2012年9月26日水曜日

今もあるシリーズ「襷(たすき)」

<本来の襷は?>
今,襷といえば駅伝大会で,選手が肩から斜めに掛けて走り,次の区間の同じチームの選手に渡していくリングの紐(ひも)状のものをイメージする人が多いかもしれません。
しかし,私のようなある程度年齢が高いに人間にとっては,和服を着たお母さんたちが炊事や洗濯をするとき,和服の袖(そで)が邪魔にならないよう,襷を掛けていたのを見た記憶があります。
その襷は普通の一本の紐です(リングになっていません)。まず,紐の端を口にくわえます。紐を一方の肩から背中を肩と反対の脇腹で袖を挟み,肩の上に上げ,その肩から背中を肩の反対の脇腹でもう一方の袖を挟みます。最後は,口でくわえた紐の端と今袖を挟んだもう一方の紐の端を肩前の部分で結んで完成です。慣れた人は,この間わずか数秒で襷を付けてしまいます。
襷がけ人事>
銀行などの合併で以前よくマスコミに取り上げられた「襷がけ人事」という言葉があります。襷を掛けた背中に紐が×型に交叉する形になるイメージと合併前の一方の銀行出身者が頭取になると,もう一方の銀行出身者が副頭取になり,次の人事異動でその逆の人事が行われていくという慣行のイメージが似ているからです。
ただ,本来の襷も割烹着(袖と胸当てがあるエプロンのようなもの)が使われるようになってからは,袖が割烹着の袖の中に収納されるため,着ける必要がなくなってしまったようです。
今では,和服で書を書く書道家,居合抜きの演技者,百人一首のかるた競技大会で和服を着た選手が襷をしている姿しかあまり見なくなりましたね。
さて,万葉集で「襷」は多くは「掛」や「畝傍」にかかる「玉たすき」という枕詞として現れます。

玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも(12-2992)
たまたすきかけねばくるし かけたればつぎてみまくの ほしききみかも
<<お見掛けしないと苦しいしけど,こうしてお見掛けできたら,いつまでも見続けていたい気持ちがもっと強くなるあなたなの>>

思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍の山に我れ標結ひつ(7-1335)
おもひあま いたもすべなみ たまたすきうねびのやまに われしめゆひつ
<<恋しさが思い余ってどうしようもないので,神の宿る畝傍山に私はあなたと結ばれたしるしを付けましょう>>

詠み人知らずのこの2首ともに「玉たすき」は枕詞で,この2首の中で意味は持ちません。ただ,当時は「玉たすき」と読み上げると次にくる言葉が「掛ける」「畝傍」かが予想できたくらい近い関係の言葉だったと私は思います。
さて,「襷」自体を詠んだ万葉集の和歌もあります。ただし,すべて長歌の中に出てきます。

大船の思ひ頼みて さな葛いや遠長く 我が思へる君によりては 言の故もなくありこそと 木綿たすき肩に取り懸け 斎瓮を斎ひ掘り据ゑ 天地の神にぞ我が祷む いたもすべなみ(13-3288)
おほぶねのおもひたのみて さなかづらいやとほながく あがおもへるきみによりては ことのゆゑもなくありこそと ゆふたすきかたにとりかけ いはひへをいはひほりすゑ あめつちのかみにぞわがのむ いたもすべなみ
<<心から信頼し遠くからずっとお慕いしているあなたのせいで,私は忌み言葉も口にせず,木綿でつくった襷を肩にかけ,神聖な甕を,身を清めて土を掘って置き,必死に神に拝むしかすべはないのですよ>>

万葉時代は神に祈る場合,祈りが通じるように神に通じると言われる行為を行おうとします。たとえば,この長歌に出てくるように,禁句をしゃべらない,甕を身を清めて土に埋める,そして木綿の襷を肩にかけるという行為です。
その中でも,木綿の襷を肩にかけるのは,袖を垂らしていたのでは,強い祈りが神に通じないという言い伝えが当時あったのではないかと私は思います。
その祈り強さをさらに表現している長歌があります。山上憶良が幼い我が子が危篤になって,何とか回復してほしいと祈る部分に「襷」が出てきます。長いので一部を紹介します。

~思はぬに邪しま風の にふふかに覆ひ来れば 為むすべのたどきを知らに 白栲のたすきを掛け まそ鏡手に取り持ちて 天つ神仰ぎ祈ひ祷み 国つ神伏して額つき かからずもかかりも神のまにまにと 立ちあざり我れ祈ひ祷めど しましくも吉けくはなしに やくやくにかたちつくほり 朝な朝な言ふことやみ たまきはる命絶えぬれ~(5-904)
~おほぶねのおもひたのむに おもはぬによこしまかぜの にふふかにおほひきたれば せむすべのたどきをしらに しろたへのたすきをかけ まそかがみてにとりもちて あまつかみあふぎこひのみ くにつかみふしてぬかつき かからずもかかりも かみのまにまにと たちあざりわれこひのめど しましくもよけくはなしに やくやくにかたちつくほり あさなさないふことやみ たまきはるいのちたえぬれ~
<<~予想もしなかった邪悪な風が突然吹いてきて(我が子が病気になり),どうすればよいか分からず,白い襷を懸け,鏡を手に持って,仰いで天の神を祈り,伏して国の神に額づき,治るか治らないか,ただもう神の御心のままにと,おろおろとして我らは祈ったが,少しも良くはならず,だんだんと顔かたちが痩せ衰え,朝が来るたびに口数が減って,とうとう息が絶えてしまったので~>>

この中で,襷は神に真剣に祈ることを示す道具として使われていたことがわかります。
後に,何かを真剣に打ち込んで行うとき,まさに神に強く祈る気持ちほど真剣に行うという意思表示のために襷をかける風習が出てきたようにも思えます。襷が,袖が垂れることによって動作の邪魔にならないようにする効果も併せもったのでしょう。
もう,背中に十文字にかける襷を見ることが少ないですが,和服を着て,襷をかけ,何かに集中する姿は残したい日本文化の一つだと私は考えます。
さて,襷は紐を使ってかけます。次回はその紐をテーマにします。
今もあるシリーズ「紐(ひも)」に続く。

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