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2013年3月8日金曜日

当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(5):防人作」

<イタリア旅行報告5>
今日,ミラノ空港から日本に戻ります。
あっという間のツアーでした。とにかく,イタリアの歴史,自然,食事を十分に満喫できた旅でした。
イタリアからの最後の投稿になります。天の川君もワインの飲み過ぎで暴れることもなく,帰国できそうです。ところで,今回のツアーの参加者は40名近い人数でした。たくさん日本からのツアーも来ていましたが,こんなに多くの参加者による別のツアーは見かけませんでした。ミラノでレオナルドダビンチ作の「最後の晩餐」を確実にみられるツアーであったことも満席になった理由かもしれません。
私のツアーの参加者は日本各地からの(23歳から80歳の)老若男女でした。その方々との語らいも大変楽しかったです。
ピサ(男性)とベローナ(女性)の現地人ガイドは素晴らしかったです。お二人とも日本語の発音をわざとイタリア人風に訛らせて,全員を笑わせるうまいジョークを随所に交えながら解説してくれました。日本人ガイドも見習うべきだろうと感じました。
フィレンツェの展望(天の川君がフレームのつもりで手を出していますが,ご容赦を)と天使の足が倒れるのを防いでいるピサの斜塔の写真をアップします。
さて,羈旅シリーズは第5弾まできました。旅の情景を詠んだ防人歌を紹介します。
まず,旅の長さを詠んだ1首からです。

百隈の道は来にしをまたさらに八十島過ぎて別れか行かむ(20-4349)
<ももくまのみちはきにしを またさらにやそしますぎて わかれかゆかむ>
<<いくつも曲がった道を来て,またさらに多くの島を過ぎて,愛しい家族から遠くに別れ行くのだ>>

この短歌の作者は,安房の国出身の刑部三野(をさかべのみつの)というリーダ格の助丁(すけのよぼろ)です。本当は,悲しい,寂しい,不安だ,怖いなどと心情を詠みたいのでけれど,リーダらしく事実だけを詠んでいます。が,それがかえって旅路の厳しさを私には教えてくれます。
次は,防人歌では珍しい長歌です。

足柄の み坂給はり 返り見ず 我れは越え行く 荒し夫も 立しやはばかる 不破の関 越えて我は行く 馬の爪 筑紫の崎に 留まり居て 我れは斎はむ 諸々は 幸くと申す 帰り来までに(20-4372)
<あしがらのみさかたまはり かへりみずあれはくえゆく あらしをもたしやはばかる ふはのせきくえてわはゆく むまのつめつくしのさきに ちまりゐてあれはいははむ もろもろはさけくとまをす かへりくまでに>
<<足柄の神坂で振り返りもせず,私は越えて行く,荒くれ男も立ちはばかる不破の関も私は越えて行く,筑紫の崎では立ち止まって私は慎み祈る。私が帰って戻るまで,いろいろ幸運が残した家族に多くありますようにと>>

この長歌は,倭文部可良麻呂(しとりべのからまろ)という,常陸の国(今の茨城県)出身の防人が詠ったものとされています。この作者,特に何の役職も記されていませんが,なかなかの歌人だと私は思います。また,旅の途中の場所や云われをよく記録(記憶)している頭の良い防人だとも私は想像します。
私は,今ミラノ空港にいます。イタリアの各地や隣国を回ってきたいくつかツアーが同じ飛行機に乗ります。添乗員も顔見知りがいるらしく,情報交換をしています。
しかし,成田空港では10日間一緒にいたツアー参加者ともお別れです。国内線に乗り継ぐ人,スカイライナーや成田エクスプレスで帰る人,空港リムジンバスで帰る人など様々な方面に向かい,明日からの通常の人生の旅にわかれていきます。
最後は,そんな雰囲気を伝える下野の国(今の栃木県)出身の神麻續部嶋麻呂(かますべのしままろ)が詠んだとされる防人歌です。

国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし(20-4381)
<くにぐにのさきもりつどひ ふなのりてわかるをみれば いともすべなし>
<<各地の防人が集い船に乗り別れて行くのを見るのはなんとも切ない>>

さあ,ミラノから成田への飛行機の搭乗時間が近づきました。次は日本に着いたらアップします。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(6):高市黒人」に続く。

2013年1月14日月曜日

今もあるシリーズ「車(くるま)」

<万葉時代のロジスティックス>
万葉時代,日本の各地に国分寺や国府が作られ,京(みやこ)と地方で道や街道を経由して多くの物資が行きかうようになります。
人が籠(かご)などを担いで持って行ける量は限らけれているため,大量輸送のニーズが高まると人ひとりの力より多くの荷物を輸送するため,何らかの工夫が必要になります。たとえば,馬の背中に荷物を載せるようにすると,100㎏以上の荷物を載せても馬は何時間でも難なく運びます。
ただし,馬は所有するなら厩(うまや)を用意する必要があり(自動車の駐車場と同じ),エサも与えなければなりません。当時として手軽に利用できるものではありません。
<車輪を持つ貨車のニーズ>
そうすると,人間の力で担ぐのではなく,引いたり押したりしてスムーズに動いてに重い荷物を運べる道具が必要になります。それが荷車や人が乗る車台です。
ところで,車という字があてられるのは,車輪がついているからです。車輪は紀元前2千年頃には中国で使われていたらしく,万葉時代には中国から車輪の製造技術は日本に入っており,車輪のついた車が高価ではあるけれども品質の優れたものが使われていたものと私は考えます。
直後の平安時代になると,平安絵巻に出てくる牛車(ぎっしゃ)のように,乗り心地がよさそうで,美しく飾り立てられた車ができていたほどですからね。
さて,万葉集で車を詠んだ歌はそう多くありません。まずは穂積皇子(ほづみのみこ)の孫である廣河女王(ひろかはのおほきみ)が詠んだとされる短歌からです。

恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から(4-694)
<こひくさをちからくるまに ななくるまつみてこふらく わがこころから>
<<恋という草を力車七つ分積むほど恋しく思うのは,ほかならぬ自分の心ゆえなのだ>>

力車とは人の力で引く車のことです。その車7台に草を満載したものを引くほど,苦しい恋をしている自分が情けない,といった思いから詠んだ短歌でしょうか。この短歌の車7台を意味する七車を恋の苦しさにたとえる表現方法は,後の短歌に影響を与え後世の歌人が七車という言葉を短歌に使っているようです。万葉集では後世の和歌作成で参考にされるような,いろんなたとえで恋の苦しさを表現している和歌がたくさんありますが,これもその1首ですね。
さて,もう1首長歌の後半の一部を紹介します。作者は同長歌の題詞によると竹取翁と呼ばれていた老人となっています。有名な「竹取物語」の竹取の翁との関係は私にはわかりませんが,内容は直接的に関係はなく,竹取の翁の物語は当時いろいろなストーリがあったのかもしれません。

~ いにしへ ささきし我れや はしきやし 今日やも子らに いさとや 思はえてある かくのごと 所為故為 いにしへの 賢しき人も 後の世の 鑑にせむと 老人を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり(16-3791)
<~ いにしへ ささきしわれや はしきやし けふやもこらに いさとや おもはえてある かくのごと しこになりけむ いにしへの さかしきひとも のちのよの かがみにせむと おいひとを おくりしくるま もちかへりけり もちかへりけり>
<<~ 昔(若いころ)はしゃいでいた私だけど,今は若いあなた方に嫌な老人だと思はれているでしょう。どうしてこんなに醜くなったのでしょうか。昔の賢人も後世の人のために,老人を乗せていった車を持ちかえってきたとさ>>

若い娘たちに「今は醜い老人である私も若いころは非常にカッコ良かったのだよ。君たちもいずれ老人になり,若い人から醜い婆さんだと言われることになるよ」と,若い人には老人を大切にすることを諭した教育的な長歌だと思われます。
<老人を乗せる車>
最後に出てくる老人を送る車は,今の車いすのような目的のものではなかったかと私は想像します。ただ,形は,足の不自由な老人を神社や寺院に連れて行ったり,買い物に連れて行ったりするための一人用の車(介護者が引いたり,押したりするもの)があったのではないかと私は思います。
老人を介護する車を後世に残して,老人を大切にしていた記録とすることが賢人によって古来行われてきたと娘たちに伝えたい,そんな教育的意図がこの長歌のまとめとなっているようです。
ところで,古代の車輪の発明により,現代はますますその恩恵に与かっています。車輪がなければ,さまざまな種類の自動車,新幹線を含む鉄道,飛行機(ヘリコプターを除く)は機能しません。また,各種工場の加工過程(ライン)間をつなぐコンベアも車輪がなければ動きません。今の私たちは,自らが受けている車輪の恩恵を改めて感じる必要があると思います。
さて,万葉時代,今のようにヒトを運ぶ車はまだ少なく,載せるものはやはり荷物だったと想像できます。次回はその「荷(に)」を万葉集で見ていきます。
今もあるシリーズ「荷(に)」に続く。

2013年1月1日火曜日

年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(1)」

みなさん,新春のお慶びを申し上げます。本年もこのブログを継続してアップしていきます。よろしくお願いいたします。
万葉集には新春の短歌が何首かありますが,今までほとんど取り上げてきませんでした。お正月のスペシャルとして万葉集新春の歌完全踏破と行きましょうか。
まずは,万葉集で新年の歌と言えば,万葉集最後の和歌である,天平宝字(759)3年元旦大伴家持(当時41歳)が詠んだ次の短歌でしょう。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(20-4516)
<あらたしき としのはじめのはつはるの けふふるゆきのいやしけよごと>
<<新年の始めである初春の今日,降っている雪のようにたくさん積み重なってほしい,よいことが>>

この短歌に対しては,新しい年になり,真っ白な新雪が降り積もっている様子から「今年は本当に良い年にしよう」という前向きな意図を私は感じたいです。私も吉事がいっぱいあるように,体調管理を徹底し,やるべきことをしっかりこなしていきたいと考えています。
時代はさかのぼりますが,次は天平勝宝3(751)年正月に同じ家持(当時33歳)が越中で詠んだ新年の短歌です。

新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが(19-4229)
<あらたしきとしのはじめは いやとしにゆきふみならし つねかくにもが>
<<新しい年の初めは毎年雪を踏みならして(人が集まるよう)、いつもそうしたいものだ>>

越中赴任4年半となり(この年平城京に帰任),土地の人たちとも仲良くなり,正月には多くの人が越中の家持邸を訪れたに違いがありません。精神的にも越中の風土が彼にあったのか,多くの和歌を詠んでいます。そんな家持の気持ちの上の安定感を感じさせる1首です。
さらに時代はさかのぼりますが,天平18(746)年に葛井諸会(ふぢゐのもろあひ)もう1首新年の歌を紹介します。

新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは(17-3925)
<あらたしきとしのはじめに  とよのとししるすとならし ゆきのふれるは>
<<新しい年の初めに豊かな実りの予兆なのでしょう。こんなに雪が降ったのは>>

この短歌は元正太上天皇が橘諸兄や藤原仲麻呂とそれぞれの配下の人たちを集めて正月に宴を開いたとき,太上天皇が前日降った大雪について参加者の若手に詠むよう促したことに対し,参加者の一人諸会が詠んだものです。
実は,この席に家持(当時28歳)もいて,同様に次の短歌を詠んでいます。

大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも(17-3926)
<おほみやのうちにもとにも ひかるまでふれるしらゆき みれどあかぬかも>
<<大宮の内も外も白く光るまで降った白雪はいつまでも見飽きないものです>>

この短歌,少し突っ込みどころがあります。「大宮の内・外は光っていない(政治は腐敗し,民衆は清潔な暮らしができていない)。白雪はそれを隠してくれているだけ」と藤原仲麻呂あたりから体制を批判している歌だと指摘をされたらどうでしょう。この半年後,家持は越中に飛ばされることになります(この短歌が原因かどうかはわかりませんが,雪深い越中に)。

天の川 「そうやな。口は災いの素やさかい。たびとはんこそ,ちゃんと気を付けなはれや。うぃ~っ。お屠蘇もう一杯!」

もう10杯以上呑んでいるくせに,突っ込みどころだけは分かっている天の川君には今年も悩まされそうです。まったく。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(2)」に続く。

2012年11月11日日曜日

今もあるシリーズ「床(とこ)」

「床」という漢字は「とこ」「ゆか」と両方の読みがありますが,今ではフローリングの家庭が多いせいか「床暖房」「床板」「床上浸水」「床張り」など「ゆか」と読む人が多いのかもしれません。
しかし,言葉的には「とこ」と読むほうが多いようです。今も使われる名詞系の熟語をあげます。建設用語や農業に関する用語も多く出てきます。

「鉄床」「床上げ」「床入り」「床覆い」「床飾り」「床固め」「床框(がまち)」「床挿し」「床締め」「床擦れ」「床土」「床箸」「床柱」「床払い」「床間」「床万力」「床屋」「床山」「床脇」「苗床」「寝床」「野床」

動詞形の熟語は次のようなものがあります。

「床に就く」「床をあげる」「床をとる」

万葉集では床は次のような使われ方(熟語)で出てきます。

朝床(あさとこ)‥朝まだ起きていないでいる寝床
荒床(あらとこ)‥硬くごつごつした寝床
岩床(いはとこ)‥岩の面が平になっているところ
奥床(おくとこ)‥家の奥にある寝床
玉床(たまとこ)‥寝床の美称
床じもの‥床のように
床辺(とこへ,とこのへ)‥床のあたり
外床(とどこ)‥入口に近い所にある寝床。外側の寝床。
夜床(よとこ,ゆとこ)‥寝床。
小床(をどこ)‥小さな寝床。

では,どのように床が詠われているか,万葉集からいくつか見ていきましょう。

彼方の埴生の小屋に小雨降り床さへ濡れぬ身に添へ我妹(11-2683)
<をちかたのはにふのをやに こさめふりとこさへぬれぬ みにそへわぎも>
<<田舎の土でつくった小屋は,少しの雨でも降ると雨漏りが激しく寝床まで濡れてしまう。おれにぴったりと寄り添って寝て寒さを防ごうよ,おまえ>>

この短歌の作者(不詳)は,妻問いをするような中流階級以上ではなく,毎日夫婦で生活する農業を営んでいるような身分だったのだろうと私は想像します。
<当時の貧しい夫婦は?>
木や萱などで屋根を葺いた天漏れのしない家ではなく,土壁で囲い,屋根も土と藁か干し草を混ぜたようなものをのせただけで,ひび割れた個所から天漏れがひどかったのだのでしょう。でも,床で身を寄せ合って耐える仲の良い夫婦の様子が見えてきそうです。
<今は?>
今,こんな天漏れのひどい家に住んでいたら夫婦仲は仲が良くなることは恐らく無いでしょうね。不満が爆発し,喧嘩してどちらかが親元に帰るようなことになるでしょう。
現代では,結婚するまでに豊かさを満喫した経験を持つ人が多く,結婚後それより大幅に悪い暮らしになるる予想されると,たとえ大恋愛をして結婚を前提に考えようとしたとしても,結婚まで踏み切れないのかもしれません。今の世の中,独身者が多くなっているのは,そんなことが原因なのでしょうか。
<幼い頃の貧しさと豊かさ>
万葉時代の庶民は,恐らく親は子供には幼いころから過酷な仕事を手伝わせたり,喧嘩相手の兄弟が多く,今のように親に庇護され育つ家庭にように自宅が安楽の地と感じることはなかったと私は思います。そのため,子供は誰もが結婚して自分の家庭を持ち,自活することのほうが,たとえどんなに苦しく,つらい状況ても自宅で親といるより夫婦にとって幸せと感じられたのではないでしょうか。
若いころ一度豊さを味わってしまうと,それが前提となり,豊かさが少しでも減ると不幸だとどうしても感じてしまうのは人間の性と言わざるをえないのでしょうね。私は,森鴎外の「高瀬舟」に出てくる喜助のようなとことん「足るを知る」人間には到底なれませんが,喜助の話を聞いて心を動かされる庄兵衞の気持ちはよく分かります。
さて,次は東歌(女性作)で,ほのぼのさを感じる短歌です。

港の葦が中なる玉小菅刈り来我が背子床の隔しに(14-3445)
<みなとのあしがなかなる たまこすげかりこわがせこ とこのへだしに>
<<港に生い茂る葦の中から美しい菅草を刈取ってきてください。それを二人の床に敷きましょう>>

万葉時代,一般庶民の家の床は,単なる木の板を並べたものか土を固めて平らにしたものだったのかもしれません。
布団のようなものはなく,そのままでは硬くて,冷たくてとても安らかに寝られるものではなかったと私は思います。
恋人と気持ちよく共寝ができるように美しくて可愛い小菅をいっばて敷き詰めてほしいというお願いをして,相手の男性の来るのを待っている気持ちを表していると私は感じます。
最後に,柿本人麻呂が妻の死を悼み詠んだ挽歌の中に出てくる悲しい短歌を紹介します。

家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕(2-216)
<いへにきてわがやをみれば たまどこのほかにむきけり いもがこまくら>
<<家に戻り共寝した部屋を見ると,妻が寝ていた床の外側(家の入口に近い方)に置いてある妻の木枕があった。その木枕を使う妻は居ないのだ>>

妻は先に床に入り,夫は後から入るため,妻の枕は内側(入口が遠い方)に置き,夫の枕は外側(入口に近い方)に置くのが慣習だったのではないかと私は想像します。最愛の妻がこの世を去った悲しみを,共寝をした床を見るごとに「もう一緒には寝ることはできない」とい寂しさを感じ続ける自分と併せて表現しています。人麻呂のプロフェッショナルな表現力を改めて感じる秀歌です。
さて,朝床を出ると朝ご飯を食べますね。次回は飯(めし)を取り上げます。
今もあるシリーズ「飯(いひ)」に続く。

2012年9月16日日曜日

今もあるシリーズ「櫛(くし)」

頭髪を整えるとき,ブラシを使うことが多くなりましたが,今もまだ多くの人が「櫛」を携帯しているようです。私もその一人で,中国で滞在したホテルのアメニティの竹製櫛を携帯しています。
もちろん,床屋さんが頭髪,ひげ,眉毛をカットする際に,必須品だと思います。ホテルのアメニティ以外に,スポーツ施設の浴場などの洗面台に置いてあるのを多く見かけます。
万葉集で櫛に関する和歌(枕詞の「玉櫛笥」も含む)は約30首あります。
その内、櫛自体を詠んだ和歌は8首と少なく,後は「櫛笥」(櫛を入れる化粧箱)または「奥」「ふ」「み」「覆ふ」「ふた」「開く」にかかる枕詞「玉櫛笥」に関するものです。

玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも(2-93)
<たまくしげおほふをやすみ あけていなばきみがなはあれど わがなしをしも>
<<二人の仲を隠す(覆う)のはたやすいと夜が明け,明るくなりきってからお帰りになるなんて、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ>>

この短歌は,鏡王女が藤原鎌足(614~669)に贈った1首です。それに対して,鎌足は同じく玉櫛笥を枕詞に次の短歌を返しています。

玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ(2-94)
<たまくしげみむろのやまの さなかづらさねずはつひに ありかつましじ>
<<三室山のさな葛ではないが、さ寝ず(共寝せず)に最後まで(夜が明けるまで)待たせるなんてありえないでしょう>>

さて,どちらの言い分が正しいのか? それとも,余りに楽しい妻問の時間であっという間に朝になり,お互い相手のせいにしてさらに楽しんでいるのかもしれませんね。
いずれにしても,枕詞に「玉櫛笥」が7世紀に使われているということは,その中に入れる「櫛」も貴族の中では日常品として使われていたのだと私は思います。
では,櫛そのものを詠んだ短歌を紹介します。

からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(16-3832)
<からたちとうばらかりそけ くらたてむくそとほくまれ くしつくるとじ>
<<カラタチとイバラを刈って倉庫を建てるから,この近くでトイレをしないでほしいなあ,櫛を作るお姉さんたちよ>>

なんと,品のない短歌でしょうか。また,宴席でさまざまなものの名前を入れて即興で詠うことが流行っていたのでしょうか。
カラタチもイバラもトゲがあります。櫛やその他の工芸品などを作っている工場では,工員の女性用トイレを人が入りにくい,トゲのある植物で囲まれた場所に作っていたのかもしれません。
そうして,そのような背景を踏まえて,倉,屎,櫛とすべて「く」で始まる言葉を入れ,酒に任せて忌部首(いみべのおびと)という人物が詠んだとされています。
万葉時代には,櫛を大量に生産する手工業の工場がすでにできていたのかもしれないと私は想像します。
最後に,もう1首大伴家持が櫛を詠んだ興味深い短歌を紹介します(この短歌は昨年3月12日の投稿でも紹介しています。)。

娘子らが後の標と黄楊小櫛生ひ変り生ひて靡きけらしも(19-4212)
<をとめらが のちのしるしと つげをぐし おひかはりおひて なびきけらしも>
<<兎原娘子(うなひをとめ)の言い伝えのしるしとして黄楊の小櫛が木に生え変わって伸び栄え風に靡いているのだ>>

この短歌から,万葉時代,櫛の材料としてツゲがあったことがわかります。ツゲは非常に成長が遅い代わりに木が固く変形しにくいため,櫛にはもってこいの木材なのです。
しかし,固い材質ほど加工が難しいですが,高度な加工技術がすでに確立し,多くの専門の刀自たちによってけっこう大量に製作されていたのでしょう。
現在も「つげ櫛」は高級な櫛の代名詞となっているようです。
今もあるシリーズ「衾(ふすま)」に続く。

2012年6月30日土曜日

対語シリーズ「天と地」‥天に昇れば大地に落ちる危険性もある


今回は,見上げる「天」と見下ろす「地」について,万葉集を見て行きましょう。
まず山上憶良が詠んだとされる長歌を1首紹介します。

父母を見れば貴し 妻子見ればめぐし愛し 世間はかくぞことわり もち鳥のかからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を脱き棄るごとく 踏み脱きて行くちふ人は 石木よりなり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば汝がまにまに 地ならば大君います この照らす日月の下は 天雲の向伏す極み たにぐくのさ渡る極み 聞こし食す国のまほらぞ かにかくに欲しきまにまに しかにはあらじか(5-800)
<ちちははをみればたふとし めこみればめぐしうつくし よのなかはかくぞことわり もちどりのかからはしもよ ゆくへしらねば うけぐつをぬきつるごとく ふみぬきてゆくちふひとは いはきよりなりでしひとか ながなのらさね あめへゆかばながまにまに つちならばおほきみいます このてらすひつきのしたは あまくものむかぶすきはみ たにぐくのさわたるきはみ きこしをすくにのまほらぞ かにかくにほしきまにまに しかにはあらじか>
<<父母を見れば尊敬の念を抱き,妻子を見れば可愛く,愛おしくてたまらない。世の中にはこうした道理がある。とりもちの罠にかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難いのだ。にもかかわらず,行末も分からない世の中だからといって,穴のあいた沓を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は,非情の石や木と同じ生まれだろうか。蒸発したおまえは誰なのか。天へ行ったなら,思いのままにするがよい。ただし,この地上は大君が治めている。太陽と月が照らすこの国は,雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君が統治している国土なのだ。逃げて思いのままにしたいと,おまえは思うかもしれないが,いつまでもそんな訳には行かないだろう>>

今の日本は,大君(天皇)が治めるのではなく,法治国家です。それでも「大君」を「法」に読み替えれば,まさに現代の世の中でもまったく古さを感じない長歌だと思いませんか?
<1,300年前も同じ>
事件の報道を聞くにつけ,自分を産んでくれた父母に対して尊敬の念を抱かないどころか,気に入らないので殺してしまう子供がいる。
いっぽう,自分の楽しみを奪う邪魔者だからと子供を虐待したり,殺してしまう父母がいる。
また,自分達の思想や行動を邪魔するものは抹殺するというテロリズム的行動も依然無くなっていません。
「道徳教育」というと戦前の軍国主義と結くというイメージがあり,また,超近代化社会では新しい技術や用語を教えるだけで古い倫理観をじっくり教えていくことの優先度が低くなってしまうのは,ある程度仕方ないことかも知れません。また,価値観の多様化によって,ベースとなる倫理観自体の有効な教育の困難性も増しているようにも思います。
実は,私もコンサーバティブ(保守的な)より,イノベーション(革新,改革)という言葉にポジティブなイメージを持つ人間の一人です。
<歴史的教訓は簡単には捨てられない?>
ただ,どんなに革新的な社会であっても古い考え方を全面的に否定して成り立っているのではないと私は思うのですがどうでしょうか。私は常にイノベーションを積極的に考えることと,古くて良いこと(モノ,考え方)をすべて捨て去ることとは同じではないと考えています。
本当の意味のイノベーションは,古いて良いモノは残し,時代に合わなくなってモノは捨て,斬新な考えやモノを積極的に導入する。その時,捨ててしまう古いモノが無くなってしまうことによるデメリット,新しい考えやモノを導入するときに発生しうる変化のリスクを正しく評価という手順を踏んで,やっと実施に移す。
そして,イノベーションを起こす人達(リーダーもメンバー)すべてがその手順の過程(ストーリ)を共有していることこそ,初めてイノベーションが成功できる要因なのだというのが私の考えです。
「ゆっくり考えるなんて悠長なことは言ってられないのだ。失敗を恐れずに何でもいいからチャレンジするんだ!突き進め!」と発破を掛けられ,失敗だけで済むなら良いのですが,失ってはならない貴重なモノまで失ってしまっては本も子もありません。
憶良の上の長歌に対する反歌を続けて紹介します。

ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに(5-801)
<ひさかたのあまぢはとほし なほなほにいへにかへりて なりをしまさに>
<<現状から逃避する天の道は遠い(逃避は結局できない)。黙々と家に帰って自分の仕事をしなさい>>

現状や現場をしっかり見て,着実により良くする(改善)ことが,実は本来のイノベーションなのです。地に足を着けて,難しい状況の中で改善を続けられることは本当に素晴らしい改革なのです。
現状を全面否定し,そこから逃げ出し,一足飛びに解決できることを探す(天の道を探す)ことは簡単に見えますが,結局はそんな道(ショートカットパス)は見つからないことの方がはるかに多いのです。
憶良が伝えたかったのは,そんなことではないかと私は思います。
堅い話が続きましたが,うれしいときや楽しみが近づいているとき,天にも昇る思いや地に足が付かづ,ふあふあした気持ちになることがありますね。

立ちて居てたどきも知らず我が心天つ空なり地は踏めども(12-2887)
<たちてゐてたどきもしらず あがこころあまつそらなり つちはふめども>
<<立ったりすわったりして,どうしていいかわからず,私の心はまるで天空を舞っているようです。しっかり地を踏んではいるのだけれど>>

この詠み人知らずの短歌は,恐らく恋人がやってくるのを心待ちにしていて,落ち着かない状態を詠んだのでしょう。
来週は七夕です。こんな気持ちで心待ちにしている人もいるかもしれません。その期待が実現し,多くの牽牛と織姫のデートが実現するといいですね。

対語シリーズ「逢うと別れ」に続く。

2012年5月27日日曜日

対語シリーズ「拾ふと捨(棄)つ」‥捨てる神あれば拾う神あり


<1神教でない日本のことわざ>
「捨てる神あれば拾う神あり」という有名な諺があります。自分の味方になってくれず遠ざけるしかない人もいれば,自分の味方になってくれて近しい関係になれる人もいるといった意味でしょうか。
すごく苦手な人や話が合わない人がたくさんいても,きっとどこかに自分を理解してくれる誰かがいると信じ,くよくよしないことを諭している諺のようです。
<苦手な人から逃げない>
若い頃の私は苦手な人とは付き合いを避けて(捨てて)いました。年齢を重ねた最近でも,どうしても苦手な人が私にはいます。しかし,今はそういった人を避けるのではなく,普通に付き合おうと努力しています。
当然苦手ですからコミュニケーションが円滑に進まないことが多々ありますが,「もう~。またかよ~?」と心の中で愚痴を言いながらも,我慢して付き合います。それを繰り返していくうちに,苦手意識は無くなるわけではありませんが,結果の悪さも予想の範囲内に収まるようなってきます。
<仲が良くても一定の距離は必要?>
逆に拾う神のコミュニケーションが円滑に進む近しい人には,無理してお互い相手に合わせていないか検証します。もし,仲の良さを維持するためだけに自分の本心と違うことを言っているようだと敢えて考えの違いを強調させることがあります。
当然それをやると今までの親しい関係が崩れるリスクの発生する恐れがありますが,より強いお互いの関係を築くためには避けて通れないものだと私は考えています。
さて,万葉集では「拾」の漢字を当てる和歌は20首余りあります。その多くが万葉仮名でも「拾」という字を当てています。いっぽう,「捨」か「棄」の漢字を当てる和歌は8首のみです。
「拾」は,20首あまりありますが,拾う対象は「玉」「貝」の2種類のみです。「捨」「棄」は,捨(棄)てる対象は「命」「古着」「子供」「我」「破れ薦」です。また「沓を脱ぎ棄てる」という表現もあります。
まず「拾」の和歌を紹介します。「玉を拾う」詠み人知らずの長歌です。

沼名川の底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく惜しも(13-3247)
<ぬながはのそこなるたま もとめてえしたまかも ひりひてえしたまかも   あたらしききみがおゆらくをしも>
<<沼名川の底にあるという玉。探し求めて得られる玉なのか川底から拾って得られる玉なのか。可愛い君が年をとって老いるのが惜しい>>

沼名川は長野県白馬村から新潟県糸魚川市へ北向し日本海に注ぐ姫川といわれているそうです。その川では昔から翡翠(ヒスイ)の産地のようで,その翡翠はそれを掛けると不老不死になるという評判があった玉のようでした。
その川まで行って,その玉を何とかして探し,年老いて行く最愛の妻に贈っていつまでも若くいてほしいという気持ちが表現されています。拾うはその川のどこかにきっとあるという意味で使ったのだと私は感じます。
次は旅立つとき,家族から綺麗な貝を拾ってお土産に持って帰って欲しいとせがまれ,その貝を拾おうとしている詠み人知らずの短歌(古歌)です。

つともがと乞はば取らせむ貝拾ふ我れを濡らすな沖つ白波(7-1196)
<つともがと こはばとらせむ かひひりふ われをぬらすな おきつしらなみ>
<<お土産とねだてられたら貝を拾っている私をそう濡らさないで欲しい。沖から寄せてくる白波よ>>

こういった歌が昔に詠まれたとあると当時の人もその地に行ってみたいと思うのではないでしょうか。波は荒いがきっと綺麗な真珠が採れるのではないかと期待して。
さて,次は捨(棄)てる方の歌(山上憶良作)を見てみましょう。

富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも(5-900)
<とみひとのいへのこどもの きるみなみくたしすつらむ きぬわたらはも>
<<金持ちの家の子は余るほどの着物を持っていて,持ち腐れにしては捨てている。それも綿入りの絹物をだ>>

万葉時代,律令制のよる出世意欲を煽るため,高級官僚と下級官僚との間,さらに農民やそこから駆り出される労働者との間の貧富の格差は非常に大きなものがあったのでしょう。
憶良はそんな世の中を憂い,無駄はやめ,富の再配分により,多数の中間層ができることを願ったのだろうと私は思いたいのです。そうすることで,経済が活性化し,本当の意味で持続的な経済成長が望めると考えたのかもしれません。
最後に,神は自分を捨てても構わない。自分も神を捨てる。その結果命が無くなってしまっても惜しくはないという激しい恋情を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。

霊ぢはふ神も我れをば打棄てこそしゑや命の惜しけくもなし(11-2661)
<たまぢはふかみもわれをば うつてこそしゑやいのちのをしけくもなし>
<<霊力のある神も私を打ち棄ててしまって私の命が無くなっても構わないの>>

この作者の恋の相手は許されない恋人同士になることが許されない関係なのでしょうか。
万葉集には優秀な人材であったが姦通罪で土佐に流罪になった石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)の例が掲載されています。その後の恩赦で流罪が解かれ,最後は従三位中納言まで上り詰めました。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」ですね。
対語シリーズ「手と足」に続く。


2012年4月25日水曜日

200回特集‥高岡の集い

この前の土曜日と日曜日,富山県高岡市に大学時代活動していた万葉集の研究クラブのOB・OGが集まり,旧交を温めました。
高岡の古城公園(日本の桜百選)周辺は桜が満開でした。初日は各地から集まった参加者は午後高岡駅近くの料亭で再会の宴を楽しく行った後,古城公園を散策しました。
参加者(関東,関西,中京から参加)は,皆今年の桜の開花が遅れ,ちょうど見ごろになった幸運を喜び合ったのです。再会の宴では,私が顧問の先生の研究室にあった昔の写真などをパソコンに取り込んで,スライド投影しました。
懐かしい写真を見て,今回参加しなかったメンバーも含め,「○○に旅行に行ったときだ!」「このときの大学祭の準備はたいへんだったなあ~」「そういえばこの人どうしたのかなあ?」とっいた話が盛り上がり,時間の経過も忘れるほどでした。
その後も2次会,ホテルの部屋での語らいと夜の更けるのも忘れるくらいでした。

翌日は万葉歴史館を訪れ,大伴家持の越中での足跡を改めてたどりました。ボランティアの説明員の方が,親切に私たちに説明くださいました。歴史館の裏の高台から見た白雪をかぶった立山連邦もハッキリと見えました。
歴史館では堅香子(かたかご)の花を植えていました。歴史館に行く途中では,家の前にはコブシやモクレン,チューリップも咲いていました。その後,二上山山頂まで車で満開の桜の中をドライブして,山頂を目指しました。
家持が天平勝宝2(750)年春に越中で詠んだ峰の上の桜を詠んだ短歌があります。

今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり(19-4151)
<けふのためとおもひてしめし あしひきのをのへのさくら かくさきにけり>
<<今日のこの日のためにと思い,しるしをつけておいた峰の桜がこんなに綺麗に咲きました>>

山頂から家持が歩いたであろう国府の場所,また見たであろう海山川の地形をこの目で確認しました。また,山頂では鶯(うぐいす)が鳴いていて,家持が天平19(747)年のちょうど今頃越中で詠んだ次の短歌を思い浮かべました。

玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり(17-3987)
<たまくしげふたがみやまに なくとりのこゑのこひしき ときはきにけり>
<<二上山に鳴く鳥の声が美しい季節がやってきたよ>>

なお,この短歌の鳥は鶯ではなく霍公鳥(ほととぎす)のようです。いずれにしても,家持が二上山で鳥がにぎやかに鳴く春の到来を喜んだのは間違いないでしょう。
こうやって,あっという間の2日間が終り,参加者はそれぞれ帰路につきました。
参加者が帰宅した後,今回の集いが大変楽しく,また越中という土地の自然の豊かさ,恵まれた環境を感じられた思い出に残るものだったとのメールを多数頂いたのです。
<事前の回遊>
ちなみに,土曜日の宴の前,私は早めに富山に到着できたので,ひとりで砺波平野の散居村展望台に車で行き,登りました。
写真はその時展望台から撮ったものです。いくつかの田んぼでは水がはられ始めていました。

富山がまさに「富んだ山」から流れてくる川の雪解け水に潤わされ,花で満たされた春爛漫と暖かい心で満たされた旧友たちと過ごした素晴らしい2日間でした。

山は雪川は速水(はやみ)と里の花 海山幸に交わす杯(さかずき)

今回も企画から準備,開催まで1年以上掛けた甲斐があったようです。
このブログ,次はGWスペシャル「私の接した歌枕」シリーズの続きをお送りします。お楽しみに。
私の接した歌枕(15)「湯河原」に続く。

2012年3月31日土曜日

対語シリーズ「生と死」(2)‥恋に生き,恋に死す?

万葉時代の恋愛は「うきうきする」「心が躍る」「楽しい」「幸せ」という気持ちになるものではなく,「切ない」「苦しい」「ツライ」「悩ましい」ものだったようです。その結果,「恋のために死にそう」とか「いつまでこの恋の苦しさを耐えて生きていけるのか」などという表現が万葉集の和歌には多く出てきます。
その例を次に示します。

事もなく生き来しものを老いなみにかかる恋にも我れは逢へるかも(4-559)
<こともなくいきこしものを おいなみにかかるこひにも われはあへるかも>
<<これまで大事もなく生きてきたが,老いてこれほどツライ恋にも私は出会ってしまうとは>>

恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ(4-560)
<こひしなむのちはなにせむ いけるひのためこそいもを みまくほりすれ>
<<これほどツライ恋で死んでしまったらどうしょう。今生きている日のためにこそ恋人の顔を見たいのに>>

この2首は,大伴氏のなかでも旅人や家持ほどは昇進しなかったけれども,最終的に正五位下(家持は従三位)までになった大伴百代(おほとものももよ)が,天平元(729)年頃に大宰府で詠んだものとされています。これを詠んだとき,百代は30歳~40歳位だろうと私は想像します。当時の平均寿命を考えると老いの域に達しょうとしているといってもおかしくなかったのだろうと私は受け入れます。そして,百代は大宰府の女性と許されない恋に陥り,逢いたいのだけれど思うように逢えない苦しさを感じる日々が続いたのでしょう。
さて,万葉集巻11~13の詠み人知らずの和歌にも生き死にを表現に使うほど苦しい恋の歌が多数載せられています。

いつまでに生かむ命ぞおほかたは恋ひつつあらずは死なましものを(12-2913)
<いつまでにいかむいのちぞ おほかたはこひつつあらずは しなましものを>
<<命には限りがある。こんなツライ恋であるなら死んだほうがましだよ>>

よしゑやし死なむよ我妹生けりともかくのみこそ我が恋ひわたりなめ(13-3298)
<よしゑやし しなむよわぎも いけりとも かくのみこそあが こひわたりなめ>
<<いっそ死んでしまおう。生きていたって,あなたをこんなに恋い焦がれ続けていくなら>>

<妻問い婚の面倒くささ>
当然ですが,実際に恋で本当に死んだわけではないと私は思います。その位苦しい恋だ,その位強く恋慕っているのだと伝えたいのでしょう。万葉時代の妻問い婚の慣習では,今の恋人同士のように頻繁逢えたり,逢った時に何時間もお話しができる状況はありませんでした。手紙や贈物を何回も送って,ようやく女性の親から許可が出て,寝床で逢うことができるのです(一緒に食事なんてとんでもないのです)。必死で自分の思いを伝えたい気持ちでこれを詠んでいるのです。実際には「死」や「もう生きられない」という表現を使いたくなるのも私には理解できますね。
<「死」という言葉を簡単に使う現代>
今でも「必死で頑張る」という言葉もよく使いますが,使った人はほとんど100%はその後も生きています。「ゴールを死守する」という言葉も遣いますが,やはり同じです。「死」という言葉を使うのも「生きている」状態があっての話です。そして,今「生きている」ことの真剣さ,誠実さを伝えたいために「死」という言葉を使うのです。
どんなに苦しい,悲しい,ツライ,悩ましい,生きている意味を感じないと思っても,言葉だけにして,実際に「死」を選んではいけないのです。「死」という漢字たくさん使ってもよいから,そういう苦しい気持ちを詩歌,エッセイとして書いたり,友達,友人,先輩にお話して,みんなに伝えることが実は「生きる」ことの証しだと私は思います。
万葉歌人たちも,「死」という言葉を和歌に使って表現し,歌人自身は生き続けたのです。
今生きてる人達は,中島みゆき作詞作曲「誕生」の歌詞にあるように生まれた時最初に親や親戚・知人から"Welcome"と言われて生まれてきたはずです。自分の勝手な判断で「自分は生きている価値が無い」と決めつけることがもしあるとしたら,それはあってはならないことだと私は思います。"生まれてくれてWelcome!"と思っている人がたくさんいるのですから。
200号直前特集(今までの振り返り)に続く。

2012年3月25日日曜日

対語シリーズ「生と死」(1)‥生死は繰り返す?

いまさら書くのも変ですが,ヒトは生きている状態の終了により死という状態を迎えます。一般的にヒトは死の状態に至るのを可能な限り遅らせようとして生きています(いずれは死を迎えることになりますが)。
ヒトが死に至るのを遅らせようとする(長く生きようとする)その大きな要因のひとつには,死後の状態がどんなものか分からないという恐怖心があるのかもしれません。
死に対する恐怖心はヒトの本能であり,万葉時代でも当然あったはずです。今回は万葉集で詠まれている生死観を見て行くことにしましょう。
まず,大伴旅人の有名な短歌からです。

生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(3-349)
<いけるもの つひにもしぬるものにあれば このよなるまはたのしくをあらな>
<<我々生物はいずれ死ぬのだから生きている間は楽しく生きたいものだよね>>

解説は特に要らないでしょう。さて,次は竹取翁(万葉集に出てくる竹取の翁)が詠んだとされる短歌(長歌の反歌)です。

死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子らに生ひずあらめやも(16-3792)
<しなばこそあひみずあらめ いきてあらばしろかみこらに おひずあらめやも>
<<死んでしまえば相見ることも無い。しかし,生きていれば自分の白髪や生きている子供にきっと一緒にいられるのだよ>>

これは,若い娘たちに老人を大切にするよう諭したものと私は解釈します。
若いときはとかく年寄りを大切にしない時期があるけれど,長く生きていることはそれだけで意味があることを伝えようとしているのだろうと思います。
次は仏教に出てくる「生死」というキーワードを取り扱った詠み人知らずの短歌です。

生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも(16-3849)
<いきしにのふたつのうみを いとはしみしほひのやまを しのひつるかも>
<<煩悩を遠ざけ仏の世界に思いをはせる>>

「生き死にの二つの海」とは,仏教用語の「生死(しやうじ)」のことで,人間に繰り返しやってくる苦悩を意味します。「煩悩(ぼんなう)」とも言います。
「潮干の山」とは潮の干満のように満ちてきては引いていく人間の煩悩から影響を受けないほど高い山のことで,煩悩から解放された仏の世界である仏界(ぶっかい)を意味します。
奈良時代では仏教の影響を受けるようになり,「死」は本当の生命体の死を意味するのではなく,「死ぬほど好き」「死ぬほど可愛い」「死ぬほど苦しい」といった,生きている間の感情の頂点を指すようになって行ったのかも知れません。
次回はそんな「死ぬほど恋しい」「恋の苦しさで死にそう」といった恋にまつわる「生と死」をみていきましょう。
対語シリーズ「生と死」(2)に続く。

2012年3月6日火曜日

対語シリーズ「男と女」(3)‥男の浮気,如何に対峙(退治)するか女心は揺れ動く?

<浮気>
女性にとって,最愛の恋人が浮気をすると当然平常心ではいられません。
浮気相手の女性に対し「○○君は私のモノよ!」「この泥棒猫女!○○君には近づかないで!」と攻撃したり,恋人には「私とあの女とどっちが好きなの?!」と問い詰めます。
男の方が曖昧な返事をしようものなら「あの女と付き合うなら,絶対許さないからね!」と相手の浮気を徹底糾弾し,「二度と浮気はしません」と相手が誓うまで許しません。
しかし,相手が改心する気持ちが完全でないと見るや,急速に恋心は冷え,簡単に別の男に鞍替えをすることも女性はいといません。
未練がましいのは男の方で,どちらかというと切り替えの早いのは女性の方です。

天の川 「たびとはん。えらい詳し~なあ。経験豊富なんと違ゃうか?」

いえいえ。天の川君がいつも言っているように私はそんな甲斐性はありません。万葉集から得た想像で書いてるだけだよ。
では,そんな和歌を何首か紹介しましょうかね。まず,詠み人知らずの次の短歌です。

愛しと思へりけらしな忘れと結びし紐の解くらく思へば(11-2558)
<うつくしとおもへりけらし なわすれとむすびしひもの とくらくおもへば>
<<あの時はいとおしいと思ってくださったのね。忘れないでと誓って結んだ紐が自然に解けたのはまだ貴方様がいとおしく思っているとの報せでしょうか>>

万葉時代,女性は外に出歩くことはままならず,まして恋敵に怒鳴りこむことはそう簡単にできなかったと思います。
また,財力がある場合は,男性が複数の妻を持つことが許されていた時代ですから,女性は強く主張をできずに,相手の男性に気づかせる方法しか取れなかったのだと私は思います。
次も詠み人知らずの短歌ですが,もう少し女性から強く意思を伝えたものもあります。

天地の神を祈りて我が恋ふる君いかならず逢はずあらめやも(13-3287)
<あめつちの かみをいのりて あがこふる きみいかならず あはずあらめやも>
<<天地の神に祈って私が恋する貴方様なのです。逢えないことなどあるはずがないのだから>>

それでも,相手が自分に靡かないようになった時は,次の笠女郎が大伴家持に贈った衝撃的な短歌となります。

心ゆも我は思はずき山川も隔たらなくにかく恋ひむとは(4-601)
<こころゆもわはおもはずき やまかはもへだたらなくにかくこひむとは>
<<心から私は思ってもみませんでした。貴方様とは山川を隔てるような遠さではないのに,こんなに逢えずに恋苦しむとは>>

思ふにし死にするものにあらませば千たびぞ我れは死にかへらまし(4-603)
<おもひにししにするものにあらませば ちたびぞわれはしにかへらまし>
<<恋をしすぎて死ぬことがあるなら,私は数えきれないほど死んでいるでしょう>>

相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後方に額つくごとし(4-608)
<あひおもはぬひとをおもふは おほてらのがきのしりへに ぬかつくごとし>
<<想ってもくれない人を恋することは,大きい寺にあるご利益のない餓鬼像に対して後ろから拝むような無意味なことですね>>

ここまで,言われた家持は困り果てて次のような短歌を返します。女性にもてたプリンス家持でさえ,未練がましさや自己弁護が伝わってきます。

いまさらに妹に逢はめやと思へかもここだ我が胸いぶせくあるらむ(4-611)
<いまさらにいもにあはめやと おもへかもここだあがむね いぶせくあるらむ>
<<もう、貴女に逢えないと思うからか,こんなにも私の心は塞いでいる>>

なかなかに黙もあらましを何すとか相見そめけむ遂げざらまくに(4-612)
<なかなかにもだもあらましを なにすとかあひみそめけむ とげざらまくに>
<<どうせなら黙っていればよかった。どうして貴女と逢ってしまったんだろう。正妻にはできないのに>>

天の川 「まあ~,笠女郎と家持とのやりとりは今で言うと次のようなシーンやな。
笠女郎『家持はん!奥さんと別れて,私と一緒になると言うたんちゃうんか?』
家 持『悪いけどな,今の嫁はんとはうまいこと別れられへんねん。』
笠女郎『え~!そんなん絶対アカンわ。許さへんで。』
どや?」

関西弁するとちょっとニュアンスが違うような気がするけど,私にはまったく経験がないから良いことにしますかね。
対語シリーズ「多と少」に続く。

2009年5月6日水曜日

各地の人々

前回の投稿で「人」で終わる言葉から万葉時代の職業の話を書きました。
同じく「人」で終わる言葉を見ていくと,その人がどの地方の人かを示す言葉が万葉集にいくつかでてきます。
例えば,つぎのようなものです。

阿太人(あだひと:奈良県),東人(あづまびと:東海,関東甲信越など),宇治人(うぢひと:京都府),紀人(きひと:和歌山県),伎倍人(きへひと:静岡県),肥人(こまひと:熊本県),須磨人(すまひと:兵庫県),難波人(なにはひと:大阪府),奈良人(ならひと:奈良県),隼人(はやひと:鹿児島県),飛騨人(ひだひと:岐阜県)

また,「人」では終わらないが,各地の人を表す言葉として次のものが万葉集で見つかりました。

明日香壮士(あすかをとこ:奈良県),東壮士(あづまをとこ:東海,関東甲信越など),伊勢の海人(いせのあま:三重県),伊勢処女(いせをとめ:三重県),菟原壮士(うなひをとこ:兵庫県),菟原処女(うなひをとめ:兵庫県),志賀の海人(しかのあま:福岡県),信太壮士(しのだをとこ:大阪府),四極の海人(しはつのあま:大阪府),志摩の海人(しまのあま:三重県),珠洲の海人(すすのあま:富山県),茅渟壮士(ちぬをとこ:大阪府),難波壮士(なにはをとこ:大阪府),野島の海人(のしまのあま:兵庫県),泊瀬娘子(はつせをとめ:奈良県),壱岐の海人(ゆきのあま:長崎県)

このように各地に住む人々や有名な人々がたくさん出てくることで,万葉集を詠んだ人は「その地へ行ってみたい」「その地の人と会ってみたい」「その地の特産物(お土産)を得たい」などと感じた可能性はあります。
また,地方に赴任することになった官僚が現地の人たちとコミュニケーションする手段として,万葉集の(ご当地の)和歌が利用されたのかも知れませんね。
万葉集が持つ情報量(総量だけでなく密度も)の多さに,改めて編者の意図を感じます。

2009年5月3日日曜日

万葉時代の職業

万葉集で出てくる用語で「人」で終わる用語は少なくとも40ほどありそうです。
その中で,職業を表すものをあげてみると,次のようになります。

網代人(あじろびと:漁業),海人(あま:漁業),海女(あま:漁業),歌人(うたひと:タレント),大宮人(おほみやひと:官僚),神の宮人(かみのみやびと:官僚),狩人(かりひと:狩猟),防人(さきもり:兵役),陶人(すゑひと:陶芸),杣人(そまびと:林業),舎人(とねり:下級官僚),飛騨人(ひだひと:大工),船人(ふなびと:水運),宮人(みやひと:官僚)

また,人では終わらないけれども職業を表すものとして,次のようなものが出てきます。

網子(あご:漁業),朝臣(あそ:官僚),漢女(あやめ:裁縫),大臣(おほまへつきみ:高級官僚),大山守(おほやまもり:管理された大きな山の番人),采女(うねめ:女官),水手(かこ:水運),里長(さとをさ:村の番人),左夫流子(さぶるこ:遊女),島守(しまもり:島の番人),織女(たなばたつめ:機織),津守(つもり:港の番人),時守(ときもり:時刻の番人),伴部(とものべ:兵役),野守(のもり:管理された野原の番人),船方(ふなかた:水運),道守(みちもり:街道の番人),畑子(はたこ:農業),公卿(まえつきみ:貴族官僚),山守(やまもり:管理された山の番人),宮女(みやをみな:女官),守部(もりへ:番人の統括部門),渡り守(わたりもり,渡しの番人)

漁業,農業,林業,水運,繊維業,陶芸,狩猟,大工,遊女,官僚,女官,兵役までいろいろ出てきました。
また,番人が多いことは,律令制度の法律やシステム(仕組み)を維持するために管理者が必要となったのだろうと想像します。
熱き恋路や日常生活のゆとりに対しそれら番人を邪魔と感じたり,番人が役目を果してくれない不満などの和歌が万葉集にはあちこちに出てきます。

山守の里へ通ひし 山道ぞ茂くなりける 忘れけらしも(7-1261)
<やまもりのさとへかよひし やまみちぞしげくなりける わすれけらしも>
<<山の番人が里へと通う山道の草が生い茂っている。お役目を忘れてしまったのだろうか>>

もちろん山守は彼氏の比喩で「最近来ないのは私のことを忘れてしまったから?」という恨み言の和歌のようです。
ちなみに,山守がちゃんと仕事をせず,山道が荒れてしまうことは当時よくあったのかも知れませんね。
社会全体の最適化(平均幸福感の最大化)を目指すことのひずみにより,個々の幸福感の最適化には必ずしも結び付かない。そんな思いも冗談ぽく和歌に託すことを万葉時代の日本人は覚えたのでしょうね。
さて,現代人にそういう和歌心までも希薄にさせてしまうのは,人間が社会の全体最適システムの最も効率的な一歯車(職業人)として,必要以外のコミュニケーションをせず,個々に閉じこもることを求められているためでしょうか。