<大伴家持という不思議な人物>
私が大学で万葉集の研究クラブに参加していた4年間,一番興味を持った歌人は大伴家持でした。学部は経済学部でしたが,私は本来理系に向いている人間と学生時代は勝手に思っていましたので,数字に対するこだわりがありました。
家持が詠んだという和歌の数が万葉集内で最も多くある。その数は2位以下を寄せ付けないほど圧倒的である。
万葉集最後の和歌が家持作となっている。数学(数列)的には,最初や最後の数字には特別な意味を持つ。
万葉集の和歌には題詞,左注が詳細に書かれている場合が少なくない。万葉集を単なる和歌集(文学)ととらえるべきではなく,万葉集を編纂した人物にスポットライトを当てるべき。
<万葉集における家持の位置>
万葉集に登場する人物,その人物の立場,出現する言葉,和歌の情景や背景,和歌が伝えたいことが非常に多様である(多様性を持つ)。多様性のイメージ(全体像)は統計学の母集団分布を推計する方法などで推測することが可能である。
そう考えたとき,万葉集における家持の存在の大きさがナンバーワンであることは数字(数学)的に有意であることが容易に想像され,私は家持を突っ込んで研究テーマとしたいと考えました。
しかし,創立2年目に入学した大学では,学生数も少なく,建学の精神を早く実現の道筋をつけていくためには,学生としてもさまざまな活動を掛け持ちしても足らない状況でした。
当然のことですが,人間としてもまったく未熟な私は,問題意識(テーマ)はいろいろ持っていても,そのテーマに対してどれ一つ本格的な行動を起こすことが大学時代はできませんでした。
<家持研究の再開>
その後IT企業に勤め,ITの仕事にのめり込んだ私は,結局5~6年前まで万葉集に関することは何一つできませんでした。
万葉集を再び見てみようと考えたとき,学生時代とはまったく状況が変わっていました。まさに,インターネットによって万葉集自体やその時代の様子を研究したものを見ることが非常にやりやすくなっているではありませんか。
これなら,ITの仕事をしながら万葉集を見ることができると判断し,その過程で感じたことを「万葉集をリバースエンジニアリングする」というブログを立ち上げ,投稿するようにしたのです。
では,本投稿の主題に入りましょう。
光仁(こうにん)天皇は,平安京遷都を断行した桓武(かんむ)天皇の前天皇で桓武天皇の父です。また,志貴皇子の子でもあります。
志貴皇子は,光仁天皇が即位したとき,春日宮御宇天皇(または田原天皇)という称号を追号されたのです。
写真は,奈良市田原地区にある志貴皇子(写真上)及び光仁天皇(写真下)のものとされる陵です。
光仁天皇は天皇になる前,万葉集に歌を残していませんが,志貴皇子は6首短歌を残しています。次はその中の1首です。
神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ(8-1466)
<かむなびのいはせのもりの ほととぎすけなしのをかに いつかきなかむ>
<<石瀬の森の霍公鳥よ,毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか>>
また,笠金村が志貴皇子が霊亀元(715)年に亡くなった際,挽歌(長歌,短歌)を作っています。次はその中の短歌1首です。
御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに(2-232)
<みかさやまのへゆくみちは こきだくもしげくあれたるか ひさにあらなくに>
<<御笠山の野辺を行く道はこんなにも雑草がいっぱい生えて荒れ果てたのだろうか,皇子が亡くなってそんなに経ってもいないのにもかかわらず>>
ところで,平安時代初期に編纂された勅撰史書である続日本記(延暦16<797>年刊)には,志貴皇子は霊亀2年に亡くなったと記されているそうです。
万葉集とは1年の差があります。この差は私とっては無視ができません。どちらが正しいのか,それともどちらも間違っているのか,非常に気になります。
私は万葉集の方が正しいような気がします(単なる直感ですが)。続日本記では,どうしても志貴皇子は霊亀元年(元正天皇即位時)に死んだとすると何か都合の悪い理由があったのではないかと感じます。
話を志貴皇子の子とされる光仁天皇に戻しましょう。宝亀元(770)年10月に62歳という非常に高齢で即位し, 天応元(781)年4月まで10年半に渡って天皇を務めたと続日本記には出ているそうです。
同記によれば,家持はこの間にそれまでにない異常なスピードで昇進をどけているのです。
天平17(745)年に従五位下となった後,宝亀元年に正五位下になるまでの25年の間,一つしか官位が上がらなかった家持ですが,宝亀2年には従四位下へ2段階昇進。
宝亀8年には従四位上,同9年には正四位下に昇進。同11年には参議に。天応元年に正四位上,同年従三位に昇進し,延暦2(783)年中納言となり,左大臣,右大臣に次ぐナンバー3の公卿となるのです。
これを見ると家持がいかに光仁天皇に気に入られていたかが想像できます。
光仁天皇の時代は天変地異(地震,噴火,干ばつ,風水害,疫病,飢饉など)が多数発生し,宮廷にとっても対応にかなり苦慮したい時期であったと考えられます。このような時,政争や権力闘争ばかりに走る野心家より,さまざまな地方で苦労をしてきて,大伴氏をしっかりまとめている家持のような経験豊かな人材が必要だったのではないでしょうか。
そして,家持は光仁天皇時代,天皇の後援を受け,家臣や役人を使い天平宝字3(759)年まで自らが収集していた和歌やその注釈を万葉集の形にまとめたと私は勝手に仮想しています。
万葉集の和歌には,天武系の皇族が力を持っている時代には,とても公表できないような和歌がいっぱいあると私は感じています。
光仁天皇と万葉集(家持)との関係について,私はこれからも興味を持って調べてみようかと考えているのです。
2013夏休みスペシャル‥「山梨市の万葉の森を訪ねる」に続く。797>
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