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2016年1月3日日曜日

400回記念スペシャル(3:まとめ)…2016年も「爆買い」期待?

正月休みもあっという間に終わり,明日からは私の専門職であるソフトウェア保守開発の職場に向かいます。正月は担当システムで正常でないことが起これば携帯電話に連絡が入り,自宅から関係者に連絡をする手配を用意していました。今年の3ヶ日は,システムすべて正常に動作したようで,気持ちよく出勤ができそうです。
400回記念スペシャルも今回が最後で,次からはまた「今もあるリーズ」に戻ります。
今回は,勝手ながらまず今年の予測をしてみたいと思います。
(1)企業の業績
今年の景気は良さそうだという予測がいくつかのメディアから出ています。
私もそう思いますが,来年4月の消費税率を8%から10%へアップする前の駆け込み需要を割り引いて考えないといけないのかなと思います。
来年は4月以降景気が凹む恐れを考える必要がありそうですね。
(2)街角景気
非正規社員が減り,正規社員が増えるようなことはそれほど期待できないと思います。理由は自動化やロボット化が進み,ヒトが今まで担当していた定型業務をロボットや機械が代替できる分野がひろがる,またITC(情報通信技術)によりネットショップがさらに拡大し,店舗従業員や営業担当者が不要となるビジネスが広がると予測できるからです。
一般論として,景気が良くなると企業は儲かったお金を従業員を増やすことよりも,従業員を増やさずに業績を伸ばすこと(機械設備)に投資する傾向があるためです。また,ITCが急速に進展する今の時代,全企業トータルの業績が伸びても,大きく伸ばす会社と競争に負けて業績を落とす会社の格差が大きくなることも考えられます。ある企業が一人勝ちのような産業の場合,その他の企業では従業員の削減を行う企業が出る場合も考えられます。
(3)明るい予測
暗いことばかりでなく,明るい話をすると外国人訪日旅行客(インバウンド)が今まで以上に増えそうだということです。まだ日本観光局(http://www.jnto.go.jp/jpn/)から発表はありませんが,昨年(2015年)は恐らく2,000万人に近い外国の人が日本を訪問したと思われます。2014年の同実績が1,200万人余りですから,その伸び方は半端ではありませんでした。
今年もさらに伸びると私は予測します。なぜなら,昨年訪日した外国の人たちがTwitterやFacebookなどのSNS,旅行情報サイトなどの口コミに概ねポジティブな評価を次々とアップしているからです。それを見た日本を訪問したことのない人は「次は日本に行こう」,既に日本を訪問した人は「日本の別の場所に行ってみよう」という気持ちになると考えられます。
それと2,000万人というのはすごく大きな数字のようですが,香港やマレーシアを訪れるその国以外の人数より,まだまだ少ない数なのです。日本は香港の350倍近い面積があります。そして,日本には香港に様な気候の場所もあれば,冬には香港ではまず見ることができない天然の雪に必ず接することができる場所があります。日本が今までいかに外国人観光客に対して閉鎖的だったか分かります。
ただ,これからはインバウンド数を増やしていくだけでなく,リピート訪問率を如何に増やすかがポイントとなるでしょう。「爆買い」を期待することは二の次にして,日本にしかないものと,日本に来て癒されると感じるものを増やしていく努力が必要だと私は思います。
そのためには,外国語の研究も必要でしょう。訪れた人たちの母国語で,上から目線ではなく,聞き心地の良い言葉でまず迎えることが必要だと私は思います。それがないと日本の本当の良さを相手に理解されず,単なる押し付けになってしまいます。私も海外に何度か旅行に行っていますが,現地観光ガイドが日本語は上手くても,「日本よりすごいだろ」みたいな上から目線のガイドをする人に何人も会い,楽しめなかったことがありました。
日本の良さを説得するのではなく,感じとってもらうこと,発見してもらうこと,そして訪日客の質問に丁寧かつ正確に答えることができれば確実に日本及び日本人を好きになってもらえると私は思います。
私は万葉集に長く接することで,日本人の感性のルーツが何であるかを感じることが少しずつできてきいるような気がします。外国から来た方に日本をイメージしてもらうために紹介する万葉集の短歌としては,私は次の3首のいずれかなど,どうかなと思います
まず,日本の山を見て季節感をイメージしてもらうための1首です(現代語は意訳)。

春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも(10-2177)
<はるはもえなつはみどりに くれなゐのまだらにみゆる あきのやまかも>
<<日本には春は花がきれいに咲き,夏はみずみずしい緑一色になり,秋には紅葉のグラデーションが見事な山がいくつもありますよ>>

リアス式の海辺に小さな漁港が近くにある旅館や民宿(私は外国の人に是非泊まってほしいと思っています)。そこに泊まる人たちに勧めたいのが,次の遣新羅使が詠んだとされる1首です。

山の端に月傾けば漁りする海人の燈火沖になづさふ(15-3623)
<やまのはにつきかたぶけば いざりするあまのともしび おきになづさふ>
<<山の向こうに月が隠れると沖に漂う漁師の舟の明かりがよりはっきり見えますね>>

最後は,日本庭園を鑑賞する人たちに勧めたいのが,大伴家持が詠んだとされる1首です。

秋風の吹き扱き敷ける花の庭清き月夜に見れど飽かぬかも(20-4453)
<あきかぜのふきこきしける はなのにはきよきつくよに みれどあかぬかも>
<<秋風が吹いて散った花びらが敷き詰められた庭は,清らかな月の光を浴びて見飽きることがないのです>>

日本庭園を訪れる時が秋(新暦で夏も)でなくてもよいのです。昼間でも構いません。花は無くても,月が出ていない夜でもよいのです。今見ている日本庭園が夜,そして散った花が敷き詰められて,月が照らしている情景がどんなに美しいだろうとイメージしてもらうことが必要だと思います。
無いものを有るとしたときの変化,それを考えて(シミュレーションして)作られ日本庭園の奥深さを感じ取ってもらえれば,「また来たい」という気持ちになってもらえるかもしれません。
日本の四季は実は四つではありません。初春,早春,春真っ盛り,晩春,初夏,盛夏,真夏,挽夏,初秋,秋寒,晩秋,初冬,真冬,晩冬といった四季をさらに細かく分類するような言葉で季節の変化を日本人は感じ取っています。このほかにも立春,立夏,立秋,立冬などの24節季,さらに細かく分類した72候というの言葉があります。
24節季や72候は中国から伝来した分類方法が基になっているようですが,その後日本で作られた俳諧歳時記に載せられている季語は何と3,000位をあるとのことです。季節に関する言葉が昔からこれほど多い国は他国になく,それを日常としている日本人の細かい感性も比類がないと私は想像しますがいかがでしょうか。
今もあるシリーズ「鵜(う)」に続く。

2015年1月31日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(3)   山のあなたの空遠く 幸住むと人の言ふ

日本は山国です。多くの場所では遠くは見渡せません。
万葉集を読み解くに,万葉時代に奈良盆地から旅をする場合,基本的に山と山の間の峠を越えたり,山麓の曲がりくねった道を縫うように進むことがほとんどだったように想像できそうです。結局,そんな旅では,行き先は山に隠れて見えず,どんなところなのか分からない,山を越えてきたために出発した自分の家の方も見えない,そんな状況の中を我慢して進むことになります。
次は市原王(いちはらのおほきみ)が多くの山を向こうにある美しい岬で可愛い海女の子に出会ったことを忘れられない気持ちを詠んだ短歌です。

網児の山五百重隠せる佐堤の崎さで延へし子が夢にし見ゆる(4-662)
<あごのやまいほへかくせる さでのさきさではへしこが いめにしみゆる>
<<網児の山々が幾重にも隠している佐堤の崎でさで網を広げて漁をしていた海人の娘が夢に出てくる>>

いくつもの山を越えてようやく到着した佐堤の崎は突然眼前に現れ,その美しさに感動しただけでなく,そこで漁をしている娘の健康的な可愛さが本当に忘れられない,そんな思いが私には伝わってきます。
<この短歌を万葉集の編者が掲載した理由>
京の女性は色白だが,家に籠り,何重にも衣を着て,暗い夜しか逢えない不健康さが感じられるのに対し,この岬で見た娘たちは,明るい太陽のもとで,薄い衣を身に着けただけで網を引っ張っている。市原王がこの短歌のように感じるのはもっともかもしれませんね。
ただ,この短歌を聞いた京の男性はどう思うでしょうか。是非その岬に行ってみたいと思わないでしょうか。「市原王様もお薦めの「佐堤の崎」周遊ツアー募集中で~す」といったツアーエージェントの営業マンがいたかどうかは分かりませんが,山の向こうにある美しい「佐堤の崎」をイメージした人は少なくなかったと私は想像します。
万葉集には,少し裕福になった京人(市民)を旅に誘う効果があったと私は感じます。
次は山が月を隠す状況を藤原八束(ふぢはらのやつか)が詠んだとされる短歌です。

待ちかてに我がする月は妹が着る御笠の山に隠りてありけり(6-987)
<まちかてにわがするつきは いもがきるみかさのやまに こもりてありけり>
<<私がずっと待っていた月は彼女が着ける笠という御笠の山に隠れていたのだ>>

山が無ければ,もっと早く月が顔を出していたのに,山があるおかげで月の出を待つことになった。八束は月が出たら何をしようとしていたのでしょうか。今日の出を楽しみに待つ人がいるように,万葉時代は月の出も楽しみに待つ人がいたのかもしれませんね。
さて,冒頭日本は山国で遠くを見渡せる場所は少ないと書きましたが,関東平野は平地でもかなり遠くを見渡せるところがあります。次は,そんな情景を詠んだ東歌です。

妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな(14-3389)
<いもがかどいやとほそきぬ つくはやまかくれぬほとに そではふりてな>
<<彼女の家から遠くまで来てしまったなあ。筑波山が他の山で隠れて見えなくならないうちに(もう一度)袖を振っておこう>>

彼女の家は筑波山の麓にあるのでしょうか。関東平野で筑波山が見えなくなるのは相当遠くにはなれないとそうならないでしょう。筑波山が見える限り,旅に出るときに別れを告げた彼女のいる方向に間違いなく向かうことができる。関東平野での筑波山の重みは今以上に重かったのだろうと私は想像します。また,奈良の市民は「東国の筑波山でどんなにすごい山なんだろうか」と想像を掻き立てられたかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(4)に続く。

2013年4月29日月曜日

2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(2)」

武蔵野は武蔵の国にある野(平地)のことですから,武蔵の国がどこにあったかが武蔵野と呼ばれる範囲を理解する助けになります。
武蔵国の範囲は,歴史辞典などを見ればわかりますが,その広さをより明確にイメージするために,武蔵(略称含む)がついた鉄道会社名,路線名,駅名を探したてみました。

まず,鉄道会社名,路線名からです。
・東武鉄道‥武蔵の東部を路線に含む鉄道会社
・西武鉄道‥武蔵の西部を路線に含む鉄道会社
・JR東日本南武線‥武蔵の南部を走る鉄道路線
・JR東日本武蔵野線‥武蔵の平野部分を走る鉄道路線

次は「武蔵」と武蔵国の別名「武州」の付く首都圏の駅名です。JR東日本の駅名の場合,会社名を省略し,路線名は通称です。
・武蔵五日市(五日市線:東京都あきる野市)
・武蔵浦和(埼京線,武蔵野線:さいたま市南区)
・武蔵小金井(中央線:東京都小金井市)
・武蔵小杉(横須賀線,湘南新宿ライン,南武線,東急東横線:川崎市中原区)
・武蔵小山(東急目黒線:東京都品川区)
・武蔵境(中央線:東京都武蔵野市)
・武蔵白石(鶴見線:川崎市川崎区)
・武蔵新城(南武線:川崎市中原区)
・武蔵砂川(西武拝島線:東京都立川市)
・武蔵関(西武新宿線:東京都練馬区)
・武蔵高萩(川越線:埼玉県日高市)
・武蔵中原(南武線:川崎市中原区)
・武蔵新田(東急多摩川線:東京都大田区)
・武蔵野台(京王本線:東京都府中市)
・武蔵引田(五日市線:東京都あきる野市)
・武蔵藤沢(西武池袋線:埼玉県入間市)
・武蔵増戸(五日市線:東京都あきる野市)
・武蔵溝ノ口(南武線:川崎市高津区)
・武蔵大和(西武多摩湖線:東京都東村山市)
・武蔵横手(西武秩父線:埼玉県日高市)
・武州荒木(秩父鉄道:埼玉県行田市)
・武州唐沢(東武越生線:埼玉県越生町)
・武州中川(秩父鉄道:埼玉県秩父市)
・武州長瀬(東武越生線:埼玉県毛呂山町)
・武州日野(秩父鉄道:埼玉県秩父市)

これを見ると武蔵の国は,東京,神奈川,埼玉にまたがる(今の都県の区切りとは関係の少ない)地域であることがわかるでしょう。
今回は万葉集から東京,神奈川,埼玉に関係する短歌を3首紹介します。

赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ(20-4417)
<あかごまをやまのにはがし とりかにてたまのよこやま かしゆかやらむ>
<<赤毛の馬を山野に放しておきましたが捕えかね,あなたに多摩の横山を歩いて行かせることになるのだろうか>>

この防人歌は,今の東京都豊島区あたりに住む女性が,夫が防人に行くとき赤毛の馬を渡せず徒歩で多摩の横山(今の東京・神奈川にまたがる多摩丘陵あたりか?)を歩いて越えさせてしまったことを悔いた1首です。

多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき(14-3373)
<たまかはにさらすたづくり さらさらになにぞこのこの ここだかなしき>
<<多摩川にさらす手織りの布がさらにさらにきれいになるように,どうしてあの娘がこんなに愛おしいのだろう>>

この有名な東歌は多摩川の北側(東京側)とも考えられますが,同様に多摩川の南側(神奈川側)とも考えられます。

武蔵嶺の小峰見隠し忘れ行く君が名懸けて我を音し泣くる(14-3362)
<むざしねのをみねみかくし わすれゆく きみがなかけて あをねしなくる>
<<武蔵峰の小さな尾根をあえて見ずに里を発ったが,忘れてしまうかもしれない妻の名を叫んでしまい私は声をあげて泣いた>>

この東歌に出てくる「武蔵嶺」は秩父にある武甲山らしいとのことです。
こう見てくると武蔵の国には,武蔵野ような平野,多摩の横山のような丘陵地帯,多摩川のような大きな川,武蔵嶺のような急峻な山といろいろな地形が備わった国だったのでしょう。
その中でも広い平野である武蔵野は,万葉時代においても畑作,牧畜,川や湖沼の漁業,手工業(製糸・縫製・染色・製陶など)が盛んで人々の生活を豊かにする可能性を秘めた土地だったのだろうと私は想像します。
次回はそんな豊かな当時の武蔵野を万葉集や遺跡から感じてみましょう。
2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(3)」に続く。

2013年3月24日日曜日

当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(9):(まとめ)柿本人麻呂」

このシリーズも今回がまとめになります。
万葉集の羈旅に関する和歌の中で際立った輝きを発しているのは,やはりこのシリーズ最後を飾るにふさわしい柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)だろうと私は思います。
万葉集の彼の和歌は,どれも情景表現,心情表現共に印象に残る和歌ばかりではないでしょうか。

燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず(3-254)
<ともしびのあかしおほとに いらむひやこぎわかれなむ いへのあたりみず>
<<明石の海峡に船が入る日には本当の別れを告げることになるのか。家族の住む家のあたりから見える山々も見えなくなるから>>

この短歌は,人麻呂が明石海峡を東から西へ向かって通過するときに詠んだ1首でしょう。ここを通過すると淡路島が視界を遮り,大阪と奈良を隔てる生駒山系が見えなくなるのです。奈良に住む家族が生駒山に上り,山頂から手を振ったとしても,もう物理的に見ることはできないほど遠くに来てしまったという人麻呂の実感が関西に土地勘のある私には明確に伝わってきます。
<旅先で危険が多いのは今も同じ>
でも,この短歌を悲嘆に暮れている心情のみでしょうか。万葉時代の旅は非常に危険で,旅先で命を落とす人も多かった。だから,旅は不安であり,助け合う家族がそばにいない寂しさが募ってしょうがない。そんな気持ちが今よりも多かったのは事実でしょう。
ただ,この現代でも,2月中旬に起こったグアム通り魔殺人事件,2月下旬に起こったエジプトの熱気球墜落事故,3月下旬起こったカンボジアのジェットコースターに乗った邦人女性の転落事故のように旅先で命を落とす人はゼロではありません。今回の私のイタリア旅行でも,明らかにスリや置き引きを狙っているような人物の気配を有名観光地や大きな鉄道の駅で感じました。
<万葉時代でも街道筋は比較的安全だった?>
いっぽう,街道や実績のある船と船頭を使うのであれば,万葉時代でもそれほど危険はなかったのではないかと私は想像します。なぜなら,街道や航行では毎日多くの物資が運ばれ,そのほとんどは無事目的地についているはずだからです。毎日何らかの事故で人が死んでいたら,運送業は成り立ちませんから。
現代でも「危険であったか,それともなかったか」という○か×かで物事を判断するのではなく,「危険である確率」で物事を冷静に判断することが重要だと私は思います。
<今のマスコミは珍しいことだけを取り上げる?>
話は横道にそれますが,今のマスコミの報道は,事故や事件の発生確率について一般の人が正当に判断することを阻害するものが多すぎると私は感じます。マスコミは注目度が高くなるようなニュースを報道する必要性から,珍しいことや重大なことばかり選んで報道する傾向があります。しかし,その報道を受け取った側はそれが珍しいこととは思わず,いつの間にかそのような事件や事故が日常的なこと,普通のことと勘違いをしてしまうことが珍しくありません。その結果,世の中を必要以上に危険と感じる,必要以上に人との接触を避ける,必要以上に臆病になるようにさせてしまっているのではないかと私は危惧します。
<人麻呂の羇旅の歌に戻すと>
さて,話を人麻呂に戻して,この短歌では「遠くまで来たんだなあ」ということを詠んではいますが,人麻呂の旅の行程自体は順調だったのかもしれませんね。

近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(3-266)
<あふみのうみゆふなみちどり ながなけばこころもしのに いにしへおもほゆ>
<<近江の海(琵琶湖)の夕波に集う千鳥よ,君が鳴くと心がしみじみとなり昔のことを思い出すんだよ>>

人麻呂は,この短歌を詠んだとき,琵琶湖のほとりの宿まる場所が決まり,夕方湖岸を散歩をしていたのでしょうか。その時,千鳥(チドリではなく多くの鳥の意か?)が湖面に集まる姿を見て,昔(天智天皇が大津に京を置いていた頃)湖面に大宮人が船を多数浮かべてにぎやかに宴をしていた姿を思い出した(人麻呂も参加)に違いありません。
大津京(近江京ともいう)は天智天皇死後壬申の乱によって,天武天皇が奈良の明日香に京を遷したことによって廃墟だけが残り,大宮人もいなくなり,寂しくなってしまったのでしょう。人麻呂はその静かな湖畔で多くの鳥が集まって騒いでいる情景に遭遇し,この歌を詠んだといえそうです。
次は,海岸で詠んだものです。

み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも(4-496)
<みくまののうらのはまゆふ ももへなすこころはもへど ただにあはぬかも>
<<熊野の浦の浜木綿が幾重にも重なり合っているように,心では繰り返し慕っているのだけれど,直接は逢えないのですね>>

この短歌は人麻呂が紀の国(今の和歌山県)の熊野灘に面した海岸で詠んだと考えられる4首のうちの1首です。浜木綿は,木綿の綿のように折り重なった白い細い花弁のようなものが特徴で,その数ほど恋人を恋い慕っているが,恋人の家から遠く離れた旅先なので直ぐ逢いに行くことができないと嘆いている。当然読む人にそんな人麻呂の寂しい気持ちを感じる短歌となっているでしょう。
<人麻呂は熊野灘に面したこの海岸の美しさを紹介している?>
ただ,私の解釈は少しひねくれています。この短歌は,少なくとも万葉集の編者にとっては,熊野の浜には遠くから見るとまるで木綿の花のように見える美しい浜木綿の群落があることを伝える目的で選んだのではないかと。
万葉集で,この短歌のように序詞を使っている和歌では,序詞に続く句がその和歌が伝えたい本体部分だと解釈されるようです。しかし,私は序詞の方が少なくとも万葉集の編者にとっては重要だったのではないかと感じるときがあるのです。
<万葉集は観光ガイドも兼ねている?>
今回の羈旅シリーズを書いてみて,出てくる言葉は,その土地の名前だけでなく,その土地の自然・風光,生き物,産物,そこで仕事する人々などです。多くの和歌は旅の寂しさ,苦しさ,不安感,恋人・家族の想いなどを伝えようとしていますが,序詞に出てくる言葉も含め単純に並べてみれば,何か各地の観光ガイドに引けをとらない内容に見えてきました。
私が万葉集の愛好家や研究者の方々の前で「万葉集の一部は旅の観光ガイドかも」というようなことを言おうものなら,「万葉集が何かの打算で編集されたなんて,考えられないし,考えたくもない」と一蹴されるのが落ちかもしれません。
でも,私が万葉集に対してこんな見方をしたからといって万葉集の価値が下がるわけではありません。また,私はそう感じたと書いているだけで,そうだと断言しているわけでもありません。
さて,羈旅リーズのまとめとしてもう少し書きたい部分もありますが,このくらいにして,次回から「今もあるシリーズ」に戻ります。
今もあるシリーズ「鏡(かがみ)」に続く。

2013年3月21日木曜日

当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(8):東歌」

私は今大阪のお客様へ出張した帰りの新幹線の中からこの投稿をアップしています。今回の出張目的は十分果たせ,気持ちよくこのブログを書いています。
さて,私の住む関東南部では桜が満開近くになりました。まだ,3月末まで1週間以上あります。私の住むマンションでは4月7日に恒例の花見会を行う予定ですが,間違いなく桜ではない花見会となりそうです。
ところで,「東歌」は万葉集が持つ多様性の根拠になるものの一つだと私は感じています。「東歌」が詠まれただろう年代は京が今の奈良地方にあった時代です。「東歌」を京から離れた田舎の人が詠んだ和歌と位置付けて集めたとすれば,奈良より西の地方の人が詠んだたとえば「西歌」という歌群があってもよさそうです。しかし,そのような分類は万葉集には見当たりません。
万葉集の編者は「東歌」を単なる田舎の人が詠んだ和歌という位置づけだけでなく何か別の意図をもって巻14に集めたのではないかと私は考えています。「東歌」から私が感じる編者の意図は,東国に誘(いざな)うこと,そして東国に行く場合に知っておきたい地形,風習,方言などを伝えたいという意図です。東国との交流を活発にすることで,東国の労働力,食糧や原材料の生産力,京付近で生産されている付加価値の高い製品の購買力などが高まり,ヤマト国家全体の経済連携と国力の充実が望めたためではないと私は考えるのですが,考えすぎでしょうか。
関西圏より格段に広大な東国には,さまざまな国や郡が昔からあります。ちなみに,群馬県や埼玉県には4世紀~6世紀のものと言われる数多くの古墳が発見されています。
それぞれの国や郡の間でも盛んな行き来があります。そのような行き来の旅を詠んだ東歌も少なくありません。
最初は,上野の国から信濃の国へ旅立った夫を見送る妻の1首です。

日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ(14-3402)
<ひのぐれにうすひのやまを こゆるひはせなのがそでも さやにふらしつ>
<<日暮れ時に碓氷の山を越えていかれた日,あなたの袖もはっきりと振ってくださったのが見えましたよ>>

この短歌から,妻は家から見送ったのではなく,碓氷峠の麓まで夫と一緒に行き,そこから夫の峠越えを見送ったのだろうと私は思います。
次は,駿河(するが)の国,庵原(いほはら)の郡,蒲原(かんばら)で旅をする人が詠んだといわれる1首です。

東道の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿りはなしに(14-3442)
<あづまぢのてごのよびさか こえがねてやまにかねむも やどりはなしに>
<<東国へ向かう手児の呼坂をどうしても越えられなくて,山の中で寝るしかないのか,宿泊する場所がないので>>

手児の呼坂が非常に険しい坂道だから登り越えられないのではなく,越えることが心理的に厳しいことがあるのだとと私は感じます。すなわち,この坂道を越えてしまうと残してきた妻とはもう二度と逢えないかもしれないという心理的な抵抗感です。さて,蒲原と言えば江戸時代東海道五十三次の一つであることは,歌川広重の浮世絵からもご存知の方は多いかもしれません。約1,300年前の万葉時代にすでに蒲原は,手児の呼坂を超える前や登った後に体を休める宿場町の一つだったのでしょうか。手児の呼坂は今の薩埵峠(さったとうげ))の近くに当時あったと街道かもしれません。
最後は,常陸の国の筑波山をいつも見て育った男性が,地元から旅立つときに詠んだと思われる1首です。

さ衣の小筑波嶺ろの山の崎忘ら来ばこそ汝を懸けなはめ(14-3394)
<さごろものをづくはねろの やまのさきわすらこばこそ なをかけなはめ>
<<筑波山の峰々の山の先の形を忘れて来たなら,おまえのことをまったく気に掛けていないことになるのだが>>

反語を使った婉曲な表現の短歌です。作者は筑波山を毎日見ながら育ったのでしょう。その山の形を忘れることは考えられない。それと同じくらいおまえのことを気に懸けないことはないという気持ちを詠んだのだと私には伝わってきます。
さて,思いのほか長く続いた羈旅シリーズも次回でいったん終わりとなります。締めくくりは羈旅の和歌では欠かせない大物歌人「柿本人麻呂」をとりあげます。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(9):(まとめ)柿本人麻呂」に続く。

2013年3月10日日曜日

当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(6):高市黒人」

<イタリア旅行報告6>
2月28日から3月9日までのイタリア旅行も終わり,時差ボケと戦いながら自宅からこのブログをアップしています。
観光最終日に回ったベローナとミラノは対照的でした。ベローナはジュリエットのベランダで有名ですが,町の歴史は古く,ローマ時代の円形競技場,ロマネスク,ルネサンス,バロックの各様式の建築物などが状態よく保存されているのが特に印象的でした。写真上はベローナ市街のアディジェ川に掛かる橋から写したものです。
ミラノの大聖堂(ドュオモウ)の外壁の彫刻はこれでもか,これでもかというほどの圧倒的な数と精密さを後世の我々に訴えかけています。膨大な大理石と大理石彫刻家が何百年という歳月を費やして作成した勢いが当時のミラノにはあったということをしてみてくれます。そして,私の尊敬するレオナルドダビンチの大理石像がミラノの歴史を象徴するように建ててありました(写真下)。
ただ,今回余りにも弾丸ツアーだったので,旅行の整理はこれからです。整理ができたら,また特集したいと思います。
<羈旅シリーズ(6)>
さて,今回の羈旅シリーズは高市黒人(たけちのくろひと)をとりあげます。
万葉集で羈旅シリーズで黒人取り上げないわけには行かないくらい,黒人は羈旅の歌人として有名です。黒人は山部赤人より先輩の歌人のようです。赤人は黒人を意識していたようです。次は赤人が意識していたという黒人の短歌です。

桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る(3-271)
<さくらだへたづなきわたる あゆちがたしほひにけらし たづなきわたる>
<<桜田のほうへ鶴が鳴き渡っていく。年魚市潟は潮がひいたようだなあ>>

この1首は,愛知県名古屋市付近の田で,鶴が田から離れて年魚市潟の方へ鳴きわたっていく姿を見て,年魚市潟の潮がひいて潟ができ,餌を啄ばめる状態になったのだろうと想像している短歌です。
赤人はこの短歌を知ったうえで,次の有名な短歌を作ったとされています。

若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(6-919)

これは,桜田にいる黒人とは逆で,潟にいる赤人は潮が満ちてきたので鶴が潟から飛び去っていくことを表現しています。
次の黒人の1首は,同じく鶴の動きを近江の海(琵琶湖)の港の情景を通して,船上から詠んだ短歌です。

磯の崎漕ぎ廻み行けば近江の海八十の港に鶴さはに鳴く(3-273)
<いそのさきこぎたみゆけば あふみのうみやそのみなとに たづさはになく>
<<岬を漕ぎ廻ってゆくと,近江の湖の多数の港で鶴がたくさん群れて鳴いている>>

羈旅シリーズ(4)の女性作のときにも書きましたが,当時琵琶湖は物資を船で運ぶための重要な水路であり,多くの港が作られ,多くの船が航行していたと考えられます。港では物資仲買人,水夫,陸送人夫,船客向けの食堂や,宿泊設備が整備されます。人の食べ残しや,買い手の付かなかった魚などを捨てる場所に鳥が集まってきます。黒人は,船上から琵琶湖のあちこち(恐らく琵琶湖の西側)に作られた港と,そこに群れる鶴(その他の鳥も含む)から,その賑わいを表現していると私は思います。
黒人は旅の際,妻を同伴させることもあったようです。今回のイタリアツアーも熟年夫婦で参加されている方々も多くいらっしゃいました。
ご主人が現役をリタイアされてから,何回も海外旅行にご夫婦で参加され,さまざまな思い出作りをされているご夫婦が大半でした。私は,その面では完全にビギナーでした。
次は黒人が同行の妻に贈ったと想像できる短歌です。

我妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ(3-279)
<わぎもこにゐなのはみせつ なすきやまつののまつばら いつかしめさむ>
<<私の妻に猪名野は見せたよ,次は名次山角の松原をいつか見せようか>>

黒人は妻に播磨の国(今の兵庫県南部)にある猪名野という野は見せてあげたが,名次山という山や角の松原という海岸を今度一緒に旅に出た時,見せてあげようという夫黒人の優しい一面が見えます。
今回,長年の罪滅ぼしにイタリア旅行に妻と行きましたが,いつになるかわかりませんが,今度また妻とイタリアに行く機会があったら,ローマ,ベローナをゆっくり回りたいですね。そして,今回コースになかったトリノ,ボローニア,カゼルタ,シチリアの各地も訪問し,二人でイタリアの歴史をさらに感じられたと思います。
イタリア旅行は終わりましたが,まだまだ羈旅シリーズは続きます。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(7):大伴旅人」

2013年3月2日土曜日

当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(2):高橋虫麻呂」

<イタリア旅行報告2>
私は,今イタリアのカプリ島からナポリ港へ向かう揺れの激しい船の中からこのブログをアップしています。
昨日は,ヴァチカン市国(ヴァチカン美術館,システィーナ礼拝堂,サンピエトロ寺院・広場)で彫刻・絵画・建物のものすごさに圧倒され,ローマ市内(真実の口,コロセッオ,スペイン階段,トレビの泉,その他遺跡のバス車窓見学など)の観光を1日かけて行いました。特にヴァチカンは,コンクラーベ(法王選挙)がまだ始まっておらず,コンクラーベが行われるシスティーナ礼拝堂をこの特別な時期に見学できるチャンスに恵まれました。
昨日のツアーガイドさんはローマに住んでいる日本人の方で,いささか興奮気味(ご本人も初めて経験だった)にこの時期(コンクラーベ)の珍しさを解説してくれていました。
なお,「ローマは1日にしてならず」のパロディーとしてまさに「ローマは1日にして回れず」が結論そのものです。5日間くらいのローマ滞在型ツアーに参加すれば,ローマを少しは回れたということになるでしょうか?

今朝はカプリ島に行ってきましたが,波が荒く,残念ながら青の洞窟には行けませんでした。
<羇旅シリーズ(2)>
さて,万葉集の羈旅シリーズ(2)は高橋虫麻呂をとりあげます。
前回の山部赤人が有名な田子の浦付近から見た有名な富士山の歌がありますが,虫麻呂も富士を讃える長歌1首とそれに対する反歌2首を詠んでいます。
少し,長いですが長歌も紹介します。

なまよみの甲斐の国 うち寄する駿河の国と こちごちの国のみ中ゆ 出で立てる富士の高嶺は 天雲もい行きはばかり 飛ぶ鳥も飛びも上らず 燃ゆる火を雪もち消ち 降る雪を火もち消ちつつ 言ひも得ず名付けも知らず くすしくもいます神かも せの海と名付けてあるも その山のつつめる海ぞ 富士川と人の渡るも その山の水のたぎちぞ 日の本のやまとの国の 鎮めともいます神かも 宝ともなれる山かも 駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも(3-319)
<なまよみのかひのくに うちよするするがのくにと こちごちのくにのみなかゆ いでたてるふじのたかねは あまくももいゆきはばかり とぶとりもとびものぼらず もゆるひをゆきもちけち ふるゆきをひもちけちつつ いひもえずなづけもしらず くすしくもいますかみかも せのうみとなづけてあるも そのやまのつつめるうみぞ ふじかはとひとのわたるも そのやまのみづのたぎちぞ ひのもとのやまとのくにの しづめともいますかみかも たからともなれるやまかも するがなるふじのたかねはみれどあかぬかも>
<<甲斐と駿河の国,そしてたくさんの国の真ん中にそびえ立つ富士の高嶺は,天雲もその前を躊躇して通り過ぎ,飛ぶ鳥もその頂までは飛び上がれず,燃える火を雪が消し,逆に降り積もる雪を火が消し続けている。言い難く形容し難く,霊妙な神のようでもある。せの海と名付けは富士山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも富士山の地下水が溢れ出た川だからである。日本全体の重鎮となる神のようであり,まさに国の宝であるよ。駿河にある富士の高嶺はいくら見ても見飽きないことよ>>

これが,1300年近く前に詠まれたと思うと,この描写力を私は讃嘆するしかありません。長歌に出てくる「せの海」は,万葉時代今の本栖湖,西湖,精進湖あたりにあった大きな湖を指すといわれています。
高橋虫麻呂自身でこの長歌を作ったとしたら,虫麻呂は富士山博士号が取得できるくらい富士山を何度も訪れ,研究をしていたことが容易に想像できます。虫麻呂には,旅で訪れる場所について可能な限り勉強や事前の調査をして臨むことが,旅の価値を高めるという姿勢があったのではないかと私は感じます。
これの長歌で当時どれだけ多くの人が富士山を見てみたいと思ったことでしょう。
さて,その反歌を紹介します。

富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり(3-320)
<ふじのねにふりおくゆきは みなづきのもちにけぬれば そのよふりけり>
<<富士の高嶺に降る積もった雪は6月15日に一応消えるけども、その夜にまた雪がふった>>

富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかりたなびくものを(3-321)
<ふじのねをたかみかしこみ あまくももいゆきはばかり たなびくものを>
<<富士の嶺が高く威厳があるため,天の雲も通り過ぎるのを憚って,たなびいてしまっているよ>>

長歌に対する反歌とは,長歌で述べた状況から,結論または導出された内容を短歌として詠います。特に,解説もいらないと思います。
高橋虫麻呂は高橋虫麻呂歌集として万葉集に載せている歌群があります。
この中で,私の住む埼玉を詠った旋頭歌がありますので,紹介させてください。

埼玉の小埼の沼に 鴨ぞ羽霧る おのが尾に降り置ける 霜を掃ふとならし(9-1744)
<さきたまのをさきのぬまにかもぞはねきる おのがをにふりおけるしもをはらふとにあらし>
<<埼玉の小埼の沼で鴨が羽ばたいてしぶきを飛ばしているわ。自分の尾に降り付いた霜を掃いのけようとしているのかもね>>

埼玉の比較的東部には,たくさんの沼があります。小崎の沼が埼玉県のどこにあったかは不明ですが,そこには冬になるとカモがたくさん飛来していたのでしょう。
それを見に行った二人(虫麻呂と彼女?)が,その光景を見て,詠んだのかもしれません。
この旋頭歌の前半で彼女が質問し,後半で虫麻呂がそれに答えているように私には感じとれます。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(3):遣新羅使」に続く。

2012年12月31日月曜日

年末年始スペシャル「2012年本ブログ投稿を振り返って」

<私の本業が忙しい理由>
今年はこの投稿を含め60件アップできました。今年始めの予想では70件以上いけるかなと思ったのですが,私の本業であるソフトウェア保守開発の業務が多忙で,やっとここまででした。
ところで,その業務が多忙な理由は次の通りだと私は考えています。
ソフトウェア保守開発の業務案件(以下,単に案件といいます)は,1案件単位の平均的な規模は比較的小さいのですが,規模のバラツキ(標準偏差)は結構大きいのです。また,案件発生は完全には予測不可能で,案件の発生はいわゆる「統計的な考え」に基づく必要があります。
ここでいう「統計的な考え」とは,銀行のATMの台数,駅の改札機の台数,スーパーのレジの稼働数,高速道路の料金所のゲート数などをどれだけ用意すれば,処理待ち時間がどの程度になるかという検討です。
<ATMの待ち行列で例示>
案件の発生は,ATMの例では出金,入金,振込,記帳,残高照会などを行うひとりのATM利用者の到着を指します。ソフトウェア保守開発要員数に対応するのは,ATMの設置数となります。
みなさんは,給料日前にATMコーナーに行くと空いている多くのATMを見るでしょう。いっぽう,給料日にはATMはフル稼働で,空くのを待っている人の列に出会います。
このようにバラツキが大きいのはソフトウェア保守開発案件もATMの利用者数も同じです。
また,利用者は残高照会だけして帰る人もいれば,ATM操作に慣れないのに何件もの振込をする人もいます(そんな人を見ているとイライラを感じた経験はありませんか?)。1利用者のATM専用時間のバラツキが非常に大きいのも保守開発案件対応時間と似ています。
<対応エンジニアに空きはない?>
ただ,似ていないのは,ATMはある程度利用されていない時間があっても統計学の待ち行列理論から見て最適であればOKですが,ソフトウェア保守開発の要員は空きが発生しないことが第一命題になっています。
そのため,待ち行列での最適性とは無関係に要員に空きを発生させなくする方法は,最低限の要員で体制を組み,案件が重なったときは残業でこなすということになります(私が勤める会社のように割増の残業代を払ってやるからよいだろうという経営者の発想はまだましで,残業が発生するのはお前のせいだからサービス残業で対応するんだというブラック企業もあると聞きます)。
もちろん,都度案件の外部委託も考えられますが,規模が比較的小さく,納期も短いため非効率です。結局,案件が極端に集中すると要員の残業時間が非常に多くなってしまいます。
待ち行列理論を勉強し,多少の空き時間が出来ても最適という認識になれば,空き時間は代休を取得したり,スキルアップや環境整備に回し,次の案件対応をより効率的にできることのメリットを経営サイドはもう少し理解すべきだと感じた一年でした。
<この1年のブログアップ>
さて,私事はこのくらいにして,本ブログの2012年を振り返ってみます。
年初は,(万葉集の)私の接した歌枕シリーズ「須磨」で始まりました。歌枕シリーズは福島県の「相馬」,愛媛県の「松山」と続き,1月7日からは前年(2011年)8月より続けている「対語シリーズ」戻りました。
3月末まで「対語リーズ」を続け,4月に入って,200投稿記念としてスペシャル記事を書きました。
その中でも,富山県高岡で学生時代に一緒に万葉集を研鑽したメンバーやその後輩たちと集いを持てたことは今でも印象に残っています。
その後,ゴールデンウィークスペシャルとして「私の接した歌枕」シリーズ(湯河原,三輪山,丹波,葛飾)をアップし,再び「対語シリーズ」に戻りました。
1年間連載してきた「対語シリーズ」は8月第1週で最終回としました。その後は私の夏休み近辺の状況をアップした夏休みスペシャルに入りました。
実は,今年の夏休み,私の行動力は結構すごかったと自画自賛したくなるほどです。
青春18きっぷで奈良の明日香村を往復したのは昨年でしたが,今年はそれに加えて大津から宇治まで奈良街道を夜を通して歩きました。
また,女夫淵温泉から加仁湯までや富士山本八合目(標高3,400m)までトレッキングをしました。さらに,私が会社でのポジションが変わったこともあり,多くの人たちと何度も宴で飲みました。
そんなこんなをブログにアップできたことは思い出深いことです。
そして,夏が終わり,新らたに「今もあるシリーズ」を開始しました。
その後も多忙な仕事の傍ら,8月加仁湯までしか行かなかった奥鬼怒ですが,10月上旬にはその先鬼怒沼(標高2,000m)まで登りました。秋晴れの空,筋雲,山並みが沼の水辺に映り,本当にきれいでした。
<閲覧数もアップ>
この1年のアクセス数は1年前の1.5倍に増えました。また,7月ひと月のアクセス数はこれまで1ヶ月のアクセス数の最高を40%以上上回るアクセス数となりました。そのほか特徴的なことは,海外からのアクセス比率がアップしました。特に米国からのアクセス数が今年の後半から急速に伸びています。
来年も300号を目指し,より多くの方に読んでもらえるよう,ブログアップを続けていきます。
ただ,次の有名な元興寺の僧侶が詠んだとされる旋頭歌に出てくる「白玉」を「万葉集」と考えるとその歌から諭(さと)されるため,アクセス数をあまり気にせず書き続けることにしましょう。

白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし(6-1018)
<しらたまはひとにしらえずしらずともよし しらずともわれししれらばしらずともよし>
<<白玉の本当の価値は人に知られていない。知らなくても人は困りはしない。その価値を人は知らなくても自分さえが知っていれば人が知らなくてもそれでよいのだ>>

年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(1)」に続く。

2012年8月26日日曜日

夏休みスペシャル「富士山八合目までハイキング


<富士山の途中まで>
本日,天の川君と一緒に富士山の八合目までハイキングに行ってきました。
富士山へハイキング? 登山じゃないの? と思われる方もいらっしゃるかと思いますが,頂上まで行かないつもりだったのでハイキングとしました。
天の川君は途中「歩くのしんどいわ」「靴の中に小石が入って痛おてたまらんわ」「腹減った」「のどが渇いた」「酒が飲みたい」などうるさいことばかり言ってましたが,何とか帰りの電車に乗れ,ほっとしたところです。
今,新しいパソコンを使い,帰りの電車の中からブログアップしています(写真は後日追加)。
<工程>
今日は,朝早く家を出て,湘南新宿ラインで国府津まで行き,御殿場線で御殿場(万葉集によく出てくる足柄の次の駅),御殿場から富士登山バスに乗り,須走口に10時前につきました。
その日の御殿場駅は自衛隊の演習を見に行く人でごった返していました。危うく自衛隊の訓練施設行のバスに乗ってしまうところでした。
バスは渋滞で到着が遅れ,出発時間が20分遅れました。さらに出発後も渋滞にはまり,予定より40分ほど遅い午前11時少し前に須走口五合目につくことになってしまいました。
写真は須走口五合目の案内板です。この地図の本八合目(標高約3,400m)を目指しました。


ここからは,もちろん徒歩です。
最初は勾配が結構きついものの次の写真のような樹林の中を歩く快適なハイキングです。


当日は猛烈な台風15号が沖縄地方に近づいていて,富士山の天気や風を少し心配しました。2,500~3,000mあたりに雲が少したなびいていましたが,それより上も下も快晴でした。
次の写真は,樹林地帯を抜け,雲がたなびいているあたりの高さから見た山中湖です。


万葉集にも次のような短歌がありますが,まさにそんな感じでしたね。

富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかりたなびくものを(3-321)
<ふじのねをたかみかしこみ あまくももいゆきはばかり たなびくものを>
<< 富士山は高く恐れ多いので雲も行く手をはばまれてたなびいている>>

風は微風程度で,急勾配を登って火照った体をちょうど良い具合に冷やしてくれました。
「六合目」には順調に到着,しかし,ようやく着いた次の休憩場所が「本六合目」,その後は標高が3,000mを超えて空気が薄くなり息も絶え絶え。
次の写真はやっと着いた七合目の山小屋「太陽館」(標高3,090m)です。最近出張で新横浜プリンスホテル(シングル)のスペシャルプラン素泊まり6,300円で宿泊したのですが,ここも同じ値段ですね。競争が無いのでこの値段でも泊まる人がいるということでしょうか。


天の川君の歩行速度の遅れもあり日帰りの設定で本八合目まで行けるか少し心配になってきました。けれど,「本七合目」から「八合目」までは,それほど距離はなく,何とか遅れを取り戻し,予定の時間通りさらに上の「本八合目」に到着しました。ここが,次の写真のように吉田口登山道と合流する場所です。標高は約3,400mで頂上まで後1時間半くらいで行ける場所です。


ここの山小屋前で少し休憩し,予定通りそれ以上上には行かず下山道を下ることにしました。
今回楽しみにしていたのは,本八合目からの下山道(登りとは別のコース)でのいわゆる砂走りです。駆け足くらいのスピードで砂地の下り道を降りていくのですが,体重を後ろに倒し,足で砂を押す感じでスピードを上げます。足への負担が思ったほどなく,快適に下って行けます。
ただ,最初は調子が良かったのですが,途中から砂の層が薄くなっている下り坂があり,砂が固い石の上を潤滑油のようにすべり,何度もしりもちをつきそうになりました。
さらに,トレッキングシューズに付けていたスパッツのコムが切れ,小石がトレッキングシューズに入りこみ,何度も靴を脱いで砂を出す羽目に。その間,私より年上と思われる女性が「気をつけてね」といって,砂を巻き上げ追い抜いていきます。
富士山の下り道の怖さを少し味わいました。今度は,もっと装備を工夫してみたいと思いました。
天の川君は今回の富士ハイキングをやってみてどんな感想を持っているのかな?

天の川 「次はたびとはん一人だけで行ってんか。ワイはもうコリゴリやわ」

天の川君の今年の夏休みも思い出深いものになったようですね。さて,次回から新たなシリーズを始めます。
万葉集に出てくるモノ,風習などで現在でも形は変わっていても,その源流が引き続き残っている言葉を取り上げていきます。
新シリーズ(今もあるシリーズ「網(あみ)」)に続く。

2012年7月17日火曜日

対語シリーズ「海と山」‥さあ夏休み!海に行こうか?山に行こうか?


もうすぐ,日本の多くの学校が夏休みになりますね。
海に行ったり,山に行ったりする計画を立てている人も多いことでしょう。
もちろん,日本は海に囲まれた山(島)や山に囲まれた海(入江)もたくさんありますから,両方一度に行く計画の方もいらっしゃるかもしれません。
さて,万葉時代の日本も海と山に恵まれていたと思われますので,本当に多くの海や山を詠み込みだ和歌が万葉集にたくさん採録されています。
「海」または「山」の漢字が何らかの形で入る万葉集の採録和歌数は,それぞれ何と数百首ずつあります。
その中で,「海」と「山」の両方が詠み込まれている歌を紹介します。

海山も隔たらなくに何しかも目言をだにもここだ乏しき(4-689)
<うみやまもへだたらなくに なにしかもめごとをだにも ここだともしき>
<<あなた様と私は海と山ほども仕切るものはないのに,なぜこうもお目に掛かったり,言葉を交わすことが少ないのでしょうか>>

この短歌は,坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が詠んだ恋の歌です。もっとお逢いしたいという強い気持ちを海と山ほどの違いがない(同じ人間)ことを強調して伝えようとしていると私は感じます。
次は,旅先で嵐の後に浜辺に打ち上げられた船旅の溺死者を見て詠んだ詠み人知らずの長歌の反歌です。

あしひきの山道は行かむ風吹けば波の塞ふる海道は行かじ(13-3338)
<あしひきのやまぢはゆかむ かぜふけばなみのささふる うみぢはゆかじ>
<<やはり山道を行こう。風が吹けば波が行くてを妨げる海路は行くまい>>

万葉時代,海路が新しい旅路の方法(楽で早く着く)として開拓され,人気が高かったのかもしれません。しかし,嵐に合うと沈没や座礁事故が発生し,多くの犠牲者を出した可能性は否定できません。
この歌の作者は,それを考えると厳しい山道を越え行く旅路を選択する方が良いと考えたのでしょう。今でも事故に遭うとほぼ命は助からない飛行機には絶対乗らないという人がいますからね。
さて,次は海と山を対比するのではなく,見上げる山と見下ろす海の常なる存在とそれに比べて人間のはかなさを詠った詠み人知らずの長歌です。

高山と海とこそば 山ながらかくもうつしく 海ながらしかまことならめ 人は花ものぞうつせみ世人(13-3332)
<たかやまとうみとこそば やまながらかくもうつしく うみながらしかまことならめ ひとははなものぞうつせみよひと>
<<高山と海こそは,山はこのように現実にあり,海もあるがまま真に存在する。しかし,人は花のようにはかない。それは世の人の常である>>

起伏に富んだ島国の日本にとって,海と山は切り離せないものです。日本に多くあるリアス式海岸線では海と山は接していますから。
しかし,当時の政治の中心であった奈良盆地は海に接していません。同じ作者が詠んだと思われる一つ前の歌を見るとやはり海より山に軍配が上がってしまうようですね。山が5回出てきます。

隠口の泊瀬の山 青旗の忍坂の山は 走出のよろしき山の 出立のくはしき山ぞ あたらしき山の 荒れまく惜しも(13-3331)
<こもりくのはつせのやま あをはたのおさかのやまは はしりでのよろしきやまの いでたちのくはしきやまぞ あたらしきやまの あれまくをしも>
<<泊瀬の山と忍坂の山は稜線がなだらかに続く形の良い山並みで,それぞれ美しい山です。ただ,放置されて荒れてしまっているのが残念ですね>>

対語シリーズ「夏と冬」に続く。

2012年5月11日金曜日

私の接した歌枕(16:三輪山)

この季節,奈良盆地を囲む山々が新緑の時期を迎えます。 奈良には何度も行っていますが,そんなにいろいろな場所に行っているわけではありません。 やはり,よく行くのは奈良市内と明日香ですが,大和古道の一つ山の辺の道も1~2度行っています。
 山の辺の道は天理市から奈良盆地の東側の山に沿って南の方に延びている古道です。 南の端に三輪(みわ)山があります。 万葉集では,三輪山,三輪の山,三諸(みもろ)の山と表現しています。 次は額田王が三輪山を詠んだ有名な短歌です。三輪山を望むあちこちにこの歌の歌碑が立っています。 

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(1-18)
 <みわやまをしかもかくすか くもだにもこころあらなも かくさふべしや>
<<三輪山をそんなふうに隠すのか。せめて雲だけでも情けがあってほしい。隠すなんてことがあってよいのだろうか>> 

この短歌は,天智天皇が飛鳥を離れ,滋賀県大津に京を移すことを決め,飛鳥を離れる時に詠んだとされるものです。 私は万葉集が歌物語と考えるとストーリの始まりは大津京遷都のような気がします。 もちろん,それ以前和歌も載っていますが,それはストーリ開始以前の思い出として出てくる和歌の位置づけでしかないように思うのです。
 大津京遷都の後,天智天皇が亡くなり,壬申の乱,京は飛鳥に戻ります。天武天皇,持統天皇と続く天武系の天皇が治める時代(奈良時代中期まで)を万葉集はさまざさまな歌人を通して物語ります。 まさに天皇から下級官僚,名も無い庶民,防人に至るまでです。
そして,その物語のシナリオにそって和歌を集め,万葉集を編纂したのはやはり大伴家持であることは間違いないと思います。
 なお,次の短歌(1首目は丹波大女娘子の短歌,2首目は柿本人麻呂歌集にあったという詠み人知らずの短歌)から三輪山には万葉時代から杉や桧の森林が発達していたと想像できます。

 味酒を三輪の祝がいはふ杉手触れし罪か君に逢ひかたき(4-712)
 <うまさけをみわのはふりが いはふすぎてふれしつみか きみにあひかたき>
 <<三輪の神に仕えるものたちが大切に祀っている大杉に手を触れた罪なのか。君に逢うことがむずかしいのは>>

 いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の桧原にかざし折りけむ(7-1118)
<いにしへにありけむひとも わがごとかみわのひはらに かざしをりけむ>
<<昔に暮らしていた人も,今の私たちのように三輪の桧原で小枝を折って髪に挿したのでしょうか>>

 万葉時代から,山の樹木(特にスギやヒノキの常緑樹)は人に霊気や癒しを与えるものと考えられたのでしょう。 そのため,神体とあがめられた三輪山も樹木で埋め尽くされ,各地の神社にも鎮守の杜(もり)が作られ,霊験新たかな場所のイメージを演出してきたのかも知れません。 今で言えば,森林浴のフィトンチッド(針葉樹に多く含まれているという)の癒し効果を人々は昔から何となく感じていたのかも知れませんね。
また,三輪は素麺で有名ですが,地元産は結構いい値段です。そこで,私は三輪素麺の切れ端である「ふし」を買って,自宅のお土産にします。 近いうちに再び山の辺の道を散策し,三輪山を眺めてみたいと考えています。
 私の接した歌枕(17:丹波)に続く。

2012年4月25日水曜日

200回特集‥高岡の集い

この前の土曜日と日曜日,富山県高岡市に大学時代活動していた万葉集の研究クラブのOB・OGが集まり,旧交を温めました。
高岡の古城公園(日本の桜百選)周辺は桜が満開でした。初日は各地から集まった参加者は午後高岡駅近くの料亭で再会の宴を楽しく行った後,古城公園を散策しました。
参加者(関東,関西,中京から参加)は,皆今年の桜の開花が遅れ,ちょうど見ごろになった幸運を喜び合ったのです。再会の宴では,私が顧問の先生の研究室にあった昔の写真などをパソコンに取り込んで,スライド投影しました。
懐かしい写真を見て,今回参加しなかったメンバーも含め,「○○に旅行に行ったときだ!」「このときの大学祭の準備はたいへんだったなあ~」「そういえばこの人どうしたのかなあ?」とっいた話が盛り上がり,時間の経過も忘れるほどでした。
その後も2次会,ホテルの部屋での語らいと夜の更けるのも忘れるくらいでした。

翌日は万葉歴史館を訪れ,大伴家持の越中での足跡を改めてたどりました。ボランティアの説明員の方が,親切に私たちに説明くださいました。歴史館の裏の高台から見た白雪をかぶった立山連邦もハッキリと見えました。
歴史館では堅香子(かたかご)の花を植えていました。歴史館に行く途中では,家の前にはコブシやモクレン,チューリップも咲いていました。その後,二上山山頂まで車で満開の桜の中をドライブして,山頂を目指しました。
家持が天平勝宝2(750)年春に越中で詠んだ峰の上の桜を詠んだ短歌があります。

今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり(19-4151)
<けふのためとおもひてしめし あしひきのをのへのさくら かくさきにけり>
<<今日のこの日のためにと思い,しるしをつけておいた峰の桜がこんなに綺麗に咲きました>>

山頂から家持が歩いたであろう国府の場所,また見たであろう海山川の地形をこの目で確認しました。また,山頂では鶯(うぐいす)が鳴いていて,家持が天平19(747)年のちょうど今頃越中で詠んだ次の短歌を思い浮かべました。

玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり(17-3987)
<たまくしげふたがみやまに なくとりのこゑのこひしき ときはきにけり>
<<二上山に鳴く鳥の声が美しい季節がやってきたよ>>

なお,この短歌の鳥は鶯ではなく霍公鳥(ほととぎす)のようです。いずれにしても,家持が二上山で鳥がにぎやかに鳴く春の到来を喜んだのは間違いないでしょう。
こうやって,あっという間の2日間が終り,参加者はそれぞれ帰路につきました。
参加者が帰宅した後,今回の集いが大変楽しく,また越中という土地の自然の豊かさ,恵まれた環境を感じられた思い出に残るものだったとのメールを多数頂いたのです。
<事前の回遊>
ちなみに,土曜日の宴の前,私は早めに富山に到着できたので,ひとりで砺波平野の散居村展望台に車で行き,登りました。
写真はその時展望台から撮ったものです。いくつかの田んぼでは水がはられ始めていました。

富山がまさに「富んだ山」から流れてくる川の雪解け水に潤わされ,花で満たされた春爛漫と暖かい心で満たされた旧友たちと過ごした素晴らしい2日間でした。

山は雪川は速水(はやみ)と里の花 海山幸に交わす杯(さかずき)

今回も企画から準備,開催まで1年以上掛けた甲斐があったようです。
このブログ,次はGWスペシャル「私の接した歌枕」シリーズの続きをお送りします。お楽しみに。
私の接した歌枕(15)「湯河原」に続く。

2012年1月4日水曜日

私の接した歌枕(14:松山)

私は愛媛県松山市に過去2回訪れています。1回目はソフトウェア保守研究会の研究大会,2回目は完全なプライベートです。
1回目の往路だけ(他は空路)は,勤める会社の関西支社に前日出張が入ったため,新大阪から広島まで新幹線,呉までは在来線に乗り継ぎ,呉港から船で瀬戸内海を横断して松山観光港,そこから電車で松山市内に入りました。
全国いろいろな県庁所在地を私は今まで見てきましたが,松山には独特の雰囲気があります。まず,松山城(現存天守)が市街地の真ん中にある城山の上にそびえ,城山に上がるロープウェイまであります。とにかく学校が多いです。路面電車の路線が6系統も残っています。そして,県庁から直線距離でたった3㎞ほどに道後温泉(日本最古の温泉地)があります。
文学面では司馬遼太郎作「坂の上の雲」,夏目漱石作「ぼっちゃん」,正岡子規(出身地)のゆかりの地です。高知ほどではありませんが,交通の便があまり良いとは言えないにも関わらずずっと四国で一番人口が多い都市でもあります。
2回目に行った時は12月下旬で,ちょうどミカンが美味しい季節でした。ミカンが形は小さいですが一山100円で売られていたの感動もの...。

天の川 「あのなあ~。たびとはんはいっつも前置きが長いなあ~。 松山と万葉集との関係は何やねん?」

そうそう,万葉集の歌枕シリーズだったことを,正月ボーッしすぎたせいか忘れかけていました。
万葉集の額田王(ぬかだのおほきみ)の有名な次の短歌に出てくる「熱田津(にぎたつ)」が松山にあったといわれています。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(1-8)
<にぎたつにふなのりせむと つきまてばしほもかなひぬ いまはこぎいでな>
<<熟田津から船に乗って出発しょうと月を待っていたが,潮の具合が出航ができる状況になってきた。今こそ漕ぎ出しましょう>>

熟田津は,一説には松山市の古三津あたりではないかということです。古三津地区は海岸線より奥ですが,松山のある道後平野は扇状地であり,四国山地から雨で浸食された土砂が流れてたまって行く。そのため,当時の海岸線は宮前川を約1㎞遡った古三津あたりにあったのだろうというのが根拠のようです。
しかし,1,300年前の海岸線はさらに奥だったのではないかと私は想像しています。今の松山市をGoogleの地図(航空写真)で見ると,1,300年前はどうだったは分かりませんが,過去は松山城のある城山公園,道後温泉前の道後公園,弁天山,岩子山などは海に浮かぶ島だったように見えます。道後温泉,石手寺の近くまで海だったとしたら,熱田津は「熱い田のある港」で,道後温泉の湯が流れ込んで港周辺の田は熱かったのかも知れませんね。
しかし,額田王がこの1首を詠んだ後年,山部赤人が熱田津を訪れた際,次の短歌を詠んでいます。

ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年の知らなく(3-323)
<ももしきのおほみやひとの にきたつにふなのりしけむ としのしらなく>
<<大宮人が熟田津から船に乗ったであろう年はどれほど前かわからない>>

前の額田王の歌は斉明(さいめい)天皇の時代(660年代)に詠まれたとされます。斉明天皇と中大兄皇子(なかのおほえのわうじ)が百済支援のため,熱田津から九州へ船で移動したときに詠んだとこの歌の左注に書かれています。
その後,斉明天皇が九州で崩御した後663年白村江(はくそんこう)の戦いで大敗すると天皇による熱田津へ行幸(みゆき)を行わなくなったのでしょう。それによって,行幸が頻繁に行われていたころの賑やかな熱田津が,赤人が訪れたころには寂れたところになっていた。赤人は,そんな賑やかな船出の姿は本当にあったのかと疑いたくなるほど寂れていたと感じ,この歌を詠んだのだろうと思います。
もう1首熱田津を詠んだ詠み人知らずの短歌が万葉集に出てきます。

熟田津に船乗りせむと聞きしなへ何ぞも君が見え来ずあるらむ(12-3202)
<にきたつにふなのりせむとききしなへ なにぞもきみがみえこずあるらむ>
<<熟田津から船出したと人は言うのに,どうして貴方は帰ってこないのですか。生きていて欲しい>>

この短歌は巻12で悲別の歌として分類されている中にあるものです。もし,船出した夫が白村江の戦いに徴兵されたことを記すのなら,夫は戦死した可能性が高いことになります。本当に悲しい歌ですね。
ただ,その後は,石手川や重信川などが運ぶ土石で道後平野が広がり(大きな氾濫もあったかもしれません),肥沃な土地の開墾が進み,温暖な気候と温泉にも恵まれ,松山に多くの人々が暮らすようになったのでしょう。
こんな松山に,いずれ文学の同好と是非行ってみたいと考えています。

さて,明日は仕事始めです。これで今回の年末年始スペシャル「私の接した歌枕」シリーズの3回目を終り,次回から対語シリーズに戻ります。
対語シリーズ「寒と暖(暑)」に続く。

2011年12月30日金曜日

私の接した歌枕(11:箱根)

年末年始スペシャル「私が接した歌枕」シリーズ第3弾をお送りします。
毎年1月2日,3日には箱根大学駅伝(正式名称:東京箱根間往復大学駅伝競走)が開催されます。箱根駅伝の圧巻は,なんといっても1日目(往路)5区箱根の山登りと2日目(復路)6区山下りではないでしょうか。参加各大学の走者の実力差が大きく出て,順位変動が激しく入れ替わることが箱根駅伝を見る人にはたまらないのかも知れませんね。
<箱根越えのつらい記憶>
さて,私が最初に箱根の山を越えたのは,東京都小平市にある私立高校(創立初の入学試験で合格すれば1期生)の受験のため,高校3年の2月中旬,京都から小平まで父の運転(車はマツダファミリアバン)で行った時です。
「高速道路代えろうもったいないさかいな」という父は夜中の国道1号線を東京に向けてひた走りました。
三島から箱根に入る頃には夜が明けて,前方からの朝日がまぶしかったのを覚えています。父の運転する車は箱根峠を越えて,芦ノ湖畔から箱根駅伝のコース(当時は箱根駅伝のことは何も知りませんでした)と同じ山下りをしました。そのまま国道1号線で藤沢まで行き,藤沢から藤沢街道(国道467号),厚木街道(国道246号),府中街道経由で,昼過ぎに小平近辺に到着しました。
<激しい雪に見舞われる>
その日は近辺で宿泊し,翌日の入試当日は父の車で受験校まで送ってもらい,入学試験の筆記試験,面接試験を受験しました。しかし,その日は試験時間が終盤に差し掛かったころから激しい雪が降り始めたのです。すべての試験が終わって校舎の3階廊下から見た周辺の武蔵野の畑はあっという間に真っ白になっていました。
父は学校の近くまで車を持ってきて待ってくれたので,学校を出て間もなく車に乗れ,京都へ向かう帰路につこうとしたのです。しかし,雪はますます激しく降ってきています。
学校から数キロ行ったところのガソリンスタンドで給油とタイヤチェーンを購入し,早速タイヤに巻きました。そこから,府中街道を南下して,とにかく国道1号線に入ろう。そうすれば大きなトラックも走っているので雪は気にならないと思ったのですが,積雪のため車は走っては止まり,走っては止まりの連続で,なかなか進みません。
<完全にストップ>
まだ国道1号線まで10キロ以上ある地点でついに前の車はほとんど動かなくなりました。時間はすでに夜中を過ぎていましたが雪は一向に止みません。運転をする父には寝てもらい,私は前の車が少し動いたら父に起こして,前の車に追いつくようにしました。結局,朝まで数回,それぞれ数十メートル前方に進んだだけでした。
夜が明けてさすがの雪もすっかり止み,一面の銀世界を照らすように朝日が射してきました。何台か前の大型トラックが脇道に入ったので,その後に付くことができ,しばらくして国道1号線入れました。そこからは昨夜のことが嘘のように順調に進むことができました。朝のラジオのニュースでは,今回の雪は東京都心で40センチの積雪という記録的なものだとアナウンサーが言っていました。
<箱根の山越えの道は通行止め>
ただ,これでこの話は終わりません。小田原から箱根の山登りを始めて箱根湯本温泉の手前あたりで箱根は積雪で通行止めのため,これ以上進めないことがわかりました。そこで待つこと5時間以上,夕方近くになってようやく除雪が終了。チェーン装着車のみ通行可能となり,ノロノロ運転ですが山登りを開始できました。
箱根の山道,除雪後の道脇には人の背丈をはるかに超える雪が積み上げられていました。箱根越えが本当に厳しいものだということを別の形で知らされたのです。
三島に着いたのが夜の7時を過ぎていました。その後は,ひたすら国道1号線を西進し,未明にようやく京都山科の自宅にたどり着きました。運転好きの父もさすがに堪えたようで「合格したらな,その時は母さんと電車で行って~な」と言って,仮眠した後昼前には仕事に行きました。
私は残念ながら合格は叶わず,次に箱根の山を越えたのは同系列の大学の2期生として入学できたときでした。
<万葉時代の東国行き>
ところで,万葉時代の東海道は箱根の急峻を避け,関西からは御殿場⇒足柄(あしがら)峠を越えて相模(さがみ)の国に入ったのだろうと思われます。したがって,箱根に関するあくまで伝聞と思われるテーマを詠んだ東歌が万葉集に出てきます。

あしがりの箱根の嶺ろのにこ草の花つ妻なれや紐解かず寝む(14-3370)
<あしがりのはこねのねろのにこぐさの はなつつまなれやひもとかずねむ>
<<箱根の山に咲くにこ草の花と同じような(可憐な)妻だったら紐を解かずに寝るのだけれど,そうじゃないからなあ>>

この短歌を作者の妻が聞いたらとんでもないことになりますよね。紐を解いて寝るとは女性と寝ることを意味しますから,浮気を身勝手に正当化したいという気持ちを詠んだ短歌です。
私が万葉集勅撰説に靡かない理由は,こんな短歌が(例え東歌と言えども)勅撰和歌集に選ばれるはずがないと思うからです。
次は,同じ東歌ですが,もう少し際どさが少ない短歌です。

足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるをあは無くもあやし(14-3364)
<あしがらのはこねのやまに あはまきてみとはなれるを あはなくもあやし>
<<足柄の箱根の山に粟を蒔いて実らせたように私の恋も実ったはずなのに,どうして逢えないのかなあ>>

この短歌の「あは無く」は「粟無く」と「逢は無く」を掛けています。万葉時代,箱根の山は開拓が少しずつ進んでいたのでしょう。箱根は温泉があちこちから湧き出て,森林が豊富で,芦ノ湖では魚が豊富に獲れたいたのだと私は想像します。但し,農業は険しい勾配地が多く,粟といった米よりも気候の変化に強い作物がようやく実を結ぶようになったようですね。
箱根の山中で粟を育てる苦労以上に苦労している私の恋は実を結んでもよいのに,なかなか逢うこともかなわない。
この短歌はそんな気持ちのいら立ちを箱根の開墾の苦労題材に(序詞,掛詞を使い)上手に表現していると私は思います。
私の接した歌枕(12:須磨)に続く。

2009年3月6日金曜日

万葉集で出てくる○○山

エクセルに少し詳しい人なら「オートフィルタ」という機能があることを御存知かもしれません。
この機能の「オプション」では,「○○」「で終わる」や「で始まる」ものだけを表示することができます。
例えば,単語の漢字表記の欄で「山」「で終わる」と指定すると,「○○山」の単語だけが現れてきます。
今登録している約5,000語の万葉集に出てくる単語の内,「○○山」の単語の数は,200語余り出てきます。
そのほとんどが地名です。有名な山の名前をあげると次のものが万葉集に出てきます。
安積香山(福島県),足柄山(神奈川県),逢坂山(京都府・滋賀県),天の香具山(奈良県),有馬山(兵庫県),生駒山(大阪府・奈良県),碓氷の山(長野県・群馬県),畝傍山(奈良県),大江の山(京都府),春日山(奈良県),葛城山(大阪府・奈良県),子持山(群馬県),白山(石川県、福井県、岐阜県),立山(富山県),筑波山(茨城県),名張の山(三重県),箱根の山(神奈川県),比良山(滋賀県),二上山(奈良・大阪,富山),美濃の山(岐阜県),耳成山(奈良県),三輪山(奈良県),由布山(大分県),吉野の山(奈良県)
「○○山」以外に「富士の高嶺」のように富士山を表すものもあります。
この他の「○○山」については,平城京や明日香近辺にある奈良県の山がたくさん出てきます。
写真は名張の山です。前の橋が邪魔ですね。
もちろん,今となってはどこにある山か不明なものもあります。
200以上の「○○山」が万葉集に出てくるということは,日本人の山に対する思いがことのほか強くあるということのあらわれなのかもしれません。
たまには,1300年前から詠まれているお近くの山にのぼってみたり,ながめてみたりして,万葉人の思いに浸るのも面白いかもしれませんね。