万葉集の代表的歌人のひとりである山部赤人は各地を旅し(主に天皇の行幸に同行?),天皇を礼賛したり,行った先の土地を賛美したりした和歌を多く万葉集に残しています。柿本人麻呂ほど長文ではないですが,長歌も多く詠っています。
たとえば,今の兵庫県播磨の海岸の美しさを詠んだ次の長歌です。
やすみしし我が大君の 神ながら高知らせる 印南野の大海の原の 荒栲の藤井の浦に 鮪釣ると海人舟騒き 塩焼くと人ぞさはにある 浦をよみうべも釣りはす 浜をよみうべも塩焼く あり通ひ見さくもしるし 清き白浜(6-938)
<やすみししわがおほきみの かむながらたかしらせる いなみののおふみのはらの あらたへのふぢゐのうらに しびつるとあまぶねさわき しほやくとひとぞさはにある うらをよみうべもつりはす はまをよみうべもしほやく ありがよひみさくもしるし きよきしらはま>
<<我が大君が神として治められた印南野の大海の原の藤井の浦で,鮪を釣ろうと海人の舟が盛んに行き交い,そして塩を焼く人々が大勢見える。なるほど浦が良いから魚釣りが,浜が良いから塩を焼くのが盛んなのだ。何度も大君が通われて御覧になるのも当然だ。この美しい白浜よ>>
ここで,使っている「高知らせる」は「立派に統治される」という意味になるようです。印南は古事記,日本書紀,播磨国風土記の日本武尊(やまとたける)の時代(神話時代)にすでに出ているようです。瀬戸内海に面したここで詠われている海岸は当時本当に美しく,鮪など高級魚がたくさん獲れ,高品質な塩が生産されていたに違いないと感じます。
もう一首山部赤人が天平8年6月の聖武天皇が今の奈良県吉野に行幸したとき,同行して詠んだ吉野を礼賛する反歌(長歌に併せた短歌)を紹介します。
神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ(6-1006)
<かむよよりよしののみやに ありがよひたかしらせるは やまかはをよみ>
<<神代の昔から吉野の宮に通い続けられ,ここに立派な宮を建てられ治めてこられたのは山と川が素晴らしいからなのですね>>
吉野は奈良盆地(大和盆地)の南の山間地で,この行幸のように天皇の夏の避暑地として離宮を造営していたのだろうと想像できます。川は吉野川(現在では「紀の川」の上流になる奈良県内の通称)の清流であり,当時から風光明媚だったのでしょう。そして,吉野は万一地方で何か反乱があっても,すぐに京(奈良),難波(大阪),紀国(和歌山),伊勢(三重)に行ける要所であったと私は考えます。
こういう場所をいくつも天皇が統治し,豊かな物資や情報を流通させ,その価値を民に知らしめることでヤマトの国を統一していったのでしょうか。
さて,今回の最後は大伴家持が大伴氏の功名を世の中に知らしめよと詠んだ反歌を紹介します。
大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく(18-4096)
<おほとものとほつかむおやの おくつきはしるくしめたて ひとのしるべく>
<<大伴氏の遠い神代からの祖先の墓所には,はっきりと標を立てよ。世の人々が大伴氏の墓と知るように>>
これは,家持が越中に赴任中,陸奥で黄金の鉱脈が見つかったという知らせを聞いて詠んだ長歌の反歌です。当時,大仏建立で大仏を黄金に飾るための金が不足していたときであったので,大伴氏が所轄している陸奥で大量の金が産出できることが分かり,家持は大伴氏の手柄を世に知らしめたかったのだろうと私は感じます。
「知らしめる」ということは,世の人に権威,威厳,威光を伝え,反抗したり,けなしたりすると大変なこと,良くないことになるぞというニュアンスを含んでいるように感じます。
次は現代の表現の仕方で「知らない」という表現を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(3)に続く。
0 件のコメント:
コメントを投稿