年末年始スペシャル「私が接した歌枕」シリーズ第3弾をお送りします。
毎年1月2日,3日には箱根大学駅伝(正式名称:東京箱根間往復大学駅伝競走)が開催されます。箱根駅伝の圧巻は,なんといっても1日目(往路)5区箱根の山登りと2日目(復路)6区山下りではないでしょうか。参加各大学の走者の実力差が大きく出て,順位変動が激しく入れ替わることが箱根駅伝を見る人にはたまらないのかも知れませんね。
<箱根越えのつらい記憶>
さて,私が最初に箱根の山を越えたのは,東京都小平市にある私立高校(創立初の入学試験で合格すれば1期生)の受験のため,高校3年の2月中旬,京都から小平まで父の運転(車はマツダファミリアバン)で行った時です。
「高速道路代えろうもったいないさかいな」という父は夜中の国道1号線を東京に向けてひた走りました。
三島から箱根に入る頃には夜が明けて,前方からの朝日がまぶしかったのを覚えています。父の運転する車は箱根峠を越えて,芦ノ湖畔から箱根駅伝のコース(当時は箱根駅伝のことは何も知りませんでした)と同じ山下りをしました。そのまま国道1号線で藤沢まで行き,藤沢から藤沢街道(国道467号),厚木街道(国道246号),府中街道経由で,昼過ぎに小平近辺に到着しました。
<激しい雪に見舞われる>
その日は近辺で宿泊し,翌日の入試当日は父の車で受験校まで送ってもらい,入学試験の筆記試験,面接試験を受験しました。しかし,その日は試験時間が終盤に差し掛かったころから激しい雪が降り始めたのです。すべての試験が終わって校舎の3階廊下から見た周辺の武蔵野の畑はあっという間に真っ白になっていました。
父は学校の近くまで車を持ってきて待ってくれたので,学校を出て間もなく車に乗れ,京都へ向かう帰路につこうとしたのです。しかし,雪はますます激しく降ってきています。
学校から数キロ行ったところのガソリンスタンドで給油とタイヤチェーンを購入し,早速タイヤに巻きました。そこから,府中街道を南下して,とにかく国道1号線に入ろう。そうすれば大きなトラックも走っているので雪は気にならないと思ったのですが,積雪のため車は走っては止まり,走っては止まりの連続で,なかなか進みません。
<完全にストップ>
まだ国道1号線まで10キロ以上ある地点でついに前の車はほとんど動かなくなりました。時間はすでに夜中を過ぎていましたが雪は一向に止みません。運転をする父には寝てもらい,私は前の車が少し動いたら父に起こして,前の車に追いつくようにしました。結局,朝まで数回,それぞれ数十メートル前方に進んだだけでした。
夜が明けてさすがの雪もすっかり止み,一面の銀世界を照らすように朝日が射してきました。何台か前の大型トラックが脇道に入ったので,その後に付くことができ,しばらくして国道1号線入れました。そこからは昨夜のことが嘘のように順調に進むことができました。朝のラジオのニュースでは,今回の雪は東京都心で40センチの積雪という記録的なものだとアナウンサーが言っていました。
<箱根の山越えの道は通行止め>
ただ,これでこの話は終わりません。小田原から箱根の山登りを始めて箱根湯本温泉の手前あたりで箱根は積雪で通行止めのため,これ以上進めないことがわかりました。そこで待つこと5時間以上,夕方近くになってようやく除雪が終了。チェーン装着車のみ通行可能となり,ノロノロ運転ですが山登りを開始できました。
箱根の山道,除雪後の道脇には人の背丈をはるかに超える雪が積み上げられていました。箱根越えが本当に厳しいものだということを別の形で知らされたのです。
三島に着いたのが夜の7時を過ぎていました。その後は,ひたすら国道1号線を西進し,未明にようやく京都山科の自宅にたどり着きました。運転好きの父もさすがに堪えたようで「合格したらな,その時は母さんと電車で行って~な」と言って,仮眠した後昼前には仕事に行きました。
私は残念ながら合格は叶わず,次に箱根の山を越えたのは同系列の大学の2期生として入学できたときでした。
<万葉時代の東国行き>
ところで,万葉時代の東海道は箱根の急峻を避け,関西からは御殿場⇒足柄(あしがら)峠を越えて相模(さがみ)の国に入ったのだろうと思われます。したがって,箱根に関するあくまで伝聞と思われるテーマを詠んだ東歌が万葉集に出てきます。
あしがりの箱根の嶺ろのにこ草の花つ妻なれや紐解かず寝む(14-3370)
<あしがりのはこねのねろのにこぐさの はなつつまなれやひもとかずねむ>
<<箱根の山に咲くにこ草の花と同じような(可憐な)妻だったら紐を解かずに寝るのだけれど,そうじゃないからなあ>>
この短歌を作者の妻が聞いたらとんでもないことになりますよね。紐を解いて寝るとは女性と寝ることを意味しますから,浮気を身勝手に正当化したいという気持ちを詠んだ短歌です。
私が万葉集勅撰説に靡かない理由は,こんな短歌が(例え東歌と言えども)勅撰和歌集に選ばれるはずがないと思うからです。
次は,同じ東歌ですが,もう少し際どさが少ない短歌です。
足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるをあは無くもあやし(14-3364)
<あしがらのはこねのやまに あはまきてみとはなれるを あはなくもあやし>
<<足柄の箱根の山に粟を蒔いて実らせたように私の恋も実ったはずなのに,どうして逢えないのかなあ>>
この短歌の「あは無く」は「粟無く」と「逢は無く」を掛けています。万葉時代,箱根の山は開拓が少しずつ進んでいたのでしょう。箱根は温泉があちこちから湧き出て,森林が豊富で,芦ノ湖では魚が豊富に獲れたいたのだと私は想像します。但し,農業は険しい勾配地が多く,粟といった米よりも気候の変化に強い作物がようやく実を結ぶようになったようですね。
箱根の山中で粟を育てる苦労以上に苦労している私の恋は実を結んでもよいのに,なかなか逢うこともかなわない。
この短歌はそんな気持ちのいら立ちを箱根の開墾の苦労題材に(序詞,掛詞を使い)上手に表現していると私は思います。
私の接した歌枕(12:須磨)に続く。
0 件のコメント:
コメントを投稿