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2013年1月5日土曜日

年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(4:まとめ)」

昨日は会社に出ていてアップてきませんでした。そろそろお正月気分も抜けてきましたので,本シリーズは今回で終わり,次回から「今もあるシリーズ」に戻ります。
さて,万葉集の新春の和歌を完全踏破すると初回に書きましたが,新春の和歌は万葉集でたくさんあります。残った和歌は来年に回しますが,残りの多くは「梅」や「鶯」を詠んだものです。新暦の正月はさすがに両方とも早いので,今回はパスしました。「梅は花屋さんでもう売っているぞ」とお怒りの方ごめんなさい。
今回は本シリーズの最後として3首の短歌を紹介します。
これは天平勝宝6年1月4日に大伴家持(当時36歳)邸で行われた正月の宴で左兵衛督(さひやうゑのかみ)大伴千室(ちむろ),民部少丞(みんぶのしやうじょう)大伴村上(むらかみ),左京少進(さきやうのせうしん),大伴池主(いけぬし)が詠んだ短歌です。
家持は越中国主を無事終え,少納言に昇進していました。政治は橘諸兄の力が陰り始め,藤原仲麻呂の台頭が著しい時期です。仲麻呂は大伴氏をはじめとする諸兄派を衰退させようと策略を駆使してきます。
そんな時期に,大伴氏の各部署(軍部,民部,京職)にいる中堅官僚たちが家持邸に集まった訳ですから,どんな和歌を詠むか興味が尽きません。私は単なる賀春の歌ではないとにらみます。
まず,千室の短歌からです。

霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く(20-4298)
しものうへにあられたばしり いやましにあれはまゐこむ としのをながく
<<霜の上に霰が飛び散るとき,これまで増して私は家持殿のところに参ります,何年も>>

軍部に属していることもあるかも知れませんが,ちょっと悲壮感が漂いますね。それだけ,大伴氏の置かれている厳しい状況が伝わってきます。そんなときこそ大納言であった旅人の息子のリーダ格家持を中心に団結しようという千室決意を私は感じます。
次は,村上の短歌です。

年月は新た新たに相見れど我が思ふ君は飽き足らぬかも(20-4299)
としつきはあらたあらたに あひみれどあがもふきみは あきだらぬかも
<<年月は1年1年新たになり,こうして新年に繰り返しご挨拶しても私が大切に思う家持殿にはずっとお会いしたい気持ちはなくなりません>>

村上も家持の下での忠臣を誓います。
そして,最後は越中で家持が国主として赴任した最初頃,判官である(じやう)として一緒にいた池主の登場です。

霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとぞ思ふ(20-4300)
かすみたつはるのはじめを けふのごとみむとおもへば たのしとぞもふ
<<霞立つ初春に今日のようにご挨拶できると思えば楽しく思います>>

恐らく池主は千室,村上よりも年上で,家持の立場と気持ちを一番理解している人物だったと私は思います。越中では家持と多くの和歌を詠んだ仲ですから。
「まあまあ抑えて抑えて」と冷静な対応で進もうという池主の気持ちだったのでしょう。ただ,大伴氏や家持を守るためには命を賭しても構わないという秘めたる気持ちは家持の盟友池主が一番だったと私は思います。
これに対して家持は主人としての返歌を万葉集に残していません。普通なら残すはずです。詠ったけれど残さなかったのか,詠わず自分の意思を示さなかったのか,謎は尽きません。
私は詠ったけれど残さなかった方に掛けます。その残されなかった短歌が,3年後に勃発する橘奈良麻呂(橘諸兄の息子)の乱でこの中の何人が命を落とすことを防ぐことができなかったことがあったかもしれないからです。
家持は,その乱以降は様々な宴(藤原仲麻呂が主導した宴?)の歌を万葉集に残します。
乱の翌年7月,今度は家持が因幡国主として京を離れ,翌年元旦に本シリーズの冒頭に示したいろいろな思い(祈り)を込めた初春の短歌(20-4516)を最後に和歌の記録を閉じるのです。
今もあるシリーズ「市(いち)」に続く。

2013年1月3日木曜日

年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(3)」

あっという間に正月3が日も過ぎようとしています。それでは,さっそく万葉集新春の和歌の3回目に入ります。
今回は,天平16(744)年の1月5日と11日に詠まれた短歌を紹介しましょう。どれも元旦から少し過ぎていますが,新年の祝いの歌です。

我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ(6-1041)
わがやどの きみまつのきにふるゆきの ゆきにはゆかじまちにしまたむ
<<私の家の貴殿を待つ松の木に降る雪ですが,私は雪のように行くのではなく,松の木ように貴殿をずっとお待ちしましょう>>

この短歌は,久邇(くに)京恭仁京とも書く)にある安倍虫麻呂(あべのむしまろ)邸で開かれた宴席の出席者のひとりが詠んだとあります。
は古来長寿を象徴する木として尊ばれていたようで,新年の縁起の良い木として和歌でもよく詠まれるようです。今回はこの宴にお招きを受けたので,次はぜひ自分の家に来てくださることをお待ちしていますといった背景で詠まれた短歌でしょうか。
久邇京は新しく作られた都ですから,きっと住んでいる人の家や庭はみな新しく,きれいだったと私は想像します。自分の家や庭を見せたかったのかもしれませんね。
次の2首は1月11日に詠まれたとされているやはり松を詠んだ短歌です。

一つ松幾代か経ぬる吹く風の音の清きは年深みかも(6-1042)
ひとつまついくよかへぬる ふくかぜのおとのきよきは としふかみかも
<<一本松よ,何世代を経たのか。吹く風の音が清らかなのは齢を重ねて来たからなのだろう>>

この短歌は市原王(いちはらのおほきみ)が久邇京の活道(いくぢ)の岡に登って一株の松の下(もと)に集い,宴を開いたときに詠んだとされています。季節はまだ寒い時期ですからさすがに野外で宴をしたとは考えにくいので,一本松が見える近くの館で行ったのでしょう。
松の老木を題材にしていますが,出席者の中には年配の主賓がいて,その人を意識して詠んだのかもしれません。なお,一説には安積親王(当時:16歳)の長寿を願ってという説もあるようですが,この宴と安積親王無関係だろうと私は考えています。風の音が清いという喩えで,年を重ねるごとに尊敬の念が高くなるお人柄になっていかれると持ち上げているように私には感じ取れます。
次に同じ宴席にいた大伴家持(当時:26歳)が続けます。

たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ(6-1043)
たまきはるいのちはしらず まつがえをむすぶこころは ながくとぞおもふ
<<この一本松の命の長さは不明ですが,松の枝を結ぶ心は長く続いて欲しいと思います>>

当時,松の枝を結ぶまじないは,(命,恋人の関係,幸せなどが)長い間続くことを願う場合にしたようです。
ただ,万葉人は命も,幸せなことも,ときめく恋もいつまでも続かないことを知っていたと私は思います。だからこそ,万葉人は祈るのです。願うのです。
<祈るとは>
人がどうにもならないことを知ったとき,祈ることが必要だと私は思います。祈ることができない人は,うまくいかないことを他人のせいにしたり,自分のせいにしたりして,自分も含めた人間嫌いになる方向に向ってしまう気がします。
他人のせいでも,自分のせいでもないことが世の中にはある。それを「運」と呼ぶことにすると,「運」は確率的な事象といえます。良い運がより多くなるように,そして悪い運がよく少なくなるよう努力する。それでも悪い運が発生する確率をゼロにすることはできないのです。逆に,運悪く悪い出来事が続いても,次も悪い事象が来る確率は1(必ず悪い事象が発生する)ではないのです。
祈るとは,良い運がより多くなるよう努力し,その結果がその通りなってほしい(そうならない可能性がゼロではないから)と願うことだと私は思います。祈っても叶うとは限らないから祈らないのではなく,叶わないことがあるからこそ自分のもつ潜在的パワーの可能性を信じて祈るのです。すべてのことが完全に予測できる(運という言葉が死語になる)まで祈りは必要だと私は考えます。
さて,天の川君がこのブログで予測不可能な変な割り込みを入れないことを祈りますか。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(4)」に続く。

2013年1月1日火曜日

年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(1)」

みなさん,新春のお慶びを申し上げます。本年もこのブログを継続してアップしていきます。よろしくお願いいたします。
万葉集には新春の短歌が何首かありますが,今までほとんど取り上げてきませんでした。お正月のスペシャルとして万葉集新春の歌完全踏破と行きましょうか。
まずは,万葉集で新年の歌と言えば,万葉集最後の和歌である,天平宝字(759)3年元旦大伴家持(当時41歳)が詠んだ次の短歌でしょう。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(20-4516)
あらたしき としのはじめのはつはるの けふふるゆきのいやしけよごと
<<新年の始めである初春の今日,降っている雪のようにたくさん積み重なってほしい,よいことが>>

この短歌に対しては,新しい年になり,真っ白な新雪が降り積もっている様子から「今年は本当に良い年にしよう」という前向きな意図を私は感じたいです。私も吉事がいっぱいあるように,体調管理を徹底し,やるべきことをしっかりこなしていきたいと考えています。
時代はさかのぼりますが,次は天平勝宝3(751)年正月に同じ家持(当時33歳)が越中で詠んだ新年の短歌です。

新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが(19-4229)
あらたしきとしのはじめは いやとしにゆきふみならし つねかくにもが
<<新しい年の初めは毎年雪を踏みならして(人が集まるよう)、いつもそうしたいものだ>>

越中赴任4年半となり(この年平城京に帰任),土地の人たちとも仲良くなり,正月には多くの人が越中の家持邸を訪れたに違いがありません。精神的にも越中の風土が彼にあったのか,多くの和歌を詠んでいます。そんな家持の気持ちの上の安定感を感じさせる1首です。
さらに時代はさかのぼりますが,天平18(746)年に葛井諸会(ふぢゐのもろあひ)もう1首新年の歌を紹介します。

新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは(17-3925)
あらたしきとしのはじめに  とよのとししるすとならし ゆきのふれるは
<<新しい年の初めに豊かな実りの予兆なのでしょう。こんなに雪が降ったのは>>

この短歌は元正太上天皇橘諸兄藤原仲麻呂とそれぞれの配下の人たちを集めて正月に宴を開いたとき,太上天皇が前日降った大雪について参加者の若手に詠むよう促したことに対し,参加者の一人諸会が詠んだものです。
実は,この席に家持(当時28歳)もいて,同様に次の短歌を詠んでいます。

大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも(17-3926)
おほみやのうちにもとにも ひかるまでふれるしらゆき みれどあかぬかも
<<大宮の内も外も白く光るまで降った白雪はいつまでも見飽きないものです>>

この短歌,少し突っ込みどころがあります。「大宮の内・外は光っていない(政治は腐敗し,民衆は清潔な暮らしができていない)。白雪はそれを隠してくれているだけ」と藤原仲麻呂あたりから体制を批判している歌だと指摘をされたらどうでしょう。この半年後,家持は越中に飛ばされることになります(この短歌が原因かどうかはわかりませんが,雪深い越中に)。

天の川 「そうやな。口は災いの素やさかい。たびとはんこそ,ちゃんと気を付けなはれや。うぃ~っ。お屠蘇もう一杯!」

もう10杯以上呑んでいるくせに,突っ込みどころだけは分かっている天の川君には今年も悩まされそうです。まったく。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(2)」に続く。