2013年3月8日金曜日

当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(4):女性作」

<イタリア旅行報告4>
ローマを出発した今回のツアーも南イタリアが終わり,イタリア中央の都市フィレンツェピサヴェネチアに続き,ベローナミラノとスペシャル強行軍でアップする時間がありませんでした。あっいう間に,最終宿泊地のミラノとなり,そこからアップしています。
3月4日のアマルフィー海岸観光で撮ったエメラルドの洞窟とアマルフィの写真の一部をアップします。
5日は,シエーナフィレンツェ観光をしてきました。どちらも,バロックルネサンスの素晴らしい宗教建築・絵画・彫刻をこれでもかと見せつけられました。
ナポリに比べて,シエナフィレンツェの街は非常にきれいです。添乗員の聞くところによるとフィレンツェとナポリは今も対抗意識が強く,お互いの悪いところを反面教師のように改善しているとのことだそうです。ただ,恐らくですが物価はナポリの方がフィレンツェに比べて断然安いのかなと思います。
その後のピサ,ヴェネチア,ベローナ,ミラノは雨男の私のせいで,すべて雨でした。その内容は後日報告します。
<羇旅シリーズ(4)>
さて,万葉時代は女性は妻問婚のため,家にいて夫の訪問を待つ習慣があった訳ですが,女性も立場によって旅をします。
たとえば,女性天皇は天皇である以上行幸(みゆき)を行う必要があります。お連れの女性も多く行幸に同行したのでしょう。
額田王のように皇族の狩りや行軍に同行して場を盛り上げる和歌を詠う場合,旅をすることになったと思われます。
また,たとえば伊勢神宮斎宮として選ばれた女性とその下女は,京から伊勢神宮へ向かう旅をすることになります。
斎宮の任期が終了すると京に戻ることができますので,旅の機会はこの時にも訪れます。
まず,持統天皇紀伊の国に行幸に行ったさい,同行した天智天皇の第四皇女で,文武天皇元正天皇の母であったという阿閇皇女(後の元明天皇)が詠んだ短歌を紹介します。

これやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありといふ名に負ふ背の山(1-35)
これやこのやまとにしては あがこふるきぢにありといふ なにおふせのやま
<<これこそまさしく大和において私がなんとか見たいと思っていた紀伊路にあるという名高い背の山なのか>>

この短歌は,皇女の夫である草壁皇子が,本来天皇になるはずが他界してしまったのです。そして,自分の夫(我が背)を偲ぶ紀の国にある背の山をみて詠んだものです。
次は,坂上郎女が福岡の大宰府から京に帰る旅路で詠んだ1首です。

我が背子に恋ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ恋忘貝(6-964)
わがせこにこふればくるし いとまあらばひりひてゆかむ こひわすれがひ
<<あなたを恋しく思えば辛い。道中暇があったら拾って行きましょう,恋忘貝を>>

道中,郎女は難波住吉(すみのえ)に到着した際,恋忘貝の話を聞き,この短歌を詠ったのでしょうか。夫は他界していて,その夫を偲んで詠んだものかと私は想像します。
最後は同じく,坂上郎女が京都の賀茂神社に参拝した後,近江に立ち寄った際,逢坂山を超えた時に詠んだ1首です。

木綿畳手向の山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ我れ(6-1017)
ゆふたたみたむけのやまを けふこえていづれののへに いほりせむわれ
<<手向の山を今日越えて今夜どこの野辺で仮寝をすることになるのだろうか私は>>

郎女がこの短歌を詠んだ頃,逢坂山を超えた近江の国は宿もないような田舎という評判があったのだろうと思います。しかし,実際はそんなことはなく,大津は北国からの物資(特に日本海で獲れた魚など)の船が発着でにぎわっていたと私は思います。でも,行ったことがない場所へ行くのは不安になります。坂上郎女といえども,旅先がどんなところかという不安を詠みたくなったのでしょうか。
さて,次回は遠く東国から九州まで出兵のため旅をすることを余儀なくされた防人が詠んだ羈旅の歌を紹介します。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(5):防人作」に続く。

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