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2013年8月13日火曜日

2013夏休みスペシャル‥「光仁天皇と大伴家持」

<大伴家持という不思議な人物>
私が大学で万葉集の研究クラブに参加していた4年間,一番興味を持った歌人は大伴家持でした。学部は経済学部でしたが,私は本来理系に向いている人間と学生時代は勝手に思っていましたので,数字に対するこだわりがありました。
家持が詠んだという和歌の数が万葉集内で最も多くある。その数は2位以下を寄せ付けないほど圧倒的である。
万葉集最後の和歌が家持作となっている。数学(数列)的には,最初や最後の数字には特別な意味を持つ。
万葉集の和歌には題詞,左注が詳細に書かれている場合が少なくない。万葉集を単なる和歌集(文学)ととらえるべきではなく,万葉集を編纂した人物にスポットライトを当てるべき。
<万葉集における家持の位置>
万葉集に登場する人物,その人物の立場,出現する言葉,和歌の情景や背景,和歌が伝えたいことが非常に多様である(多様性を持つ)。多様性のイメージ(全体像)は統計学の母集団分布を推計する方法などで推測することが可能である。
そう考えたとき,万葉集における家持の存在の大きさがナンバーワンであることは数字(数学)的に有意であることが容易に想像され,私は家持を突っ込んで研究テーマとしたいと考えました。
しかし,創立2年目に入学した大学では,学生数も少なく,建学の精神を早く実現の道筋をつけていくためには,学生としてもさまざまな活動を掛け持ちしても足らない状況でした。
当然のことですが,人間としてもまったく未熟な私は,問題意識(テーマ)はいろいろ持っていても,そのテーマに対してどれ一つ本格的な行動を起こすことが大学時代はできませんでした。
<家持研究の再開>
その後IT企業に勤め,ITの仕事にのめり込んだ私は,結局5~6年前まで万葉集に関することは何一つできませんでした。
万葉集を再び見てみようと考えたとき,学生時代とはまったく状況が変わっていました。まさに,インターネットによって万葉集自体やその時代の様子を研究したものを見ることが非常にやりやすくなっているではありませんか。
これなら,ITの仕事をしながら万葉集を見ることができると判断し,その過程で感じたことを「万葉集をリバースエンジニアリングする」というブログを立ち上げ,投稿するようにしたのです。
では,本投稿の主題に入りましょう。
光仁(こうにん)天皇は,平安京遷都を断行した桓武(かんむ)天皇の前天皇で桓武天皇の父です。また,志貴皇子の子でもあります。
志貴皇子は,光仁天皇が即位したとき,春日宮御宇天皇(または田原天皇)という称号を追号されたのです。
写真は,奈良市田原地区にある志貴皇子(写真上)及び光仁天皇(写真下)のものとされる陵です。


光仁天皇は天皇になる前,万葉集に歌を残していませんが,志貴皇子は6首短歌を残しています。次はその中の1首です。

神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ(8-1466)
<かむなびのいはせのもりの ほととぎすけなしのをかに いつかきなかむ>
<<石瀬の森の霍公鳥よ,毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか>>

また,笠金村が志貴皇子が霊亀元(715)年に亡くなった際,挽歌(長歌,短歌)を作っています。次はその中の短歌1首です。

御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに(2-232)
<みかさやまのへゆくみちは こきだくもしげくあれたるか ひさにあらなくに>
<<御笠山の野辺を行く道はこんなにも雑草がいっぱい生えて荒れ果てたのだろうか,皇子が亡くなってそんなに経ってもいないのにもかかわらず>>

ところで,平安時代初期に編纂された勅撰史書である続日本記(延暦16<797>年刊)には,志貴皇子は霊亀2年に亡くなったと記されているそうです。
万葉集とは1年の差があります。この差は私とっては無視ができません。どちらが正しいのか,それともどちらも間違っているのか,非常に気になります。
私は万葉集の方が正しいような気がします(単なる直感ですが)。続日本記では,どうしても志貴皇子は霊亀元年(元正天皇即位時)に死んだとすると何か都合の悪い理由があったのではないかと感じます。
話を志貴皇子の子とされる光仁天皇に戻しましょう。宝亀元(770)年10月に62歳という非常に高齢で即位し, 天応元(781)年4月まで10年半に渡って天皇を務めたと続日本記には出ているそうです。
同記によれば,家持はこの間にそれまでにない異常なスピードで昇進をどけているのです。
天平17(745)年に従五位下となった後,宝亀元年に正五位下になるまでの25年の間,一つしか官位が上がらなかった家持ですが,宝亀2年には従四位下へ2段階昇進。
宝亀8年には従四位上,同9年には正四位下に昇進。同11年には参議に。天応元年に正四位上,同年従三位に昇進し,延暦2(783)年中納言となり,左大臣,右大臣に次ぐナンバー3の公卿となるのです。
これを見ると家持がいかに光仁天皇に気に入られていたかが想像できます。
光仁天皇の時代は天変地異(地震,噴火,干ばつ,風水害,疫病,飢饉など)が多数発生し,宮廷にとっても対応にかなり苦慮したい時期であったと考えられます。このような時,政争や権力闘争ばかりに走る野心家より,さまざまな地方で苦労をしてきて,大伴氏をしっかりまとめている家持のような経験豊かな人材が必要だったのではないでしょうか。
そして,家持は光仁天皇時代,天皇の後援を受け,家臣や役人を使い天平宝字3(759)年まで自らが収集していた和歌やその注釈を万葉集の形にまとめたと私は勝手に仮想しています。
万葉集の和歌には,天武系の皇族が力を持っている時代には,とても公表できないような和歌がいっぱいあると私は感じています。
光仁天皇と万葉集(家持)との関係について,私はこれからも興味を持って調べてみようかと考えているのです。
2013夏休みスペシャル‥「山梨市の万葉の森を訪ねる」に続く。

2013年1月5日土曜日

年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(4:まとめ)」

昨日は会社に出ていてアップてきませんでした。そろそろお正月気分も抜けてきましたので,本シリーズは今回で終わり,次回から「今もあるシリーズ」に戻ります。
さて,万葉集の新春の和歌を完全踏破すると初回に書きましたが,新春の和歌は万葉集でたくさんあります。残った和歌は来年に回しますが,残りの多くは「梅」や「鶯」を詠んだものです。新暦の正月はさすがに両方とも早いので,今回はパスしました。「梅は花屋さんでもう売っているぞ」とお怒りの方ごめんなさい。
今回は本シリーズの最後として3首の短歌を紹介します。
これは天平勝宝6年1月4日に大伴家持(当時36歳)邸で行われた正月の宴で左兵衛督(さひやうゑのかみ)大伴千室(ちむろ),民部少丞(みんぶのしやうじょう)大伴村上(むらかみ),左京少進(さきやうのせうしん),大伴池主(いけぬし)が詠んだ短歌です。
家持は越中国主を無事終え,少納言に昇進していました。政治は橘諸兄の力が陰り始め,藤原仲麻呂の台頭が著しい時期です。仲麻呂は大伴氏をはじめとする諸兄派を衰退させようと策略を駆使してきます。
そんな時期に,大伴氏の各部署(軍部,民部,京職)にいる中堅官僚たちが家持邸に集まった訳ですから,どんな和歌を詠むか興味が尽きません。私は単なる賀春の歌ではないとにらみます。
まず,千室の短歌からです。

霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く(20-4298)
<しものうへにあられたばしり いやましにあれはまゐこむ としのをながく>
<<霜の上に霰が飛び散るとき,これまで増して私は家持殿のところに参ります,何年も>>

軍部に属していることもあるかも知れませんが,ちょっと悲壮感が漂いますね。それだけ,大伴氏の置かれている厳しい状況が伝わってきます。そんなときこそ大納言であった旅人の息子のリーダ格家持を中心に団結しようという千室決意を私は感じます。
次は,村上の短歌です。

年月は新た新たに相見れど我が思ふ君は飽き足らぬかも(20-4299)
<としつきはあらたあらたに あひみれどあがもふきみは あきだらぬかも>
<<年月は1年1年新たになり,こうして新年に繰り返しご挨拶しても私が大切に思う家持殿にはずっとお会いしたい気持ちはなくなりません>>

村上も家持の下での忠臣を誓います。
そして,最後は越中で家持が国主として赴任した最初頃,判官である掾(じやう)として一緒にいた池主の登場です。

霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとぞ思ふ(20-4300)
<かすみたつはるのはじめを けふのごとみむとおもへば たのしとぞもふ>
<<霞立つ初春に今日のようにご挨拶できると思えば楽しく思います>>

恐らく池主は千室,村上よりも年上で,家持の立場と気持ちを一番理解している人物だったと私は思います。越中では家持と多くの和歌を詠んだ仲ですから。
「まあまあ抑えて抑えて」と冷静な対応で進もうという池主の気持ちだったのでしょう。ただ,大伴氏や家持を守るためには命を賭しても構わないという秘めたる気持ちは家持の盟友池主が一番だったと私は思います。
これに対して家持は主人としての返歌を万葉集に残していません。普通なら残すはずです。詠ったけれど残さなかったのか,詠わず自分の意思を示さなかったのか,謎は尽きません。
私は詠ったけれど残さなかった方に掛けます。その残されなかった短歌が,3年後に勃発する橘奈良麻呂(橘諸兄の息子)の乱でこの中の何人が命を落とすことを防ぐことができなかったことがあったかもしれないからです。
家持は,その乱以降は様々な宴(藤原仲麻呂が主導した宴?)の歌を万葉集に残します。
乱の翌年7月,今度は家持が因幡国主として京を離れ,翌年元旦に本シリーズの冒頭に示したいろいろな思い(祈り)を込めた初春の短歌(20-4516)を最後に和歌の記録を閉じるのです。
今もあるシリーズ「市(いち)」に続く。