私は今大阪のお客様へ出張した帰りの新幹線の中からこの投稿をアップしています。今回の出張目的は十分果たせ,気持ちよくこのブログを書いています。
さて,私の住む関東南部では桜が満開近くになりました。まだ,3月末まで1週間以上あります。私の住むマンションでは4月7日に恒例の花見会を行う予定ですが,間違いなく桜ではない花見会となりそうです。
ところで,「東歌」は万葉集が持つ多様性の根拠になるものの一つだと私は感じています。「東歌」が詠まれただろう年代は京が今の奈良地方にあった時代です。「東歌」を京から離れた田舎の人が詠んだ和歌と位置付けて集めたとすれば,奈良より西の地方の人が詠んだたとえば「西歌」という歌群があってもよさそうです。しかし,そのような分類は万葉集には見当たりません。
万葉集の編者は「東歌」を単なる田舎の人が詠んだ和歌という位置づけだけでなく何か別の意図をもって巻14に集めたのではないかと私は考えています。「東歌」から私が感じる編者の意図は,東国に誘(いざな)うこと,そして東国に行く場合に知っておきたい地形,風習,方言などを伝えたいという意図です。東国との交流を活発にすることで,東国の労働力,食糧や原材料の生産力,京付近で生産されている付加価値の高い製品の購買力などが高まり,ヤマト国家全体の経済連携と国力の充実が望めたためではないと私は考えるのですが,考えすぎでしょうか。
関西圏より格段に広大な東国には,さまざまな国や郡が昔からあります。ちなみに,群馬県や埼玉県には4世紀~6世紀のものと言われる数多くの古墳が発見されています。
それぞれの国や郡の間でも盛んな行き来があります。そのような行き来の旅を詠んだ東歌も少なくありません。
最初は,上野の国から信濃の国へ旅立った夫を見送る妻の1首です。
日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ(14-3402)
<ひのぐれにうすひのやまを こゆるひはせなのがそでも さやにふらしつ>
<<日暮れ時に碓氷の山を越えていかれた日,あなたの袖もはっきりと振ってくださったのが見えましたよ>>
この短歌から,妻は家から見送ったのではなく,碓氷峠の麓まで夫と一緒に行き,そこから夫の峠越えを見送ったのだろうと私は思います。
次は,駿河(するが)の国,庵原(いほはら)の郡,蒲原(かんばら)で旅をする人が詠んだといわれる1首です。
東道の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿りはなしに(14-3442)
<あづまぢのてごのよびさか こえがねてやまにかねむも やどりはなしに>
<<東国へ向かう手児の呼坂をどうしても越えられなくて,山の中で寝るしかないのか,宿泊する場所がないので>>
手児の呼坂が非常に険しい坂道だから登り越えられないのではなく,越えることが心理的に厳しいことがあるのだとと私は感じます。すなわち,この坂道を越えてしまうと残してきた妻とはもう二度と逢えないかもしれないという心理的な抵抗感です。さて,蒲原と言えば江戸時代東海道五十三次の一つであることは,歌川広重の浮世絵からもご存知の方は多いかもしれません。約1,300年前の万葉時代にすでに蒲原は,手児の呼坂を超える前や登った後に体を休める宿場町の一つだったのでしょうか。手児の呼坂は今の薩埵峠(さったとうげ))の近くに当時あったと街道かもしれません。
最後は,常陸の国の筑波山をいつも見て育った男性が,地元から旅立つときに詠んだと思われる1首です。
さ衣の小筑波嶺ろの山の崎忘ら来ばこそ汝を懸けなはめ(14-3394)
<さごろものをづくはねろの やまのさきわすらこばこそ なをかけなはめ>
<<筑波山の峰々の山の先の形を忘れて来たなら,おまえのことをまったく気に掛けていないことになるのだが>>
反語を使った婉曲な表現の短歌です。作者は筑波山を毎日見ながら育ったのでしょう。その山の形を忘れることは考えられない。それと同じくらいおまえのことを気に懸けないことはないという気持ちを詠んだのだと私には伝わってきます。
さて,思いのほか長く続いた羈旅シリーズも次回でいったん終わりとなります。締めくくりは羈旅の和歌では欠かせない大物歌人「柿本人麻呂」をとりあげます。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(9):(まとめ)柿本人麻呂」に続く。
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