頭髪を整えるとき,ブラシを使うことが多くなりましたが,今もまだ多くの人が「櫛」を携帯しているようです。私もその一人で,中国で滞在したホテルのアメニティの竹製櫛を携帯しています。
もちろん,床屋さんが頭髪,ひげ,眉毛をカットする際に,必須品だと思います。ホテルのアメニティ以外に,スポーツ施設の浴場などの洗面台に置いてあるのを多く見かけます。
万葉集で櫛に関する和歌(枕詞の「玉櫛笥」も含む)は約30首あります。
その内、櫛自体を詠んだ和歌は8首と少なく,後は「櫛笥」(櫛を入れる化粧箱)または「奥」「ふ」「み」「覆ふ」「ふた」「開く」にかかる枕詞「玉櫛笥」に関するものです。
玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも(2-93)
<たまくしげおほふをやすみ あけていなばきみがなはあれど わがなしをしも>
<<二人の仲を隠す(覆う)のはたやすいと夜が明け,明るくなりきってからお帰りになるなんて、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ>>
この短歌は,鏡王女が藤原鎌足(614~669)に贈った1首です。それに対して,鎌足は同じく玉櫛笥を枕詞に次の短歌を返しています。
玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ(2-94)
<たまくしげみむろのやまの さなかづらさねずはつひに ありかつましじ>
<<三室山のさな葛ではないが、さ寝ず(共寝せず)に最後まで(夜が明けるまで)待たせるなんてありえないでしょう>>
さて,どちらの言い分が正しいのか? それとも,余りに楽しい妻問の時間であっという間に朝になり,お互い相手のせいにしてさらに楽しんでいるのかもしれませんね。
いずれにしても,枕詞に「玉櫛笥」が7世紀に使われているということは,その中に入れる「櫛」も貴族の中では日常品として使われていたのだと私は思います。
では,櫛そのものを詠んだ短歌を紹介します。
からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(16-3832)
<からたちとうばらかりそけ くらたてむくそとほくまれ くしつくるとじ>
<<カラタチとイバラを刈って倉庫を建てるから,この近くでトイレをしないでほしいなあ,櫛を作るお姉さんたちよ>>
なんと,品のない短歌でしょうか。また,宴席でさまざまなものの名前を入れて即興で詠うことが流行っていたのでしょうか。
カラタチもイバラもトゲがあります。櫛やその他の工芸品などを作っている工場では,工員の女性用トイレを人が入りにくい,トゲのある植物で囲まれた場所に作っていたのかもしれません。
そうして,そのような背景を踏まえて,倉,屎,櫛とすべて「く」で始まる言葉を入れ,酒に任せて忌部首(いみべのおびと)という人物が詠んだとされています。
万葉時代には,櫛を大量に生産する手工業の工場がすでにできていたのかもしれないと私は想像します。
最後に,もう1首大伴家持が櫛を詠んだ興味深い短歌を紹介します(この短歌は昨年3月12日の投稿でも紹介しています。)。
娘子らが後の標と黄楊小櫛生ひ変り生ひて靡きけらしも(19-4212)
<をとめらが のちのしるしと つげをぐし おひかはりおひて なびきけらしも>
<<兎原娘子(うなひをとめ)の言い伝えのしるしとして黄楊の小櫛が木に生え変わって伸び栄え風に靡いているのだ>>
この短歌から,万葉時代,櫛の材料としてツゲがあったことがわかります。ツゲは非常に成長が遅い代わりに木が固く変形しにくいため,櫛にはもってこいの木材なのです。
しかし,固い材質ほど加工が難しいですが,高度な加工技術がすでに確立し,多くの専門の刀自たちによってけっこう大量に製作されていたのでしょう。
現在も「つげ櫛」は高級な櫛の代名詞となっているようです。
今もあるシリーズ「衾(ふすま)」に続く。
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