<情報量とは>
次回で本ブログは400回投稿を達成します。初回投稿から7年近い期間が流れました。
ここまで続けられたのも,(何度もこのブログで述べていますが)万葉集が持つ情報量の多さが大きな要因であることは間違いありません。
私のようなIT系の人間がいう情報量とは,データ量とは異なります。データ量は,同じデータが多くあっても,データの絶対量(例えば文字数や住所録の1人分あたるようなレコード数)全体の大小で量ります。
しかし,情報量はまったく同じデータはいくらそれが何千,何万あっても,1と数えます。同じ意味であるが形式が異なるものも一つと数えます。例えば,和暦で表現した平成28年と西暦で表現した2016年は,見た目は異なりますが同じ意味成ので情報量としては一つとなります。ただ,和暦と西暦が年の表現として別にあるということはまた別の情報としてカウントします。
<万葉集の情報量と和歌としての評価は別>
この説明で訳が分からなくなった人は,要するに万葉集は多様性が多くあるがゆえに情報量が多いと理解してくださればよいと思います。
こういうと,万葉集はただ整理されていないだけで,優れた歌人もヘタな歌人もごじゃまぜにした未完成の歌集だと思う人がいるかもしれません。
優れている/劣っているの違いは,その人が好き/嫌いの違いでしかないと私は思っています。結局,評価する人の価値観やその人が勝手に決めた評価基準を基に歌人の詠んだ和歌に点数付をしているだけでしかないだろうと私は思うのです。
今まで,万葉集をこよなく愛し,研究に研究を重ねた人の努力やその成果物(論文や著作)の価値を認めないというのではありません。でも,研究論文を読んでもその人が述べようとしていることが難しすぎて理解するのに時間が掛かり過ぎます。また,細部にこだわり過ぎて万葉集全体が見えません。また,初級者用の分かりやすい解説本も多数出ていますが,どれも同じような解説ばかりが書いてあり,書かれていないことに実は大きな価値があるかもしれないと不安になります。
<このブログを簡潔に書けない理由>
ところで,私が書いているこのブログは分かりやすいかというとそうでもありません。多分長すぎて読む気になれない人も多いと思います。このブログは自分のために書いているようなものです。どこまで,万葉集の編集目的を分かったかですね。
私は毎年といってよいほど,その理解の深まりのまとめとして,万葉集の編集目的を書いています。毎年少しずつ表現が異なっています。それだけ編集目的の理解が進んだためだと私は勝手に思っています。何せ年60件近く投稿するために自分で調べている訳ですから。
<万葉集編纂の目的>
今年の「万葉集編集の目的」は次の通りです。
「大伴氏自らの氏族繁栄のために万葉集を編纂した。すなわち,万葉集の編纂は金儲けが目的であった」
大伴氏が酒造所を持っていたらどうでしょうか。製糸,機織,染め物の大規模な作業場を持っていたらどうでしょうか。和紙・筆・墨を作る工場のようなものを持っていたらどうでしょうか。大規模な農園や山林を持っていたらどうでしょうか。各地に旅行者用の施設を運営していたらどうでしょうか。建築業や造園業を営んでいたらどうでしょうか。陶器の製作所あちこちに持っていたらどうでしょうか。造船所を持っていたり,大きな船を何隻も所有していたらどうでしょうか。各地に農業用の道具に使う,刃物に使う,兵器に使うような金属の加工所多く持っていたらどうでしょうか。
<消費拡大を目指す万葉集>
万葉集に出てくる和歌から,歴史や名所を巡る旅や綺麗な景色や鳥の声を聞くたびをして見たくなる,ブランドの船に乗ってみたくなる,素敵な服を着てみたくなる,美味しい酒や料理をみんなで食べたくなる,綺麗で立派な家を立てたくなる,豪華な庭を作って豊かな生活を送ってみたくなる,そして優雅にうまい歌人を真似た和歌を詠んでみたいと思うのではないかとと私は想像するのです。
そして,恋をして,恋に苦しんで,恋の苦しさから逃れるために文を書く,苦しさを忘れるために和歌を詠む,そこで使われるのが高級な和紙なのです。
万葉集の和歌が消費の拡大に貢献していることを私は強く感じます。
私の周りにいる大学時代の万葉集研究クラブの後輩などにこの話をすると,聞いた側は「残念です」という顔をします。なぜなら,何か私が万葉集の価値を低めているように見えるからでしょうか。
<経済学部出身から私から見たら当然の行為>
私は,万葉集の和歌が金儲けのために詠まれたと言っているのではありません。編集者が既存の和歌を集めた目的がそうだと言っているだけです。そうでないと,名もない歌人(私は古今和歌集のように「詠み人知らず」といっています)の和歌や,決して上手ではないと後の有名歌人さんが言いそうな和歌がいっぱい入っている理由の説明が付つかない私は思うのです。
もうじき,2015年も終わります。お酒を飲む機会が多くなります。万葉集では,お酒を勧めている和歌がある一方で,ほどほどにすることもわきまえることを勧めるような和歌もあります。
丹生女王(にうのおほきみ)が大伴旅人と酒を酌み交わしているときに詠んだ短歌です。
古人のたまへしめたる吉備の酒病めばすべなし貫簀賜らむ(4-554)
<ふるひとのたまへしめたる きびのさけやめばすべなし ぬきすたばらむ>
<<旅人様がお召し上がりの吉備の名酒も,私は気分が悪いのでもう結構です。それより貫簀をいただけますか>>
貫簀(ぬきす)は,たらいの上に竹で編んだ簀子のようなものをかぶせたもので,女王は飲み過ぎで吐きたいほど気分が悪くなったのでしょうね。
えっ?この歌で貫簀が売れるって?
いずれにしても,お酒の量は適量になさって,良いお年をお迎えください。
400回記念スペシャル(2)に続く。
2015年12月31日木曜日
2015年5月31日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(3:まとめ) 最後に新しいブログ立上げのお知らせがあります。
「栄ゆ」の最終回は,これまで出てこなかった「栄ゆ」が読み込まれている和歌について,万葉集を見ていきます。
今回の最初は,海犬養岡麻呂(あまのいぬかひのをかまろ)が宮廷で聖武(しやうむ)天皇から命じられ詠んだとされる短歌です。
御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば(6-669)
<みたみわれいけるしるしあり あめつちのさかゆるときに あへらくおもへば>
<<陛下の民である私は生きている有難さを感じています。天地が栄える時に偶然生まれ合わせたと思うので>>
「今の社会の繁栄は天皇のおかげ,そんな時に生まれて本当に幸せです」といった天皇礼賛(=よいしょ)の典型のような短歌でしょうか。
聖武天皇は,奈良の大仏殿や各地の国分寺・国分尼寺を始めする寺院の建設,恭仁(くに)京や難波(なには)京への遷都(結果は頓挫)などの公共事業を積極的に推進したようです。
政権の財政を逼迫させるような浪費にも見えますが,その結果,諸産業が活性化し,多くの人が職に就け,天平文化が開花し,栄えたとも言えそうです。
さて,次は天皇礼賛ではなく,大伴氏礼賛の短歌(この短歌はすでに何度かこのブログで紹介)です。
靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
<ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし>
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>
国の繁栄は大伴氏の武勇によるものだと言いたいのでしょう。ただ,この短歌が詠まれた平城京の時代では武勇は過去のもので,昔を懐かしんで詠まれたのかもしれません。
最後は,雨乞いをしていたら,雨が降ってきて良かったという大伴家持が天平感宝元(749)年6月4日に越中で詠んだ短歌です。
我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ(18-4124)
<わがほりしあめはふりきぬ かくしあらばことあげせずとも としはさかえむ>
<<我らが欲しいと願った雨はとうとう降ってきたので,もうあれこれ心配ごとを言わなくても豊作の年となるでしょう>>
実は天平感宝という元号は,この年の4月に天平21年から改元され,同じく7月には天平勝宝元年に改元されたということで,わずか3ヶ月ほどの短命な元号ということになります。
その3ヶ月間の出来事を表す時だけ使う元号となるため,一般の歴史書にはほとんど表れない元号となっているようです。
しかし,この短歌の前にある同じく家持が詠んだ雨乞いの長歌の題詞には,「天平感寶元年」とあるとのことで,正確に元号が記されていることに私は万葉集全体の内容に関する信頼性を感じます。
この長歌では,この年の5月に長く雨が降らないため(空梅雨),稲の葉が萎んでいく姿を見て,雨が降ってほしいと必死な雨乞いの気持ちを詠んでいます。
越中守の家持の下には,農家からは窮状を訴える陳情が多く寄せられていたのだと思います。
当時は海水の淡水化装置がある訳ではありませんから,こればかりは天に祈るしかなかったのでしょう。そして,6月についに雨が降ってきて,この短歌のように安堵する家持がそこにいるのです。
越中の平和で栄え豊かな生活を維持するという重い責任を負わされた家持の人間らしい側面がこの短歌には,またにじみ出いるように私には感じます。
これで,「栄ゆ」は終わります。
実は,万葉集に関する新しいブログを立ち上げました。
ブログの名称は,ブログ「万葉集に関するクイズです」です。
http://quiz-mannyou.blogspot.jp/
タイトルの通り,万葉集をテーマとしたクイズを次々と出していくブログです。
そちらも楽しんでください。なお,このブログも継続して投稿していきますよ。
このブログの次のテーマは動詞「参ゐる」を見ていく予定です。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(1)に続く。
今回の最初は,海犬養岡麻呂(あまのいぬかひのをかまろ)が宮廷で聖武(しやうむ)天皇から命じられ詠んだとされる短歌です。
御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば(6-669)
<みたみわれいけるしるしあり あめつちのさかゆるときに あへらくおもへば>
<<陛下の民である私は生きている有難さを感じています。天地が栄える時に偶然生まれ合わせたと思うので>>
「今の社会の繁栄は天皇のおかげ,そんな時に生まれて本当に幸せです」といった天皇礼賛(=よいしょ)の典型のような短歌でしょうか。
聖武天皇は,奈良の大仏殿や各地の国分寺・国分尼寺を始めする寺院の建設,恭仁(くに)京や難波(なには)京への遷都(結果は頓挫)などの公共事業を積極的に推進したようです。
政権の財政を逼迫させるような浪費にも見えますが,その結果,諸産業が活性化し,多くの人が職に就け,天平文化が開花し,栄えたとも言えそうです。
さて,次は天皇礼賛ではなく,大伴氏礼賛の短歌(この短歌はすでに何度かこのブログで紹介)です。
靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
<ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし>
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>
国の繁栄は大伴氏の武勇によるものだと言いたいのでしょう。ただ,この短歌が詠まれた平城京の時代では武勇は過去のもので,昔を懐かしんで詠まれたのかもしれません。
最後は,雨乞いをしていたら,雨が降ってきて良かったという大伴家持が天平感宝元(749)年6月4日に越中で詠んだ短歌です。
我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ(18-4124)
<わがほりしあめはふりきぬ かくしあらばことあげせずとも としはさかえむ>
<<我らが欲しいと願った雨はとうとう降ってきたので,もうあれこれ心配ごとを言わなくても豊作の年となるでしょう>>
実は天平感宝という元号は,この年の4月に天平21年から改元され,同じく7月には天平勝宝元年に改元されたということで,わずか3ヶ月ほどの短命な元号ということになります。
その3ヶ月間の出来事を表す時だけ使う元号となるため,一般の歴史書にはほとんど表れない元号となっているようです。
しかし,この短歌の前にある同じく家持が詠んだ雨乞いの長歌の題詞には,「天平感寶元年」とあるとのことで,正確に元号が記されていることに私は万葉集全体の内容に関する信頼性を感じます。
この長歌では,この年の5月に長く雨が降らないため(空梅雨),稲の葉が萎んでいく姿を見て,雨が降ってほしいと必死な雨乞いの気持ちを詠んでいます。
越中守の家持の下には,農家からは窮状を訴える陳情が多く寄せられていたのだと思います。
当時は海水の淡水化装置がある訳ではありませんから,こればかりは天に祈るしかなかったのでしょう。そして,6月についに雨が降ってきて,この短歌のように安堵する家持がそこにいるのです。
越中の平和で栄え豊かな生活を維持するという重い責任を負わされた家持の人間らしい側面がこの短歌には,またにじみ出いるように私には感じます。
これで,「栄ゆ」は終わります。
実は,万葉集に関する新しいブログを立ち上げました。
ブログの名称は,ブログ「万葉集に関するクイズです」です。
http://quiz-mannyou.blogspot.jp/
タイトルの通り,万葉集をテーマとしたクイズを次々と出していくブログです。
そちらも楽しんでください。なお,このブログも継続して投稿していきますよ。
このブログの次のテーマは動詞「参ゐる」を見ていく予定です。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(1)に続く。
2015年5月23日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2) 植物が元気に育つ初夏ですね。
「栄ゆ」の2回目は,植物が栄える(繁茂する)という意味で使われている万葉集の例を示します。
最初は,現在の桜井市にあったといわれる大伴氏の荘園を訪れた紀鹿人(きのしかひと)がその立派さを詠った短歌です。鹿人の属する紀氏と大伴氏との間には太い交流関係があったようです。
茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の木の年の知らなく(6-990)
<しげをかにかむさびたちて さかえたるちよまつのきの としのしらなく>
<<茂岡に神々しく立って栄えている千代松の木はその立派さに樹齢を推測することもできないです>>
荘園には千代松という立派で樹齢が長いシンボル的な松の木があったのでしょう。それをほめたたえることで,大伴氏が長年所有し,整備してきた荘園の価値を高く評価したのだと思います。
次は馬酔木の花(枕詞として使用)を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも(7-1128)
<あしびな さかえしきみが ほりしゐのいしゐのみづは のめどあかぬかも>
<<(馬酔木の白い花がたくさん咲くように)立派になられたあなた様が掘られた石井の井戸水はいくら飲んでもおいしいですね。>>
馬酔木の花・茎・葉などには毒があり,獣や虫が寄り付かない効果があるためか,井戸の周りに植え,井戸水が常にきれいであるようにしていたのかもしれません。もちろん,馬酔木の花自体も白く,見ていて清潔感があり,井戸や池の周りに植えるのに適していたと私は想像します。
最後は,草が盛んに生えることを詠んだ柿本人麻呂歌集から万葉集に転載したという詠み人知らずの旋頭歌です。
山背の久世の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ(7-1286)
<やましろのくせのやしろのくさなたをりそ わがときとたちさかゆともくさなたをりそ>
<<山城の久世の社の草を手折ってはならない。我が世の盛りとばかり立ち栄えていようとも社の草を手折ってはならない>>
これは,久世にある社(神社)は雑草さえも霊験あらたかなので,むしり採っていけない。少しぐらいむしり採っても分からないくらい生い茂っていても,やはりむしってはいけないということを詠ったと素直に解釈できそうです。
しかし,この前に出てくる旋頭歌1285では,田で一人で作業をしている疲れた若者に対して,「お前には助けてくれる妻がいないから疲れているだよね」とカラかっているものがあります。
この旋頭歌1286が旋頭歌1285の続きであれば,意味が違ってきそうです。たとえば,草のことを若い妻候補の女性のこととすれば(旋頭歌1285に出てくる「若草の」は妻に掛かる枕詞),「僕にはいっぱい妻候補がいるんだ。かっさらったりするんじゃないぞ!」という内容にも思えます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(3:まとめ)に続く。
最初は,現在の桜井市にあったといわれる大伴氏の荘園を訪れた紀鹿人(きのしかひと)がその立派さを詠った短歌です。鹿人の属する紀氏と大伴氏との間には太い交流関係があったようです。
茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の木の年の知らなく(6-990)
<しげをかにかむさびたちて さかえたるちよまつのきの としのしらなく>
<<茂岡に神々しく立って栄えている千代松の木はその立派さに樹齢を推測することもできないです>>
荘園には千代松という立派で樹齢が長いシンボル的な松の木があったのでしょう。それをほめたたえることで,大伴氏が長年所有し,整備してきた荘園の価値を高く評価したのだと思います。
次は馬酔木の花(枕詞として使用)を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも(7-1128)
<あしびな さかえしきみが ほりしゐのいしゐのみづは のめどあかぬかも>
<<(馬酔木の白い花がたくさん咲くように)立派になられたあなた様が掘られた石井の井戸水はいくら飲んでもおいしいですね。>>
馬酔木の花・茎・葉などには毒があり,獣や虫が寄り付かない効果があるためか,井戸の周りに植え,井戸水が常にきれいであるようにしていたのかもしれません。もちろん,馬酔木の花自体も白く,見ていて清潔感があり,井戸や池の周りに植えるのに適していたと私は想像します。
最後は,草が盛んに生えることを詠んだ柿本人麻呂歌集から万葉集に転載したという詠み人知らずの旋頭歌です。
山背の久世の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ(7-1286)
<やましろのくせのやしろのくさなたをりそ わがときとたちさかゆともくさなたをりそ>
<<山城の久世の社の草を手折ってはならない。我が世の盛りとばかり立ち栄えていようとも社の草を手折ってはならない>>
これは,久世にある社(神社)は雑草さえも霊験あらたかなので,むしり採っていけない。少しぐらいむしり採っても分からないくらい生い茂っていても,やはりむしってはいけないということを詠ったと素直に解釈できそうです。
しかし,この前に出てくる旋頭歌1285では,田で一人で作業をしている疲れた若者に対して,「お前には助けてくれる妻がいないから疲れているだよね」とカラかっているものがあります。
この旋頭歌1286が旋頭歌1285の続きであれば,意味が違ってきそうです。たとえば,草のことを若い妻候補の女性のこととすれば(旋頭歌1285に出てくる「若草の」は妻に掛かる枕詞),「僕にはいっぱい妻候補がいるんだ。かっさらったりするんじゃないぞ!」という内容にも思えます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(3:まとめ)に続く。
2014年12月14日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(1) 万葉時代,月夜は今よりもっと明るかった?
<転職して2週間。一番苦しいところ>
新しい職場に勤務を開始して2週間。やっと,周りの仕事の内容が見えてきたところです。
以前にも述べましたが,私が専門としている稼働中ソフトウェアの保守開発の仕事は「たかがちょっとした修正でしょ」といった簡単なものではありません。
対象コンピュータシステムに搭載されたソフトウェアがどのようなことを重視して初期開発されたのか,その後どのような問題に遭遇し,どのような改修をされてきたのかなどの経緯が分からないと,コスト的,将来的,緊急対応度,対応困難度,対応影響範囲などの観点から,最適な対応(改修)方法を導き出すのが簡単にはできないのです。
対象システムが大規模なため,現状を理解するだけでなく,そういった今までの経緯を含めて完全に理解をするのは,まだまた時間が必要です。
しかし,すべてが理解できていなくても課題の解決を行いながら理解を深めていくことも現実的な対応で,限られた情報しかなくても最適な対応方法を素早く見つける技もプロフェッショナルとして必要な技量かもしれません。
<本題>
さて,近況はそのくらいにして,今回から「照る」について万葉集を見ていきましょう。万葉集で「照」の漢字があてられている和歌は100首以上もあります。「照る」の意味は,明るくかがやく・ひかるという意味と,つやが良いといあ意味があります。また,枕詞(高照らす,押し照る)に使われていて,それ自体に直接的な意味がない場合もあります。
その中を見ていくと,「照らしている」ものの本体は次のようなものに分類できます。
・月
・日
・花
・その他(玉,黄葉,雪,天の川などの星,天など)
今回はまず「照りかがやくものとしての月」や「月が照っている月夜」を見ていきます。これらを詠んだ和歌は50首ほど万葉集で出てきます。
1首目は,長屋王(ながやのおほきみ)の娘とされている賀茂女王(かものおほきみ)が詠んだ相聞歌1首です。
大伴の見つとは言はじあかねさし照れる月夜に直に逢へりとも(4-565)
<おほとものみつとはいはじ あかねさしてれるつくよに ただにあへりとも>
<<あなた様を見たとは言わないことにしましょう。すごく明るく月が照っている夜にあなた様と直(じか)に逢うことができたとしても>>
誰に贈ったかは不明のようですが,これも女王の他の相聞歌に出てくる大伴三依(おほとものみより)だったのではないかと私は思います。
三依はこれを受けて詠んだかどうか不明ですが,同じ巻4の中で次の短歌を詠んでいます。
照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人なしに(4-690)
<てるつきをやみにみなして なくなみだころもぬらしつ ほすひとなしに>
<<明るい月夜が闇夜に見えるほど泣いた涙で衣を濡らしてしまった。干してくれる人などいないのに>>
この両短歌が女王と三依の間のものであったとしたら,ふたりの間は悲恋となったことになります。
何が二人を逢えなくさせる要因となったのか分かりませんが,政治的な問題(長屋王の変)が影響したのかもしれないと私には感じられます。
次は,志貴皇子(しきのみこ)の子であり,光仁(こうにん)天皇の弟である湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだ短歌を紹介します。
はしきやし間近き里の君来むとおほのびにかも月の照りたる(6-986)
<はしきやしまちかきさとの きみこむとおほのびにかも つきのてりたる>
<<すぐ近くの里に住むあのお方が来てくださるようだ。大きな満月が照りはえている>>
この短歌は,女性の立場で詠んだようのではないかと私は感じます。満月の夜は,道を明るく照らし,出る時間帯も日が暮れたら直ぐなので,夜に行われる妻問にはもってこいです。今夜は素晴らしく明るい満月が照っているので,あの方は今夜こそきっと来るだろうと待ち望んている女性の気持ちを詠んだのではないでしょうか。
この湯原王は,政治的にはほとんど記録に残っていない人物ですが,万葉集に19首の短歌を残しています。天武系の天皇が続く天平時代に,天智天皇系の志貴皇子の血筋をもった人たちは,和歌を詠みながら時代の変化をひたすら待っていたのかもしれません。
長屋王のように天武系であっても敵を作ってしまい,粛清の憂き目に遇うのは避けたいですからね。
最後は,詠み人知らずの短歌ですが,大伴氏の繁栄を願って詠んだと考えられるものです。
靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
<ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし>
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって,国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>
このように月が照ることが,現代と比べ物にならないほど,当時の人々にとって大きな意味を持っていたのだろうと私は想像します。きっと,明るく照った月夜は,普通の夜と違う元気が出る夜だったのでしょう。
それは,今の季節,あちこちで通りで綺麗で豪華なイルミネーションが点灯されると,寒さなんか忘れて,出かけてみようと思う気持ちと同じかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2)に続く。
新しい職場に勤務を開始して2週間。やっと,周りの仕事の内容が見えてきたところです。
以前にも述べましたが,私が専門としている稼働中ソフトウェアの保守開発の仕事は「たかがちょっとした修正でしょ」といった簡単なものではありません。
対象コンピュータシステムに搭載されたソフトウェアがどのようなことを重視して初期開発されたのか,その後どのような問題に遭遇し,どのような改修をされてきたのかなどの経緯が分からないと,コスト的,将来的,緊急対応度,対応困難度,対応影響範囲などの観点から,最適な対応(改修)方法を導き出すのが簡単にはできないのです。
対象システムが大規模なため,現状を理解するだけでなく,そういった今までの経緯を含めて完全に理解をするのは,まだまた時間が必要です。
しかし,すべてが理解できていなくても課題の解決を行いながら理解を深めていくことも現実的な対応で,限られた情報しかなくても最適な対応方法を素早く見つける技もプロフェッショナルとして必要な技量かもしれません。
<本題>
さて,近況はそのくらいにして,今回から「照る」について万葉集を見ていきましょう。万葉集で「照」の漢字があてられている和歌は100首以上もあります。「照る」の意味は,明るくかがやく・ひかるという意味と,つやが良いといあ意味があります。また,枕詞(高照らす,押し照る)に使われていて,それ自体に直接的な意味がない場合もあります。
その中を見ていくと,「照らしている」ものの本体は次のようなものに分類できます。
・月
・日
・花
・その他(玉,黄葉,雪,天の川などの星,天など)
今回はまず「照りかがやくものとしての月」や「月が照っている月夜」を見ていきます。これらを詠んだ和歌は50首ほど万葉集で出てきます。
1首目は,長屋王(ながやのおほきみ)の娘とされている賀茂女王(かものおほきみ)が詠んだ相聞歌1首です。
大伴の見つとは言はじあかねさし照れる月夜に直に逢へりとも(4-565)
<おほとものみつとはいはじ あかねさしてれるつくよに ただにあへりとも>
<<あなた様を見たとは言わないことにしましょう。すごく明るく月が照っている夜にあなた様と直(じか)に逢うことができたとしても>>
誰に贈ったかは不明のようですが,これも女王の他の相聞歌に出てくる大伴三依(おほとものみより)だったのではないかと私は思います。
三依はこれを受けて詠んだかどうか不明ですが,同じ巻4の中で次の短歌を詠んでいます。
照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人なしに(4-690)
<てるつきをやみにみなして なくなみだころもぬらしつ ほすひとなしに>
<<明るい月夜が闇夜に見えるほど泣いた涙で衣を濡らしてしまった。干してくれる人などいないのに>>
この両短歌が女王と三依の間のものであったとしたら,ふたりの間は悲恋となったことになります。
何が二人を逢えなくさせる要因となったのか分かりませんが,政治的な問題(長屋王の変)が影響したのかもしれないと私には感じられます。
次は,志貴皇子(しきのみこ)の子であり,光仁(こうにん)天皇の弟である湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだ短歌を紹介します。
はしきやし間近き里の君来むとおほのびにかも月の照りたる(6-986)
<はしきやしまちかきさとの きみこむとおほのびにかも つきのてりたる>
<<すぐ近くの里に住むあのお方が来てくださるようだ。大きな満月が照りはえている>>
この短歌は,女性の立場で詠んだようのではないかと私は感じます。満月の夜は,道を明るく照らし,出る時間帯も日が暮れたら直ぐなので,夜に行われる妻問にはもってこいです。今夜は素晴らしく明るい満月が照っているので,あの方は今夜こそきっと来るだろうと待ち望んている女性の気持ちを詠んだのではないでしょうか。
この湯原王は,政治的にはほとんど記録に残っていない人物ですが,万葉集に19首の短歌を残しています。天武系の天皇が続く天平時代に,天智天皇系の志貴皇子の血筋をもった人たちは,和歌を詠みながら時代の変化をひたすら待っていたのかもしれません。
長屋王のように天武系であっても敵を作ってしまい,粛清の憂き目に遇うのは避けたいですからね。
最後は,詠み人知らずの短歌ですが,大伴氏の繁栄を願って詠んだと考えられるものです。
靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
<ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし>
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって,国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>
このように月が照ることが,現代と比べ物にならないほど,当時の人々にとって大きな意味を持っていたのだろうと私は想像します。きっと,明るく照った月夜は,普通の夜と違う元気が出る夜だったのでしょう。
それは,今の季節,あちこちで通りで綺麗で豪華なイルミネーションが点灯されると,寒さなんか忘れて,出かけてみようと思う気持ちと同じかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2)に続く。
2014年1月19日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(2) ここは余の領地と知れ!
万葉集の代表的歌人のひとりである山部赤人は各地を旅し(主に天皇の行幸に同行?),天皇を礼賛したり,行った先の土地を賛美したりした和歌を多く万葉集に残しています。柿本人麻呂ほど長文ではないですが,長歌も多く詠っています。
たとえば,今の兵庫県播磨の海岸の美しさを詠んだ次の長歌です。
やすみしし我が大君の 神ながら高知らせる 印南野の大海の原の 荒栲の藤井の浦に 鮪釣ると海人舟騒き 塩焼くと人ぞさはにある 浦をよみうべも釣りはす 浜をよみうべも塩焼く あり通ひ見さくもしるし 清き白浜(6-938)
<やすみししわがおほきみの かむながらたかしらせる いなみののおふみのはらの あらたへのふぢゐのうらに しびつるとあまぶねさわき しほやくとひとぞさはにある うらをよみうべもつりはす はまをよみうべもしほやく ありがよひみさくもしるし きよきしらはま>
<<我が大君が神として治められた印南野の大海の原の藤井の浦で,鮪を釣ろうと海人の舟が盛んに行き交い,そして塩を焼く人々が大勢見える。なるほど浦が良いから魚釣りが,浜が良いから塩を焼くのが盛んなのだ。何度も大君が通われて御覧になるのも当然だ。この美しい白浜よ>>
ここで,使っている「高知らせる」は「立派に統治される」という意味になるようです。印南は古事記,日本書紀,播磨国風土記の日本武尊(やまとたける)の時代(神話時代)にすでに出ているようです。瀬戸内海に面したここで詠われている海岸は当時本当に美しく,鮪など高級魚がたくさん獲れ,高品質な塩が生産されていたに違いないと感じます。
もう一首山部赤人が天平8年6月の聖武天皇が今の奈良県吉野に行幸したとき,同行して詠んだ吉野を礼賛する反歌(長歌に併せた短歌)を紹介します。
神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ(6-1006)
<かむよよりよしののみやに ありがよひたかしらせるは やまかはをよみ>
<<神代の昔から吉野の宮に通い続けられ,ここに立派な宮を建てられ治めてこられたのは山と川が素晴らしいからなのですね>>
吉野は奈良盆地(大和盆地)の南の山間地で,この行幸のように天皇の夏の避暑地として離宮を造営していたのだろうと想像できます。川は吉野川(現在では「紀の川」の上流になる奈良県内の通称)の清流であり,当時から風光明媚だったのでしょう。そして,吉野は万一地方で何か反乱があっても,すぐに京(奈良),難波(大阪),紀国(和歌山),伊勢(三重)に行ける要所であったと私は考えます。
こういう場所をいくつも天皇が統治し,豊かな物資や情報を流通させ,その価値を民に知らしめることでヤマトの国を統一していったのでしょうか。
さて,今回の最後は大伴家持が大伴氏の功名を世の中に知らしめよと詠んだ反歌を紹介します。
大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく(18-4096)
<おほとものとほつかむおやの おくつきはしるくしめたて ひとのしるべく>
<<大伴氏の遠い神代からの祖先の墓所には,はっきりと標を立てよ。世の人々が大伴氏の墓と知るように>>
これは,家持が越中に赴任中,陸奥で黄金の鉱脈が見つかったという知らせを聞いて詠んだ長歌の反歌です。当時,大仏建立で大仏を黄金に飾るための金が不足していたときであったので,大伴氏が所轄している陸奥で大量の金が産出できることが分かり,家持は大伴氏の手柄を世に知らしめたかったのだろうと私は感じます。
「知らしめる」ということは,世の人に権威,威厳,威光を伝え,反抗したり,けなしたりすると大変なこと,良くないことになるぞというニュアンスを含んでいるように感じます。
次は現代の表現の仕方で「知らない」という表現を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(3)に続く。
たとえば,今の兵庫県播磨の海岸の美しさを詠んだ次の長歌です。
やすみしし我が大君の 神ながら高知らせる 印南野の大海の原の 荒栲の藤井の浦に 鮪釣ると海人舟騒き 塩焼くと人ぞさはにある 浦をよみうべも釣りはす 浜をよみうべも塩焼く あり通ひ見さくもしるし 清き白浜(6-938)
<やすみししわがおほきみの かむながらたかしらせる いなみののおふみのはらの あらたへのふぢゐのうらに しびつるとあまぶねさわき しほやくとひとぞさはにある うらをよみうべもつりはす はまをよみうべもしほやく ありがよひみさくもしるし きよきしらはま>
<<我が大君が神として治められた印南野の大海の原の藤井の浦で,鮪を釣ろうと海人の舟が盛んに行き交い,そして塩を焼く人々が大勢見える。なるほど浦が良いから魚釣りが,浜が良いから塩を焼くのが盛んなのだ。何度も大君が通われて御覧になるのも当然だ。この美しい白浜よ>>
ここで,使っている「高知らせる」は「立派に統治される」という意味になるようです。印南は古事記,日本書紀,播磨国風土記の日本武尊(やまとたける)の時代(神話時代)にすでに出ているようです。瀬戸内海に面したここで詠われている海岸は当時本当に美しく,鮪など高級魚がたくさん獲れ,高品質な塩が生産されていたに違いないと感じます。
もう一首山部赤人が天平8年6月の聖武天皇が今の奈良県吉野に行幸したとき,同行して詠んだ吉野を礼賛する反歌(長歌に併せた短歌)を紹介します。
神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ(6-1006)
<かむよよりよしののみやに ありがよひたかしらせるは やまかはをよみ>
<<神代の昔から吉野の宮に通い続けられ,ここに立派な宮を建てられ治めてこられたのは山と川が素晴らしいからなのですね>>
吉野は奈良盆地(大和盆地)の南の山間地で,この行幸のように天皇の夏の避暑地として離宮を造営していたのだろうと想像できます。川は吉野川(現在では「紀の川」の上流になる奈良県内の通称)の清流であり,当時から風光明媚だったのでしょう。そして,吉野は万一地方で何か反乱があっても,すぐに京(奈良),難波(大阪),紀国(和歌山),伊勢(三重)に行ける要所であったと私は考えます。
こういう場所をいくつも天皇が統治し,豊かな物資や情報を流通させ,その価値を民に知らしめることでヤマトの国を統一していったのでしょうか。
さて,今回の最後は大伴家持が大伴氏の功名を世の中に知らしめよと詠んだ反歌を紹介します。
大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく(18-4096)
<おほとものとほつかむおやの おくつきはしるくしめたて ひとのしるべく>
<<大伴氏の遠い神代からの祖先の墓所には,はっきりと標を立てよ。世の人々が大伴氏の墓と知るように>>
これは,家持が越中に赴任中,陸奥で黄金の鉱脈が見つかったという知らせを聞いて詠んだ長歌の反歌です。当時,大仏建立で大仏を黄金に飾るための金が不足していたときであったので,大伴氏が所轄している陸奥で大量の金が産出できることが分かり,家持は大伴氏の手柄を世に知らしめたかったのだろうと私は感じます。
「知らしめる」ということは,世の人に権威,威厳,威光を伝え,反抗したり,けなしたりすると大変なこと,良くないことになるぞというニュアンスを含んでいるように感じます。
次は現代の表現の仕方で「知らない」という表現を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(3)に続く。
2013年9月29日日曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「さやけし」
暑い夏も終わり,ようやく爽やかな秋空を満喫できる季節になりましたね。
これから紅葉が落ち,森林の中が明るくなる12月中旬頃まで,私の気持ちも爽やかになることが多い季節です。また,空気も比較的澄んで月の明るさも夏より強く鮮明に感じられます。
今回取り上げる万葉集における「さやけし」は,まさに中秋の名月のようにクリアな輝きやクリアに感じる音に使う言葉のようです。
「さやけし」が詠まれている万葉集の中で,なんといっても有名なのは中大兄皇子(後の天智天皇)が詠んだ次の短歌でしょうか。
海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ(1-15)
<わたつみのとよはたくもに いりひさしこよひのつくよ さやけくありこそ>
<<海神を護衛するような豊旗雲に入日がさしています。今夜の月はさやかであってほしいものだ>>
この短歌は,有名な大和三山を詠んだ皇子の長歌に続く反歌2首の内の後の方の1首です。前の方の1首は長歌との関係がしっかりあるのですが,この反歌はまったく無関係に感じられます。実は,この短歌の左注にも無関係な内容だと書かれています。
入日がさしているため,西方は雲がないことを意味します。暦や時に興味を持っていたといわれる天智天皇は天気は西から変わることも知っていたのかもしれません。だとすると,雲が無く月が「さやか」であることを期待している皇子にとってその予兆を探したところ,日の入りの光がさしていることがその予兆だと詠んだのかもしれません。また,月がさやかであると船の航行もでき,旅が進むことも考えられます。
万葉集で「さやけし」の対象としてこの「月夜」のほかに「磯波」「海岸」「川」「川音」「川瀬」「鹿の声」「瀬音」「月」「波音」「山川」「小川」などが出てきます。これを見ると,水に関する者が大半を占めています。それも,見るだけでなく,聞くことも対象になっています。日本人は昔から川や海の水は切っても切れない関係であるだけでなく,美しい水の動きや水の音と接することで心さわやかに感じるのが自然のようだと私は思います。
さて,次は海岸の美しさを「さやけし」と舎人娘子(とねりのをとめ)という女官が持統天皇の伊勢行幸のとき詠んだ短歌です。
大丈夫のさつ矢手挟み立ち向ひ射る圓方は見るにさやけし(1-61)
<ますらをのさつやたばさみ たちむかひいるまとかたは みるにさやけし>
<<勇士がさつ矢を手に挟み立ち向かい射抜く的(まと)。その円(まと)方の浜は目にも鮮やかに美しい>>
この海岸は伊勢国にあった弓矢の的のように整った円形をした海岸があり,それが非常に美しかったと感じたのでしょうか。
次は別の対象に対して大伴家持が「さやけし」を詠んだ短歌です。
剣太刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ(20-4467)
<つるぎたちいよよとぐべし いにしへゆさやけくおひて きにしそのなぞ>
<<ますます磨ぎ澄ませてください。(あなたの姓は)遥か昔から清らかに責任を果たしてきたまさにその氏名(うじな)なのですよ>>
この短歌はこのブログで2010年9月25日の投稿でも紹介したものです。
この短歌の左注には,淡海真人三船(あふみのまひとみふね)の讒言(ざんげん)によって、出雲守(いづものかみ)大伴古慈斐宿禰(おほとものこじひのすくね)宿禰が任を解かれる。この事実を知って家持この歌を作る(天平勝宝8(756)年6月17日作)とあります。家持は古慈斐に対して,今まで順調に昇進してきたが,今回の解任に対してやけにならずに栄光ある大伴氏の名を汚さないよう,自分を磨いて,自制した行動をしてほしいと思ったのかもしれません。
その後の古慈斐は家持のこの短歌により,苦しい状況でも我慢して慎重な行動をとったためか,光仁天皇時代には従三位まで行き,公家の仲間入りを果たした記録されています。
組織の中で自分を陥れるようなことをされたとき,「倍返しをしてやるぞ」と戦うのも一つのやり方かもしれません。ただ,組織人として努力した行動を冷静に継続し,じっくりとチャンスを待つのも正しい行動様式だとこの短歌から私は思うのです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「悔(くや)し」に続く。
これから紅葉が落ち,森林の中が明るくなる12月中旬頃まで,私の気持ちも爽やかになることが多い季節です。また,空気も比較的澄んで月の明るさも夏より強く鮮明に感じられます。
今回取り上げる万葉集における「さやけし」は,まさに中秋の名月のようにクリアな輝きやクリアに感じる音に使う言葉のようです。
「さやけし」が詠まれている万葉集の中で,なんといっても有名なのは中大兄皇子(後の天智天皇)が詠んだ次の短歌でしょうか。
海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ(1-15)
<わたつみのとよはたくもに いりひさしこよひのつくよ さやけくありこそ>
<<海神を護衛するような豊旗雲に入日がさしています。今夜の月はさやかであってほしいものだ>>
この短歌は,有名な大和三山を詠んだ皇子の長歌に続く反歌2首の内の後の方の1首です。前の方の1首は長歌との関係がしっかりあるのですが,この反歌はまったく無関係に感じられます。実は,この短歌の左注にも無関係な内容だと書かれています。
入日がさしているため,西方は雲がないことを意味します。暦や時に興味を持っていたといわれる天智天皇は天気は西から変わることも知っていたのかもしれません。だとすると,雲が無く月が「さやか」であることを期待している皇子にとってその予兆を探したところ,日の入りの光がさしていることがその予兆だと詠んだのかもしれません。また,月がさやかであると船の航行もでき,旅が進むことも考えられます。
万葉集で「さやけし」の対象としてこの「月夜」のほかに「磯波」「海岸」「川」「川音」「川瀬」「鹿の声」「瀬音」「月」「波音」「山川」「小川」などが出てきます。これを見ると,水に関する者が大半を占めています。それも,見るだけでなく,聞くことも対象になっています。日本人は昔から川や海の水は切っても切れない関係であるだけでなく,美しい水の動きや水の音と接することで心さわやかに感じるのが自然のようだと私は思います。
さて,次は海岸の美しさを「さやけし」と舎人娘子(とねりのをとめ)という女官が持統天皇の伊勢行幸のとき詠んだ短歌です。
大丈夫のさつ矢手挟み立ち向ひ射る圓方は見るにさやけし(1-61)
<ますらをのさつやたばさみ たちむかひいるまとかたは みるにさやけし>
<<勇士がさつ矢を手に挟み立ち向かい射抜く的(まと)。その円(まと)方の浜は目にも鮮やかに美しい>>
この海岸は伊勢国にあった弓矢の的のように整った円形をした海岸があり,それが非常に美しかったと感じたのでしょうか。
次は別の対象に対して大伴家持が「さやけし」を詠んだ短歌です。
剣太刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ(20-4467)
<つるぎたちいよよとぐべし いにしへゆさやけくおひて きにしそのなぞ>
<<ますます磨ぎ澄ませてください。(あなたの姓は)遥か昔から清らかに責任を果たしてきたまさにその氏名(うじな)なのですよ>>
この短歌はこのブログで2010年9月25日の投稿でも紹介したものです。
この短歌の左注には,淡海真人三船(あふみのまひとみふね)の讒言(ざんげん)によって、出雲守(いづものかみ)大伴古慈斐宿禰(おほとものこじひのすくね)宿禰が任を解かれる。この事実を知って家持この歌を作る(天平勝宝8(756)年6月17日作)とあります。家持は古慈斐に対して,今まで順調に昇進してきたが,今回の解任に対してやけにならずに栄光ある大伴氏の名を汚さないよう,自分を磨いて,自制した行動をしてほしいと思ったのかもしれません。
その後の古慈斐は家持のこの短歌により,苦しい状況でも我慢して慎重な行動をとったためか,光仁天皇時代には従三位まで行き,公家の仲間入りを果たした記録されています。
組織の中で自分を陥れるようなことをされたとき,「倍返しをしてやるぞ」と戦うのも一つのやり方かもしれません。ただ,組織人として努力した行動を冷静に継続し,じっくりとチャンスを待つのも正しい行動様式だとこの短歌から私は思うのです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「悔(くや)し」に続く。
2013年7月20日土曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「なつかし」
私のように年齢を重ねると最近次のような経験で「懐かしい」と感じることが多くあります。
・ BSで放送された「二十四の瞳」を久しぶりに観た。
・ 10何年以上前,勤務先近くで頻繁に通っていたが事業所が変わりその後行かなくなった飲み屋に久しぶりに行ってみた。
・ 名神高速道路(一部)が最初に開通して50年という記事を読み,58年10月京都市山科区(当時京都市東山区山科)蚊ヶ瀬で行われた起工式に,会場のすぐそばまでちっちゃな自転車に乗って見物に行ったことを思い出した。
さて,本題の万葉集ですが,「なつかし」を詠んだ和歌が18首ほどでてきます。その中で「なつかし」の対象となるものは,次のようにいろいろあります。
秋の山辺,秋山の色,梅の花,君,木の葉,妻,妻の子,鳥の鳴き声,鳥の初声,野原, 藤波の花,山,我妹。
万葉集で出てくる「なつかし」の意味は,現代のようにかなり遠い過去の「思い出」と強く結びつく言葉だけではなかったようです。例を見てみましょう。
さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし(19-4181)
<さよふけてあかときつきに かげみえてなくほととぎす きけばなつかし>
<<夜が更けて夜明け前の月に姿を見せて鳴くほととぎすの鳴き声を聞くと心がを癒される>>
この短歌は大伴家持が越中で詠んだ1首です。家持は前の晩からストレスか悩みで眠れなかったのでしょうか。でも,夜明け前に「キキョ,キキョ」とホトトギスの鳴き声で心静かになったようです。ここの「なつかし」は「心が和む」「心が癒される」といった意味になりそうです。
次の1首は柿本人麻呂歌集から万葉集に転載したという詠み人知らずの短歌です。
見れど飽かぬ人国山の木の葉をし我が心からなつかしみ思ふ(7-1305)
<みれどあかぬひとくにやまの このはをしわがこころから なつかしみおもふ>
<<ずっと見ていたい人国山(故郷)の木の葉(人たち)のことを心から慕わしく思っています>>
ここでの「なつかし」は「人を慕う」という意味かと思います。次は,大伴家持が越中赴任後1年ほどした天平19年,平城京に一時的に帰って状況を報告するため,越中を出発する前,盟友の大伴池主が家持に贈った長歌の反歌です。
玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ(17-4009)
<たまほこのみちのかみたち まひはせむあがおもふきみを なつかしみせよ>
<<道の神たちよ,賽物(さいもつ)を捧げましょう。私が慕っている家持殿を親しみをもって迎えてください>>
この「なつかし」も,その前の2首とはニュアンスが少し異なっいると私は感じます。最後は,大宰府で大伴旅人がホストとなり,大勢のゲストを集めた梅見の宴(天平2年春開催)でゲストのひとりの小野氏淡理(をののうぢのたもり,小野田守)が詠んだ短歌です。
霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも(5-846)
<かすみたつながきはるひを かざせれどいやなつかしき うめのはなかも>
<<霞立つ長い春の日をかざしていても,(飽きることなく)ますます心がひかれる梅の花ですね>>
梅が咲くころ,日照時間が冬至の頃と比べて長くなってきます。そんな柔らかい春の日がずっと当たっていても,梅の花はどうしてこんなに魅力的なのかという気持ちを詠いあげています。このとき「なつかし」という形容詞がこの短歌における表現のキーワードになっていると私は感じます。
この年,旅人は6年間務めた大宰府長官の任を解かれ,「懐かしい」平城京に戻るのです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「まく欲し」に続く。
・ BSで放送された「二十四の瞳」を久しぶりに観た。
・ 10何年以上前,勤務先近くで頻繁に通っていたが事業所が変わりその後行かなくなった飲み屋に久しぶりに行ってみた。
・ 名神高速道路(一部)が最初に開通して50年という記事を読み,58年10月京都市山科区(当時京都市東山区山科)蚊ヶ瀬で行われた起工式に,会場のすぐそばまでちっちゃな自転車に乗って見物に行ったことを思い出した。
さて,本題の万葉集ですが,「なつかし」を詠んだ和歌が18首ほどでてきます。その中で「なつかし」の対象となるものは,次のようにいろいろあります。
秋の山辺,秋山の色,梅の花,君,木の葉,妻,妻の子,鳥の鳴き声,鳥の初声,野原, 藤波の花,山,我妹。
万葉集で出てくる「なつかし」の意味は,現代のようにかなり遠い過去の「思い出」と強く結びつく言葉だけではなかったようです。例を見てみましょう。
さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし(19-4181)
<さよふけてあかときつきに かげみえてなくほととぎす きけばなつかし>
<<夜が更けて夜明け前の月に姿を見せて鳴くほととぎすの鳴き声を聞くと心がを癒される>>
この短歌は大伴家持が越中で詠んだ1首です。家持は前の晩からストレスか悩みで眠れなかったのでしょうか。でも,夜明け前に「キキョ,キキョ」とホトトギスの鳴き声で心静かになったようです。ここの「なつかし」は「心が和む」「心が癒される」といった意味になりそうです。
次の1首は柿本人麻呂歌集から万葉集に転載したという詠み人知らずの短歌です。
見れど飽かぬ人国山の木の葉をし我が心からなつかしみ思ふ(7-1305)
<みれどあかぬひとくにやまの このはをしわがこころから なつかしみおもふ>
<<ずっと見ていたい人国山(故郷)の木の葉(人たち)のことを心から慕わしく思っています>>
ここでの「なつかし」は「人を慕う」という意味かと思います。次は,大伴家持が越中赴任後1年ほどした天平19年,平城京に一時的に帰って状況を報告するため,越中を出発する前,盟友の大伴池主が家持に贈った長歌の反歌です。
玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ(17-4009)
<たまほこのみちのかみたち まひはせむあがおもふきみを なつかしみせよ>
<<道の神たちよ,賽物(さいもつ)を捧げましょう。私が慕っている家持殿を親しみをもって迎えてください>>
この「なつかし」も,その前の2首とはニュアンスが少し異なっいると私は感じます。最後は,大宰府で大伴旅人がホストとなり,大勢のゲストを集めた梅見の宴(天平2年春開催)でゲストのひとりの小野氏淡理(をののうぢのたもり,小野田守)が詠んだ短歌です。
霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも(5-846)
<かすみたつながきはるひを かざせれどいやなつかしき うめのはなかも>
<<霞立つ長い春の日をかざしていても,(飽きることなく)ますます心がひかれる梅の花ですね>>
梅が咲くころ,日照時間が冬至の頃と比べて長くなってきます。そんな柔らかい春の日がずっと当たっていても,梅の花はどうしてこんなに魅力的なのかという気持ちを詠いあげています。このとき「なつかし」という形容詞がこの短歌における表現のキーワードになっていると私は感じます。
この年,旅人は6年間務めた大宰府長官の任を解かれ,「懐かしい」平城京に戻るのです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「まく欲し」に続く。
2013年5月14日火曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「うるはし」
<枕草子から>
「~ 夏は夜 月の頃はさらなり 闇もなほ螢飛びちがひたる 雨など降るもをかし ~ まして雁などのつらねたるが いと小さく見ゆる いとをかし ~ 昼になりてぬるくゆるびもていけば 炭櫃火桶の火も白き灰がちになりぬるはわろし」
これは,平安時代に清少納言(せいせうなごん)が書いたといわれる「枕草子(まくらのさうし)」の一段から引用(一部略)したものです。枕草子では「をかし」「わろし」などある出来事や情景を見て,作者が感じたさまざまな気持ちを表す形容詞が出てきます。
枕草子の他の段を少し見ると同様の形容詞として,つきづきし,くるし,みぐるし,こころくるし,はえばえし,ねたし,まがまがし,たのもし,かしこし,よし,あし,にくし,うつくし,たどたどし,あやし,めでたし,めずらし,たのもし,いとほし,はらだたし,ねたし,おそろし,すきずきし,かしこし,うれし,うしろめたし,さうざうし,ひさし,あさまし,わびし,ゆゆし,このもし,わりなし,ともし などが出てきます。
<万葉集に出てくる心情として感じる形容詞を見る>
万葉集にもこういったヒトが心情として感じる形容詞は多くあるのでしょうか。私が少し調べたところでは200種類ほどの形容詞が万葉集に出てきています。その中で,ヒトが感じる(心が動く)形容詞は少なくとも50以上はあると私は見ています。
本シリーズでは,このブログで過去投稿した対語シリーズで取り上げたものを以外で,万葉集に出てくる心が動いたことを示す形容詞を取り上げていきます。
今回は,そのトップバッターは「うるはし」です。現代でも「麗(うるわ)しい」という言葉は,「ご機嫌麗しい」「見目麗しい女性」などと使います。
さて,万葉集で「うるはし」は15首あまりで出てきます。いくつか例を出します。
恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長くと思はば(4-661)
<こひこひてあへるときだに うるはしきことつくしてよ ながくとおもはば>
<<恋して恋して逢えた時くらいは私が喜ぶ言葉をありったけ言い尽くしてくださいな。これからも二人の仲を長く続けようと思ってくださるなら>>
この短歌は大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)が詠んだ,大伴駿河麻呂(おほとものするがまろ)への相聞歌の1首です。女性は恋しい人(特に男性)から「大好き」「いつも一緒いたい」などという言葉(愛しき言)を何度でも言ってほしいという気持ちは今も昔も変わらないようですね。
さ百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ(18-4088)
<さゆりばなゆりもあはむと おもへこそいまのまさかも うるはしみすれ>
<<百合の花の名のように後々もお会いしようと思うものですから,今この時こそ誠心誠意お接ししているのですよ>>
この短歌は大伴家持が天平感宝元(749)年5月9日,越中国府の下級役人秦忌寸石竹(はだのいみきいはたけ)の自宅で催された宴の席で詠んだ1首です。
「ゆり」は同音で「後程」という意味があり,家持はそれを掛けてこの短歌を詠んだのです。「うるはしみすれ」の「み」は形容詞を名詞化する接尾語です。「すれ」は使役を表す助動詞「す」の已然形で,正しく親密な間柄でいることが必要という意味を伝えているようです。
最後は,分かりやすい詠み人知らずの短歌です。
朝寝髪我れは梳らじうるはしき君が手枕触れてしものを(11-2578)
<あさねがみわれはけづらじ うるはしききみがたまくら ふれてしものを>
<<朝眠りから覚めたときのみだれ髪に私は櫛を通しません。愛しているあなた様の腕が枕になって触れたものですから>>
妻問いが終わって,夫が帰り,翌朝の妻の情景が浮かびます。この短歌を夫に贈り,お互いの愛情をさらに確かめ合ったのかもしれませんね。これらを見て万葉時代「うるはし」はかなり広くポジティブな意味を持つ形容詞だったようだと私は感じます。
こんな形容詞で表現される人間になりたいものですね。完全に「時すでに遅し」ですが。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「かぐはし」に続く。
「~ 夏は夜 月の頃はさらなり 闇もなほ螢飛びちがひたる 雨など降るもをかし ~ まして雁などのつらねたるが いと小さく見ゆる いとをかし ~ 昼になりてぬるくゆるびもていけば 炭櫃火桶の火も白き灰がちになりぬるはわろし」
これは,平安時代に清少納言(せいせうなごん)が書いたといわれる「枕草子(まくらのさうし)」の一段から引用(一部略)したものです。枕草子では「をかし」「わろし」などある出来事や情景を見て,作者が感じたさまざまな気持ちを表す形容詞が出てきます。
枕草子の他の段を少し見ると同様の形容詞として,つきづきし,くるし,みぐるし,こころくるし,はえばえし,ねたし,まがまがし,たのもし,かしこし,よし,あし,にくし,うつくし,たどたどし,あやし,めでたし,めずらし,たのもし,いとほし,はらだたし,ねたし,おそろし,すきずきし,かしこし,うれし,うしろめたし,さうざうし,ひさし,あさまし,わびし,ゆゆし,このもし,わりなし,ともし などが出てきます。
<万葉集に出てくる心情として感じる形容詞を見る>
万葉集にもこういったヒトが心情として感じる形容詞は多くあるのでしょうか。私が少し調べたところでは200種類ほどの形容詞が万葉集に出てきています。その中で,ヒトが感じる(心が動く)形容詞は少なくとも50以上はあると私は見ています。
本シリーズでは,このブログで過去投稿した対語シリーズで取り上げたものを以外で,万葉集に出てくる心が動いたことを示す形容詞を取り上げていきます。
今回は,そのトップバッターは「うるはし」です。現代でも「麗(うるわ)しい」という言葉は,「ご機嫌麗しい」「見目麗しい女性」などと使います。
さて,万葉集で「うるはし」は15首あまりで出てきます。いくつか例を出します。
恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長くと思はば(4-661)
<こひこひてあへるときだに うるはしきことつくしてよ ながくとおもはば>
<<恋して恋して逢えた時くらいは私が喜ぶ言葉をありったけ言い尽くしてくださいな。これからも二人の仲を長く続けようと思ってくださるなら>>
この短歌は大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)が詠んだ,大伴駿河麻呂(おほとものするがまろ)への相聞歌の1首です。女性は恋しい人(特に男性)から「大好き」「いつも一緒いたい」などという言葉(愛しき言)を何度でも言ってほしいという気持ちは今も昔も変わらないようですね。
さ百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ(18-4088)
<さゆりばなゆりもあはむと おもへこそいまのまさかも うるはしみすれ>
<<百合の花の名のように後々もお会いしようと思うものですから,今この時こそ誠心誠意お接ししているのですよ>>
この短歌は大伴家持が天平感宝元(749)年5月9日,越中国府の下級役人秦忌寸石竹(はだのいみきいはたけ)の自宅で催された宴の席で詠んだ1首です。
「ゆり」は同音で「後程」という意味があり,家持はそれを掛けてこの短歌を詠んだのです。「うるはしみすれ」の「み」は形容詞を名詞化する接尾語です。「すれ」は使役を表す助動詞「す」の已然形で,正しく親密な間柄でいることが必要という意味を伝えているようです。
最後は,分かりやすい詠み人知らずの短歌です。
朝寝髪我れは梳らじうるはしき君が手枕触れてしものを(11-2578)
<あさねがみわれはけづらじ うるはしききみがたまくら ふれてしものを>
<<朝眠りから覚めたときのみだれ髪に私は櫛を通しません。愛しているあなた様の腕が枕になって触れたものですから>>
妻問いが終わって,夫が帰り,翌朝の妻の情景が浮かびます。この短歌を夫に贈り,お互いの愛情をさらに確かめ合ったのかもしれませんね。これらを見て万葉時代「うるはし」はかなり広くポジティブな意味を持つ形容詞だったようだと私は感じます。
こんな形容詞で表現される人間になりたいものですね。完全に「時すでに遅し」ですが。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「かぐはし」に続く。
2013年1月2日水曜日
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(2)」
元旦にアップした昨日の「万葉集:新春の和歌(1)」には,さっそく多くのアクセスがありました。ありがたいことです。
さて,大伴家持は,前回紹介した以外に越中で何首か新春の短歌を詠んでいますので,紹介します。
家持着任3年半が立った天平勝宝2(750)年1月2日に,越中の諸郡司を集めた宴席で詠んだ新春の短歌からです。
あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ(18-4136)
<あしひきのやまのこぬれの ほよとりてかざしつらくは ちとせほくとぞ>
<<山の木の梢に生えている寄生木を取って髪飾りにしたのは,お集まりの皆様の千年の長寿を願ってのことです>>
家持は頭に当時「ほよ」よばれていた寄生木(ヤドリギ)の枝を頭に挿して現れたのでしょう。参加者は奇抜な家持の姿に驚いたところで,この短歌を詠んだと私は想像します。いつもと同じ格好では,聞く方も義務的になります。こんな演出も越中の郡司達にはウケたのかも知れませんね。
次は,同年1月5日に,越中国主家持の片腕である越中掾(じょう:判官)の久米廣縄(くめのひろなは)の館で開催された宴で家持が詠んだ短歌です。
正月立つ春の初めにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも(18-4137)
<むつきたつはるのはじめに かくしつつあひしゑみてば ときじけめやも>
<< 正月の春の初め,このように共に笑い合えば,いつも良い気持ちになれるでしょう>>
万葉時代の役人は新年会を楽しみにしていたのですね。私も会社が始まったら,すぐ新年会を提案してみることにしましょう。
次は翌年の天平勝宝3(751)年1月3日に越中国府の介(すけ:次官)の内蔵縄麻呂(くらのなはまろ)の館で開催された宴に到着した家持が詠んだ1首です。
降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに(18-4230)
<ふるゆきをこしになづみて まゐてこししるしもあるか としのはじめに>
<<降り積もった雪に腰までうずまりながら参上した甲斐がきっとあるでしょう,年の初めに>>
家持は到着が少し遅れたのでしょう。言い訳がましい内容です。
そして,その宴会は夜通し行われたのでしょうか。鶏がしきりに鳴き始めました。そこで,家持がそろそろ失礼したいとでも言ったのでしょう。主人の縄麻呂は「大雪ですから」と引き留める短歌を詠みます。
それに対して家持は即座に了解の返歌をします。
鳴く鶏はいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそ我が立ちかてね(18-4234)
<なくとりはいやしきなけど ふるゆきのちへにつめこそ わがたちかてね>
<<鳴いている鶏はいっそう頻りに鳴くけれど,降り続く雪が千重(数が多く)に積もるので私たちは立ち去れないですね>>
いいですね。呑みつづける言い訳を見つけては宴を続けられることができるなんてね。
ただ,厨房で縄麻呂の奥さんや使いの人たちは「早く終わらないかな~」と首を長くしている様子が想像できますね。
今,東北の日本海側では暴風雪警報が出ているところがあるようです。その地域にお住みの方は外に出ず,家でお酒を飲んでいる方が安心かもしれませんね。ただ,正月だからと言って呑みすぎないように気を付けてください。ご家族にかなり迷惑を掛けていることも考えられますから。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(3)」に続く。
さて,大伴家持は,前回紹介した以外に越中で何首か新春の短歌を詠んでいますので,紹介します。
家持着任3年半が立った天平勝宝2(750)年1月2日に,越中の諸郡司を集めた宴席で詠んだ新春の短歌からです。
あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ(18-4136)
<あしひきのやまのこぬれの ほよとりてかざしつらくは ちとせほくとぞ>
<<山の木の梢に生えている寄生木を取って髪飾りにしたのは,お集まりの皆様の千年の長寿を願ってのことです>>
家持は頭に当時「ほよ」よばれていた寄生木(ヤドリギ)の枝を頭に挿して現れたのでしょう。参加者は奇抜な家持の姿に驚いたところで,この短歌を詠んだと私は想像します。いつもと同じ格好では,聞く方も義務的になります。こんな演出も越中の郡司達にはウケたのかも知れませんね。
次は,同年1月5日に,越中国主家持の片腕である越中掾(じょう:判官)の久米廣縄(くめのひろなは)の館で開催された宴で家持が詠んだ短歌です。
正月立つ春の初めにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも(18-4137)
<むつきたつはるのはじめに かくしつつあひしゑみてば ときじけめやも>
<< 正月の春の初め,このように共に笑い合えば,いつも良い気持ちになれるでしょう>>
万葉時代の役人は新年会を楽しみにしていたのですね。私も会社が始まったら,すぐ新年会を提案してみることにしましょう。
次は翌年の天平勝宝3(751)年1月3日に越中国府の介(すけ:次官)の内蔵縄麻呂(くらのなはまろ)の館で開催された宴に到着した家持が詠んだ1首です。
降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに(18-4230)
<ふるゆきをこしになづみて まゐてこししるしもあるか としのはじめに>
<<降り積もった雪に腰までうずまりながら参上した甲斐がきっとあるでしょう,年の初めに>>
家持は到着が少し遅れたのでしょう。言い訳がましい内容です。
そして,その宴会は夜通し行われたのでしょうか。鶏がしきりに鳴き始めました。そこで,家持がそろそろ失礼したいとでも言ったのでしょう。主人の縄麻呂は「大雪ですから」と引き留める短歌を詠みます。
それに対して家持は即座に了解の返歌をします。
鳴く鶏はいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそ我が立ちかてね(18-4234)
<なくとりはいやしきなけど ふるゆきのちへにつめこそ わがたちかてね>
<<鳴いている鶏はいっそう頻りに鳴くけれど,降り続く雪が千重(数が多く)に積もるので私たちは立ち去れないですね>>
いいですね。呑みつづける言い訳を見つけては宴を続けられることができるなんてね。
ただ,厨房で縄麻呂の奥さんや使いの人たちは「早く終わらないかな~」と首を長くしている様子が想像できますね。
今,東北の日本海側では暴風雪警報が出ているところがあるようです。その地域にお住みの方は外に出ず,家でお酒を飲んでいる方が安心かもしれませんね。ただ,正月だからと言って呑みすぎないように気を付けてください。ご家族にかなり迷惑を掛けていることも考えられますから。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(3)」に続く。
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