戌(いぬ)年の2018年が始まりました。みなさん,どんな気持ちで新年を迎えていらっしゃいますか?
昨年はこのブログ(万葉集をリバースエンジニアリングする),思うように投稿できませんでした。しかし,今年はあと少ししたら,このブログを立ち上げて10年目に入ります。来年の満10年で500投稿を達成するためには,週1回の投稿をキープする必要がありますので,気を引き締めていきたいと考えていますので,今年もよろしくお願いします。。
さて,後で紹介しますが,万葉集で犬について詠んだ歌は多くありません。犬についてWikipediaなどでは,縄文遺跡に犬(縄文犬)の骨が発見されているとあることから,犬は古来狩猟犬などの目的で日本に人間と暮らしていたと考えられそうです。
飛鳥時代には渡来人系ともいわれる豪族犬上氏が琵琶湖に面した北東部の地域で大きな勢力を持ちました。日本書紀に出てくる犬上御田鍬(いぬかみのたすき)は,遣隋使,遣唐使にもなっていて,朝鮮半島経由で中国にも渡ったとの記録があるとのことです。
犬のことを狛(こま)と呼びます。高麗も「こま」と発音する場合があり,神社の社殿の前に置かれる狛犬像は朝鮮半島系の犬をモチーフにしていたのかもしれません。飛鳥時代では,犬は狛犬のイメージから番犬の役目で飼育されていたケースが少なくなかったと想像できそうです。
さて,朝鮮半島では,古くから(現在もそうですが)犬食文化があります。明治維新の文明開化で肉食文化が日本で急速に普及したように,飛鳥時代にはイノシシ,ブタ,クマ,ウマ,ウシ,シカ,サル,ニワトリそしてイヌなどの肉食習慣が大陸,朝鮮半島から入り,繁殖,屠殺(さばき),販売,料理の専業化など商業的に広まった可能性があります(それまでも家畜の犬を食べることはあったかもしれませんが)。
それがあまりに盛んになりすぎ,何らかの弊害が出たり,殺生に否定的な仏教との兼ね合いのためか,日本書紀には天武天皇5(675)年には,農産物が豊富にとれる夏から秋の期間だけですが肉食の禁止令が出たとの記載があります。その禁止動物の中に犬が含まれています。そのため,当時の日本では犬食は,相当広まっていたとみてよいかと思います。
その後,殺生を嫌う仏教をさらに重視した日本では犬を含む肉食文化が衰退していったのに対し,儒教に重きを置いた朝鮮半島では犬食も含む肉食文化がずっと残ったとみることができるかもしれません。
さて,万葉集では,犬はどう詠われているでしょうか。
まず,巻13に出てくる長歌(前半男,後半女)で,犬を含むさまざまな動物が出てくる歌を紹介します。
赤駒を馬屋に立て 黒駒を馬屋に立てて そを飼ひ我が行くがごと 思ひ妻心に乗りて 高山の嶺のたをりに 射目立てて鹿猪待つがごと 床敷きて我が待つ君を 犬な吠えそね(13-3278)
<あかごまをうまやにたて くろこまをうまやにたてて そをかひわがゆくがごと おもひづまこころにのりて たかやまのみねのたをりに いめたててししまつがごと とこしきてわがまつきみを いぬなほえそね>
<<(男)赤い馬を馬屋を建てて飼い,黒い馬をおなじく馬屋を建てて飼い,その馬に乗って俺は行く愛するお前のことばかり考えてな。(女)高い山の嶺のくぼみに待ち伏せ小屋を建てて,シカやイノシシを待つように,床を敷いて待つあなたのことを番犬ちゃんは吠えないでね>>
この長歌には,主語として犬(番犬)自体は出てきませんが,その犬に向けて詠んだ反歌があります。
葦垣の末かき分けて 君越ゆと人にな告げそ 事はたな知れ(13-3279)
<あしかきのすゑかきわけて きみこゆとひとになつげそ ことはたなしれ>
<<(女)葦垣の上をかきわけ,あの人が越えてやってきたと人に聞こえるように吠えないでおくれ。彼との関係が人に知られてしまうから>>
この和歌から,当時は番犬を飼っていた家があっただろうということが想像できます。
もう一首犬を詠んだ旋頭歌を紹介します。
垣越しに犬呼び越して鳥猟する君青山の茂き山辺に馬休め君(7-1289)
<かきごしにいぬよびこしてとがりする きみあをやまのしげきやまへにうまやすめきみ>
<<垣越しに犬を呼び寄せて鷹狩りをなさっているあなた。青々と葉が茂っている山辺で馬を休ませてあげてね,あなた>>
この和歌から,鷹狩で捕らえたけものを獲りに行って,銜えて帰ってくる猟犬がいただろうことがわかります。
いずれにしても,万葉時代から,日本人とって犬は良き伴侶だったことがわかります。
(続難読漢字シリーズ(1)につづく)
2018年1月1日月曜日
2017年2月25日土曜日
序詞再発見シリーズ(8) ‥ 奈良から見て兵庫は近いのか?遠いのか?
巻11,巻12の序詞で地名が出て来る万葉集の短歌の紹介を続けます。
今度は兵庫県の有馬を序詞に入れて詠んだ短歌です。
大君の御笠に縫へる有間菅ありつつ見れど事なき我妹(11-2757)
<おほきみのみかさにぬへる ありますげありつつみれどことなきわぎも>
<<大王御用達の菅笠を織るときに使われる有馬のスゲのように,私がいることをはっきりと示せた思ったが,わざと知らない振りをする私の恋人よ>>
有馬は神戸六甲山の北側に位置し,日本書紀には舒明天皇が保養に滞在したとして出てくる有馬温泉がある場所です。当時の有馬は湿地や草原が広がっていて,高品質な菅笠を編むことができるスゲが豊富に採取できる場所だったと私はこの短歌から想像します。
次は,淡路島を序詞の中で詠んだ短歌です。
住吉の岸に向へる淡路島あはれと君を言はぬ日はなし(12-3197)
<すみのえのきしにむかへるあはぢしま あはれときみをいはぬひはなし>
<<住吉の岸の向こうの淡路島の「あは」ではないが,「あはれ」と君を思わぬ日はないのだ>>
「あはれ」は「もののあわれ」と今も使われる「深くしみじみと心をひかれさせる状態」を意味します。
この短歌は万葉仮名でも「淡路嶋」と書いています。大阪の住吉の海岸から見た淡路島は遠く離れて淡く見えたのでしょう。
「淡い」とは「はかない」という意味につながり,なかなかはっきり見えない恋路になぞらえられたのかも知れません。
今回の最後は,兵庫県加古郡稲美町あたりにある印南野の川を序詞に詠んだ短歌です。
明日よりはいなむの川の出でて去なば留まれる我れは恋ひつつやあらむ(12-3198)
<あすよりはいなむのかはのいでていなば とまれるあれはこひつつやあらむ>
<<明日からは印南野の川の水が出ても消えてしまうように,あなたが居なくなれば,あなたへの気持ちが変わらない私はずっと恋焦がれて過ごすことになる>>
環境省のWebページには「印南野は水を通しやすい堆積層の台地で,瀬戸内海気候で雨量が少ない場所」と出ています。そのため,表面の土がすぐ乾いてしまい,川も水量が少なく,表面上は枯れた川のようになってしまうことも多かっただろうと私は想像します。
当時から,印南野は水不足が深刻で,水を確保するのに苦労をしたことが図らずも万葉集の短歌から読み取れます。
地図を見ると印南野には数多くのため池が今も残っているようです。この地域が,農耕等のためにため池が多く必要だったのがよくわかります。
なお,万葉集に「印南野」がこのほかに何首か詠まれていますが,海岸近くを想定した歌が多いです。海岸線が今より奥(山陽本線あたり)にあったと考えても良いかもしれません。
(序詞再発見シリーズ(9)に続く)
今度は兵庫県の有馬を序詞に入れて詠んだ短歌です。
大君の御笠に縫へる有間菅ありつつ見れど事なき我妹(11-2757)
<おほきみのみかさにぬへる ありますげありつつみれどことなきわぎも>
<<大王御用達の菅笠を織るときに使われる有馬のスゲのように,私がいることをはっきりと示せた思ったが,わざと知らない振りをする私の恋人よ>>
有馬は神戸六甲山の北側に位置し,日本書紀には舒明天皇が保養に滞在したとして出てくる有馬温泉がある場所です。当時の有馬は湿地や草原が広がっていて,高品質な菅笠を編むことができるスゲが豊富に採取できる場所だったと私はこの短歌から想像します。
次は,淡路島を序詞の中で詠んだ短歌です。
住吉の岸に向へる淡路島あはれと君を言はぬ日はなし(12-3197)
<すみのえのきしにむかへるあはぢしま あはれときみをいはぬひはなし>
<<住吉の岸の向こうの淡路島の「あは」ではないが,「あはれ」と君を思わぬ日はないのだ>>
「あはれ」は「もののあわれ」と今も使われる「深くしみじみと心をひかれさせる状態」を意味します。
この短歌は万葉仮名でも「淡路嶋」と書いています。大阪の住吉の海岸から見た淡路島は遠く離れて淡く見えたのでしょう。
「淡い」とは「はかない」という意味につながり,なかなかはっきり見えない恋路になぞらえられたのかも知れません。
今回の最後は,兵庫県加古郡稲美町あたりにある印南野の川を序詞に詠んだ短歌です。
明日よりはいなむの川の出でて去なば留まれる我れは恋ひつつやあらむ(12-3198)
<あすよりはいなむのかはのいでていなば とまれるあれはこひつつやあらむ>
<<明日からは印南野の川の水が出ても消えてしまうように,あなたが居なくなれば,あなたへの気持ちが変わらない私はずっと恋焦がれて過ごすことになる>>
環境省のWebページには「印南野は水を通しやすい堆積層の台地で,瀬戸内海気候で雨量が少ない場所」と出ています。そのため,表面の土がすぐ乾いてしまい,川も水量が少なく,表面上は枯れた川のようになってしまうことも多かっただろうと私は想像します。
当時から,印南野は水不足が深刻で,水を確保するのに苦労をしたことが図らずも万葉集の短歌から読み取れます。
地図を見ると印南野には数多くのため池が今も残っているようです。この地域が,農耕等のためにため池が多く必要だったのがよくわかります。
なお,万葉集に「印南野」がこのほかに何首か詠まれていますが,海岸近くを想定した歌が多いです。海岸線が今より奥(山陽本線あたり)にあったと考えても良いかもしれません。
(序詞再発見シリーズ(9)に続く)
2014年1月26日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(3) そんなもん,知らんがな!
<情報は知れば知るほどもっと欲しくなる?>
情報の価値に対する重要性がますます高くなっている現代,各種手続き方法,欲しいものやサービスを安く手に入れる方法,重要なイベントの挨拶の仕方,さまざまなマナーについてなど「知っていればこんなに苦労したり,損しした気持ちになることはなかったのに」と思うことが少なくないのではないでしょうか。
また,さまざまな情報が溢れている現代では,どれが正しい情報なのか,自分にとって有益な情報なのかを判断する方法(それも情報)を知っておくことの大切さもますます高くなっているような気がします。
さらに,自分にとって知りたくない情報を知らされてしまう,知ってはいけない情報を知ってしまう,無関係な情報を大量に押し付けられるといった,知ることや知らされることがいつも良いこととは限らないケースに遭遇することも増えている時代かも知れません。
<万葉時代では?>
万葉時代は現代に比べれば情報の絶対量ははるかに少なかったと考えられます。しかし,それまでの時代に比べ,制度,技術,文化,習慣,宗教,思想などの情報が中国や朝鮮半島から大量に入ってきて,それらを知り,消化し,自分のものにすることが求められた時代だと私は想像します。
また,海外からインプットされた情報から当時の日本に制度,技術,文化,宗教などを融合したり,それぞれを組合わせた新たな情報が大量に生まれてきた時代でもあったかもしれません。
万葉集には「知らないので」「知ることができず」「知っていれば」「知りようもなく」といった表現で,知らない,分からない,経験しことがない,想像できないといったことの残念さ,無念さ,諦めを表現したものが多く出てきます。
次は,額田王(ぬかだのおほきみ)が天智(てんぢ)天皇が崩御したのことを悲嘆して詠んだ短歌です。
かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを(2-151)
<かからむとかねてしりせば おほみふねはてしとまりに しめゆはましを>
<<こうなると前から知っているのでしたら天皇がお乗りになる大御舟の泊まっている港に標を張り廻らせましたものを(あの世に旅立たれないようにするために)>>
この短歌から,額田王が天智天皇との関係の強さや深さを私は感じます。
次は,柿本人麻呂が近江(天智天皇がかつて京を置いた場所)から奈良に向かった際に詠んだとされる有名な短歌です。
もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(3-264)
<もののふのやそうぢかはの あじろきにいさよふなみの ゆくへしらずも>
<<宇治川にたてられた網代木のあちこちでてきる波の行き先は予測できないなあ>>
あえて直訳をしてみました。世の無常を詠んだのか,短命の近江京を果無んだのか,壬申の乱などで多くの戦士が亡くなったことを弔ったのか,それとも...。
一見分かりやすそうであるけど解釈はいろいろできそうです。ただ,万葉集の中でも覚えやすい短歌の一つであることは間違いなさそうですね。
さて,次は天の香具山の近くに住んでいる人と思われる詠み人知らずの短歌です。
いにしへのことは知らぬを我れ見ても久しくなりぬ天の香具山(7-1096)
<いにしへのことはしらぬを われみてもひさしくなりぬ あめのかぐやま>
<<昔の謂れは知らないが,私が眺めるようになって年数がたってしまったなあ,天の香久山は>>
この作者は,天の香具山が古事記や日本書紀に出てくる神話上の物語があることは恐らく知っていたと思われますが,その詳しい内容については知らない(興味が無い)のだと思います。
平城京になって,飛鳥地方は古墳などたくさんあっても,単なる郊外の静かな農村になってしまったと私は想像します。この作者が飛鳥地方を統括する官吏だとすると,この地に長く住み,すっかり暮らしにも慣れ,この地が神話の宝庫であるとか,かつてどんな京があったかはもうどうでもよいという気持ちで詠んだと言えないでしょうか。
最後は坂上郎女が大伴家持が越中国主として赴任するため,旅たちの別れを惜しんだ短歌です。
道の中国つみ神は旅行きもし知らぬ君を恵みたまはな(17-3930)
<みちのなかくにつみかみは たびゆきもししらぬきみを めぐみたまはな>
<<越中の国の神様には,越中への旅の行き方もよく知らない家持様の無事をどうかお恵みください>>
家持にとっては,役人になってから初めての遠い地方の赴任であり,坂上郎女にとっては気が気ではなかったのでしょう。
不安とは初めてのこと,情報が極端に少ないことから人に襲い掛かってくるものだろうと私は思います。その不安を取り除くため「知る」ことの大切さを当時の和歌からも学ぶことができるのではないかと私は感じます。
次回は「知る」の最終回として,その他の「知る」を詠んだ万葉集の和歌を見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(4:まとめ)に続く。
情報の価値に対する重要性がますます高くなっている現代,各種手続き方法,欲しいものやサービスを安く手に入れる方法,重要なイベントの挨拶の仕方,さまざまなマナーについてなど「知っていればこんなに苦労したり,損しした気持ちになることはなかったのに」と思うことが少なくないのではないでしょうか。
また,さまざまな情報が溢れている現代では,どれが正しい情報なのか,自分にとって有益な情報なのかを判断する方法(それも情報)を知っておくことの大切さもますます高くなっているような気がします。
さらに,自分にとって知りたくない情報を知らされてしまう,知ってはいけない情報を知ってしまう,無関係な情報を大量に押し付けられるといった,知ることや知らされることがいつも良いこととは限らないケースに遭遇することも増えている時代かも知れません。
<万葉時代では?>
万葉時代は現代に比べれば情報の絶対量ははるかに少なかったと考えられます。しかし,それまでの時代に比べ,制度,技術,文化,習慣,宗教,思想などの情報が中国や朝鮮半島から大量に入ってきて,それらを知り,消化し,自分のものにすることが求められた時代だと私は想像します。
また,海外からインプットされた情報から当時の日本に制度,技術,文化,宗教などを融合したり,それぞれを組合わせた新たな情報が大量に生まれてきた時代でもあったかもしれません。
万葉集には「知らないので」「知ることができず」「知っていれば」「知りようもなく」といった表現で,知らない,分からない,経験しことがない,想像できないといったことの残念さ,無念さ,諦めを表現したものが多く出てきます。
次は,額田王(ぬかだのおほきみ)が天智(てんぢ)天皇が崩御したのことを悲嘆して詠んだ短歌です。
かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを(2-151)
<かからむとかねてしりせば おほみふねはてしとまりに しめゆはましを>
<<こうなると前から知っているのでしたら天皇がお乗りになる大御舟の泊まっている港に標を張り廻らせましたものを(あの世に旅立たれないようにするために)>>
この短歌から,額田王が天智天皇との関係の強さや深さを私は感じます。
次は,柿本人麻呂が近江(天智天皇がかつて京を置いた場所)から奈良に向かった際に詠んだとされる有名な短歌です。
もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(3-264)
<もののふのやそうぢかはの あじろきにいさよふなみの ゆくへしらずも>
<<宇治川にたてられた網代木のあちこちでてきる波の行き先は予測できないなあ>>
あえて直訳をしてみました。世の無常を詠んだのか,短命の近江京を果無んだのか,壬申の乱などで多くの戦士が亡くなったことを弔ったのか,それとも...。
一見分かりやすそうであるけど解釈はいろいろできそうです。ただ,万葉集の中でも覚えやすい短歌の一つであることは間違いなさそうですね。
さて,次は天の香具山の近くに住んでいる人と思われる詠み人知らずの短歌です。
いにしへのことは知らぬを我れ見ても久しくなりぬ天の香具山(7-1096)
<いにしへのことはしらぬを われみてもひさしくなりぬ あめのかぐやま>
<<昔の謂れは知らないが,私が眺めるようになって年数がたってしまったなあ,天の香久山は>>
この作者は,天の香具山が古事記や日本書紀に出てくる神話上の物語があることは恐らく知っていたと思われますが,その詳しい内容については知らない(興味が無い)のだと思います。
平城京になって,飛鳥地方は古墳などたくさんあっても,単なる郊外の静かな農村になってしまったと私は想像します。この作者が飛鳥地方を統括する官吏だとすると,この地に長く住み,すっかり暮らしにも慣れ,この地が神話の宝庫であるとか,かつてどんな京があったかはもうどうでもよいという気持ちで詠んだと言えないでしょうか。
最後は坂上郎女が大伴家持が越中国主として赴任するため,旅たちの別れを惜しんだ短歌です。
道の中国つみ神は旅行きもし知らぬ君を恵みたまはな(17-3930)
<みちのなかくにつみかみは たびゆきもししらぬきみを めぐみたまはな>
<<越中の国の神様には,越中への旅の行き方もよく知らない家持様の無事をどうかお恵みください>>
家持にとっては,役人になってから初めての遠い地方の赴任であり,坂上郎女にとっては気が気ではなかったのでしょう。
不安とは初めてのこと,情報が極端に少ないことから人に襲い掛かってくるものだろうと私は思います。その不安を取り除くため「知る」ことの大切さを当時の和歌からも学ぶことができるのではないかと私は感じます。
次回は「知る」の最終回として,その他の「知る」を詠んだ万葉集の和歌を見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(4:まとめ)に続く。
2014年1月19日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(2) ここは余の領地と知れ!
万葉集の代表的歌人のひとりである山部赤人は各地を旅し(主に天皇の行幸に同行?),天皇を礼賛したり,行った先の土地を賛美したりした和歌を多く万葉集に残しています。柿本人麻呂ほど長文ではないですが,長歌も多く詠っています。
たとえば,今の兵庫県播磨の海岸の美しさを詠んだ次の長歌です。
やすみしし我が大君の 神ながら高知らせる 印南野の大海の原の 荒栲の藤井の浦に 鮪釣ると海人舟騒き 塩焼くと人ぞさはにある 浦をよみうべも釣りはす 浜をよみうべも塩焼く あり通ひ見さくもしるし 清き白浜(6-938)
<やすみししわがおほきみの かむながらたかしらせる いなみののおふみのはらの あらたへのふぢゐのうらに しびつるとあまぶねさわき しほやくとひとぞさはにある うらをよみうべもつりはす はまをよみうべもしほやく ありがよひみさくもしるし きよきしらはま>
<<我が大君が神として治められた印南野の大海の原の藤井の浦で,鮪を釣ろうと海人の舟が盛んに行き交い,そして塩を焼く人々が大勢見える。なるほど浦が良いから魚釣りが,浜が良いから塩を焼くのが盛んなのだ。何度も大君が通われて御覧になるのも当然だ。この美しい白浜よ>>
ここで,使っている「高知らせる」は「立派に統治される」という意味になるようです。印南は古事記,日本書紀,播磨国風土記の日本武尊(やまとたける)の時代(神話時代)にすでに出ているようです。瀬戸内海に面したここで詠われている海岸は当時本当に美しく,鮪など高級魚がたくさん獲れ,高品質な塩が生産されていたに違いないと感じます。
もう一首山部赤人が天平8年6月の聖武天皇が今の奈良県吉野に行幸したとき,同行して詠んだ吉野を礼賛する反歌(長歌に併せた短歌)を紹介します。
神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ(6-1006)
<かむよよりよしののみやに ありがよひたかしらせるは やまかはをよみ>
<<神代の昔から吉野の宮に通い続けられ,ここに立派な宮を建てられ治めてこられたのは山と川が素晴らしいからなのですね>>
吉野は奈良盆地(大和盆地)の南の山間地で,この行幸のように天皇の夏の避暑地として離宮を造営していたのだろうと想像できます。川は吉野川(現在では「紀の川」の上流になる奈良県内の通称)の清流であり,当時から風光明媚だったのでしょう。そして,吉野は万一地方で何か反乱があっても,すぐに京(奈良),難波(大阪),紀国(和歌山),伊勢(三重)に行ける要所であったと私は考えます。
こういう場所をいくつも天皇が統治し,豊かな物資や情報を流通させ,その価値を民に知らしめることでヤマトの国を統一していったのでしょうか。
さて,今回の最後は大伴家持が大伴氏の功名を世の中に知らしめよと詠んだ反歌を紹介します。
大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく(18-4096)
<おほとものとほつかむおやの おくつきはしるくしめたて ひとのしるべく>
<<大伴氏の遠い神代からの祖先の墓所には,はっきりと標を立てよ。世の人々が大伴氏の墓と知るように>>
これは,家持が越中に赴任中,陸奥で黄金の鉱脈が見つかったという知らせを聞いて詠んだ長歌の反歌です。当時,大仏建立で大仏を黄金に飾るための金が不足していたときであったので,大伴氏が所轄している陸奥で大量の金が産出できることが分かり,家持は大伴氏の手柄を世に知らしめたかったのだろうと私は感じます。
「知らしめる」ということは,世の人に権威,威厳,威光を伝え,反抗したり,けなしたりすると大変なこと,良くないことになるぞというニュアンスを含んでいるように感じます。
次は現代の表現の仕方で「知らない」という表現を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(3)に続く。
たとえば,今の兵庫県播磨の海岸の美しさを詠んだ次の長歌です。
やすみしし我が大君の 神ながら高知らせる 印南野の大海の原の 荒栲の藤井の浦に 鮪釣ると海人舟騒き 塩焼くと人ぞさはにある 浦をよみうべも釣りはす 浜をよみうべも塩焼く あり通ひ見さくもしるし 清き白浜(6-938)
<やすみししわがおほきみの かむながらたかしらせる いなみののおふみのはらの あらたへのふぢゐのうらに しびつるとあまぶねさわき しほやくとひとぞさはにある うらをよみうべもつりはす はまをよみうべもしほやく ありがよひみさくもしるし きよきしらはま>
<<我が大君が神として治められた印南野の大海の原の藤井の浦で,鮪を釣ろうと海人の舟が盛んに行き交い,そして塩を焼く人々が大勢見える。なるほど浦が良いから魚釣りが,浜が良いから塩を焼くのが盛んなのだ。何度も大君が通われて御覧になるのも当然だ。この美しい白浜よ>>
ここで,使っている「高知らせる」は「立派に統治される」という意味になるようです。印南は古事記,日本書紀,播磨国風土記の日本武尊(やまとたける)の時代(神話時代)にすでに出ているようです。瀬戸内海に面したここで詠われている海岸は当時本当に美しく,鮪など高級魚がたくさん獲れ,高品質な塩が生産されていたに違いないと感じます。
もう一首山部赤人が天平8年6月の聖武天皇が今の奈良県吉野に行幸したとき,同行して詠んだ吉野を礼賛する反歌(長歌に併せた短歌)を紹介します。
神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ(6-1006)
<かむよよりよしののみやに ありがよひたかしらせるは やまかはをよみ>
<<神代の昔から吉野の宮に通い続けられ,ここに立派な宮を建てられ治めてこられたのは山と川が素晴らしいからなのですね>>
吉野は奈良盆地(大和盆地)の南の山間地で,この行幸のように天皇の夏の避暑地として離宮を造営していたのだろうと想像できます。川は吉野川(現在では「紀の川」の上流になる奈良県内の通称)の清流であり,当時から風光明媚だったのでしょう。そして,吉野は万一地方で何か反乱があっても,すぐに京(奈良),難波(大阪),紀国(和歌山),伊勢(三重)に行ける要所であったと私は考えます。
こういう場所をいくつも天皇が統治し,豊かな物資や情報を流通させ,その価値を民に知らしめることでヤマトの国を統一していったのでしょうか。
さて,今回の最後は大伴家持が大伴氏の功名を世の中に知らしめよと詠んだ反歌を紹介します。
大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく(18-4096)
<おほとものとほつかむおやの おくつきはしるくしめたて ひとのしるべく>
<<大伴氏の遠い神代からの祖先の墓所には,はっきりと標を立てよ。世の人々が大伴氏の墓と知るように>>
これは,家持が越中に赴任中,陸奥で黄金の鉱脈が見つかったという知らせを聞いて詠んだ長歌の反歌です。当時,大仏建立で大仏を黄金に飾るための金が不足していたときであったので,大伴氏が所轄している陸奥で大量の金が産出できることが分かり,家持は大伴氏の手柄を世に知らしめたかったのだろうと私は感じます。
「知らしめる」ということは,世の人に権威,威厳,威光を伝え,反抗したり,けなしたりすると大変なこと,良くないことになるぞというニュアンスを含んでいるように感じます。
次は現代の表現の仕方で「知らない」という表現を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(3)に続く。
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