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2016年1月13日水曜日

今もあるシリーズ「鵜(う)」…「う飼い」は「渓流釣り」より古いスポーツ?

スペシャル投稿が終わり,今もあるシリーズ戻ります。
今回は鳥の「鵜(う)」を取りあげます。
今もあるといっても鵜はスズメのようにどこでも見られるような鳥ではありません。
鵜を見たければ,動物園などに行くか,各地で観光用に行われている「う飼い」を見に行けば,確実に鵜を見ることができそうです。
「う飼い」は日本では,岐阜県の長良川,山梨県の笛吹川,愛知県の木曽川,京都府の宇治川などで行われているとWikipediaに載っています。
う飼いで採る魚は「鮎(あゆ)」がほとんどで,舟の上から鵜を操る鵜匠(うしょう)が,鵜からとった鮎を舟に乗った観光客にふるまうとのことのようで,私も一度舟から見てみたいと思っています。
万葉集で,このようなう飼いにいちばん近いイメージの短歌(天平勝宝2(750)年3月8日越中で大伴家持が詠んだ長歌の反歌)があります。

年のはに鮎し走らば辟田川鵜八つ潜けて川瀬尋ねむ(19-4158)
<としのはにあゆしはしらば さきたかはうやつかづけて かはせたづねむ>
<<今年も鮎が飛び跳ねるように泳ぐ季節になったら,辟田川に鵜をたくさん潜らせるために川瀬に行くぞ>>

家持は,越中に来て4年目。もう越中での年中行事やいろいろな遊びやそれに適した季節を覚えていたのでしょうね。
う飼いができる季節を待ち遠しく感じている家持の気持ちがよくわかります(まだ,新暦で4月というのに)。なお,この反歌の前に出てくる長歌にも「鵜養伴(うかひとも)なへ 篝(かがり)さし」とあります。
まさに,今の観光用のう飼いのイメージに近いものがありますね。観光用にう飼いの行事を決めた後世の人もこの長歌短歌を参考にした可能性は大だと私は思います。
家持は各地で鵜匠を育成し,遊び(スポーツ)としての「う飼い」を流行らせた可能性も否定できません。鵜匠はプロで,家持たち金持ちはアマチュアで楽しむといったことかもしれません。
そんな状況を表した短歌が同じく越中で家持が天平20(748)年春に詠んだ次の1首です。

婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴の男は鵜川立ちけり(17-4023)
<めひがはのはやきせごとに かがりさしやそとものをは うかはたちけり>
<<婦負川の早瀬ごとに篝火をかざし,大勢の男性役人達がう飼いを楽しんでいる>>

家持が越中に赴任して2年目。これを見て,家持はスポーツとしての「う飼い」をやってみたいと思ったのでしょうか。
「う飼い」の和歌が万葉集に残されていることで,将来日本には環境保護により清流がさらに増え,鮎の放流が盛んになれば,渓流釣りよりハードなスポーツとしての「う飼い」も復活するかもしれませんね。
最後は,海に住む鵜を旅先(瀬戸内海の兵庫県付近を西航している船)で詠んだ山部赤人の短歌です。

玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ(6-943)
<たまもかるからにのしまに しまみするうにしもあれや いへおもはずあらむ>
<<見えてきた唐荷の島の上を旋回して飛んでいる鵜でさえ,自分の家のことを忘れることはないだろう>>

赤人が京からどんどん遠く離れて旅することでますます自分の家が恋しくなる気持ちを詠んだと考えられます。
鵜は自由に空が跳べ,ましてすぐ近くの美しい唐荷の島に巣があるのだろう。そんな鵜でさえ夜になったら巣に帰るのにという旅先の寂しさを痛感する思いなのでしょう。
今もあるシリーズ「筵(むしろ)」に続く。

2015年6月20日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ) {ほとほと参った}という使い方は昔は無かった?

今回,「参ゐる」の最終回として,過去2回で取り上げてこなかった「参ゐる」を詠んだ万葉集の和歌を見ていきましょう。
まず,最初は高橋虫麻呂が天平4(732)年に藤原宇合(うまかひ)が西海道節度使(続日本記によれば,この時に節度使制度が発布)として筑紫へ赴任するときに詠んだとされる長歌です。
長いですが,一部のみに切るのはもったいない長歌なので,すべて載せます。「参ゐる」は最後の方に出てきます。

白雲の龍田の山の 露霜に色づく時に うち越えて旅行く君は 五百重山い行きさくみ 敵守る筑紫に至り 山のそき野のそき見よと 伴の部を班ち遣はし 山彦の答へむ極み たにぐくのさ渡る極み 国形を見したまひて 冬こもり春さりゆかば 飛ぶ鳥の早く来まさね 龍田道の岡辺の道に 丹つつじのにほはむ時の 桜花咲きなむ時に 山たづの迎へ参ゐ出む 君が来まさば(6-971)
<しらくものたつたのやまの つゆしもにいろづくときに うちこえてたびゆくきみは いほへやまいゆきさくみ あたまもるつくしにいたり やまのそきののそきみよと とものへをあかちつかはし やまびこのこたへむきはみ たにぐくのさわたるきはみ くにかたをめしたまひて ふゆこもりはるさりゆかば とぶとりのはやくきまさね たつたぢのをかへのみちに につつじのにほはむときの さくらばなさきなむときに やまたづのむかへまゐでむ きみがきまさば>
<<龍田の山が露霜で色づく頃,困難な道を越えて旅行くあなたはいくつも重なる山々を進み,防衛地の筑紫に着き、山の果て,野の果てまで防衛するように兵隊たちを分派し,山彦が聞こえる限り,ひきがえるが跳んで行く限りの場所まで,国の様子を観閲され,春になったら飛ぶ鳥のように早くお戻りくださいませ。龍田街道の岡辺道に真っ赤なつつじが咲き誇り,桜が咲くとき,お迎えに参りとう存じます。その頃,お戻りになられるご予定なので>>

宇合は30歳代後半ですでに参議(公卿)に任ぜられたほどのエリート。節度使(地方が法律を守っているのか監査する役)という大役を受けて,いざ九州への旅に出るとき,宇合に仕えていた虫麻呂が贈ったのでしょう。
虫麻呂は,帰京する予定の来春には,迎えに参りますと長歌を結んでいます。
ただ,宇合を含む彼の兄弟4人は天平9(737)年に,天然痘で死亡し,有望な将来を断たれてしまうのです。その結果,藤原家の勢いはなくなり,橘諸兄が権力を握ることになったと言われています。
主君を失った高橋虫麻呂は,羈旅の歌人となり,高橋虫麻呂歌集を作ったのかもしれません。
「参ゐる」の最後となる次の2首は,正月に詠まれた短歌です。
1首目は,天平勝宝3年1月大伴家持(当時:越中守)が,越中の内蔵縄麻呂の館で催された正月の宴で詠んだとされる短歌です。雪の中を苦労して参上したとあります。

降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに(19-4230)
<ふるゆきをこしになづみて まゐてこししるしもあるか としのはじめに>
<<降り積もった雪に腰までうずまりながら参上した甲斐がきっとあるでしょう,年の初めに>>

2首目は,天平勝宝6(754)年1月家持の従兄(年下)である大伴千室が家持(当時:少納言)の家で行われた新年の宴で詠んだものです。天候が急変したときは,すぐに駆けつけ,参上しますという決意表明のような短歌です。

霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く (20-4298)
<しものうへにあられたばしり いやましにあれはまゐこむ としのをながく>
<<霜の上に霰が飛び散るとき,これまで増して私は家持殿のところに参ります。何年も>>

これで,「参ゐる」の回は終わりますが,万葉集には,人が失敗して「参ったな~」という意味の和歌は無いようです。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(1)に続く。 

2015年6月7日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(1) スクープ:大伴氏の若きプリンス,門前払いの憂き目に!!

先週から立ち上げた,ブログ「万葉集に関するクイズです」は2回目のクイズ投稿と1回目の問題の解答の掲載を6月3日に済ませています。楽しく問題を解いてみてください。

http://quiz-mannyou.blogspot.jp/

さて,こちらのブログは,今回から動詞「参ゐる」について万葉集を見ていくことにします。「参ゐる」の初回は,大伴家持作の短歌3連発を見て行きたいと思います。
最初は,紀女郎(きのいらつめ)に贈った短歌からです。

板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む(4-779)
<いたぶきのくろきのやねは やまちかしあすのひとりて もちてまゐこむ>
<<あなたの家は黒木の板葺屋根ですよね。わが家の近くに良い黒木の山がありますので明日にでも取って持参しましょう>>

年上の紀女郎にぞっこんだった若い家持は,なかなか逢ってくれない女郎にこんな強引な短歌を贈っています。逢うためだったら,屋根を新しく葺きかえるための木材だって持って参上しますという勢いです。女郎側はたまったものではありませんね。
2番目は,家持が別の女性に逢いに行ったら門前払いをされたので,残念な思いを相手の女性に贈った短歌です。

かくしてやなほや罷らむ近からぬ道の間をなづみ参ゐ来て(4-700)
<かくしてやなほやまからむ ちかからぬみちのあひだを なづみまゐきて>
<<このように門前からやはり帰るのでしょうか。遠い道のりを難儀してやっと来たのに>>

この短歌,万葉集の秀歌を集めた本には絶対選ばれない類のものだと私は思います。いくら大納言大伴旅人の息子で大伴氏のプリンス,そして多くの女性と交際していた家持であってもです。
<家持は自分の恥ずかしい経験も万葉集に載せた>
家持は思い付きで,事前の連絡もなく逢いに行ったのかもしれません。もし,そうなら,この女性の親は意地でも気軽に逢わせるのを断ったのかもしれませんし,運悪く相手の女性が体調が良くない時だったのかもしれません。断られて当然の状況で,「遠くからわざわざ来たのに,家に入れてくれないのか?」とクレームめいた短歌を贈って何になるのでしょうか。
当時の家持の未熟さがモロに分かるような恥ずかしい短歌ではないでしょうか。
ただ,こんな短歌が入っているから万葉集は駄作も含めた「単に和歌を寄せ集めたものだ」とか,「家持が自己顕示のために集めたもの」とか,「万葉集の選者は大伴家持ではない」とか,と決めつける考え方には私は反対です。
また,そんな家持等の駄作は見ないで,歴史的に有名な万葉学者先生や歌人が選んだ優れた和歌を中心に見て万葉集を鑑賞すれば,万葉集の素晴らしさが分かるはずという考え方にも私は同感できません。
<家持自身の葛藤を平安時代の文人たちは評価した?>
文学的駄作として取り上げられることが少ないが,人間の心の中のありのままを素直に表した和歌の集まりであるからこそ,その後平安時代に花開いた日記文学(更級日記,土佐日記,紫式部日記,和泉式部日記など)や歌物語(伊勢物語,大和物語など。源氏物語も歌物語だと私は思う)に少なからず影響を与えたと見ています。
仮に万葉集が秀歌のみ厳選した歌集であったなら,1首1首が鑑賞の対象になり,長い期間ではなく,どうしてもある瞬間瞬間の思いや葛藤の個々の表現にとどまります。
それでは枕草子のような随筆文学に影響を与えることはあっても,日記文学や歌物語に影響することは少なかったと私は想像します。
さて,最後は家持が越中守として越中にいた時に,京から赴任した人物に対して贈ったと思われる短歌です。

朝参の君が姿を見ず久に鄙にし住めば我れ恋ひにけり(18-4121)
<あさまゐのきみがすがたを みずひさにひなにしすめば あれこひにけり >
<<朝出勤される貴殿の姿を久しく見ませんでした。ずっと越中の田舎にいたものですから,そのお姿を懐かしく思います>>

30歳を超え,越中守の重責を担う家持です。前の2首とは全然違う仕事の立場上,宴席でのあいさつ的な短歌のようです。
この短歌の冒頭の「朝参の」の部分は万葉仮名では「朝参乃」となっています。これを「てうさんの」と音読みにするのか「あさまゐの」と訓読みにするのか難しいところです。
私には後者の方がしっくりいきますので,読みを訓読みにしてみました。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(2)に続く。 

2015年5月9日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ) 植物は無闇に折らず,あるがままがいいですね

我が家の庭(マンションの専用庭)に20年以上前から植えていたサクランボは,例年全く実をつけないか,つけても数粒だったのですが,今年は比較的たくさん実をつけてくれました。

手で折ってしまうのは惜しい気がして,そのままにして,毎日色づきの変化を楽しんでいます。そのうち,鳥が食べてしまうかもしれませんが。
さて,「折る」の最後は初回に紹介した「梅の花を折る」以外の植物を「折る」について,万葉集を見ていきます。
まず,大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悲しむ挽歌に出てくる「馬酔木」からです。

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)
<いそのうへにおふるあしびを たをらめどみすべききみが ありといはなくに>
<<岩の上に咲く馬酔木を手折りました。ただ,お見せしたいあなたがまだ生きているとは誰も言う人はいない>>

馬酔木(アセビ)は,毒があるけれど,そのため虫にも食われず,清涼な白い小さな花を咲かせます。清潔感のイメージが強かった大津皇子にお似合いの花だったのかもしれませんね。
次は,大伴家持が(まだ若いころ?)詠んだ「なでしこ」です。

我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも(8-1496)
<わがやどのなでしこのはな さかりなりたをりてひとめ みせむこもがも>
<<私の庭の撫子の花が今を盛りと咲いています。手折って一目見せてあげられる娘がいたらなあ>>

恐らく,家持は撫子の可憐で美しい色に魅了されたのでしょう。
次は,高橋虫麻呂歌集から転載されたという短歌で「桜」です。

暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを(9-1750)
<いとまあらばなづさひわたり むかつをのさくらのはなも をらましものを>
<<時間があれば川を渡って向こうの峰まで行き,峰の桜の花を手にとってみたいほどだ>>

きっと,そばまで行ってみたくなほど見事な山桜が遠くに見えたのでしょう。
最後は,家持が越中で平城京いる妹の留女女郎(とどめのいらつめ)に贈った短歌に出てくる「山吹」です。

妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし(19-4197)
<いもににるくさとみしより わがしめしのへのやまぶき たれかたをりし>
<<あなたに似た可愛い草だと見たので、私がしるしをつけた野辺の山吹なのに、誰が手折ってしまったのだろう>>

この短歌は,女郎が家持に贈った短歌(山吹を採って,寂しく平城京の自宅に残った家持の妻坂上大嬢(さかのうへのおほをとめ)に渡したよ)への返歌です。渡した山吹できっと大嬢への私の恋しい思いは伝わったという意味かと私は解釈します。大嬢はその後越中の家持のもとへ行ったと想像しますが,この短歌のやり取りが,越中へ行くきっかけになったのなら,面白いですね。
では,これで「折る」はお終いにして,次回からは「栄ゆ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1)に続く。

2015年3月14日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…申す(1) 「もろえ」さんはモロ・ええなあ~

今回から,また動きの詞(ことば)シリーズに戻ります。今回は,今でも使う「申す」を見ていきましょう。
万葉集の万葉仮名から,万葉時代「申す」は「まをす」と発音していたようです。ただ,一部には「まうす」とも発音していたことも考えられます。
万葉時代での「申す」の意味は今と同じ「言う」「告げる」の謙譲語であること以外に「政事を執奏(しっそう)する」といった意味もあったようです。
具体的な万葉集の和歌を見ていきましょう。次の短歌は志斐嫗(しひのをうな)と呼ばれた老女が,持統天皇の問いかけた短歌に答えたものです。

いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る(3-237)
<いなといへどかたれかたれと のらせこそしひいはまをせ しひかたりとのる>
<<遠慮しますと言っておりますのに,陛下が語れ語れと指示され,私に申すように強制しておきながら,それを「私が勝手に話したいと思って話したお話」とおっしゃるなんて,それはあんまりです>>

最初の「言う」は謙譲語ではないので,天皇に直接言ったのではなく,使者に「お断りしたい」言ったのでしょう。それでも,持統天皇は志斐嫗の話がききたくて,家臣に語らせよ,語らせよと指示をした。そうして,結局「申す」とあるように,直接天皇に語りをすることになったのです。
そうすると,この短歌の前に持統天皇がどんな短歌を志斐嫗に贈ったか気になりますね。

いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり(3-236)
<いなといへどしふるしひのが しひかたりこのころきかずて あれこひにけり>
<<特別聞きたくもないと言うのに志斐の婆さんがどうしても話したいといって以前話してくれた語り。それが最近は聞かれなくて物足りないのよね>>

なるほど,天皇は志斐嫗の面白い話を聞きたいが,立場上直接命令するのは律令に反する。だから,志斐嫗が乗り込んできてどうしても話したいということにしたかったのでしょうか。しかし,志斐嫗も負けてはいません。「陛下の方こそ私の話をすごくお聞きになりたいのでしょ?」とやり返します。
<オモロイ話はいつでも聞きたいもの>
万葉時代,テレビもラジオもインターネットもない時代です。文字すらも特別な役人だけのモノでした。そんなとき,人気の語り部(今で言えば,落語家,漫談家,講談師,ピン芸人などに当る)の話を聞くのが,多くの人たちの娯楽の一つとなっていたと私は思います。
志斐嫗は,皇室専属ではなく,当時有名な語り部だったのかもしれません。なので,なかなかスケジュールの調整が付かず,持統天皇もしばらく聞けなかったのでしょう。
さて,次は年が大きく下りますが,聖武天皇が難波宮に行幸したとき,元正上皇を囲んだ宴席で,そのとき権力の中枢にいた橘諸兄(たちばなのもろえ)を出席者が讃嘆する和歌が残っています。
その中の1首(誰が詠んだか未詳)に「申す」が出てきます。

堀江より水脈引きしつつ御船さすしつ男の伴は川の瀬申せ(18-4061)
<ほりえよりみをびきしつつ みふねさすしつをのともは かはのせまうせ>
<<堀江を川岸から綱で御船を曳き操る下男たちは,いつまでも御船に伴って川の浅瀬にご注意あれと申すようにいたします>>

この短歌に出てくる「しつ男」は,橘諸兄に対して謙遜した参加者たちを指しているように思えます。「我々は諸兄様の下人で,みんなで船にお乗りになっている諸兄様をお守りいたします」といった意味でしょうか。
この後の短歌では,みんなで一緒に船に乗って,竿をさして浅瀬に注意して無事な航行を達成していくといった短歌が続きます。いずれにしても,橘諸兄に対する忠誠心を表した短歌であることは間違いないでしょう。
今回の最後は,前首よりさらに年は下ります。大伴家持が越中守を解かれ,帰京する途中(天平勝宝3(751)年8月),帰京後の後継人として期待している橘諸兄宛てに贈るために詠んだとされる短歌です。

いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね(19-4256)
<いにしへにきみがみよへて つかへけりあがおほぬしは ななよまをさね>
<<昔天皇の三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたもの(政権をとった藤原不比等)がいたのですが,わが主君(橘諸兄様)はどうか七代もお仕え(政権をおとり)下さいますよう申し上げたいのです>>

約4年も越中で過ごし,京に帰任する家持にとって,自分を守ってくれる権力者が欲しかったのでしょう。最後の「申さね」という言葉が,橘諸兄にすがりたい家持の気持ちを強く表れしていると私は感じます。
家持は,この短歌を実際に諸兄に贈ったかどうかは分かりません。でも,その当時の家持の不安な気持ちを表すものとして,家持は記録し,万葉集に残したのだろうと私は思います。
しかし,諸兄の威光はこのころから下り坂で,藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)が勢力を伸ばしていきます。
越中での比較的穏やかな生活は終わりを告げ,京での家持の試練が待っているのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)に続く。

2014年5月30日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(1) ブランド好みいつの世も

今回から動詞「焼く」について,万葉集を見ていくことにします。
今の季節,紫外線が結構強い時期ですので,肌を焼く場合,無理に焼きすぎないように気を付けたいものですね。そのほか,現代で「焼く」対象といえば,肉,魚介類,野菜,栗,芋,せんべい,小麦粉やトウモロコシを水で溶いたものなど食用のための焼く,有田焼,清水焼,九谷焼,信楽焼,瀬戸焼,益子焼などの陶芸品を焼くなどがすぐ出てくるかもしれません。また,「お節介を焼く」,「世話を焼く」,「手を焼く」などの慣用句も結構使われるのではないでしょうか。
さて,万葉集では「焼く」という動きの対象は結構多岐にわたっていますので,順番に見ていくことにしましょう。
万葉集で一番多く出てくる「焼く」対象は,「塩」を焼くという表現です。

須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも(17-3932)
<すまひとのうみへつねさらず やくしほのからきこひをも あれはするかも>
<<須磨の人がいつも海辺で焼いている塩が辛いように私は辛い恋をしています>>

この短歌は平群氏女郎(へぐりうぢのいらつめ)が越中赴任中の大伴家持宛に詠んだ12首のなかの1首です。この短歌から,塩は須磨産のものが有名であり,海水を濃くして最後は火で焼いて作ること,須磨産の塩は辛さが強いことなどが想像できます。
この短歌の最初の五七五(いわゆる上の句)は典型的な序詞です。結局言いたいことは下の句の「辛き恋をも我れはするかも」です。文学として見た場合,あまり高評価な短歌ではないかもしれません。でも,このような「序詞」を使った和歌が,当時多くの人に知られていたことや社会の動きを知るうえで貴重な情報源だと私は評価すべきと考えます。
他に塩を焼く場所として万葉集に出てくるのは,志賀の海(今の福岡市志賀島),縄の浦(今の兵庫県相生市),手結が浦(今の福井県敦賀市),松帆の浦(今の兵庫県淡路市),藤井の浦(今の兵庫県明石市)です。これらの塩の産地が当時有名だったとすると,瀬戸内海の波が穏やかで比較的少雨の場所に多くあり,遠く離れていても平城京に船で運びやすい場所(次の長歌の一部に出てくる敦賀は琵琶湖水運を利用)であるなどの傾向が私には伺えます。

~ 喘きつつ我が漕ぎ行けば ますらをの手結が浦に 海女娘子塩焼く煙 草枕旅にしあれば ひとりして見る験なみ ~(3-366)
<~ あへきつつわがこぎゆけば ますらをのたゆひがうらに あまをとめしほやくけぶり くさまくらたびにしあれば ひとりしてみるしるしなみ ~>
<<~ 喘ぎながら私が乗る船が漕ぎ進むと,手結が浦に若い海女乙女たちが塩を焼く煙が見える。ただ,旅の途中ひとりで見てもつまらない ~>>

この長歌は,笠金村(かさのかねむら)が越前を旅していて,一人旅の寂しさを詠んだもののようです。
さて,次に「焼く」対象として出てくるのが「太刀」です。万葉時代の「剣(つるぎ)」は戦争の武器としてポピュラーにものだったと考えられます。その切れ味や相手との勝負を有利にするために大型化,軽量化,そして強度を増すことが求められていたと考えられます。そのため,比較的加工しやすい軟鉄で刀の形に加工し,良い形ができた時点で,焼き入れをして,鋼鉄に変えることで,切れ味を増し,丈夫になります。
万葉集では「焼き太刀の」または「焼き太刀を」という表現が出てきます。これらは「利(と)」や「辺(へ)」に掛かる枕詞であるという説が一般的のようです。

焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ(18-4085)
<やきたちをとなみのせきに あすよりはもりへやりそへ きみをとどめむ>
<<砺波の関所に明日にはもっと多くの番兵を差し向けて,あなたがお帰りになられるのを引き留めましょう>>

この短歌は大伴家持が天平感宝元年5月5日に東大寺から越中に来た僧たちが京に戻るとき設けられた宴の席で僧たちに贈ったといわれる1首です。「焼き太刀を」は砺波(となみ)の「と」に掛かる枕詞であろうとして使用されている例です。
ただ,次の湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだとされる短歌にでてくる「焼き太刀の」は,枕詞としてではない使用例のようです。

焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり(6-989)
<やきたちのかどうちはなち ますらをのほくとよみきに われゑひにけり>
<<焼き太刀の鋭い刃で石を打って出た火を使い,屈強な男性がしっかり仕込んで醸造したという上等な酒に私は酔ってしまったなあ>>

私はこの短歌から万葉時代の貴族など比較的裕福な人たちに対し,酒の作成過程を提示して高級な製品(他製品との差別化製品)であることを示していたことが伺えます。
今でも「天然水仕立て」「合成添加物無添加」「○○産自然塩使用」「手搾り感覚果実入り缶チューハイ」などのキャッチコピーで宣伝し,高品質を訴求している製品が溢れていますね。
万葉時代には酒の醸造技術も進化し,それまでに比べて格段に高品質な酒が出回るようになったのは間違いないでしょう。ただ,鋭い焼き太刀から出る火花の火で火を起こし,その火で米を蒸すとうまい酒ができるという根拠は薄いと私は思いますので,このキャッチコピーは単なるイメージ戦略かもしれませんね。
次回は,別の「焼く」対象について見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(2)に続く。

2014年2月15日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(2) 恋しさを誰に告げてもらおうか?

今朝の自宅付近は大雪と雨で外に出られる状態ではありませんでした。2週連続の大雪で,さまざまな影響が出ていますが,休日のお客さんを当てにしていたレジャー業界にとっては特に影響が大きかったのではないかと心配しています。
さて,「告ぐ」の2回目は,万葉集で恋人や妻に恋しい気持ちを自分では伝えられないので,誰に告げてもらおうかと思案する和歌を見ていきます。
自分の気持ちを相手に伝えることは実は簡単でも単純でもありません。伝え方によっては相手が誤解してしまうこともあります。
まして,恋しい気持ちが募ると冷静ではいられませんから,伝える方も余計なことを考えてしまい,結局うまく伝えることができないこともよくあるのではないでしょうか。
また,告げようにも,遠く離れていて直接告げることができない状況もあり得ます。
最初は死にそうに切ない恋心を相手に告げられない苦しい思いを詠んだ詠み人知らずの短歌です。

恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の道行く人の言も告げなく(11-2370)
<こひしなばこひもしねとや たまほこのみちゆくひとの こともつげなく>
<<苦しい恋で死んでしまったら,その恋自体も死んで無くなってしまうというが,そこまで苦しい俺の気持ちを誰か道行く人が俺の代わりに彼女に伝えてくれるのだろうか?>>

「そんなに苦しいほど思っているなら,相手に直接気持ちを伝えたらいいじゃん」なんていう助言はこの人には通じないでしょうね。気持ちを告げたら,相手の女性が速攻「ごめんなさ~い」となると,それを想像しただけでも耐えられないのでしょう。男は筋力は強くても,心力(しんりょく)のほうは意外と弱い面もあるのではと私は最近思うことが多いのです。
しかし,一方でこんな短歌を詠めるのはまだ心に余裕がある証拠。黙ってストーカー行為に走る男より心的にはずっとマシといえるでしょうね。
次は,女性(詠み人知らず)の短歌ですが,こちらは告げてほしくない,でも作者のウキウキしたした感じ伝わってくるものです。

葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ(13-3279)
<あしかきのすゑかきわけて きみこゆとひとになつげそ ことはたなしれ>
<<「庭の葦垣の上部をかき分けてあの人がきましたよ」とほかの人に聞こえるように告げないで。空気を読んでよね>>

大きな声で告げたのは彼女(この短歌の作者)の世話役でしょうか。それとも,飼っている鶏や犬でしょうか。世話役だとすると空気を読まず早く教えてあげようと大きな声をだしたのでしょう。彼女にしてみれば彼氏との時間に第三者が興味津々と聞き耳を立てているようなことをされたくはないですからね。
最後は大伴家持が越中の国守をしていた天平勝宝2年2月に,国府があったとされる場所から南西へ20㎞ほど離れたところの「藪波の里」に新たに,開墾した田を視察するため泊まりがけで出かけた際に詠んだ短歌です。

薮波の里に宿借り春雨に隠りつつむと妹に告げつや(18-4138)
<やぶなみのさとにやどかり はるさめにこもりつつむと いもにつげつや>
<<藪波の里で宿借りているが,春雨に降りこめられて帰れないと妻に告げてくれましたか>>

ここでの春雨はシトシト降る雨ではなく,結構な嵐だったようです。なかなか帰れないので,妻である坂上大嬢(家持が越中に赴任して4年になり大嬢を呼び寄せていたと考えられます)にその旨を告げてほしいという気持ちを詠んだものだと私は解釈します。
では,家持は誰に対して帰れないことを告げたかを確認しているかというと,使者ではなく,春雨君だろうと私は思います。家持が越中で妻と住む家から20㎞くらいしか離れていないので,妻が居る家でも春雨は降っていて,この強さでは夫はすぐには帰ってこれないだろうという状況が伝わっていてほしい(本当は直接告げたいが)という願いを詠んだものと考えてしまいます。
電話など遠隔とのコミュニケーション手段が無い時代のほうが,お互いを思う気持ちが強かったのかも知れませんね。
今,携帯電話やスマホなどがないと非常に不安になる人がいると聞きます。そういう人は,ある時間ネットから隔離した状態(ネット経由で誰からも告げられないし,告ぐこともできない状態)で,自分の精神をコントロールする訓練をする必要があるのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(3:まとめ)に続く

2014年1月26日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…知る(3) そんなもん,知らんがな!

<情報は知れば知るほどもっと欲しくなる?>
情報の価値に対する重要性がますます高くなっている現代,各種手続き方法,欲しいものやサービスを安く手に入れる方法,重要なイベントの挨拶の仕方,さまざまなマナーについてなど「知っていればこんなに苦労したり,損しした気持ちになることはなかったのに」と思うことが少なくないのではないでしょうか。
また,さまざまな情報が溢れている現代では,どれが正しい情報なのか,自分にとって有益な情報なのかを判断する方法(それも情報)を知っておくことの大切さもますます高くなっているような気がします。
さらに,自分にとって知りたくない情報を知らされてしまう,知ってはいけない情報を知ってしまう,無関係な情報を大量に押し付けられるといった,知ることや知らされることがいつも良いこととは限らないケースに遭遇することも増えている時代かも知れません。
<万葉時代では?>
万葉時代は現代に比べれば情報の絶対量ははるかに少なかったと考えられます。しかし,それまでの時代に比べ,制度,技術,文化,習慣,宗教,思想などの情報が中国や朝鮮半島から大量に入ってきて,それらを知り,消化し,自分のものにすることが求められた時代だと私は想像します。
また,海外からインプットされた情報から当時の日本に制度,技術,文化,宗教などを融合したり,それぞれを組合わせた新たな情報が大量に生まれてきた時代でもあったかもしれません。
万葉集には「知らないので」「知ることができず」「知っていれば」「知りようもなく」といった表現で,知らない,分からない,経験しことがない,想像できないといったことの残念さ,無念さ,諦めを表現したものが多く出てきます。
次は,額田王(ぬかだのおほきみ)が天智(てんぢ)天皇が崩御したのことを悲嘆して詠んだ短歌です。

かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを(2-151)
<かからむとかねてしりせば おほみふねはてしとまりに しめゆはましを>
<<こうなると前から知っているのでしたら天皇がお乗りになる大御舟の泊まっている港に標を張り廻らせましたものを(あの世に旅立たれないようにするために)>>

この短歌から,額田王が天智天皇との関係の強さや深さを私は感じます。
次は,柿本人麻呂が近江(天智天皇がかつて京を置いた場所)から奈良に向かった際に詠んだとされる有名な短歌です。

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(3-264)
<もののふのやそうぢかはの あじろきにいさよふなみの ゆくへしらずも>
<<宇治川にたてられた網代木のあちこちでてきる波の行き先は予測できないなあ>>

あえて直訳をしてみました。世の無常を詠んだのか,短命の近江京を果無んだのか,壬申の乱などで多くの戦士が亡くなったことを弔ったのか,それとも...。
一見分かりやすそうであるけど解釈はいろいろできそうです。ただ,万葉集の中でも覚えやすい短歌の一つであることは間違いなさそうですね。
さて,次は天の香具山の近くに住んでいる人と思われる詠み人知らずの短歌です。

いにしへのことは知らぬを我れ見ても久しくなりぬ天の香具山(7-1096)
<いにしへのことはしらぬを われみてもひさしくなりぬ あめのかぐやま>
<<昔の謂れは知らないが,私が眺めるようになって年数がたってしまったなあ,天の香久山は>>

この作者は,天の香具山が古事記や日本書紀に出てくる神話上の物語があることは恐らく知っていたと思われますが,その詳しい内容については知らない(興味が無い)のだと思います。
平城京になって,飛鳥地方は古墳などたくさんあっても,単なる郊外の静かな農村になってしまったと私は想像します。この作者が飛鳥地方を統括する官吏だとすると,この地に長く住み,すっかり暮らしにも慣れ,この地が神話の宝庫であるとか,かつてどんな京があったかはもうどうでもよいという気持ちで詠んだと言えないでしょうか。
最後は坂上郎女が大伴家持が越中国主として赴任するため,旅たちの別れを惜しんだ短歌です。

道の中国つみ神は旅行きもし知らぬ君を恵みたまはな(17-3930)
<みちのなかくにつみかみは たびゆきもししらぬきみを めぐみたまはな>
<<越中の国の神様には,越中への旅の行き方もよく知らない家持様の無事をどうかお恵みください>>

家持にとっては,役人になってから初めての遠い地方の赴任であり,坂上郎女にとっては気が気ではなかったのでしょう。
不安とは初めてのこと,情報が極端に少ないことから人に襲い掛かってくるものだろうと私は思います。その不安を取り除くため「知る」ことの大切さを当時の和歌からも学ぶことができるのではないかと私は感じます。
次回は「知る」の最終回として,その他の「知る」を詠んだ万葉集の和歌を見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(4:まとめ)に続く。

2014年1月5日日曜日

年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(4:まとめ)」

万葉集で馬や駒を詠んだ和歌シリーズの最後は,少しきわどいもの,滑稽なものを揃えてみました。今までの投稿ですでに紹介しているものもありますが,馬という切り口で見ていきたいと思います。
まず,前回では紹介しませんでしたが,東歌に出てくる短歌です。

あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも(14-3541)
<あずへからこまのゆごのす あやはともひとづまころを まゆかせらふも>
<<崖の上の端を駒に乗って進むのは危険だが,あの若い人妻にはそんな危険を冒してでも近づきたいなあ>>

う~ん。こんな訳でよいのかな~。これを当時の東国は大らかで羨ましいと見るか,東国の男は気を付けろという警告として採録されたと見るか,読者側の感性や倫理観に大きく左右されそうですね。これ以上コメントすると天の川君が余計なことを言いそうなので,やめておきます。
次は2012年1月15日の投稿で紹介しました土の駒形の玩具か置物を作る土師(はじ)に対して,日焼けした巨勢豊人という人物(木こり?)が嘲笑して詠んだ短歌です。

駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を(16-3845)
<こまつくるはじのしびまろ しろくあればうべほしからむ そのくろいろを>
<<いつも部屋ん中で土の駒人形ばっかり作っている志婢麻呂さんはいつも青白い顔なので,日焼けした黒い肌が羨ましいんじゃないのかな?>>

馬自体とは関係ありませんが,当時馬の玩具や置物が結構人気があって,そういっものを作る専門技能を持った職人がいたことを想像させますね。
次は,2012年7月8日の投稿で紹介しました僧侶の無精ひげを馬に繋いで引かせるなんて,とんでもない短歌です。

法師らが鬚の剃り杭馬繋いたくな引きそ法師は泣かむ(16-3846)
<ほふしらがひげのそりくひ うまつなぎいたくなひきそ ほふしはなかむ>
<<横着して鬚を剃らないで伸びて来た坊さんの鬚に馬を繋いで強く引かせてはいけないよ。坊さん泣くだろうからね>>

万葉時代,仏教の僧侶は法師と呼ばれ,時代の先端を行くエリート職のようでした。いつの時代でもそうですが,中にはとてもそれに似つかわしくない僧侶がいたようですね。そんなことしちゃいけないと詠んでいますが,あまりにもひどい格好だったので,馬に引かせるという短歌になったのでしょうか。
さて,最後は2009年11月8日と2013年1月27日に紹介した越中で大伴家持が部下の浮気を諭した短歌です。

左夫流子が斎きし殿に鈴懸けぬ駅馬下れり里もとどろに(18-4110)
<さぶるこがいつきしとのに すずかけぬはゆまくだれり さともとどろに>
<<左夫流子という遊女を正妻のように住まわせている君の家に,鈴も付けずに駅を経由して奥さんを乗せた早馬がやってきたぞ。その蹄の音を里中に轟かせてな>>

早馬には鈴を付けることになっていたようですが,部下の奥さんは鈴を付ける時間も惜しく,急いで駆け付けてきた。どうせ,越中だから分かるわけないと,同僚たちの前で左夫流子と付き合っているところを見せびらかしたり,自慢げに話したのでしょうね。それが京にいる奥さんの耳に入ったのですから,それはもう大変な騒ぎ。
「黙ってリゃよかったのに」なんて,馬馬,いや努努思ってはならないのですぞ,おのおの方(馬を詠んだ和歌シリーズのまとめ)。
2014年正月休みも今日までで明日からは多忙な仕事が待っています。年末年始スペシャルは以上で,次回からは以前シリーズ投稿しました「動きの詞(ことば)シリーズ」の第2段をお送りします。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(1)に続く。

2013年10月19日土曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「楽し」

<私の三大楽しいこと>
私にとって三大「楽しい」ことは,①仕事をすること,②万葉集をリバースエンジニアリングすること,③さまざまな会に参加することでしょうか。
①の私の仕事はソフトウェアの保守開発(既存の修正)ですが,単純な開発に比べ技術的に確立されておらず,個人のスキルや能力に依存するところが多い分野です。そのため,一つ一つ(対応の品質,コスト,納期,顧客満足度などに対し)最適なプロセスを都度適用しながらの作業となります。結局,一つ一つの仕事に(規模,緊急度,重要度,困難度,他への影響度など)多様性があり,生来飽きっぽい私にとっては,やっていて面白みを感じます。
②の万葉集は面白くなければこのブログを続けられていませんので,説明の必要はないでしょう。
③のさまざまな会は,単なる飲み会,懇親会,目的が決まった会議,同好会,学会,歓送迎会などです。これは,老若男女を問わずさまざまな考えを持った人と話を聞いたり,議論をすることが好きだからです。
これらを総合すると私が楽しいと感ずるのは,多様なものやヒトに接っしているときと言っても良いかもしれませんね。
<今回の本題>
さて,万葉集では「楽し」を詠んだ和歌が15首ほど出てきます。
まずは誰もが楽しいと感ずる遊びについて詠んだ遊行女婦(うかれめ)土師(はにし)作の短歌から紹介します。

垂姫の浦を漕ぎつつ今日の日は楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ(18-4047)
<たるひめのうらをこぎつつ けふのひはたのしくあそべ いひつぎにせむ>
<<垂姫の浦を漕ぎ巡りながら今日は楽しくお遊びください。後々までこの楽しく過ごされた時間を言い伝えましょう>>

この遊びが行われたのは大伴家持が越中にいたころ,現在の富山県氷見市の海岸にあったという「垂姫の浦」を家持らが遊覧船で漕ぎ巡るという遊びをしたときです。現在でも遊覧船にはガイドが乗っていることもあるように,当時名所をガイドしたり,船で提供する酒や肴を講釈したり,名所への移動中に参加者にゲームを楽しませたりする女性乗務員(ガイド)を「遊行女婦」と呼んだのかもしれません。この作者の土師という遊行女婦は,当時おそらく最も優秀なガイドの一人であり,即興で和歌を詠み,参加者を楽しませたのでしょう。
この短歌は,越中国府の長官である家持をはじめ,国府のトップクラスが楽しまれたことを,後日この船で遊覧する人すべてに語り継ぎましょうということです。私たちも旅行に行くと,この船には超有名人の誰々が乗ったとガイドが伝えると「お~。そうなんだ」と得した気分になります。
紹介された家持たちも自分たちが乗ったことで,船の価値が大きく上がることを知らされるとすごく良い気分になります。土師恐るべしですね。
次は,珍しい季節の変化を見て「楽し」を詠んだ柿本人麻呂の短歌です。

矢釣山木立も見えず降りまがふ雪に騒ける朝楽しも(3-262)
<やつりやまこだちもみえず ふりまがふゆきにさわける あしたたのしも>
<<矢釣山の木立も見えないほど降り乱れる雪の朝はその騒がしさも楽しいことです>>

この短歌は,新田部皇子(にひたべのみこ)を讃えた長歌の反歌です。飛鳥にあったといわれる矢釣山の立ちも見えないほど激しく雪が降っている朝は,その騒がしさ(恐らく木などに積もった雪が落ちる音による)もまた楽しいと詠んでいます。
最後は,有名な大伴旅人の賛酒歌の中から「楽し」を詠んだ3首連続の短歌を紹介します(内1首は2011年8月13日の投稿で紹介しています)。

世間の遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべくあるらし(3-347)
<よのなかのあそびのみちに たのしきはゑひなきするに あるべくあるらし>
<<世の中の遊び道で一番楽しいことは,酔って泣くことにあるようだ>>

この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我れはなりなむ(3-348)
<このよにしたのしくあらば こむよにはむしにとりにも われはなりなむ>
<<現世が楽しいならば,来世には虫だろうと鳥だろうと私はなってしまっても構わないよ>>

生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(3-349)
<いけるものつひにもしぬる ものにあればこのよなるまは たのしくをあらな>
<<生きているものは最後は死ぬのだから,生きている間は楽しまないとね>>

特に解説をしません。皆さんはどう感じられますか?
今さえ楽しければ後はどうでも良いという身勝手な考えと感じますか?
それとも,今遊びも仕事も趣味も交友もしっかり楽しむことが理想だという考えと感じますか?
私はもちろんアグレッシブに,プレッシャーに負けず後者でありたいと考えます(実際楽しめているかかどうかはあまり気にしません)。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「寂(さぶ)し」に続く。

2013年7月20日土曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「なつかし」

私のように年齢を重ねると最近次のような経験で「懐かしい」と感じることが多くあります。
・ BSで放送された「二十四の瞳」を久しぶりに観た。
・ 10何年以上前,勤務先近くで頻繁に通っていたが事業所が変わりその後行かなくなった飲み屋に久しぶりに行ってみた。
・ 名神高速道路(一部)が最初に開通して50年という記事を読み,58年10月京都市山科区(当時京都市東山区山科)蚊ヶ瀬で行われた起工式に,会場のすぐそばまでちっちゃな自転車に乗って見物に行ったことを思い出した。

さて,本題の万葉集ですが,「なつかし」を詠んだ和歌が18首ほどでてきます。その中で「なつかし」の対象となるものは,次のようにいろいろあります。

秋の山辺,秋山の色,梅の花,君,木の葉,妻,妻の子,鳥の鳴き声,鳥の初声,野原, 藤波の花,山,我妹。

万葉集で出てくる「なつかし」の意味は,現代のようにかなり遠い過去の「思い出」と強く結びつく言葉だけではなかったようです。例を見てみましょう。

さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし(19-4181)
<さよふけてあかときつきに かげみえてなくほととぎす きけばなつかし>
<<夜が更けて夜明け前の月に姿を見せて鳴くほととぎすの鳴き声を聞くと心がを癒される>>

この短歌は大伴家持が越中で詠んだ1首です。家持は前の晩からストレスか悩みで眠れなかったのでしょうか。でも,夜明け前に「キキョ,キキョ」とホトトギスの鳴き声で心静かになったようです。ここの「なつかし」は「心が和む」「心が癒される」といった意味になりそうです。
次の1首は柿本人麻呂歌集から万葉集に転載したという詠み人知らずの短歌です。

見れど飽かぬ人国山の木の葉をし我が心からなつかしみ思ふ(7-1305)
<みれどあかぬひとくにやまの このはをしわがこころから なつかしみおもふ>
<<ずっと見ていたい人国山(故郷)の木の葉(人たち)のことを心から慕わしく思っています>>

ここでの「なつかし」は「人を慕う」という意味かと思います。次は,大伴家持が越中赴任後1年ほどした天平19年,平城京に一時的に帰って状況を報告するため,越中を出発する前,盟友の大伴池主が家持に贈った長歌の反歌です。

玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ(17-4009)
<たまほこのみちのかみたち まひはせむあがおもふきみを なつかしみせよ>
<<道の神たちよ,賽物(さいもつ)を捧げましょう。私が慕っている家持殿を親しみをもって迎えてください>>

この「なつかし」も,その前の2首とはニュアンスが少し異なっいると私は感じます。最後は,大宰府で大伴旅人がホストとなり,大勢のゲストを集めた梅見の宴(天平2年春開催)でゲストのひとりの小野氏淡理(をののうぢのたもり,小野田守)が詠んだ短歌です。

霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも(5-846)
<かすみたつながきはるひを かざせれどいやなつかしき うめのはなかも>
<<霞立つ長い春の日をかざしていても,(飽きることなく)ますます心がひかれる梅の花ですね>>

梅が咲くころ,日照時間が冬至の頃と比べて長くなってきます。そんな柔らかい春の日がずっと当たっていても,梅の花はどうしてこんなに魅力的なのかという気持ちを詠いあげています。このとき「なつかし」という形容詞がこの短歌における表現のキーワードになっていると私は感じます。
この年,旅人は6年間務めた大宰府長官の任を解かれ,「懐かしい」平城京に戻るのです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「まく欲し」に続く。