,立場上直接命令するのは律令に反する。だから,志斐嫗が乗り込んできてどうしても話したいということにしたかったのでしょうか。しかし,志斐嫗も負けてはいません。「陛下の方こそ私の話をすごくお聞きになりたいのでしょ?」とやり返します。
<オモロイ話はいつでも聞きたいもの>
万葉時代,テレビもラジオもインターネットもない時代です。文字すらも特別な役人だけのモノでした。そんなとき,人気の語り部(今で言えば,落語家,漫談家,講談師,ピン芸人などに当る)の話を聞くのが,多くの人たちの娯楽の一つとなっていたと私は思います。
志斐嫗は,皇室専属ではなく,当時有名な語り部だったのかもしれません。なので,なかなかスケジュールの調整が付かず,持統天皇もしばらく聞けなかったのでしょう。
さて,次は年が大きく下りますが,聖武天皇が難波宮に行幸したとき,元正上皇を囲んだ宴席で,そのとき権力の中枢にいた橘諸兄(たちばなのもろえ)を出席者が讃嘆する和歌が残っています。
その中の1首(誰が詠んだか未詳)に「申す」が出てきます。
堀江より水脈引きしつつ御船さすしつ男の伴は川の瀬申せ(18-4061)
<ほりえよりみをびきしつつ みふねさすしつをのともは かはのせまうせ>
<<堀江を川岸から綱で御船を曳き操る下男たちは,いつまでも御船に伴って川の浅瀬にご注意あれと申すようにいたします>>
この短歌に出てくる「しつ男」は,橘諸兄に対して謙遜した参加者たちを指しているように思えます。「我々は諸兄様の下人で,みんなで船にお乗りになっている諸兄様をお守りいたします」といった意味でしょうか。
この後の短歌では,みんなで一緒に船に乗って,竿をさして浅瀬に注意して無事な航行を達成していくといった短歌が続きます。いずれにしても,橘諸兄に対する忠誠心を表した短歌であることは間違いないでしょう。
今回の最後は,前首よりさらに年は下ります。大伴家持が越中守を解かれ,帰京する途中(天平勝宝3(751)年8月),帰京後の後継人として期待している橘諸兄宛てに贈るために詠んだとされる短歌です。
いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね(19-4256)
<いにしへにきみがみよへて つかへけりあがおほぬしは ななよまをさね>
<<昔天皇の三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたもの(政権をとった藤原不比等)がいたのですが,わが主君(橘諸兄様)はどうか七代もお仕え(政権をおとり)下さいますよう申し上げたいのです>>
約4年も越中で過ごし,京に帰任する家持にとって,自分を守ってくれる権力者が欲しかったのでしょう。最後の「申さね」という言葉が,橘諸兄にすがりたい家持の気持ちを強く表れしていると私は感じます。
家持は,この短歌を実際に諸兄に贈ったかどうかは分かりません。でも,その当時の家持の不安な気持ちを表すものとして,家持は記録し,万葉集に残したのだろうと私は思います。
しかし,諸兄の威光はこのころから下り坂で,藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)が勢力を伸ばしていきます。
越中での比較的穏やかな生活は終わりを告げ,京での家持の試練が待っているのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)に続く。
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