2015年6月20日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ) {ほとほと参った}という使い方は昔は無かった?

今回,「参ゐる」の最終回として,過去2回で取り上げてこなかった「参ゐる」を詠んだ万葉集の和歌を見ていきましょう。
まず,最初は高橋虫麻呂が天平4(732)年に藤原宇合(うまかひ)が西海道節度使(続日本記によれば,この時に節度使制度が発布)として筑紫へ赴任するときに詠んだとされる長歌です。
長いですが,一部のみに切るのはもったいない長歌なので,すべて載せます。「参ゐる」は最後の方に出てきます。

白雲の龍田の山の 露霜に色づく時に うち越えて旅行く君は 五百重山い行きさくみ 敵守る筑紫に至り 山のそき野のそき見よと 伴の部を班ち遣はし 山彦の答へむ極み たにぐくのさ渡る極み 国形を見したまひて 冬こもり春さりゆかば 飛ぶ鳥の早く来まさね 龍田道の岡辺の道に 丹つつじのにほはむ時の 桜花咲きなむ時に 山たづの迎へ参ゐ出む 君が来まさば(6-971)
しらくものたつたのやまの つゆしもにいろづくときに うちこえてたびゆくきみは いほへやまいゆきさくみ あたまもるつくしにいたり やまのそきののそきみよと とものへをあかちつかはし やまびこのこたへむきはみ たにぐくのさわたるきはみ くにかたをめしたまひて ふゆこもりはるさりゆかば とぶとりのはやくきまさね たつたぢのをかへのみちに につつじのにほはむときの さくらばなさきなむときに やまたづのむかへまゐでむ きみがきまさば
<<龍田の山が露霜で色づく頃,困難な道を越えて旅行くあなたはいくつも重なる山々を進み,防衛地の筑紫に着き、山の果て,野の果てまで防衛するように兵隊たちを分派し,山彦が聞こえる限り,ひきがえるが跳んで行く限りの場所まで,国の様子を観閲され,春になったら飛ぶ鳥のように早くお戻りくださいませ。龍田街道の岡辺道に真っ赤なつつじが咲き誇り,桜が咲くとき,お迎えに参りとう存じます。その頃,お戻りになられるご予定なので>>

宇合は30歳代後半ですでに参議(公卿)に任ぜられたほどのエリート。節度使(地方が法律を守っているのか監査する役)という大役を受けて,いざ九州への旅に出るとき,宇合に仕えていた虫麻呂が贈ったのでしょう。
虫麻呂は,帰京する予定の来春には,迎えに参りますと長歌を結んでいます。
ただ,宇合を含む彼の兄弟4人は天平9(737)年に,天然痘で死亡し,有望な将来を断たれてしまうのです。その結果,藤原家の勢いはなくなり,橘諸兄が権力を握ることになったと言われています。
主君を失った高橋虫麻呂は,羈旅の歌人となり,高橋虫麻呂歌集を作ったのかもしれません。
「参ゐる」の最後となる次の2首は,正月に詠まれた短歌です。
1首目は,天平勝宝3年1月大伴家持(当時:越中守)が,越中の内蔵縄麻呂の館で催された正月の宴で詠んだとされる短歌です。雪の中を苦労して参上したとあります。

降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに(19-4230)
ふるゆきをこしになづみて まゐてこししるしもあるか としのはじめに
<<降り積もった雪に腰までうずまりながら参上した甲斐がきっとあるでしょう,年の初めに>>

2首目は,天平勝宝6(754)年1月家持の従兄(年下)である大伴千室が家持(当時:少納言)の家で行われた新年の宴で詠んだものです。天候が急変したときは,すぐに駆けつけ,参上しますという決意表明のような短歌です。

霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く (20-4298)
しものうへにあられたばしり いやましにあれはまゐこむ としのをながく
<<霜の上に霰が飛び散るとき,これまで増して私は家持殿のところに参ります。何年も>>

これで,「参ゐる」の回は終わりますが,万葉集には,人が失敗して「参ったな~」という意味の和歌は無いようです。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(1)に続く。 

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