ラベル 四季 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 四季 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年1月3日日曜日

400回記念スペシャル(3:まとめ)…2016年も「爆買い」期待?

正月休みもあっという間に終わり,明日からは私の専門職であるソフトウェア保守開発の職場に向かいます。正月は担当システムで正常でないことが起これば携帯電話に連絡が入り,自宅から関係者に連絡をする手配を用意していました。今年の3ヶ日は,システムすべて正常に動作したようで,気持ちよく出勤ができそうです。
400回記念スペシャルも今回が最後で,次からはまた「今もあるリーズ」に戻ります。
今回は,勝手ながらまず今年の予測をしてみたいと思います。
(1)企業の業績
今年の景気は良さそうだという予測がいくつかのメディアから出ています。
私もそう思いますが,来年4月の消費税率を8%から10%へアップする前の駆け込み需要を割り引いて考えないといけないのかなと思います。
来年は4月以降景気が凹む恐れを考える必要がありそうですね。
(2)街角景気
非正規社員が減り,正規社員が増えるようなことはそれほど期待できないと思います。理由は自動化やロボット化が進み,ヒトが今まで担当していた定型業務をロボットや機械が代替できる分野がひろがる,またITC(情報通信技術)によりネットショップがさらに拡大し,店舗従業員や営業担当者が不要となるビジネスが広がると予測できるからです。
一般論として,景気が良くなると企業は儲かったお金を従業員を増やすことよりも,従業員を増やさずに業績を伸ばすこと(機械設備)に投資する傾向があるためです。また,ITCが急速に進展する今の時代,全企業トータルの業績が伸びても,大きく伸ばす会社と競争に負けて業績を落とす会社の格差が大きくなることも考えられます。ある企業が一人勝ちのような産業の場合,その他の企業では従業員の削減を行う企業が出る場合も考えられます。
(3)明るい予測
暗いことばかりでなく,明るい話をすると外国人訪日旅行客(インバウンド)が今まで以上に増えそうだということです。まだ日本観光局(http://www.jnto.go.jp/jpn/)から発表はありませんが,昨年(2015年)は恐らく2,000万人に近い外国の人が日本を訪問したと思われます。2014年の同実績が1,200万人余りですから,その伸び方は半端ではありませんでした。
今年もさらに伸びると私は予測します。なぜなら,昨年訪日した外国の人たちがTwitterやFacebookなどのSNS,旅行情報サイトなどの口コミに概ねポジティブな評価を次々とアップしているからです。それを見た日本を訪問したことのない人は「次は日本に行こう」,既に日本を訪問した人は「日本の別の場所に行ってみよう」という気持ちになると考えられます。
それと2,000万人というのはすごく大きな数字のようですが,香港やマレーシアを訪れるその国以外の人数より,まだまだ少ない数なのです。日本は香港の350倍近い面積があります。そして,日本には香港に様な気候の場所もあれば,冬には香港ではまず見ることができない天然の雪に必ず接することができる場所があります。日本が今までいかに外国人観光客に対して閉鎖的だったか分かります。
ただ,これからはインバウンド数を増やしていくだけでなく,リピート訪問率を如何に増やすかがポイントとなるでしょう。「爆買い」を期待することは二の次にして,日本にしかないものと,日本に来て癒されると感じるものを増やしていく努力が必要だと私は思います。
そのためには,外国語の研究も必要でしょう。訪れた人たちの母国語で,上から目線ではなく,聞き心地の良い言葉でまず迎えることが必要だと私は思います。それがないと日本の本当の良さを相手に理解されず,単なる押し付けになってしまいます。私も海外に何度か旅行に行っていますが,現地観光ガイドが日本語は上手くても,「日本よりすごいだろ」みたいな上から目線のガイドをする人に何人も会い,楽しめなかったことがありました。
日本の良さを説得するのではなく,感じとってもらうこと,発見してもらうこと,そして訪日客の質問に丁寧かつ正確に答えることができれば確実に日本及び日本人を好きになってもらえると私は思います。
私は万葉集に長く接することで,日本人の感性のルーツが何であるかを感じることが少しずつできてきいるような気がします。外国から来た方に日本をイメージしてもらうために紹介する万葉集の短歌としては,私は次の3首のいずれかなど,どうかなと思います
まず,日本の山を見て季節感をイメージしてもらうための1首です(現代語は意訳)。

春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも(10-2177)
<はるはもえなつはみどりに くれなゐのまだらにみゆる あきのやまかも>
<<日本には春は花がきれいに咲き,夏はみずみずしい緑一色になり,秋には紅葉のグラデーションが見事な山がいくつもありますよ>>

リアス式の海辺に小さな漁港が近くにある旅館や民宿(私は外国の人に是非泊まってほしいと思っています)。そこに泊まる人たちに勧めたいのが,次の遣新羅使が詠んだとされる1首です。

山の端に月傾けば漁りする海人の燈火沖になづさふ(15-3623)
<やまのはにつきかたぶけば いざりするあまのともしび おきになづさふ>
<<山の向こうに月が隠れると沖に漂う漁師の舟の明かりがよりはっきり見えますね>>

最後は,日本庭園を鑑賞する人たちに勧めたいのが,大伴家持が詠んだとされる1首です。

秋風の吹き扱き敷ける花の庭清き月夜に見れど飽かぬかも(20-4453)
<あきかぜのふきこきしける はなのにはきよきつくよに みれどあかぬかも>
<<秋風が吹いて散った花びらが敷き詰められた庭は,清らかな月の光を浴びて見飽きることがないのです>>

日本庭園を訪れる時が秋(新暦で夏も)でなくてもよいのです。昼間でも構いません。花は無くても,月が出ていない夜でもよいのです。今見ている日本庭園が夜,そして散った花が敷き詰められて,月が照らしている情景がどんなに美しいだろうとイメージしてもらうことが必要だと思います。
無いものを有るとしたときの変化,それを考えて(シミュレーションして)作られ日本庭園の奥深さを感じ取ってもらえれば,「また来たい」という気持ちになってもらえるかもしれません。
日本の四季は実は四つではありません。初春,早春,春真っ盛り,晩春,初夏,盛夏,真夏,挽夏,初秋,秋寒,晩秋,初冬,真冬,晩冬といった四季をさらに細かく分類するような言葉で季節の変化を日本人は感じ取っています。このほかにも立春,立夏,立秋,立冬などの24節季,さらに細かく分類した72候というの言葉があります。
24節季や72候は中国から伝来した分類方法が基になっているようですが,その後日本で作られた俳諧歳時記に載せられている季語は何と3,000位をあるとのことです。季節に関する言葉が昔からこれほど多い国は他国になく,それを日常としている日本人の細かい感性も比類がないと私は想像しますがいかがでしょうか。
今もあるシリーズ「鵜(う)」に続く。

2013年1月5日土曜日

年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(4:まとめ)」

昨日は会社に出ていてアップてきませんでした。そろそろお正月気分も抜けてきましたので,本シリーズは今回で終わり,次回から「今もあるシリーズ」に戻ります。
さて,万葉集の新春の和歌を完全踏破すると初回に書きましたが,新春の和歌は万葉集でたくさんあります。残った和歌は来年に回しますが,残りの多くは「梅」や「鶯」を詠んだものです。新暦の正月はさすがに両方とも早いので,今回はパスしました。「梅は花屋さんでもう売っているぞ」とお怒りの方ごめんなさい。
今回は本シリーズの最後として3首の短歌を紹介します。
これは天平勝宝6年1月4日に大伴家持(当時36歳)邸で行われた正月の宴で左兵衛督(さひやうゑのかみ)大伴千室(ちむろ),民部少丞(みんぶのしやうじょう)大伴村上(むらかみ),左京少進(さきやうのせうしん),大伴池主(いけぬし)が詠んだ短歌です。
家持は越中国主を無事終え,少納言に昇進していました。政治は橘諸兄の力が陰り始め,藤原仲麻呂の台頭が著しい時期です。仲麻呂は大伴氏をはじめとする諸兄派を衰退させようと策略を駆使してきます。
そんな時期に,大伴氏の各部署(軍部,民部,京職)にいる中堅官僚たちが家持邸に集まった訳ですから,どんな和歌を詠むか興味が尽きません。私は単なる賀春の歌ではないとにらみます。
まず,千室の短歌からです。

霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く(20-4298)
<しものうへにあられたばしり いやましにあれはまゐこむ としのをながく>
<<霜の上に霰が飛び散るとき,これまで増して私は家持殿のところに参ります,何年も>>

軍部に属していることもあるかも知れませんが,ちょっと悲壮感が漂いますね。それだけ,大伴氏の置かれている厳しい状況が伝わってきます。そんなときこそ大納言であった旅人の息子のリーダ格家持を中心に団結しようという千室決意を私は感じます。
次は,村上の短歌です。

年月は新た新たに相見れど我が思ふ君は飽き足らぬかも(20-4299)
<としつきはあらたあらたに あひみれどあがもふきみは あきだらぬかも>
<<年月は1年1年新たになり,こうして新年に繰り返しご挨拶しても私が大切に思う家持殿にはずっとお会いしたい気持ちはなくなりません>>

村上も家持の下での忠臣を誓います。
そして,最後は越中で家持が国主として赴任した最初頃,判官である掾(じやう)として一緒にいた池主の登場です。

霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとぞ思ふ(20-4300)
<かすみたつはるのはじめを けふのごとみむとおもへば たのしとぞもふ>
<<霞立つ初春に今日のようにご挨拶できると思えば楽しく思います>>

恐らく池主は千室,村上よりも年上で,家持の立場と気持ちを一番理解している人物だったと私は思います。越中では家持と多くの和歌を詠んだ仲ですから。
「まあまあ抑えて抑えて」と冷静な対応で進もうという池主の気持ちだったのでしょう。ただ,大伴氏や家持を守るためには命を賭しても構わないという秘めたる気持ちは家持の盟友池主が一番だったと私は思います。
これに対して家持は主人としての返歌を万葉集に残していません。普通なら残すはずです。詠ったけれど残さなかったのか,詠わず自分の意思を示さなかったのか,謎は尽きません。
私は詠ったけれど残さなかった方に掛けます。その残されなかった短歌が,3年後に勃発する橘奈良麻呂(橘諸兄の息子)の乱でこの中の何人が命を落とすことを防ぐことができなかったことがあったかもしれないからです。
家持は,その乱以降は様々な宴(藤原仲麻呂が主導した宴?)の歌を万葉集に残します。
乱の翌年7月,今度は家持が因幡国主として京を離れ,翌年元旦に本シリーズの冒頭に示したいろいろな思い(祈り)を込めた初春の短歌(20-4516)を最後に和歌の記録を閉じるのです。
今もあるシリーズ「市(いち)」に続く。

2013年1月3日木曜日

年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(3)」

あっという間に正月3が日も過ぎようとしています。それでは,さっそく万葉集新春の和歌の3回目に入ります。
今回は,天平16(744)年の1月5日と11日に詠まれた短歌を紹介しましょう。どれも元旦から少し過ぎていますが,新年の祝いの歌です。

我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ(6-1041)
<わがやどの きみまつのきにふるゆきの ゆきにはゆかじまちにしまたむ>
<<私の家の貴殿を待つ松の木に降る雪ですが,私は雪のように行くのではなく,松の木ように貴殿をずっとお待ちしましょう>>

この短歌は,久邇(くに)京(恭仁京とも書く)にある安倍虫麻呂(あべのむしまろ)邸で開かれた宴席の出席者のひとりが詠んだとあります。
松は古来長寿を象徴する木として尊ばれていたようで,新年の縁起の良い木として和歌でもよく詠まれるようです。今回はこの宴にお招きを受けたので,次はぜひ自分の家に来てくださることをお待ちしていますといった背景で詠まれた短歌でしょうか。
久邇京は新しく作られた都ですから,きっと住んでいる人の家や庭はみな新しく,きれいだったと私は想像します。自分の家や庭を見せたかったのかもしれませんね。
次の2首は1月11日に詠まれたとされているやはり松を詠んだ短歌です。

一つ松幾代か経ぬる吹く風の音の清きは年深みかも(6-1042)
<ひとつまついくよかへぬる ふくかぜのおとのきよきは としふかみかも>
<<一本松よ,何世代を経たのか。吹く風の音が清らかなのは齢を重ねて来たからなのだろう>>

この短歌は市原王(いちはらのおほきみ)が久邇京の活道(いくぢ)の岡に登って一株の松の下(もと)に集い,宴を開いたときに詠んだとされています。季節はまだ寒い時期ですからさすがに野外で宴をしたとは考えにくいので,一本松が見える近くの館で行ったのでしょう。
松の老木を題材にしていますが,出席者の中には年配の主賓がいて,その人を意識して詠んだのかもしれません。なお,一説には安積親王(当時:16歳)の長寿を願ってという説もあるようですが,この宴と安積親王無関係だろうと私は考えています。風の音が清いという喩えで,年を重ねるごとに尊敬の念が高くなるお人柄になっていかれると持ち上げているように私には感じ取れます。
次に同じ宴席にいた大伴家持(当時:26歳)が続けます。

たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ(6-1043)
<たまきはるいのちはしらず まつがえをむすぶこころは ながくとぞおもふ>
<<この一本松の命の長さは不明ですが,松の枝を結ぶ心は長く続いて欲しいと思います>>

当時,松の枝を結ぶまじないは,(命,恋人の関係,幸せなどが)長い間続くことを願う場合にしたようです。
ただ,万葉人は命も,幸せなことも,ときめく恋もいつまでも続かないことを知っていたと私は思います。だからこそ,万葉人は祈るのです。願うのです。
<祈るとは>
人がどうにもならないことを知ったとき,祈ることが必要だと私は思います。祈ることができない人は,うまくいかないことを他人のせいにしたり,自分のせいにしたりして,自分も含めた人間嫌いになる方向に向ってしまう気がします。
他人のせいでも,自分のせいでもないことが世の中にはある。それを「運」と呼ぶことにすると,「運」は確率的な事象といえます。良い運がより多くなるように,そして悪い運がよく少なくなるよう努力する。それでも悪い運が発生する確率をゼロにすることはできないのです。逆に,運悪く悪い出来事が続いても,次も悪い事象が来る確率は1(必ず悪い事象が発生する)ではないのです。
祈るとは,良い運がより多くなるよう努力し,その結果がその通りなってほしい(そうならない可能性がゼロではないから)と願うことだと私は思います。祈っても叶うとは限らないから祈らないのではなく,叶わないことがあるからこそ自分のもつ潜在的パワーの可能性を信じて祈るのです。すべてのことが完全に予測できる(運という言葉が死語になる)まで祈りは必要だと私は考えます。
さて,天の川君がこのブログで予測不可能な変な割り込みを入れないことを祈りますか。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(4)」に続く。

2013年1月2日水曜日

年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(2)」

元旦にアップした昨日の「万葉集:新春の和歌(1)」には,さっそく多くのアクセスがありました。ありがたいことです。
さて,大伴家持は,前回紹介した以外に越中で何首か新春の短歌を詠んでいますので,紹介します。
家持着任3年半が立った天平勝宝2(750)年1月2日に,越中の諸郡司を集めた宴席で詠んだ新春の短歌からです。

あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ(18-4136)
<あしひきのやまのこぬれの ほよとりてかざしつらくは ちとせほくとぞ>
<<山の木の梢に生えている寄生木を取って髪飾りにしたのは,お集まりの皆様の千年の長寿を願ってのことです>>

家持は頭に当時「ほよ」よばれていた寄生木(ヤドリギ)の枝を頭に挿して現れたのでしょう。参加者は奇抜な家持の姿に驚いたところで,この短歌を詠んだと私は想像します。いつもと同じ格好では,聞く方も義務的になります。こんな演出も越中の郡司達にはウケたのかも知れませんね。
次は,同年1月5日に,越中国主家持の片腕である越中掾(じょう:判官)の久米廣縄(くめのひろなは)の館で開催された宴で家持が詠んだ短歌です。

正月立つ春の初めにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも(18-4137)
<むつきたつはるのはじめに かくしつつあひしゑみてば ときじけめやも>
<< 正月の春の初め,このように共に笑い合えば,いつも良い気持ちになれるでしょう>>

万葉時代の役人は新年会を楽しみにしていたのですね。私も会社が始まったら,すぐ新年会を提案してみることにしましょう。
次は翌年の天平勝宝3(751)年1月3日に越中国府の介(すけ:次官)の内蔵縄麻呂(くらのなはまろ)の館で開催された宴に到着した家持が詠んだ1首です。

降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに(18-4230)
<ふるゆきをこしになづみて まゐてこししるしもあるか としのはじめに>
<<降り積もった雪に腰までうずまりながら参上した甲斐がきっとあるでしょう,年の初めに>>

家持は到着が少し遅れたのでしょう。言い訳がましい内容です。
そして,その宴会は夜通し行われたのでしょうか。鶏がしきりに鳴き始めました。そこで,家持がそろそろ失礼したいとでも言ったのでしょう。主人の縄麻呂は「大雪ですから」と引き留める短歌を詠みます。
それに対して家持は即座に了解の返歌をします。

鳴く鶏はいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそ我が立ちかてね(18-4234)
<なくとりはいやしきなけど ふるゆきのちへにつめこそ わがたちかてね>
<<鳴いている鶏はいっそう頻りに鳴くけれど,降り続く雪が千重(数が多く)に積もるので私たちは立ち去れないですね>>

いいですね。呑みつづける言い訳を見つけては宴を続けられることができるなんてね。
ただ,厨房で縄麻呂の奥さんや使いの人たちは「早く終わらないかな~」と首を長くしている様子が想像できますね。
今,東北の日本海側では暴風雪警報が出ているところがあるようです。その地域にお住みの方は外に出ず,家でお酒を飲んでいる方が安心かもしれませんね。ただ,正月だからと言って呑みすぎないように気を付けてください。ご家族にかなり迷惑を掛けていることも考えられますから。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(3)」に続く。

2013年1月1日火曜日

年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(1)」

みなさん,新春のお慶びを申し上げます。本年もこのブログを継続してアップしていきます。よろしくお願いいたします。
万葉集には新春の短歌が何首かありますが,今までほとんど取り上げてきませんでした。お正月のスペシャルとして万葉集新春の歌完全踏破と行きましょうか。
まずは,万葉集で新年の歌と言えば,万葉集最後の和歌である,天平宝字(759)3年元旦大伴家持(当時41歳)が詠んだ次の短歌でしょう。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(20-4516)
<あらたしき としのはじめのはつはるの けふふるゆきのいやしけよごと>
<<新年の始めである初春の今日,降っている雪のようにたくさん積み重なってほしい,よいことが>>

この短歌に対しては,新しい年になり,真っ白な新雪が降り積もっている様子から「今年は本当に良い年にしよう」という前向きな意図を私は感じたいです。私も吉事がいっぱいあるように,体調管理を徹底し,やるべきことをしっかりこなしていきたいと考えています。
時代はさかのぼりますが,次は天平勝宝3(751)年正月に同じ家持(当時33歳)が越中で詠んだ新年の短歌です。

新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが(19-4229)
<あらたしきとしのはじめは いやとしにゆきふみならし つねかくにもが>
<<新しい年の初めは毎年雪を踏みならして(人が集まるよう)、いつもそうしたいものだ>>

越中赴任4年半となり(この年平城京に帰任),土地の人たちとも仲良くなり,正月には多くの人が越中の家持邸を訪れたに違いがありません。精神的にも越中の風土が彼にあったのか,多くの和歌を詠んでいます。そんな家持の気持ちの上の安定感を感じさせる1首です。
さらに時代はさかのぼりますが,天平18(746)年に葛井諸会(ふぢゐのもろあひ)もう1首新年の歌を紹介します。

新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは(17-3925)
<あらたしきとしのはじめに  とよのとししるすとならし ゆきのふれるは>
<<新しい年の初めに豊かな実りの予兆なのでしょう。こんなに雪が降ったのは>>

この短歌は元正太上天皇が橘諸兄や藤原仲麻呂とそれぞれの配下の人たちを集めて正月に宴を開いたとき,太上天皇が前日降った大雪について参加者の若手に詠むよう促したことに対し,参加者の一人諸会が詠んだものです。
実は,この席に家持(当時28歳)もいて,同様に次の短歌を詠んでいます。

大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも(17-3926)
<おほみやのうちにもとにも ひかるまでふれるしらゆき みれどあかぬかも>
<<大宮の内も外も白く光るまで降った白雪はいつまでも見飽きないものです>>

この短歌,少し突っ込みどころがあります。「大宮の内・外は光っていない(政治は腐敗し,民衆は清潔な暮らしができていない)。白雪はそれを隠してくれているだけ」と藤原仲麻呂あたりから体制を批判している歌だと指摘をされたらどうでしょう。この半年後,家持は越中に飛ばされることになります(この短歌が原因かどうかはわかりませんが,雪深い越中に)。

天の川 「そうやな。口は災いの素やさかい。たびとはんこそ,ちゃんと気を付けなはれや。うぃ~っ。お屠蘇もう一杯!」

もう10杯以上呑んでいるくせに,突っ込みどころだけは分かっている天の川君には今年も悩まされそうです。まったく。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(2)」に続く。

2012年11月23日金曜日

今もあるシリーズ「橘(たちばな)」

明日香村の農園でみかん一本木のオーナーになり,この前の日曜日みかん狩りをしたと前回の投稿で書きましたが,予想以上に豊作で,みかんの実を収穫するのに妻と二人で1時間半もかかってしまいました。写真は,収穫したみかんの量です。すごいでしょう。

天の川 「たびとはん。そんなにみかんが取れたやったら,みかん酒をぎょうさん作ってや。頼んまっせ!」

すぐ酒を欲しがるのを何とかしてほしいね,天の川君。本当は,みかんをそのままたくさん食べて風邪をひかないようにしてほしいんだけどね。
さて,万葉集では「みかん」という言葉は出てきませんが,柑橘類の橘の和名「たちばな」が多くの歌で出てきます。今では,橘は人名や地名で出てくる程度でしょうか。みかん(蜜柑)は甘(柑)い橘ということ意味の柑橘類の代表格ということになります。逆に橘は甘くないということになります。
<橘は食用にされていた?>
橘が甘くない(酸味が強い)といっても程度はいろいろあり,食べられていた時期もあったかもしれません。人が好む甘さは時代や流行(はやり)によって変化しますからね。
私が幼いころ夏みかんは酸っぱくて,砂糖を大量に使ってマーマレードかジャムにするくらいでした。今,甘夏みかんとは呼ばない原種の酸味が非常に強い夏みかんをそのまま食べる人がいます。糖分の摂取を抑えたビタミンC補給源として。
甘いものが今よりも少なかった万葉時代は橘は常緑の葉,白い可憐な花,緑の美しい果実,そして甘くはないが,健康に良さそうな果実を食べる,果実のしぼり汁を飲んだり,魚などの臭みを消したり,風味を増したりしたのではないかと私は思います。万葉人の愛した橘は万葉集の多くの和歌で詠まれています。

橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
<たちばなはみさへはなさへそのはさへ えにしもふれどいやとこはのき>
<<橘は実も花もその葉も枝に霜が降ることがあっても,ますます栄える常緑の木である>>

この短歌は聖武(しやうむ)天皇が天平8(736)年11月,葛城王(かづらきのおほきみ)に橘姓を授ける際に詠んだとされるものです。葛城王は橘姓を賜って,自分の名前を橘諸兄(たちばなのもろえ)としたのです。説明など要らないほど明快な短歌で,これで橘がどんな植物かが分かります。寒さに負けず,いつも力強く繁茂している姿が目に見えるようです。
そして,この聖武天皇の短歌を意識して,越中赴任中の大伴家持が天平感宝元(749)年閏(うるふ)5月23日橘諸兄に贈ったと思われる次の短歌(長歌の反歌)があります。

橘は花にも実にも見つれどもいや時じくになほし見が欲し(18-4112)
<たちばなははなにもみにも みつれどもいやときじくに なほしみがほし>
<<橘は花が咲く時も実が成る時も見ていますが,時を分たず見れば見るほどもっと見ていたい気になります>>

「橘諸兄様のさまざまなご活躍に対していつも注目しております。そのお姿を見れば見るほどさらに注目したいと感じるのです」といったことを家持は伝えたかったのでしょうね。
そのほか万葉集で詠まれている多くの橘の歌を見ると,5月(今の6月)に花が咲き,その後直ぐに小さな緑の実を付け,それを取って,穴を開け,細い紐を通して,女の子が首飾りにするような風習や流行があったことが伺えます。アクセサリーとしても可愛いし,いい匂いがしたのでしょうね。
では,今みかんのように,黄色になった橘は万葉人にとって関心がなかったかというと,色づいた橘の実を意識させる短歌がありました。

月待ちて家には行かむ我が插せる赤ら橘影に見えつつ(18-4060)
<つきまちていへにはゆかむ わがさせるあからたちばな かげにみえつつ>
<<月の出を待って家に帰ることにします。私が頭に挿している色づいた橘の実を月影に照らして>>

この短歌は,橘諸兄宅で聖武天皇に天皇の座を譲った元正(げんしやう)上皇,粟田女王(あはたのおほきみ),田辺福麻呂(たなべのさきまろ)等が集まって,宴席をした際に粟田女王が詠んだとされるものです。恐らく,聖武天皇が難波宮(なにはのみや)に都を遷した天平15(744)年頃,この宴席は持たれたのだと思います。
聖武天皇が東大寺の大仏を建立や繰り返し遷都を行い,多額の財政支出を行っていたことに対し,民衆の反発が心配されていたころです。元正上皇は,聖武天皇の補佐役であった橘諸兄を訪ねて「よろしく頼む」という意味の宴会だったのかもしれません。
そうなると,この粟田女王の短歌も意味深ですね。「聖武天皇を抑えられるのは貴殿(橘諸兄)だけ。うまくいったら橘氏を厚遇するしかないでしょう」といった意味にもとらえられるかも?ですね。
ところで,今の世の中も政治が安定していません。安定させることができる人物,政党が現れることへの期待がますます大きくなっているのではないでしょうか。
政治の安定が期待できるのは,政治家として野心がギラギラした人物ばかりの集まりではなく,今まで地道に庶民のため愚直に実績を積み重ねてきた政党ということになるだろうと私は思います。
来月16日には国政選挙(衆議院選挙)が行われます。今までの実績を冷静に評価して投票されることを期待しています。
次回は天の川君が好きな「酒」をテーマに万葉集を見ていきましょう。
今もあるシリーズ「酒(さけ)」に続く。

2012年7月22日日曜日

対語シリーズ「夏と冬」‥夏でも寒暖の差にご注意を!


気象庁から梅雨明け宣言が出て,各地で猛暑日(最高気温が35℃を越える日)も出ています。しかし,ここ数日関東地方は涼しい日が続いていて,半袖のシャツのみでは寒いくらいに感じる日(最高気温が22℃程度の日)もあります。
「夏」と「冬」の対語テーマとしては良い気温の変化かもしれませんね。
さて,万葉集に出てくる「夏」は時期は旧暦の4月~6月(今の5月~7月)であり,若干雰囲気が異なるのかも知れません。
例えば,今の「夏」は暑さが厳しいことが強調されますが,万葉時代の「夏」は次の詠み人知らずの短歌のように草木がものすごい勢いで成長,繁茂するイメージがあるように私は思います。

我が背子に我が恋ふらくは夏草の刈り除くれども生ひしくごとし(11-2769)
<わがせこにあがこふらくは なつくさのかりそくれども おひしくごとし>
<<あなたに対する恋しい気持ちは夏草が刈っても刈っても生えてくるのと同じです>>

いっぽう,「冬」に関する万葉集の和歌の多くが,「冬」を詠んでいるのではなく,「冬が終わって春になったなあ」「冬だけれどもうすぐ春だ」といったことを詠んだものが多く見受けられます。
少ない中でも次の短歌は万葉時代の冬の情景を示している貴重な1首だと言えるかも知れません。

道の辺の草を冬野に踏み枯らし我れ立ち待つと妹に告げこそ(11-2776)
<みちのへのくさをふゆのに ふみからしわれたちまつと いもにつげこそ>
<<道端の草を冬野のように踏み枯らして私が待っていると愛する人に伝えて欲しい>>

ただし,この短歌は夏に詠んでいます。夏草が延びるのを阻止するぐらい恋人の家の前で立って待っているというのです。妻問い婚は,当然女性の両親の許可が無いと逢うことも,手紙を渡すことも許されません。
結婚という面倒くさいことは嫌だから独身でいるという現代の独身男性はどう感じるでしょうか。

さて,最後は夏と冬の両方が出てくるさらに珍しい短歌です。柿本人麻呂歌集から転載した詠み人知らずの1首です。

とこしへに夏冬行けや裘扇放たぬ山に住む人(9-1682)
<とこしへに なつふゆゆけや かはごろも あふぎはなたぬ やまにすむひと>
<<いつも夏と冬があるというのか,皮衣と扇子をいつも持っているよ,この山に住む仙人は>>

この短歌は,仙人の形を書いた巻物を見て天武天皇の皇子である忍壁皇子(おさかべのみこ)へ献上したと題詞にあります。
高い山は夏でも夜や雨が降るとけっこう寒い場合があり,いっぽう太陽が出ると直射日光が当たる尾根や岩の上は非常に暑かったりします。
仙人が皮衣を着て,扇子を持っていたと思われる絵の不思議さを皆に伝えよようとしたのかも知れませんね。
いつも夏は腹を出して裸同然で寝ている天の川君は,最近このブログにチョッカイを出す頻度が少ないようなので,私が登山に行くときに一緒に連れて行こうかな。
少しはシャキッとするかも知れないですからね。

天の川 「たびとはん。何しょうもないことを考えてんねん。このクソ暑いのに何で山なんか登らなアカンねん。たびとはんだけで勝手に行ってきたらええやんか」

い~え,もう決めました。天の川君との富士登山(ただし,同行者の気力を考えると頂上までは無理なので,途中まで)のブログ8月下旬乞うご期待。

天の川 「そんなエゲツないことせんといてほしいわ」

対語シリーズ「笑むと泣く」に続く。

2012年6月23日土曜日

対語シリーズ「解くと結ふ」‥紐は解いて待つ?いや,解いてもらうため結んで待つ?


旧暦の七夕(今の8月立秋あたり)は妻問いにちょうど良い季節だったのでしょうか?
梅雨が明け晴れた日が多く,空気も澄んでくる。昼間はまだ暑いが,立秋も過ぎ夜になると少し風が涼しく感じられるようになる。うるさい蛙(かはづ)の声がおさまり,どこからともなくロマンチックな秋の虫の声が聞こえてくる。
今のように,高いビル,アスファルトの道,貧弱な街路樹などによるヒートアイランド現象が無かった万葉時代は,旧暦七夕の時期の夜になると男女が身を寄せ合うのにもっとも適した季節だったのではないかと私は想像します。
さて,妻問いで夫の来訪を待つ妻は下衣の紐を解いて待つか,夫に解いてもらうために紐は軽く結んでおくか?どちらが夫に喜んでもらえるか。それが大問題です。
まずは,万葉集に出てくる紐を解いて待つ派の女性(詠み人知らず)の短歌です。

天の川川門に立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き待たむ(10-2048)
<あまのがはかはとにたちて あがこひしきみきますなり ひもときまたむ>
<<天の川の渡し場に行っては,私が恋い慕っていたあなたがいらっしゃるらしい。衣の紐を解いてお待ちしよう>>

次は,七夕を詠ったものではありませんが,紐を夫に解いてもらう派の詠み人知らず(東歌)の短歌です。

昼解けば解けなへ紐の我が背なに相寄るとかも夜解けやすけ(14-3483)
<ひるとけばとけなへひもの わがせなにあひよるとかも よるとけやすけ>
<<昼間は解ことしても解けない紐が,あなたと寄添う夜は何と解けやすいこと>>

紐を解いたのは本人か夫か分かりませんが,少なくとも相寄るまでは紐は結んで待っていると想像できます。
ところで,男の方はどうでしょうか。牽牛星と織姫星の逢瀬を題材にお互いが衣の紐を解きあいたいと詠った次の詠み人知らずの短歌があります。

高麗錦紐解きかはし天人の妻問ふ宵ぞ我れも偲はむ(10-2090)
<こまにしきひもときかはし あめひとのつまどふよひぞ われもしのはむ>
<<高麗錦の紐を互いに解きあって彦星が妻問いをする今宵。私もそうして見よう>>

この3首から,共寝では男心としては着ているものを脱がせるプロセスが楽しみ(ワクワクする)。通常の女心は準備OKの印として着ているものを脱いでおきたい。ただし,そんな男心を知っている女性は相手に脱がせるため,わざと着ておく(紐を結んでおく),といったことが分かりますね。

天の川 「なんや。今も昔もちっとも変わらへんな。たびとはんは女性の背中のホックを外すが下手やったやんか。」

あのね,天の川君。頼むから誤解を招くようなことを言わないようにしてくれ。とんでもない天の川の奴に乱されましたがまとめます。
紐を解くの「解」は「解析学」「数値解析」の「解」です。
解析学や数値解析を研究している人には,もともと圧倒的に男性が多いとしたら,「紐を解く」を男性が好きだということとまさか関係があるなんてことはないですよね。
対語シリーズ「天と地」に続く。

2012年6月8日金曜日

対語シリーズ「手と足」‥七夕の織姫は手足をリズミカルに動かせた?


「手」と「足」が本当の意味で対語であるか微妙かも知れませんが,万葉集の多くの和歌で「手」と「足」が出てきます。
特に「手」は次のような多くの熟語になり,詠み込まれています。

麻手(あさで)‥麻で織った布
伊豆手船(いづてふね)‥伊豆で造船された船
大御手(おほみて)‥天皇の手
水手(かこ)‥舟を漕ぐ人。水夫
蛙手(かへるて)‥カエデ
衣手(ころもで)‥袖
手柄(たかみ)‥剣のつか
直手(ただて)‥自分の手(自分だけ)で行うこと。
手玉(ただま)‥手に付ける玉
手力(たぢから)‥腕力
手束(たつか)‥手に握り持つこと
手作り(たづくり)‥手で織った布
手馴れ(たなれ)‥扱いに慣れていること
手挟む(たばさむ)‥手で挟む
手火(たひ)‥手に持って道などを照らすたいまつ
手巻(たまき)‥ひじに纏った輪形の装飾品
手枕(たまくら)‥腕を枕とすること
手向け(たむけ)‥神や死者の霊に物を供えること
手本(たもと)‥ひじから肩までの間
手弱し(たよわし)‥か弱い
手弱女(たわやめ)‥たわやかな女性
手童(たわらは)‥幼い子供
手折る(たをる)‥手で折る
柧手(つまで)‥荒削りした木材
手臼(てうす)‥手で杵を持って穀物を挽く臼
手染め(てそめ)‥手で染めたもの
手斧(てをの)‥ちょうな
長手(ながて)‥遠い道
最手(ほつて)‥優れた技
井手(ゐで)‥田の用水を塞き止めているところ

いっぽう,「足」は次のような熟語として使われています(「足る」の用例は除く)。

足占(あうら)‥足を使った占い
足掻き(あがき)‥馬などが前足で掻いて進むこと
足飾り(あしかざり)‥足に付ける飾り
足玉(あしだま)‥足に付ける玉
足早(あしはや)‥速力が速いこと
足痛く(あしひく)‥足に病がある
足悩む(あしゆむ)‥足が痛む。難儀しながら歩く
足速や(あばや)‥足が速いこと
足結(あゆひ)‥動きやすいように袴を膝頭で結んだ紐。

では,まず「手」と「足」が両方詠み込まれていて,七夕を題材にした詠み人知らずの短歌を紹介します。

足玉も手玉もゆらに織る服を君が御衣に縫ひもあへむかも(10-2065)
<あしだまも ただまもゆらに おるはたを きみがみけしに ぬひもあへむかも>
<<手足につけた飾り玉が触れ合って奏でる音を聞きつつ織る布は,七夕の夜貴方に着ていただくための御衣用なの。お気に入りの形に縫えるよう織れるかしら>>

ところで,後1カ月足らずで七夕がやってきますね。
この歌は織姫の気持ちを詠んだ短歌です。機織(はたおり)は手と足を使いながら行います。足は経糸(たていと)を交互に上と下に分ける踏み台を踏む作業をします。手は舟形をした杼(ひ)と呼ばれる道具を横に走らせ,緯糸(よこいと)を通す作業を行います。
これをタイミング良く繰り返すと,きっと手と足に付けたアクセサリーに付いている玉が触れ合って規則正しい音を立てていたのかも知れませんね。
この音が途絶えることが無いほど頑張って機織をしているけれど,たくましい牽牛に似合いの大きさに織れるか心配している織姫の気持ちをこの作者は表現したかったのでしょうか。
さて,次は同じく七夕と手を詠んだこれも詠み人知らずの短歌を紹介します。

年にありて今か巻くらむぬばたまの夜霧隠れる遠妻の手を(10-2035)
<としにありて いまかまくらむ ぬばたまの よぎりこもれる とほづまのてを>
<<年に一度,今こそ抱き合おう。夜霧の衣に包まれた彼方の妻の手によって>>

年に一度の逢瀬,天の川対岸の織姫の手で抱かれたい。そんな男の願望が私には伝わってきます。
残念ですが,七夕と身体の足を詠ん和歌は万葉集にはありません(「足る」という意味では出てきます)。しかし,天平感宝元(749)年7月7日越中にて「立つ(足で)」を詠んだ大伴家持の短歌はあります。

安の河こ向ひ立ちて年の恋日長き子らが妻どひの夜ぞ(18-4127)
<やすのかは こむかひたちて としのこひ けながきこらが つまどひのよぞ>
<<天の川を挟んで向かい立ち,一年に一度の恋に首を長くして待っていた恋人たちが,今夜は共寝をする夜だ>>

今回,万葉集で多く詠まれている手と足について,七夕の切り口で見てみました。万葉時代,七夕では若い男女の手や足が活発に動いたのでしょうね。おっと,勘違いしないでくださいね。文(ふみ)や和歌を書いたり,恋人や妻の家まで歩いたり,恋人や夫を迎える準備をしたりすることですよ。
対語シリーズ「淀と瀬」に続く。

2012年4月25日水曜日

200回特集‥高岡の集い

この前の土曜日と日曜日,富山県高岡市に大学時代活動していた万葉集の研究クラブのOB・OGが集まり,旧交を温めました。
高岡の古城公園(日本の桜百選)周辺は桜が満開でした。初日は各地から集まった参加者は午後高岡駅近くの料亭で再会の宴を楽しく行った後,古城公園を散策しました。
参加者(関東,関西,中京から参加)は,皆今年の桜の開花が遅れ,ちょうど見ごろになった幸運を喜び合ったのです。再会の宴では,私が顧問の先生の研究室にあった昔の写真などをパソコンに取り込んで,スライド投影しました。
懐かしい写真を見て,今回参加しなかったメンバーも含め,「○○に旅行に行ったときだ!」「このときの大学祭の準備はたいへんだったなあ~」「そういえばこの人どうしたのかなあ?」とっいた話が盛り上がり,時間の経過も忘れるほどでした。
その後も2次会,ホテルの部屋での語らいと夜の更けるのも忘れるくらいでした。

翌日は万葉歴史館を訪れ,大伴家持の越中での足跡を改めてたどりました。ボランティアの説明員の方が,親切に私たちに説明くださいました。歴史館の裏の高台から見た白雪をかぶった立山連邦もハッキリと見えました。
歴史館では堅香子(かたかご)の花を植えていました。歴史館に行く途中では,家の前にはコブシやモクレン,チューリップも咲いていました。その後,二上山山頂まで車で満開の桜の中をドライブして,山頂を目指しました。
家持が天平勝宝2(750)年春に越中で詠んだ峰の上の桜を詠んだ短歌があります。

今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり(19-4151)
<けふのためとおもひてしめし あしひきのをのへのさくら かくさきにけり>
<<今日のこの日のためにと思い,しるしをつけておいた峰の桜がこんなに綺麗に咲きました>>

山頂から家持が歩いたであろう国府の場所,また見たであろう海山川の地形をこの目で確認しました。また,山頂では鶯(うぐいす)が鳴いていて,家持が天平19(747)年のちょうど今頃越中で詠んだ次の短歌を思い浮かべました。

玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり(17-3987)
<たまくしげふたがみやまに なくとりのこゑのこひしき ときはきにけり>
<<二上山に鳴く鳥の声が美しい季節がやってきたよ>>

なお,この短歌の鳥は鶯ではなく霍公鳥(ほととぎす)のようです。いずれにしても,家持が二上山で鳥がにぎやかに鳴く春の到来を喜んだのは間違いないでしょう。
こうやって,あっという間の2日間が終り,参加者はそれぞれ帰路につきました。
参加者が帰宅した後,今回の集いが大変楽しく,また越中という土地の自然の豊かさ,恵まれた環境を感じられた思い出に残るものだったとのメールを多数頂いたのです。
<事前の回遊>
ちなみに,土曜日の宴の前,私は早めに富山に到着できたので,ひとりで砺波平野の散居村展望台に車で行き,登りました。
写真はその時展望台から撮ったものです。いくつかの田んぼでは水がはられ始めていました。

富山がまさに「富んだ山」から流れてくる川の雪解け水に潤わされ,花で満たされた春爛漫と暖かい心で満たされた旧友たちと過ごした素晴らしい2日間でした。

山は雪川は速水(はやみ)と里の花 海山幸に交わす杯(さかずき)

今回も企画から準備,開催まで1年以上掛けた甲斐があったようです。
このブログ,次はGWスペシャル「私の接した歌枕」シリーズの続きをお送りします。お楽しみに。
私の接した歌枕(15)「湯河原」に続く。

2012年4月15日日曜日

投稿200回特集(「のぞみ」車窓の桜)

<大阪の困難な仕事も峠を越えた>
数日前私は仕事でお客様の本社がある大阪に出張しました。このお客様への出張は先月から数えて5回目でした。
それまでの4回は出張目的が十分果たせず,準備の苦労も回数を重ねるたびに増し,すべて日帰り出張で大変疲れ,往復の新幹線はいつも寝ているだけでした。
今回の出張は比較的良好な結果が得られ,さらに当日は大阪で1泊することが許され,ホテルで十分睡眠をとることができました。翌日は東京に帰るだけですが,いつものような疲れも無く,よい天気に恵まれ,久しぶりに爽やかな気分で帰路の新幹線に乗れました。予約で確保した座席は1E(ある号車の最後尾座席で,リクライニングを倒す時後ろを気にする必要がなく,そして山側(北側)で太陽の光が入らず,ブラインドを下げる必要のない席)です。
<帰京の「のぞみ」出発>
朝8時頃明るい朝日が射す中,新大阪が始発の「のぞみ」から,ちょうど満開の桜が沿線で良い天気に映えて綺麗に見られそうなので,車窓の景色を眺めながら過ごすことにしました(いい年をして)。好都合なことに隣の座席(1D)は誰もいません。私が窓の外ばかり見ていても,変に思う人もいないのです。
「のぞみ」は早速淀川の河川敷の桜を見せてくれました。山崎のサントリーウィスキー工場の前を通過ししたときは,その周辺の桜が山麓を染めていました。京都駅周辺や京都駅を出た直後の鴨川の桜も綺麗に見えました。直後トンネルを通過して,私の育った山科に入ると,北の山沿いに掘られた京都疎水の岸に植えられている桜,連なって咲いているのが遠くですがハッキリとピンクの帯に見えました。
<滋賀県突入>
2番目のトンネルを通過し,大津に入ると瀬田川の唐橋の周辺の桜の木が可憐に花を咲かせていました。草津を過ぎたあたりから,琵琶湖の向こう側の比良山系の峰々には雪がまだ残っていて青空に白く映えていました。琵琶湖に注ぐ愛知(えち)川を渡った先の一級河川宇曽(うそ)川両岸では隣を走る近江鉄道の鉄橋と岸の桜が趣のある風景を一瞬ですが見せてくれました。
彦根城を過ぎ,佐和山城跡には桜が結構植えられているようですが,まだ十分開花していませんでした。米原付近の桜はまだつぼみが赤くなってきた程度でした。遠くに見える福井方面の山はまだまだしっかり雪に覆われているように感じました。伊吹山の山肌の残雪はまだら模様で,鳥の頭の形をした雪形もはっきり見えました。
<中部地方突入>
寒いのでまだ桜は蕾と思い期待していなかった関ヶ原の桜は意外にも5分咲き以上でした。大垣市郊外に入ると工場の周辺の桜が満開でした。以降東京まで桜は満開ばかりでした。揖斐川の河川敷の菜の花が綺麗でした。
名古屋までの長良川,木曽川では桜はまったく見えません。名古屋駅を出発してようやく中電研究所周辺の満開の桜並木を近くに見つけることができました。三河安城駅の前後にある用水路には桜と菜の花が植えられていて,両方とも精一杯咲いていて,まさに春を実感する光景でした。
Panasonic電工幸田工場周辺の桜が立派でした。その先蒲郡付近から豊橋付近に掛けての山にはたくさん山桜が花を咲かせていました。豊川用水(支流)の岸辺には菜の花が緑の草に映えていました。豊橋を過ぎた幸公園の桜も見事でした。日東電工の工場の桜も見ごたえがありました。
<東海地方突入>
浜名湖周辺や浜松駅付近は残念ながら桜はほとんど見えませんでしたが,天竜川鉄橋の手前のローム(ROHM)浜松の工場の桜は目立っていました。天竜川鉄橋を越えると磐田用水という用水路がたくさんある地域では,用水路の岸に桜,菜の花が所々に植えられ,花を咲かせていました。今後も整備を進め,新幹線の車窓を楽しませてくれることを期待したいですね。NTN磐田製作所の桜も目立っていました。
いよいよ静岡の茶畑がたくさん見える地域に差し掛かりましたが,期待した茶畑の緑と満開の桜のコントラストが美しい風景は見られませんでした。桜の木を近くで並べて植えるのは茶畑にとって良くないのかも知れませんね。ただ,里(茶畑農家)には桜が結構あったように見えました。大井川鉄橋を渡ると科研製薬の工場,静岡駅手前の清掃工場には桜や菜の花が綺麗でした。
清水市からのトンネルを抜け富士市に入ると王子特殊紙,新富士駅を過ぎた後,JATCO,鈴与物流センター,UCCの工場の桜が楽しめました。三島駅の先の山麓には山桜の群落がありました。新丹那トンネルを抜け新熱海駅付近では山桜,民家や別荘の桜が綺麗に咲いていました。
<関東地方突入>
またいくつかのトンネルを抜けて小田原に近付くとみかんのような実がたくさん熟しているのか見えました。遅い品種なのでしょうか。小田原市内に入ると桜の木が多く,少し遠くの山麓にもたくさん桜の木があるように見えました。
並走する厚木小田原道路のも桜がたくさん植えられていました。東京に近付くにつれ,学校,公共施設(役所,公民館,ホールなど),お寺,神社の周辺に植えられた桜が目立つようになりました。
こうして,10時半頃品川駅に到着したのですが,この2時間半,私は万葉集に出てくる次の詠み人知らずの短歌の気持ちだったのでしょう。

見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも(10-1872)
<みわたせば かすがののへに かすみたち さきにほへるは さくらばなかも>
<<見渡すと春日の野辺に霞が立ったように咲誇っているのは桜の花なのでしょうか>>

そして,日本人が本当に桜好きで,遠い昔から多くの場所に桜を植え楽しんでいるのだということを私は改めて強く感じたのです。
次回は投稿200回特集の第2弾として「万葉の友,高岡の集い」をお送りします。

2012年3月3日土曜日

当ブログ4年目突入スペシャル「万葉集編纂の目的は?」

「万葉集をリバースエンジニアリングする」という変な(ケッタイな)名前のブログも,早4年目に入りました。
これまでアップした200件近い記事をほぼ満遍なく世界中の多くの方々に読んでいただいているようです。お陰さまでGoogleが記録している当ブログの閲覧数も年を追うごとに増えています。
さて,私が非常に強い興味を持つ万葉集のテーマのひとつに,このブログでも過去何度か取りあげてきた「万葉集は何の目的で編纂されたのか?」ということがあります。
万葉集を編纂した人(編者)が誰であるか,編纂の目的は何であるかの記録が無いため,万葉集愛好家の方々の多くはどうしても和歌の作者(詠み手)がその和歌をどういう心境で詠んだか?(文学としての捉え方の方向)に興味が向かってしまうのではないでしょうか。万葉集の研究書,解説書も編纂の意図や編者が誰かを断定的に書いたものは少ないように感じます。
<改めて私の仕事>
このブログで私のプロファイルにも書いていますが,私は仕事柄ソフトウェアのリバースエンジニアリング(そのソフトウェアの所有者からの委託であり合法)をたびたび仕事として行います。
既存のプログラムや設計書(多くは更新不十分)を見て,そのプログラム(またプログラムの集まりである機能やシステム)の初期開発やその後の改修の意図,目的を推測することが中心的な作業となります。
そういった仕事で今私がかなり忙しいのは,いろいろなところで稼働中のソフトウェアの多くが設計書に初期開発やその後の保守の目的や意図が十分書かれていないことが少なからずあるからなのです。
特に,10年以上長く稼働しているソフトウェアは,初期開発時の開発目的や意図はあっても,稼働後何度も手を加わえている(修正している)意図や目的が記録されていないことの方が問題になる場合が少なくありません。そんなソフトウェアの所有者は,私のような保守開発者にリバースエンジニアリングを依頼し,それらの意図や目的を正確に判断した上で,今後の最適な修正方法の提案を求めるのです。
<万葉集に仕事のノウハウを適用>
これまで私は万葉集の個々の和歌から編者の編纂意図や目的を推理しようと,既存のソフトウェアのリバースエンジニアリング手法を使ってきました。
このブログが4年目を迎えた節目として,これまで万葉集をリバースエンジニアリングし,それによる万葉集編纂目的の推測について書くことにします(来年になると違った考えを持つかもしれませんが)。
ただ残念なことに,私のソフトウェアに対するリバースエンジニアリングの(プロとしての)技量をもってしても,未だに万葉集の編纂意図を自信をもって「これだ!」といえる結論を持つに至っていません。
その原因は二つあります。ひとつは時間が足らないことです。私は万葉集を調べることはあくまで趣味の世界であり,これで一銭も稼いでいません。食べるためには今はITの仕事をたくさんするしかなく,それ以外の時間は限られます。
結論が出せないもう一つの理由は,万葉集の和歌の多様性にあります。編纂の意図に関する仮説をひとつ立てると,それでは説明できない和歌がすぐ見つかってしまいます。
<現在私が感じる万葉集編集の目的>
今の私は「万葉集の編者が当時の日本の政治制度,文化,暮らし,習慣,遊び,風土,土地柄,人柄,人の価値観,歴史,気候,自然,自然感,産業,職業,そして言葉の多様性(良いことも悪いことも)を和歌という形式を通して示したかった」のではないかという仮説を持つに至っています。
では,誰にその多様性を示したかった(万葉集を見て欲しかった)のでしょうか?
それは外国(人)かもしれないと私は考え始めています。光仁天皇の頃,大伴家持が中心として万葉集を今の姿に近く編纂したとすると(これも私の勝手な仮定です),実はその頃に遣唐使が1回,遣新羅使,遣渤海使はそれぞれ数度派遣されています。結局,私の仮説は派遣先の国への献上物とする目的で万葉集が編纂されたかもしれないということです。
ただ,実際にその目的が達成したか(完成し,献上されたか)は実はどうでもよいと私は考えています。編纂の目的が最後まで果たされなかったからといって編集の目的が消えるわけではないですから。
この仮説から,外国人に日本文化の多様性,産業の成熟度,日本人の感性の豊かさ伝えることによって,外国に貿易相手として有望であり,珍しい産物や自然がたくさんあることを万葉集を献上することで伝えたかったと私は考えています。
<万葉集はCoolな日本を紹介?>
まさに,"Cool Japan"(洗練された日本)を外国に示そうとしたのではないか,そんな気がしてなりません。また,当時交易のあった外国からも,飾り立てた来客用の京の情景だけでなく,地方の庶民も含めた日本の生の暮らしが知りたいという要求が強くあった可能性があります。
日本という国を侵略・略奪の対象とするのではなく,対等なパートナーとして扱うこと,双方の国も独自性を尊重し合うこと,お互いが学び合うことのメリットを理解してもらうことなどが万葉集編纂の目的もあった可能性を感じます。
万葉集には,恋の歌,羈旅の歌,日本の風土を詠んだ歌,別離の歌,葬送の歌,家族の絆を詠んだ歌,自然(日・月・山・海・川・天候)の変化を詠んだ歌,動植物の歌,年中行事を詠んだ歌,人生を詠んだ歌,生活の貧しさ・豊かさを詠んだ歌,政治・社会を詠んだ歌,日本に根付いた思想(仏教・儒教・道教・神道等)を詠んだ歌,占いの歌,祈りの歌,諭しの歌,歓びの歌,宴会での歌,心情の歌などあらゆるシチュエーションの和歌がでてきます。
<日本はグローバル化すればそれでよいか?>
さて,現在日本にはグローバル化の進展を望む諸外国の声があるといいます。日本が真の意味でグローバル化しなければならないという課題は数十年前から叫ばれています。しかし,本当に日本はグローバル化を進展させることができたのでしょうか。もっともグローバル化が進んでいるといわれる日本の産業界でも,ようやく有名企業数社が社内公用語を英語にするという程度です。私の勤務先はIT系の会社ですが,ビジネスとして日常的に英語を話すことができない人(残念ながら私もその一人)が大多数です。
一般に日本語でしかコミュニケーションしない日本の人達は,万葉集が取りあげている上記のような多様な視点で今の日本についてよく知っている(詳しいの)でしょうか? 答えはNo.だと思います。
多くの日本人は自分のことや興味のあることしか考えずに,自分及び今自分が関係する世界に閉じこもり,自分の世界という島国から出ようとしていないように私は感じます。その結果,同じ日本人の間でさえ,共通に理解しあえるものが希薄になってしまっていると私は思います。

最後に大伴家持が越中で詠んだ長歌を紹介して今回の長文記事を終りにします。この中に出てくる「八千種(やちくさ)」は「多様な」という意味です。家持は多様な日本の自然に心を動かされ,その多様さに興味は尽きないと詠っています。

時ごとにいやめづらしく 八千種に草木花咲き 鳴く鳥の声も変らふ 耳に聞き目に見るごとに うち嘆き萎えうらぶれ 偲ひつつ争ふはしに 木の暗の四月し立てば 夜隠りに鳴く霍公鳥 いにしへゆ語り継ぎつる 鴬の現し真子かも あやめぐさ花橘を 娘子らが玉貫くまでに あかねさす昼はしめらに あしひきの八つ峰飛び越え ぬばたまの夜はすがらに 暁の月に向ひて 行き帰り鳴き響むれどなにか飽き足らむ(19-4166)
<ときごとにいやめづらしく やちくさにくさきはなさき なくとりのこゑもかはらふ みみにききめにみるごとに うちなげきしなえうらぶれ しのひつつあらそふはしに このくれのうづきしたてば よごもりになくほととぎす いにしへゆかたりつぎつる うぐひすのうつしまこかも あやめぐさはなたちばなを をとめらがたまぬくまでに あかねさすひるはしめらに あしひきのやつをとびこえ ぬばたまのよるはすがらに あかときのつきにむかひて ゆきがへりなきとよむれどなにかあきだらむ>
<<季節こどに本当に面白く多様な草木の花が咲き,鳥の鳴き声も変わる。世間の評判や実際この目で花を見るたびに,私は非常に嘆き,嘆息をつく。元気がでず,しょんぼりしつつ,あまりにも多い花の種類を思いながら、どの花が好いか迷っているうちに、葉が茂り木陰ができる四月がくると,夜に鳴く霍公鳥。おまえは昔から語りつがれている鶯の可愛いいほんとうの子なのだろうか。菖蒲や橘の花を娘達がくす玉に挿す頃,霍公鳥よ昼は一日山の重った嶺を飛び越えて歩き,夜は夜通し、明け方の月の前を、往き来して、あたりにこだまするほどけたたましく鳴くのが本当に興味深い>>

対語シリーズ「男と女」(3)に続く。

2009年7月7日火曜日

今日は七夕です

七夕を「たなばた」と読むのも,七夕のイベントが廃れていたらおそらく超難読漢字になっていたと思いますね。万葉時代,織女のことを「たなばたつめ」または単に「たなばた」と呼び,それが七夕の行事名となっていたのでしょう。
さて,今回は難読漢字シリーズを一休みにして,万葉集の七夕の和歌について少し書いてみます。万葉集で七夕を詠んだ和歌が,何と約130首も出てきます。
七夕の風習は,中国から伝わった牽牛と織女が年に1度,7月7日にだけ逢うことが許されるという伝説が日本に渡来し,日本風にアレンジされて節句の行事として習慣化されたようです。
万葉集にたくさん七夕の和歌があることから,すでに奈良時代には七夕の行事が節句(正月,桃<上巳>,端午,七夕,重陽)の一つとして広まりつつあったことを示しているように私は思います。
この五節句の中でも,万葉集で(正月は別として)七夕に関する多くの和歌が詠まれているのは,恋の歌が多い万葉集ならではのことでしょうね。
ただ,山上憶良と大伴家持の七夕の和歌(計25首)は別格で,これは二人の七夕の伝説や物語に対する蘊蓄(うんちく)がなせる和歌だと思っています。
一方,巻10にある柿本人麻呂歌集や詠み人知らずの多くの七夕の和歌の方が,雑多な男女関係を想像させるが故に私には興味があります。
七夕は実は当時男女を意識する節句だったのではないかと私は想像しています。
ちなみに,七夕の昼の行事は各地で相撲が行われたようです。
そして,夜の節会では,若い男が集まります。『今日は待ちに待った七夕だ!』と酒を飲みながらお目当ての彼女との逢瀬について和歌を詠んだと思います。そして,昼間の相撲を見た影響からか『やっぱり男は押しの一手だ! さあ,妻問いに行こうぜ!』というノリだったのかも。
この節会で七夕の和歌を詠み合うことで,彼女が自分とバッティングしている奴(恋敵)はいないか探る意味もあったと私は想像しています。
旧暦7月7日は,今の8月上旬です。梅雨も完全に明けまさに今でいう夏(暦の上では秋)の恋の季節到来だったといえるでしょうね。
なお,中国の七夕物語は,織女が天の川を渡り牽牛に会いに行くのですが,万葉集では逆に牽牛が会いに行く話を前提としているようです。例えば,つぎのように。

天の川霧立ちわたり 牽牛の楫の音聞こゆ 夜の更けゆけば(10-2044)
<あまのかはきりたちわたり ひこほしのかぢのねきこゆ よのふけゆけば>
<<天の川に霧が立ち渡って夜がふけゆくと、彦星が漕ぐ楫の音が聞こえる>>

妻問い婚の風習がメジャーで,女性は家に籠って機織りや裁縫をするのが当たり前と考えられていた当時の日本では,一年に一度であっても彦星が逢いに行くことにした方が自然なのでしょうね。

さて,教えてよ天の川君。私にとって今日から8月上旬までに,一年に一度の逢瀬はあるのでしょうか?
天の川「たびとはん。こんなブログを書いたはるようやと,まあ無理とちゃう?」
 (次回は難読シリーズに戻る)

2009年3月18日水曜日

冬来りなば春遠からじ

万葉集で「冬」を何らかの形で詠んだ和歌は28首ほどありますが,その内「冬から春への移り変わり」を詠んだ和歌が17首ほどもあります。
それら17首の和歌では,当然「冬」は主役ではなく,「春」が主題の歌なのです。まさに「冬は必ず春となる」なのです。
寒くて暗い季節の冬より,冬が過ぎて春になったことを喜ぶ和歌ができるのも無理はありません。
万葉の時代にスキー,スケート,スノーボード,スキージャンプなどのウインタースポーツはなかったでしょうから,冬の楽しみを和歌にすることはできなかったのでしょうね。

では,冬が終わり春になったことを万葉人はどのように感じたのでしょうか。
この17首の和歌から推測すると「梅の花が咲く」,「霞が立つ」,「鶯が鳴く」,「草木の葉が萌えだす」,「野焼をする」,「(霜ではなく)露が降りる」などでしょうか。
さて,志貴皇子の有名な短歌です。

石走る垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかも (8-1418)
<いはばしるたるみのうへの さわらびのもえいづるはるに なりにけるかも>
<<滝の上に生えている早蕨が芽ぐむ春になったんだなあ>>

今の日本でこういった場所が少なくなっているのは残念ですね。
現在春を感じるのは「花粉症」や「黄砂飛来」ということでは,ちょっと味気ないように感じます。