2013年3月24日日曜日

当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(9):(まとめ)柿本人麻呂」

このシリーズも今回がまとめになります。
万葉集の羈旅に関する和歌の中で際立った輝きを発しているのは,やはりこのシリーズ最後を飾るにふさわしい柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)だろうと私は思います。
万葉集の彼の和歌は,どれも情景表現,心情表現共に印象に残る和歌ばかりではないでしょうか。

燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず(3-254)
ともしびのあかしおほとに いらむひやこぎわかれなむ いへのあたりみず
<<明石の海峡に船が入る日には本当の別れを告げることになるのか。家族の住む家のあたりから見える山々も見えなくなるから>>

この短歌は,人麻呂が明石海峡を東から西へ向かって通過するときに詠んだ1首でしょう。ここを通過すると淡路島が視界を遮り,大阪奈良を隔てる生駒山系が見えなくなるのです。奈良に住む家族が生駒山に上り,山頂から手を振ったとしても,もう物理的に見ることはできないほど遠くに来てしまったという人麻呂の実感が関西に土地勘のある私には明確に伝わってきます。
<旅先で危険が多いのは今も同じ>
でも,この短歌を悲嘆に暮れている心情のみでしょうか。万葉時代の旅は非常に危険で,旅先で命を落とす人も多かった。だから,旅は不安であり,助け合う家族がそばにいない寂しさが募ってしょうがない。そんな気持ちが今よりも多かったのは事実でしょう。
ただ,この現代でも,2月中旬に起こったグアム通り魔殺人事件,2月下旬に起こったエジプトの熱気球墜落事故,3月下旬起こったカンボジアのジェットコースターに乗った邦人女性の転落事故のように旅先で命を落とす人はゼロではありません。今回の私のイタリア旅行でも,明らかにスリや置き引きを狙っているような人物の気配を有名観光地や大きな鉄道の駅で感じました。
<万葉時代でも街道筋は比較的安全だった?>
いっぽう,街道や実績のある船と船頭を使うのであれば,万葉時代でもそれほど危険はなかったのではないかと私は想像します。なぜなら,街道や航行では毎日多くの物資が運ばれ,そのほとんどは無事目的地についているはずだからです。毎日何らかの事故で人が死んでいたら,運送業は成り立ちませんから。
現代でも「危険であったか,それともなかったか」という○か×かで物事を判断するのではなく,「危険である確率」で物事を冷静に判断することが重要だと私は思います。
<今のマスコミは珍しいことだけを取り上げる?>
話は横道にそれますが,今のマスコミの報道は,事故や事件の発生確率について一般の人が正当に判断することを阻害するものが多すぎると私は感じます。マスコミは注目度が高くなるようなニュースを報道する必要性から,珍しいことや重大なことばかり選んで報道する傾向があります。しかし,その報道を受け取った側はそれが珍しいこととは思わず,いつの間にかそのような事件や事故が日常的なこと,普通のことと勘違いをしてしまうことが珍しくありません。その結果,世の中を必要以上に危険と感じる,必要以上に人との接触を避ける,必要以上に臆病になるようにさせてしまっているのではないかと私は危惧します。
<人麻呂の羇旅の歌に戻すと>
さて,話を人麻呂に戻して,この短歌では「遠くまで来たんだなあ」ということを詠んではいますが,人麻呂の旅の行程自体は順調だったのかもしれませんね。

近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(3-266)
あふみのうみゆふなみちどり ながなけばこころもしのに いにしへおもほゆ
<<近江の海(琵琶湖)の夕波に集う千鳥よ,君が鳴くと心がしみじみとなり昔のことを思い出すんだよ>>

人麻呂は,この短歌を詠んだとき,琵琶湖のほとりの宿まる場所が決まり,夕方湖岸を散歩をしていたのでしょうか。その時,千鳥(チドリではなく多くの鳥の意か?)が湖面に集まる姿を見て,昔(天智天皇大津に京を置いていた頃)湖面に大宮人が船を多数浮かべてにぎやかに宴をしていた姿を思い出した(人麻呂も参加)に違いありません。
大津京近江京ともいう)は天智天皇死後壬申の乱によって,天武天皇奈良明日香に京を遷したことによって廃墟だけが残り,大宮人もいなくなり,寂しくなってしまったのでしょう。人麻呂はその静かな湖畔で多くの鳥が集まって騒いでいる情景に遭遇し,この歌を詠んだといえそうです。
次は,海岸で詠んだものです。

み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも(4-496)
みくまののうらのはまゆふ ももへなすこころはもへど ただにあはぬかも
<<熊野の浦の浜木綿が幾重にも重なり合っているように,心では繰り返し慕っているのだけれど,直接は逢えないのですね>>

この短歌は人麻呂が紀の国(今の和歌山県)の熊野灘に面した海岸で詠んだと考えられる4首のうちの1首です。浜木綿は,木綿の綿のように折り重なった白い細い花弁のようなものが特徴で,その数ほど恋人を恋い慕っているが,恋人の家から遠く離れた旅先なので直ぐ逢いに行くことができないと嘆いている。当然読む人にそんな人麻呂の寂しい気持ちを感じる短歌となっているでしょう。
<人麻呂は熊野灘に面したこの海岸の美しさを紹介している?>
ただ,私の解釈は少しひねくれています。この短歌は,少なくとも万葉集の編者にとっては,熊野の浜には遠くから見るとまるで木綿の花のように見える美しい浜木綿の群落があることを伝える目的で選んだのではないかと。
万葉集で,この短歌のように序詞を使っている和歌では,序詞に続く句がその和歌が伝えたい本体部分だと解釈されるようです。しかし,私は序詞の方が少なくとも万葉集の編者にとっては重要だったのではないかと感じるときがあるのです。
<万葉集は観光ガイドも兼ねている?>
今回の羈旅シリーズを書いてみて,出てくる言葉は,その土地の名前だけでなく,その土地の自然・風光,生き物,産物,そこで仕事する人々などです。多くの和歌は旅の寂しさ,苦しさ,不安感,恋人・家族の想いなどを伝えようとしていますが,序詞に出てくる言葉も含め単純に並べてみれば,何か各地の観光ガイドに引けをとらない内容に見えてきました。
私が万葉集の愛好家や研究者の方々の前で「万葉集の一部は旅の観光ガイドかも」というようなことを言おうものなら,「万葉集が何かの打算で編集されたなんて,考えられないし,考えたくもない」と一蹴されるのが落ちかもしれません。
でも,私が万葉集に対してこんな見方をしたからといって万葉集の価値が下がるわけではありません。また,私はそう感じたと書いているだけで,そうだと断言しているわけでもありません。
さて,羈旅リーズのまとめとしてもう少し書きたい部分もありますが,このくらいにして,次回から「今もあるシリーズ」に戻ります。
今もあるシリーズ「鏡(かがみ)」に続く。

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