「音」の2回目は,「楫(かぢ)の音」を取りあげます。
万葉集では「楫の音」を詠んだ和歌が20首近く出てきます。
当時,「楫の音」は,今に例えるとジェット飛行機やヘリコプターの飛ぶ音,新幹線の走行音のように,その時代の近代化を象徴する音だったのではないかと私は想像します。万葉時代には造船技術が向上し,さまざまなタイプの船がそれまでに比べ,低コスト,短期間で作ることができるようになったようです。
また,各地の海辺や海につながる川辺には,船着き場や港が次々と作られていき,経済の発展による物流量の増加とともに,船の交通量が大きく拡大していた時代。その拡大を感じさせる音の象徴が「楫の音」だったと私は考えます。
楫は,小さな舟では櫓(ろ)のようなもので,大きな船では櫂(かい)のようなもの指していたのではないでしょうか。それは,当時木でできていて,動かすには,いわゆる「てこの原理」で,支点になる部分が必要になります。その支点は,楫全体がぶれないようにしっかりと支える臍や穴が開いている構造になっていたと想像できます。
そうすると,楫を動かしたとき,その支点部分に力が集中し,木と木が強く摩擦する音が発生します。それが「ギーコー,ギーコー,..」という「楫の音」の源です。
では,実際の万葉集の和歌を見てきましょう。
最初は,代表的万葉歌人の一人笠金村(かさのかなむら)が神亀2年10月に難波宮を訪問した際に詠んだ短歌です。
海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ(6-930)
<あまをとめ たななしをぶねこぎづらし たびのやどりにかぢのおときこゆ>
<<海人の娘たちが屋根の無い小舟を漕ぎ出すらしい。旅寝の宿で櫓(ろ)の音が聞こえる>>
難波(なには)宮は,今の大阪城付近にあったという説が有力だそうですが,当時の海岸線はその近くまで来ていたとすれば,海の傍に建つ豪華な別荘宮だったと考えてもよいかもしれません。
地元の漁師の若い娘たちが,早朝小さな舟に乗って,漁に漕ぎ出す時の勢いのよい「楫の音」が,宮の近くの宿で聞こえたことを詠んでいると私は考えます。
それを長閑(のどか)と感じたのか,活気があると感じたのか,当時の感性でないと正しく理解ができないような気がします。
次は,同じ大阪(難波)で積極的に掘られたと考えられる運河を航行する舟の梶の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも(7-1143)
<さよふけてほりえこぐなる まつらぶねかぢのおとたかし みをはやみかも>
<<夜が更けても堀江を漕ぎ進む松浦舟の梶の音が大きく聞こえる。堀江の水の流れが速いからであろうか>>
松浦舟の松浦は九州の肥前の国の地名で,そこで作られた良い舟であり,万葉集の歌人が詠むくらいなので,松浦舟はきっと舟の有名ブランドだったのでしょう。
この短歌が詠んでいるように,その松浦舟の楫の音が大きく聞こえるほど,運河の水流が速かったのでしょうか。
それだけではないような気が私にはします。実は夜遅くまで荷物を運ばなければならないほど運ぶべき荷物の量が多かったのかもしれませんね。今で言うと夜行トラック便のような,猛スピードで走る夜便の舟の運行もあった可能性はあります。
どんな世の中でも同じかもしれませんが,利用に対して道路,運河,橋などのインフラが追い付かないことが往々にしてあります。それをカバーするのは人間の必死の努力ということになり,万葉時代はこのような夜遅くまで頑張る人の音を聞いた歌人が和歌を詠むテーマとするような時代だったのかもしれませんね。
最後は,少し季節はずれですが,天の川に浮かべる舟の楫の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ(10-2072)
<わたりもりふねわたせをと よぶこゑのいたらねばかも かぢのおとのせぬ>
<<天の川の渡り舟の管理人が「舟を渡してよいぞ」という声が相手にとどいていないのだろうか。彦星が乗る舟の楫の音がしないのです>>
七夕に天の川を渡って来てくれるはずの夫(彦星)が一向にくる気配がない。それは渡し守が渡しを許可する声が小さいからと嘆いている。
当時の妻問婚では,夫が妻問する場合,親の許可が必要だったことも想像できるため,親に対するクレームめいた短歌とも取れそうですね。
待つ者にとって,相手が来る気配の音の一つとして「楫の音」は当時では定着していた可能性があると私は思ってしまいます。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(3)」に続く。
2015年11月21日土曜日
2015年7月4日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(2) さ~,七夕だ!天の川に舟を浮かべて逢いに行こう!
「浮く」の2回目は,今の時期に合せて,万葉集には七夕の天の川に舟を浮かべて逢いに行こうとする和歌がでてきますので,それをとりあげてみます。
まず,1首目は山上憶良が神亀元(724)年7月7日に七夕について詠んだされる12首の中の1首(彦星を待つ織姫の立場で)です。
久方の天の川瀬に舟浮けて今夜か君が我がり来まさむ(8-1519)
<ひさかたのあまのかはせに ふねうけてこよひかきみが わがりきまさむ>
<<天の川の瀬に舟を浮かべて今夜こそあなたは私のところに来てくださるのね>>
2011年7月2日のこのブログでも取り上げていますが,憶良は七夕の謂れに対する造詣が深かかったようです。
<憶良は七夕の行事を日本に広めたかった?>
万葉時代,七夕の日に若い女性が居る家庭では,夫または恋人が妻問に来るのを今か今かと待ち望んでいるのです。
たとえしばらく妻問に来なかったとしても,七夕の謂れから年に1度は来てくれるはずだと信じたい。そんな待つ側の女性の気持ちを憶良は代弁して詠っています。
実は憶良が七夕の物語を一般市民に流行らせようとしていたのではないかと私は想像します。
七夕行事が流行れば,7月7日は確実に妻問が増え,その妻問に行くためや待つ女性が着る衣装や準備グッズが売れるはずです。
そのあたりは,2011年7月7日のこのブログでも少し取り上げています。
さて,次の1首も憶良作とされる七夕歌12首の中の1首です。同様に彦星を待つ織姫の気持ちを詠んでいます。
天の川浮津の波音騒くなり我が待つ君し舟出すらしも(8-1529)
<あまのがはうきつのなみおと さわくなりわがまつきみし ふなですらしも>
<<天の川に浮かんでいる船着き場の波音が騒がしくなってきました。私が待っている、あなたが舟を漕ぎ出しになったようです>>
妻問を待っている女性は家の外での物音に敏感になります。もちろん,妻問で家に近づく足音はしますし,夫または恋人が家に着くと,まず親が妻問に来る予定の人物か確認をします(妻問の前には和歌をやり取りして,妻問の事前合意)。
妻問に来た男性は,最初に親とも小声であいさつはするでしょうし,親は娘のいる場所へはどうやって行けば良いかを教えたりするでしょう。そんな情景を天の川の船が着き,船の波が岸に打ち寄せる音が騒がしくなったことに重ねて表現しているのだろうと私は解釈します。
最後は,飛鳥時代から奈良事態初期にかけて活躍した藤原房前(ふぢはらのふささき)が自宅での宴席で詠んだと伝わる七夕の長歌です。
久方の天の川に 上つ瀬に玉橋渡し 下つ瀬に舟浮け据ゑ 雨降りて風吹かずとも 風吹きて雨降らずとも 裳濡らさずやまず来ませと 玉橋渡す(9-1764)
<ひさかたのあまのかはに かみつせにたまはしわたし しもつせにふねうけすゑ あめふりてかぜふかずとも かぜふきてあめふらずとも もぬらさずやまずきませと たまはしわたす>
<<天の川の上流にある瀬に玉のような美しい橋を渡し,下流にある瀬に舟を浮べて舟橋を備えつけ,雨が降って風は吹かないときでも,風が吹いて雨は降らないときでも,裳を濡らさず,間を置かずお出で下さいとの気持ちを込めて玉の橋を天の川に渡す私です>>
さすがに,スケールが違いますね。房前だったらこの程度の公共工事は何でもなかったのでしょうから。
この長歌は,房前自身が作歌したのではなく,お付の人(秘書のような人)が作って,房前が宴の席で詠んだのかもしれません。
宴の出席者は,各地域や各組織の実力者ばかりで,この後玉の橋と浮橋をどの川に作るかで盛り上がったのかもしれませんね。
そして,「その川はいっそのこと『天の川』に変えちゃえば?」といった話まで飛び出したりしたかもです。
結局,あまりに盛り上がり過ぎて,「浮かれた話」ばかりになったのではと私は想像しますが,いかがですか?
それでは皆さん,幸せな七夕をお過ごしください。なお,最近顔を出さない天の川君はおとなしくずっと寝ています。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(3:まとめ)に続く。
まず,1首目は山上憶良が神亀元(724)年7月7日に七夕について詠んだされる12首の中の1首(彦星を待つ織姫の立場で)です。
久方の天の川瀬に舟浮けて今夜か君が我がり来まさむ(8-1519)
<ひさかたのあまのかはせに ふねうけてこよひかきみが わがりきまさむ>
<<天の川の瀬に舟を浮かべて今夜こそあなたは私のところに来てくださるのね>>
2011年7月2日のこのブログでも取り上げていますが,憶良は七夕の謂れに対する造詣が深かかったようです。
<憶良は七夕の行事を日本に広めたかった?>
万葉時代,七夕の日に若い女性が居る家庭では,夫または恋人が妻問に来るのを今か今かと待ち望んでいるのです。
たとえしばらく妻問に来なかったとしても,七夕の謂れから年に1度は来てくれるはずだと信じたい。そんな待つ側の女性の気持ちを憶良は代弁して詠っています。
実は憶良が七夕の物語を一般市民に流行らせようとしていたのではないかと私は想像します。
七夕行事が流行れば,7月7日は確実に妻問が増え,その妻問に行くためや待つ女性が着る衣装や準備グッズが売れるはずです。
そのあたりは,2011年7月7日のこのブログでも少し取り上げています。
さて,次の1首も憶良作とされる七夕歌12首の中の1首です。同様に彦星を待つ織姫の気持ちを詠んでいます。
天の川浮津の波音騒くなり我が待つ君し舟出すらしも(8-1529)
<あまのがはうきつのなみおと さわくなりわがまつきみし ふなですらしも>
<<天の川に浮かんでいる船着き場の波音が騒がしくなってきました。私が待っている、あなたが舟を漕ぎ出しになったようです>>
妻問を待っている女性は家の外での物音に敏感になります。もちろん,妻問で家に近づく足音はしますし,夫または恋人が家に着くと,まず親が妻問に来る予定の人物か確認をします(妻問の前には和歌をやり取りして,妻問の事前合意)。
妻問に来た男性は,最初に親とも小声であいさつはするでしょうし,親は娘のいる場所へはどうやって行けば良いかを教えたりするでしょう。そんな情景を天の川の船が着き,船の波が岸に打ち寄せる音が騒がしくなったことに重ねて表現しているのだろうと私は解釈します。
最後は,飛鳥時代から奈良事態初期にかけて活躍した藤原房前(ふぢはらのふささき)が自宅での宴席で詠んだと伝わる七夕の長歌です。
久方の天の川に 上つ瀬に玉橋渡し 下つ瀬に舟浮け据ゑ 雨降りて風吹かずとも 風吹きて雨降らずとも 裳濡らさずやまず来ませと 玉橋渡す(9-1764)
<ひさかたのあまのかはに かみつせにたまはしわたし しもつせにふねうけすゑ あめふりてかぜふかずとも かぜふきてあめふらずとも もぬらさずやまずきませと たまはしわたす>
<<天の川の上流にある瀬に玉のような美しい橋を渡し,下流にある瀬に舟を浮べて舟橋を備えつけ,雨が降って風は吹かないときでも,風が吹いて雨は降らないときでも,裳を濡らさず,間を置かずお出で下さいとの気持ちを込めて玉の橋を天の川に渡す私です>>
さすがに,スケールが違いますね。房前だったらこの程度の公共工事は何でもなかったのでしょうから。
この長歌は,房前自身が作歌したのではなく,お付の人(秘書のような人)が作って,房前が宴の席で詠んだのかもしれません。
宴の出席者は,各地域や各組織の実力者ばかりで,この後玉の橋と浮橋をどの川に作るかで盛り上がったのかもしれませんね。
そして,「その川はいっそのこと『天の川』に変えちゃえば?」といった話まで飛び出したりしたかもです。
結局,あまりに盛り上がり過ぎて,「浮かれた話」ばかりになったのではと私は想像しますが,いかがですか?
それでは皆さん,幸せな七夕をお過ごしください。なお,最近顔を出さない天の川君はおとなしくずっと寝ています。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(3:まとめ)に続く。
2015年4月11日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…尽く,尽くす(2) たとえ苦しくても「尽くす恋」がしたい!!
前回は「心を尽くす」「尽す心」を取り上げましたが,今回は「恋を尽くす」が万葉集でどう表現されているかを見ていくことにします。
「恋を尽くす」という言葉は,現代では「究極の恋」「最高の恋」などに添ったイメージもありそうですが,その形や程度に明確な基準があるようには私は感じられません。少し冷めた見方をすれば「本人がそう思っただけ,想っているだけ」なのかもしれません。相手は「恋を尽くした」という本人に対して「へえ~,そうなの?」というくらいの認識の違いがある場合もあるでしょう。
さて,さて,この大変主観的な「恋を尽くす」を万葉集ではどう詠んでいるのでしょうか。
最初は,七夕の彦星と織姫との切ない恋の逢瀬を想像した,詠み人知らずの短歌からです。
年の恋今夜尽して明日よりは常のごとくや我が恋ひ居らむ(10-2037)
<としのこひこよひつくして あすよりはつねのごとくや あがこひをらむ>
<<1年間の苦しい恋の想いを今夜は尽くす(苦しさを忘れ去る)ことができるけれど,明日からはまた常のごとくに苦しい恋の思いばかりでいる私か>>
万葉時代の恋は「苦しいもの」「切ないもの」というイメージが強かったに違いないと想像して訳してみました。
恋人同士が「逢う」ことの価値は,現代に比べてどれほど大きかったのかを考えてみてください。万葉時代は,さまざまな制約で気軽に逢うことができない時代だったでしょう。恋愛は非常に苦しいものにならざるを得ません。
<恋の苦しさ,辛さを詠んだ和歌を万葉集は集めている>
でも,万葉集では,親のためや政略のために義務的に恋愛することを前提とした和歌は少ないと私は感じます(実際に政略結婚的なものはあったかもしれませんが)。それよりも,恋愛を邪魔するものに対する不満,反発,抵抗,我慢,あきらめなどの心理が表れている和歌が万葉集には多いように思います。
そのためにも,そのような乗り越えなければならないハードルが高く,多く,逢うことのままならない苦しい恋をやり遂げる目標が「恋を尽くす」ことだ,そんな気が私はします。
その最大のゴールが「逢う」ことだとしたら,七夕の物語は恋人同士には同感できるものが,現代よりもはるかに大きかったと私は想像します。
さて,次は「恋を尽くす」相手が恋人ではなく「萩の花」として詠んだ詠み人知らずの短歌です。
秋萩に恋尽さじと思へどもしゑやあたらしまたも逢はめやも(10-2120)
<あきはぎにこひつくさじと おもへどもしゑやあたらし またもあはめやも>
<<秋萩に対して恋しさいっぱいになるものかと思ったが,悔しいけれど、こんなに可憐で恋しい花は二度と出会えようか>>
この短歌は恋人を萩に喩えていると考えてもよいのかもしれません。
苦しい恋を尽くして疲れ果てたので,今度はそんなに思いつめずに恋をしようとしたが,この美しい女性を見たらそうもいかなくなったといった心境を秋萩に託して詠んだの可能性はあると私は考えます。
今回の最後は「恋を尽くす」に対して,人生評論家がコメンテータとして述べるような内容を詠んだ,柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの短歌です。
大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり(11-2442)
<おほつちはとりつくすとも よのなかのつくしえぬものは こひにしありけり>
<<大地の土を取り尽くせても(取り去っても)、世の中で尽くせない(取り去れない)ものは恋というものなのです>>
この短歌に接して「へえ~,そうなの?」と淡々と感じるのか,「そう!そう!そうなんだよ!」と賛同するか,「そんなに大袈裟に考えるものでもないよ」と異議をとなえるか,まさに人それぞれでしょう。個人の人生経験や時代背景,親の育て方,教育の受け方などによって,この短歌から受ける印象が大きく異なることは受け入れなければならないと私は思います。
でも,この短歌の作者の考えは万葉時代の比較的多くの人が賛同したかもしれません。私は,そのことに思いを至らすことを大切にしたいのです。
<現代の感覚で観ず,万葉時代に生きた自分にタイムスリップする>
今の自分たちがどう感じるか,同感できるかだけではなく,その当時の人々がどう感じていたかを想像すること。それが,古典を楽しむ上で大切なことではないでしょうか。その価値は,人間として失ってはならないものは何かを思い起こさせてくれる可能性があるからです。
違う時代に生きた人(その人も生身の人間です)について思いをはせることは,今の時代がどういう時代なのかを正しく評価するうえで重要だと私は考えます。
間違っても,今起こっていること(苦しい生活や嫌なこと)だけで頭がいっぱい,という受け身な生き方はしたくないと私は思うのです。その生き方は,他人や世の中が与えるものではなく,自分が不断の努力を「尽くして」確立していくものだろうと考えるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…尽く,尽くす(3:まとめ)に続く。
「恋を尽くす」という言葉は,現代では「究極の恋」「最高の恋」などに添ったイメージもありそうですが,その形や程度に明確な基準があるようには私は感じられません。少し冷めた見方をすれば「本人がそう思っただけ,想っているだけ」なのかもしれません。相手は「恋を尽くした」という本人に対して「へえ~,そうなの?」というくらいの認識の違いがある場合もあるでしょう。
さて,さて,この大変主観的な「恋を尽くす」を万葉集ではどう詠んでいるのでしょうか。
最初は,七夕の彦星と織姫との切ない恋の逢瀬を想像した,詠み人知らずの短歌からです。
年の恋今夜尽して明日よりは常のごとくや我が恋ひ居らむ(10-2037)
<としのこひこよひつくして あすよりはつねのごとくや あがこひをらむ>
<<1年間の苦しい恋の想いを今夜は尽くす(苦しさを忘れ去る)ことができるけれど,明日からはまた常のごとくに苦しい恋の思いばかりでいる私か>>
万葉時代の恋は「苦しいもの」「切ないもの」というイメージが強かったに違いないと想像して訳してみました。
恋人同士が「逢う」ことの価値は,現代に比べてどれほど大きかったのかを考えてみてください。万葉時代は,さまざまな制約で気軽に逢うことができない時代だったでしょう。恋愛は非常に苦しいものにならざるを得ません。
<恋の苦しさ,辛さを詠んだ和歌を万葉集は集めている>
でも,万葉集では,親のためや政略のために義務的に恋愛することを前提とした和歌は少ないと私は感じます(実際に政略結婚的なものはあったかもしれませんが)。それよりも,恋愛を邪魔するものに対する不満,反発,抵抗,我慢,あきらめなどの心理が表れている和歌が万葉集には多いように思います。
そのためにも,そのような乗り越えなければならないハードルが高く,多く,逢うことのままならない苦しい恋をやり遂げる目標が「恋を尽くす」ことだ,そんな気が私はします。
その最大のゴールが「逢う」ことだとしたら,七夕の物語は恋人同士には同感できるものが,現代よりもはるかに大きかったと私は想像します。
さて,次は「恋を尽くす」相手が恋人ではなく「萩の花」として詠んだ詠み人知らずの短歌です。
秋萩に恋尽さじと思へどもしゑやあたらしまたも逢はめやも(10-2120)
<あきはぎにこひつくさじと おもへどもしゑやあたらし またもあはめやも>
<<秋萩に対して恋しさいっぱいになるものかと思ったが,悔しいけれど、こんなに可憐で恋しい花は二度と出会えようか>>
この短歌は恋人を萩に喩えていると考えてもよいのかもしれません。
苦しい恋を尽くして疲れ果てたので,今度はそんなに思いつめずに恋をしようとしたが,この美しい女性を見たらそうもいかなくなったといった心境を秋萩に託して詠んだの可能性はあると私は考えます。
今回の最後は「恋を尽くす」に対して,人生評論家がコメンテータとして述べるような内容を詠んだ,柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの短歌です。
大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり(11-2442)
<おほつちはとりつくすとも よのなかのつくしえぬものは こひにしありけり>
<<大地の土を取り尽くせても(取り去っても)、世の中で尽くせない(取り去れない)ものは恋というものなのです>>
この短歌に接して「へえ~,そうなの?」と淡々と感じるのか,「そう!そう!そうなんだよ!」と賛同するか,「そんなに大袈裟に考えるものでもないよ」と異議をとなえるか,まさに人それぞれでしょう。個人の人生経験や時代背景,親の育て方,教育の受け方などによって,この短歌から受ける印象が大きく異なることは受け入れなければならないと私は思います。
でも,この短歌の作者の考えは万葉時代の比較的多くの人が賛同したかもしれません。私は,そのことに思いを至らすことを大切にしたいのです。
<現代の感覚で観ず,万葉時代に生きた自分にタイムスリップする>
今の自分たちがどう感じるか,同感できるかだけではなく,その当時の人々がどう感じていたかを想像すること。それが,古典を楽しむ上で大切なことではないでしょうか。その価値は,人間として失ってはならないものは何かを思い起こさせてくれる可能性があるからです。
違う時代に生きた人(その人も生身の人間です)について思いをはせることは,今の時代がどういう時代なのかを正しく評価するうえで重要だと私は考えます。
間違っても,今起こっていること(苦しい生活や嫌なこと)だけで頭がいっぱい,という受け身な生き方はしたくないと私は思うのです。その生き方は,他人や世の中が与えるものではなく,自分が不断の努力を「尽くして」確立していくものだろうと考えるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…尽く,尽くす(3:まとめ)に続く。
2013年7月6日土曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ともし」
気象庁によりますと関東甲信越地方がいつもより早めに梅雨明けをしたとみられるそうです。明日は七夕です。短冊に願いを書いて笹に結び付けた幼いころを思い出します。
このブログも七夕を扱った投稿がいくつかあり,それらの閲覧数はおかげさまで例年以上にうなぎのぼりです。
さて,今回は「ともし」について万葉集を見ていきたいと思います。「ともし」は漢字で「乏し」または「羨し」と書きます。一見,「物足らない」とか「劣っている」という印象を持つ漢字ですが,万葉集に出てくる意味は少し違います。何回か前に経済学の話を書きましたが,まさに稀少性を絵にかいたような言葉で,「珍しくて心が引かれる」という意味です。
実際に万葉集で詠まれているものをみていきましょう。
夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ舟人を見るが羨しさ(15-3658)
<ゆふづくよかげたちよりあひ あまのがはこぐふなびとを みるがともしさ>
<<夕月が出ている夜に身を寄せ合って天の川を漕いで渡る舟人を見るのが珍しく羨ましい>>
夕日も見える美しい天の川をふたりだけで舟に乗って,肩を寄せ合って舟を漕ぐのは,本当にロマンチックなんだろうなと作者は感じて詠ったのかもしれませんね。この短歌は天平8(736)年の七夕に,遣新羅使のひとりが詠んだものとされています。
次も七夕詠んだ,柿本人麻呂歌集に出ていたという詠み人知らずの短歌です。
恋ひしくは日長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜だに(10-2017)
<こひしくはけながきものを いまだにもともしむべしや あふべきよだに>
<<恋い慕いながら長い日々を過ごしてきたのです。今だけでも貴重な時間を過ごさせてほしいのです。逢うはずのこの夜だけでも>>
「ともし」を貴重な時間の修飾語と訳してみました。
妻問婚はなかなか大変です。気軽に「今晩は」といって妻宅に入れてもらえるものではありません。何度も手紙や使いの者を出してもなかなか許されないことも多かったようです。その間,夫は妻問いが許される日を待ち続けます。それが,年に1回しか逢えない牽牛と織姫の物語とオーバラップしてしまうのは容易に想像できます。そして,ようやく妻問いが許されたら,労いの言葉や癒しの言葉をかけてほしいと願う気持ちはわかる気が私にはします。
次は,妻問を待つ女性側の立場て詠んだ短歌です。
己夫にともしき子らは泊てむ津の荒礒巻きて寝む君待ちかてに(10-2004)
<おのづまにともしきこらは はてむつのありそまきてねむ きみまちかてに>
<<自分夫となかなか逢えない私は舟泊りして港の荒磯をめぐりながら寝ます。あなたを待ちきれずに>>
「ともし」をなかなか逢えない形容として訳しました。
夫は牽牛,自分は織姫になぞらえています。夫がなかなか逢いに来ないので,私は天の川の港にある舟に乗って,舟を港の周りをくるくるさせながら待ちきれず寝てしまいますよという意味と私は解釈しました。
明日の七夕なのでデートをするカップルが待ち合わせるのは,東京スカイツリーでしょうか? 東京ディズニーリゾートでしょうか? ホークスタウン(福岡)でしょうか? ユニバーサルスタジオジャパン(大阪)でしょうか? 東京ドームシティーアトラクションズでしょうか? 八景島シーパラダイス(横浜)でしょうか?
みなさま,Goodな七夕をお過ごしください。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ゆゆし」に続く。
このブログも七夕を扱った投稿がいくつかあり,それらの閲覧数はおかげさまで例年以上にうなぎのぼりです。
さて,今回は「ともし」について万葉集を見ていきたいと思います。「ともし」は漢字で「乏し」または「羨し」と書きます。一見,「物足らない」とか「劣っている」という印象を持つ漢字ですが,万葉集に出てくる意味は少し違います。何回か前に経済学の話を書きましたが,まさに稀少性を絵にかいたような言葉で,「珍しくて心が引かれる」という意味です。
実際に万葉集で詠まれているものをみていきましょう。
夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ舟人を見るが羨しさ(15-3658)
<ゆふづくよかげたちよりあひ あまのがはこぐふなびとを みるがともしさ>
<<夕月が出ている夜に身を寄せ合って天の川を漕いで渡る舟人を見るのが珍しく羨ましい>>
夕日も見える美しい天の川をふたりだけで舟に乗って,肩を寄せ合って舟を漕ぐのは,本当にロマンチックなんだろうなと作者は感じて詠ったのかもしれませんね。この短歌は天平8(736)年の七夕に,遣新羅使のひとりが詠んだものとされています。
次も七夕詠んだ,柿本人麻呂歌集に出ていたという詠み人知らずの短歌です。
恋ひしくは日長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜だに(10-2017)
<こひしくはけながきものを いまだにもともしむべしや あふべきよだに>
<<恋い慕いながら長い日々を過ごしてきたのです。今だけでも貴重な時間を過ごさせてほしいのです。逢うはずのこの夜だけでも>>
「ともし」を貴重な時間の修飾語と訳してみました。
妻問婚はなかなか大変です。気軽に「今晩は」といって妻宅に入れてもらえるものではありません。何度も手紙や使いの者を出してもなかなか許されないことも多かったようです。その間,夫は妻問いが許される日を待ち続けます。それが,年に1回しか逢えない牽牛と織姫の物語とオーバラップしてしまうのは容易に想像できます。そして,ようやく妻問いが許されたら,労いの言葉や癒しの言葉をかけてほしいと願う気持ちはわかる気が私にはします。
次は,妻問を待つ女性側の立場て詠んだ短歌です。
己夫にともしき子らは泊てむ津の荒礒巻きて寝む君待ちかてに(10-2004)
<おのづまにともしきこらは はてむつのありそまきてねむ きみまちかてに>
<<自分夫となかなか逢えない私は舟泊りして港の荒磯をめぐりながら寝ます。あなたを待ちきれずに>>
「ともし」をなかなか逢えない形容として訳しました。
夫は牽牛,自分は織姫になぞらえています。夫がなかなか逢いに来ないので,私は天の川の港にある舟に乗って,舟を港の周りをくるくるさせながら待ちきれず寝てしまいますよという意味と私は解釈しました。
明日の七夕なのでデートをするカップルが待ち合わせるのは,東京スカイツリーでしょうか? 東京ディズニーリゾートでしょうか? ホークスタウン(福岡)でしょうか? ユニバーサルスタジオジャパン(大阪)でしょうか? 東京ドームシティーアトラクションズでしょうか? 八景島シーパラダイス(横浜)でしょうか?
みなさま,Goodな七夕をお過ごしください。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ゆゆし」に続く。
2013年6月30日日曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「すべなし」
明日から7月です。もう少ししたら,今年の大相撲名古屋場所が始まります。先場所(五月場所)では「多くの力士が,横綱白鵬に対し,なすすべもなく敗れた」というような対戦が多かったようです。名古屋場所は白鵬と対戦する力士の奮戦を期待したいものですね。
さて,ここで言う「なすすべもない」は「手の施しようがない」とか「有効な方策がない」といった意味となりそうです。
今回の「すべなし」は,万葉集では,約50首の和歌で出てきます。七夕が近づいている時期なので,七夕歌の中で「すべなし」がどのように使われているが見てみましょう。
たぶてにも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき(8-1522)
<たぶてにもなげこしつべき あまのがはへだてればかも あまたすべなき>
<<小石でも投げれば向こう岸に届きそうな天の川だが,川が隔てているため、いろいろ逢う手立を考えるのがすべてだめだなあ>>
この短歌は筑紫で山上憶良が七夕を詠んだ長歌の反歌2首の内の1首です。相手はすぐ近くに住んでいるようです。しかし,1年1度逢えるかどうか分からない牽牛と織姫以上に逢うのは難しいようです。憶良は遣唐使で中国文化を吸収してきた関係で,日本独特の妻問い婚の面倒くささを,七夕を引き合いに出して暗に批判しているようにも私は感じます。
袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(8-1525)
<そでふらば みもかはしつべく ちかけども わたるすべなし あきにしあらねば>
<<袖を振れば,お互い見交わすこともできるほど近いけれども,天の川を渡ることができない。七夕の秋でないので>>
これも憶良が七夕を詠んだ短歌の1首です。本当は毎晩でも逢いたいのに,天の川が邪魔をして,逢えないことを嘆いているようです。
久方の天の川原にぬえ鳥のうら歎げましつすべなきまでに(10-1997)
<ひさかたのあまのかはらに ぬえどりのうらなげましつ すべなきまでに>
<<天の川の河原にぬえ鳥のように織女は嘆いていていた。何もできないほど>>
この短歌は柿本人麻呂歌集から転載した詠み人知らずの1首です。「ぬえ(鵺)鳥」は「トラツグミ」のことらしいです。トラツグミは夜悲しそうに「ひい~いっ」と鳴く鳥のようです。実際の鳴き声はYouTubeに何件かアップされています。この短歌の作者は,牽牛と逢えない織姫の嘆きの深さを表現する手段として「ぬえ」の鳴き声を引き合いに出すのはなかなかの詠み手だと私は思います。
<テレビ番組での感想>
ところで,昨晩NHKの総合テレビで放送された「NHKスペシャル/シリーズ日本新生"観光革命"がニッポンを変える 」を視聴しました。私はTwitterをやらないので,このブログで少し意見を述べてみます。
日本の多様な文化や自然をもっと海外に紹介し,もっと多くの観光客に海外からきてもらうべきだという番組の意図に私は大いに賛同します。番組に出席した日本各地,海外各国のコメンテータからさまざまな意見が出て,新たな刺激を受けました。
私は多様な日本の文化,慣習,伝統工芸,産業,自然の原点を知るには,やはり万葉集が超一級の資料だと思います。そして,私が更に特筆すべきと考えることは,万葉集に出てくるそれらの原点さえも,実は万葉集の中ですでに多種多様なのです。
<日本人の宗教観>
私の考えでは,日本人は一つのものだけでは長い時間満足できない民族だといってもよいかもしれません。宗教観を例にすると,日本人は一神教のような宗教より,伊勢神宮などが祀る天照大神(あまてらすおほみかみ),各地の天満宮が祀る天神(てんじん:菅原道真のこと),東京都台東区入谷真源寺のような日蓮宗系の寺院に祀られることがある鬼子母神(きしもじん),成田山新勝寺や高幡山明王院金剛寺(高幡不動)など真言宗系の寺院に祀られることがある不動明王(ふどうみやうわう),鶴岡八幡宮(鎌倉)や石清水八幡宮(京都)など八幡宮で祀られる八幡神(やはたのかみ),東京の浅草寺や滋賀県の石山寺に祀られる観音菩薩(くわんおんぼさつ),東京都豊島区巣鴨にある高岩寺(とげぬき地蔵)や奈良市にある帯解寺などに祀られている地蔵菩薩,各地の稲荷神社で祀られるキツネ信仰などなど,日本人の多くは,それぞれお得意のご利益にあずかろうと,せっせとお参りをします。
さらに札所めぐりや七福神めぐりなどという神社仏閣をハシゴしてめぐるコースも各地にたくさんあります。そのような行動をとる日本人の中には,クリスマスには教会のミサに参加する人もいたりします。
敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒の方々から見ると「日本人の宗教観はどうしょうもない(すべない)」と見えるかもしれませんね。
<なぜ日本人は何でも受け入れてしまうのか?>
さて,日本の文化が多様性を持ち,何でも受け入れてしまうように見えるのは,日本が島国でかつ山で囲まれた地方が多く,自分たちだけの地域の特性に合った文化,風習での生活を比較的長い年月続けられ,それらが各地でしっかりと定着できる期間が日本にはあったからだと私は思います。
ところが,ある時突然にどうしても他の地方の文化や外国の文化が急激に入ってこざるを得ない時が訪れます(古墳時代や奈良時代,室町時代,戦国時代,明治時代,第二次世界大戦後など)。そんなとき,日本人は多少の摩擦や葛藤の発生を我慢して,異国の文化をそれまでの文化とうまく融合させる努力を惜しまず行う。その結果,より日本文化の多様性が進んむようになったのではないかと私は考えるのです。
<万葉時代は外国文化が洪水のように入ってきた?>
外国の文化などが急激に入ってきた最初の時代が古墳時代・奈良時代で,中国大陸や朝鮮半島から仏教や儒教,大陸の文化,風習,技能,そして律令制度や国の管理制度が導入され,それまでの日本という国に対して大きな変革が行われた時代だと私は思います。万葉集の和歌はそのような時代背景の中で生まれたのです。変革のデメリットさえも多く詠まれています。
私は,観光客に万葉集を読めとか理解しろといっているわけではありません。そんなことは,短い時間しかない観光客には受け入れられないでしょう。ただ,万葉集に出てくるイベントを再現し,それに参加して,体験してもらうようなツアーなら可能でしょう。
<万葉集に出てくる行事の体験ツアー>
たとえば,万葉集に詠まれた七夕行事を追体験する(参加者の男女が七夕の衣装を着て,川の対岸で手を振り,男性が舟で渡り,男女が手をつないで旅館へ直行),全国各地で万葉集に出てくる「宴(うたげ)」の再現に参加,「行幸(みゆき)」の再現に参加,万葉時代の食べられていたヘルシーな料理を再現し食べる,当時の機織,裁縫,陶芸を再現し実際に体験する,当時の衣装,装飾品,携帯品を再現,貸出し記念撮影する,万葉集に出くる花の名所を整理し,季節ごとのツアー客に紹介するなどが考えられます。
この中には,地方の高齢者でも対応できる(観光客を迎えたり,案内したりできる)ものもあると思います。安定した観光立国ニッポンにするには,世界に類を見ない日本の文化を日本人自身がより知ること,古い日本の情報を安易に否定しないこと,日常生活の中にあるそういったものを大切にすることが重要だと私は思うのですが,どうでしょうか。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ともし」に続く。
さて,ここで言う「なすすべもない」は「手の施しようがない」とか「有効な方策がない」といった意味となりそうです。
今回の「すべなし」は,万葉集では,約50首の和歌で出てきます。七夕が近づいている時期なので,七夕歌の中で「すべなし」がどのように使われているが見てみましょう。
たぶてにも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき(8-1522)
<たぶてにもなげこしつべき あまのがはへだてればかも あまたすべなき>
<<小石でも投げれば向こう岸に届きそうな天の川だが,川が隔てているため、いろいろ逢う手立を考えるのがすべてだめだなあ>>
この短歌は筑紫で山上憶良が七夕を詠んだ長歌の反歌2首の内の1首です。相手はすぐ近くに住んでいるようです。しかし,1年1度逢えるかどうか分からない牽牛と織姫以上に逢うのは難しいようです。憶良は遣唐使で中国文化を吸収してきた関係で,日本独特の妻問い婚の面倒くささを,七夕を引き合いに出して暗に批判しているようにも私は感じます。
袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(8-1525)
<そでふらば みもかはしつべく ちかけども わたるすべなし あきにしあらねば>
<<袖を振れば,お互い見交わすこともできるほど近いけれども,天の川を渡ることができない。七夕の秋でないので>>
これも憶良が七夕を詠んだ短歌の1首です。本当は毎晩でも逢いたいのに,天の川が邪魔をして,逢えないことを嘆いているようです。
久方の天の川原にぬえ鳥のうら歎げましつすべなきまでに(10-1997)
<ひさかたのあまのかはらに ぬえどりのうらなげましつ すべなきまでに>
<<天の川の河原にぬえ鳥のように織女は嘆いていていた。何もできないほど>>
この短歌は柿本人麻呂歌集から転載した詠み人知らずの1首です。「ぬえ(鵺)鳥」は「トラツグミ」のことらしいです。トラツグミは夜悲しそうに「ひい~いっ」と鳴く鳥のようです。実際の鳴き声はYouTubeに何件かアップされています。この短歌の作者は,牽牛と逢えない織姫の嘆きの深さを表現する手段として「ぬえ」の鳴き声を引き合いに出すのはなかなかの詠み手だと私は思います。
<テレビ番組での感想>
ところで,昨晩NHKの総合テレビで放送された「NHKスペシャル/シリーズ日本新生"観光革命"がニッポンを変える 」を視聴しました。私はTwitterをやらないので,このブログで少し意見を述べてみます。
日本の多様な文化や自然をもっと海外に紹介し,もっと多くの観光客に海外からきてもらうべきだという番組の意図に私は大いに賛同します。番組に出席した日本各地,海外各国のコメンテータからさまざまな意見が出て,新たな刺激を受けました。
私は多様な日本の文化,慣習,伝統工芸,産業,自然の原点を知るには,やはり万葉集が超一級の資料だと思います。そして,私が更に特筆すべきと考えることは,万葉集に出てくるそれらの原点さえも,実は万葉集の中ですでに多種多様なのです。
<日本人の宗教観>
私の考えでは,日本人は一つのものだけでは長い時間満足できない民族だといってもよいかもしれません。宗教観を例にすると,日本人は一神教のような宗教より,伊勢神宮などが祀る天照大神(あまてらすおほみかみ),各地の天満宮が祀る天神(てんじん:菅原道真のこと),東京都台東区入谷真源寺のような日蓮宗系の寺院に祀られることがある鬼子母神(きしもじん),成田山新勝寺や高幡山明王院金剛寺(高幡不動)など真言宗系の寺院に祀られることがある不動明王(ふどうみやうわう),鶴岡八幡宮(鎌倉)や石清水八幡宮(京都)など八幡宮で祀られる八幡神(やはたのかみ),東京の浅草寺や滋賀県の石山寺に祀られる観音菩薩(くわんおんぼさつ),東京都豊島区巣鴨にある高岩寺(とげぬき地蔵)や奈良市にある帯解寺などに祀られている地蔵菩薩,各地の稲荷神社で祀られるキツネ信仰などなど,日本人の多くは,それぞれお得意のご利益にあずかろうと,せっせとお参りをします。
さらに札所めぐりや七福神めぐりなどという神社仏閣をハシゴしてめぐるコースも各地にたくさんあります。そのような行動をとる日本人の中には,クリスマスには教会のミサに参加する人もいたりします。
敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒の方々から見ると「日本人の宗教観はどうしょうもない(すべない)」と見えるかもしれませんね。
<なぜ日本人は何でも受け入れてしまうのか?>
さて,日本の文化が多様性を持ち,何でも受け入れてしまうように見えるのは,日本が島国でかつ山で囲まれた地方が多く,自分たちだけの地域の特性に合った文化,風習での生活を比較的長い年月続けられ,それらが各地でしっかりと定着できる期間が日本にはあったからだと私は思います。
ところが,ある時突然にどうしても他の地方の文化や外国の文化が急激に入ってこざるを得ない時が訪れます(古墳時代や奈良時代,室町時代,戦国時代,明治時代,第二次世界大戦後など)。そんなとき,日本人は多少の摩擦や葛藤の発生を我慢して,異国の文化をそれまでの文化とうまく融合させる努力を惜しまず行う。その結果,より日本文化の多様性が進んむようになったのではないかと私は考えるのです。
<万葉時代は外国文化が洪水のように入ってきた?>
外国の文化などが急激に入ってきた最初の時代が古墳時代・奈良時代で,中国大陸や朝鮮半島から仏教や儒教,大陸の文化,風習,技能,そして律令制度や国の管理制度が導入され,それまでの日本という国に対して大きな変革が行われた時代だと私は思います。万葉集の和歌はそのような時代背景の中で生まれたのです。変革のデメリットさえも多く詠まれています。
私は,観光客に万葉集を読めとか理解しろといっているわけではありません。そんなことは,短い時間しかない観光客には受け入れられないでしょう。ただ,万葉集に出てくるイベントを再現し,それに参加して,体験してもらうようなツアーなら可能でしょう。
<万葉集に出てくる行事の体験ツアー>
たとえば,万葉集に詠まれた七夕行事を追体験する(参加者の男女が七夕の衣装を着て,川の対岸で手を振り,男性が舟で渡り,男女が手をつないで旅館へ直行),全国各地で万葉集に出てくる「宴(うたげ)」の再現に参加,「行幸(みゆき)」の再現に参加,万葉時代の食べられていたヘルシーな料理を再現し食べる,当時の機織,裁縫,陶芸を再現し実際に体験する,当時の衣装,装飾品,携帯品を再現,貸出し記念撮影する,万葉集に出くる花の名所を整理し,季節ごとのツアー客に紹介するなどが考えられます。
この中には,地方の高齢者でも対応できる(観光客を迎えたり,案内したりできる)ものもあると思います。安定した観光立国ニッポンにするには,世界に類を見ない日本の文化を日本人自身がより知ること,古い日本の情報を安易に否定しないこと,日常生活の中にあるそういったものを大切にすることが重要だと私は思うのですが,どうでしょうか。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ともし」に続く。
2013年6月22日土曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「苦し」
「苦し」は,対語シリーズ「苦と楽」で一部紹介していますが,40首も詠まれている「苦し」のほんの少ししか紹介できませんでした。
七夕が近づいている今の季節,万葉集で七夕を詠む短歌の中で「苦し」を使っているものをこのシリーズで紹介します。
まず,前回の投稿でも紹介した湯原王が詠った七夕の短歌です。
彦星の思ひますらむ心より見る我れ苦し夜の更けゆけば(8-1544)
<ひこほしのおもひますらむ こころよりみるわれくるし よのふけゆけば>
<<彦星の別れを惜しむ心よりも,見まもる私にとってつらい夜が次第に更けていけば(さらに惜しむ心が募る)>>
七夕の夜,妻問いのときの気持ちを詠んだものでしょうか。彦星が織姫に年に一度七夕で逢って,その後(来年の七夕まで逢えない)別れの口惜しさよりも,妻問いが終わって,可愛い妻を見つめている時間が夜が更けるにしたがって少なくなっていく(帰る時間がだんだん迫る)苦しい(苦し)時間の方が,もっと惜しいと湯原王は詠っていると私は感じます。
次は万葉集の編者が柿本朝臣人麻呂歌集から選んだという,妻問いをする男性の複雑な心境を彦星になぞらえ詠んだ,詠み人知らずの短歌です。
彦星は嘆かす妻に言だにも告げにぞ来つる見れば苦しみ(10-2006)
<ひこほしはなげかすつまに ことだにもつげにぞきつる みればくるしみ>
<<彦星は嘆いている妻に言葉だけ掛けようとやって来るのだ。実際に逢うと(別れが)つらいから>>
自分(彦星)がなかなか来てくれないと嘆いている妻(織姫)を想像すると,逢ってしまうと別れがもっとつらい(苦し)から,妻とは逢わず,「恋しい」という言葉だけ掛けて帰ろうとする自分がいる,そんな心境を妻に贈ったものかもしれません。この短歌を贈られた妻は「そんなことを考えずに逢ってください」ときっと返歌をすることになるのでしょう。妻を焦らし,妻から「逢ってください」と言わせる(思わせる)高度なテクニックというのは考えすぎでしょうか。
次も柿本朝臣人麻呂之歌集から選んだという詠み人知らずの七夕の短歌1首です。
万代に照るべき月も雲隠り苦しきものぞ逢はむと思へど(10-2025)
<よろづよにてるべきつきも くもがくりくるしきものぞ あはむとおもへど>
<<いついつまでも照るはずの月も雲に隠れてしまって、苦しいことです。逢いたいと思うのに>>
前にも書きましたが,万葉時代七夕の夜は妻問いが普段より多く行われる日だったのでないかと私は想像しています。現代で言えばクリスマスイブの夜にデートをするカップルが多いのと同じ感覚かもしれませんね。そんな夜,街灯がない万葉時代,月明かりがあると道に迷わないし,道を踏み外して怪我をして妻問いできないくなるようなことも少なくなります。ところが,月が雲にかくれてしまい,妻問いを待つ妻にとって夫が無事に来てくれるのか心配になり(苦し)この短歌を詠んだのではないかと私は思います。
さて,最後に紹介する「苦し」を詠んだ詠み人知らずの七夕の短歌です。
天の川瀬々に白波高けども直渡り来ぬ待たば苦しみ(10-2085)
<あまのがはせぜにしらなみ たかけどもただわたりきぬ またばくるしみ>
<<天の川の瀬々の白波は高かったけれど,直に渡ってきたぜ。待つのはお互いにつらいことだからね>>
この男性は,妻の家に妻問いに行くのにいろいろ障害(家族や恋敵などの抵抗)があったのでしょう。
その障害の回避のタイミングを計るのではなく,障害と真正面から戦って,やっつけて来たと妻に誇らしげに詠っている感じが私にはします。
来月7日に恋人とデートを約束している人は,これらの短歌を参考に,何かしゃれた一言を考えてみたらいかがでしょうか。
私には残念ながら来月7日はデートなんていう洒落た予定はありません。翌日から岐阜で開催されるソフトウェア技術に関する学会のシンポジウムに参加し,そこで設置されるソフトウェア保守をテーマとした作業部会で議論するための準備が忙しい七夕となりそうです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「すべなし」に続く。
七夕が近づいている今の季節,万葉集で七夕を詠む短歌の中で「苦し」を使っているものをこのシリーズで紹介します。
まず,前回の投稿でも紹介した湯原王が詠った七夕の短歌です。
彦星の思ひますらむ心より見る我れ苦し夜の更けゆけば(8-1544)
<ひこほしのおもひますらむ こころよりみるわれくるし よのふけゆけば>
<<彦星の別れを惜しむ心よりも,見まもる私にとってつらい夜が次第に更けていけば(さらに惜しむ心が募る)>>
七夕の夜,妻問いのときの気持ちを詠んだものでしょうか。彦星が織姫に年に一度七夕で逢って,その後(来年の七夕まで逢えない)別れの口惜しさよりも,妻問いが終わって,可愛い妻を見つめている時間が夜が更けるにしたがって少なくなっていく(帰る時間がだんだん迫る)苦しい(苦し)時間の方が,もっと惜しいと湯原王は詠っていると私は感じます。
次は万葉集の編者が柿本朝臣人麻呂歌集から選んだという,妻問いをする男性の複雑な心境を彦星になぞらえ詠んだ,詠み人知らずの短歌です。
彦星は嘆かす妻に言だにも告げにぞ来つる見れば苦しみ(10-2006)
<ひこほしはなげかすつまに ことだにもつげにぞきつる みればくるしみ>
<<彦星は嘆いている妻に言葉だけ掛けようとやって来るのだ。実際に逢うと(別れが)つらいから>>
自分(彦星)がなかなか来てくれないと嘆いている妻(織姫)を想像すると,逢ってしまうと別れがもっとつらい(苦し)から,妻とは逢わず,「恋しい」という言葉だけ掛けて帰ろうとする自分がいる,そんな心境を妻に贈ったものかもしれません。この短歌を贈られた妻は「そんなことを考えずに逢ってください」ときっと返歌をすることになるのでしょう。妻を焦らし,妻から「逢ってください」と言わせる(思わせる)高度なテクニックというのは考えすぎでしょうか。
次も柿本朝臣人麻呂之歌集から選んだという詠み人知らずの七夕の短歌1首です。
万代に照るべき月も雲隠り苦しきものぞ逢はむと思へど(10-2025)
<よろづよにてるべきつきも くもがくりくるしきものぞ あはむとおもへど>
<<いついつまでも照るはずの月も雲に隠れてしまって、苦しいことです。逢いたいと思うのに>>
前にも書きましたが,万葉時代七夕の夜は妻問いが普段より多く行われる日だったのでないかと私は想像しています。現代で言えばクリスマスイブの夜にデートをするカップルが多いのと同じ感覚かもしれませんね。そんな夜,街灯がない万葉時代,月明かりがあると道に迷わないし,道を踏み外して怪我をして妻問いできないくなるようなことも少なくなります。ところが,月が雲にかくれてしまい,妻問いを待つ妻にとって夫が無事に来てくれるのか心配になり(苦し)この短歌を詠んだのではないかと私は思います。
さて,最後に紹介する「苦し」を詠んだ詠み人知らずの七夕の短歌です。
天の川瀬々に白波高けども直渡り来ぬ待たば苦しみ(10-2085)
<あまのがはせぜにしらなみ たかけどもただわたりきぬ またばくるしみ>
<<天の川の瀬々の白波は高かったけれど,直に渡ってきたぜ。待つのはお互いにつらいことだからね>>
この男性は,妻の家に妻問いに行くのにいろいろ障害(家族や恋敵などの抵抗)があったのでしょう。
その障害の回避のタイミングを計るのではなく,障害と真正面から戦って,やっつけて来たと妻に誇らしげに詠っている感じが私にはします。
来月7日に恋人とデートを約束している人は,これらの短歌を参考に,何かしゃれた一言を考えてみたらいかがでしょうか。
私には残念ながら来月7日はデートなんていう洒落た予定はありません。翌日から岐阜で開催されるソフトウェア技術に関する学会のシンポジウムに参加し,そこで設置されるソフトウェア保守をテーマとした作業部会で議論するための準備が忙しい七夕となりそうです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「すべなし」に続く。
2012年7月6日金曜日
対語シリーズ「逢うと別れ」‥「天の川」それは出逢いと別れの象徴?
私ごとで大変恐縮ですが,ボーナスが予想よりほんの少し多く出たので,思い切って七夕を機に壱岐の麦焼酎「天の川」プレミアム(写真)を買いました。
何と通常の焼酎ボトルの半分の量(360ml)で2,100円もします。
庶民の私にとっては,急流の天の川に飛び込むような勇気を振り絞って買った次第です。
ただ,申し訳ありませんが,味はまだ飲んでいないので分かりません。呑ん兵衛の天の川君に見つからないように隠しておいて,明日の七夕の夜に飲むことにしています。その味は次回に報告します。
さて,今回のテーマは「逢うと別れ」です。まさに明日の七夕では牽牛と織姫が年に一回逢い,そして翌日には別れ,翌年の七夕まで逢えないのです。
次は,天平2(730)年の七夕の頃,大伴旅人邸の宴席で山上憶良が詠んだとされる短歌です。
玉かぎるほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは(8-1526)
<たまかぎるほのかにみえて わかれなばもとなやこひむ あふときまでは>
<<ちらっとお逢いしただけで別れれば無性に恋しく思うでしょう。再び逢える時までは>>
1年に一度ほんの少しだけしか逢えず,すぐ別れてしまうからこそ,恋の想いがさらに募るのでしょうね。
次も七夕の「逢うと別れ」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
月日えり逢ひてしあれば別れまく惜しくある君は明日さへもがも(10-2066)
<つきひえりあひてしあれば わかれまくをしくあるきみは あすさへもがも>
<<月日はいっぱいあるけれど,今日一日と定めて逢ふのですから,別れることが捨てがたいあのお方は明日までもいて下さればよいのですが>>
織女の今夜逢ひなば常のごと明日を隔てて年は長けむ(10-2080)
<たなばたのこよひあひなば つねのごとあすをへだてて としはながけむ>
<<織姫は七夕の今夜彦星に逢えたなら,またいつものように明日から二人は離れ離れとなって一年の長い時を過ごしていくのか>>
明日には別れる定めであっても,もう一日でも長く逢っていたいのが,愛し合う二人の気持ちに違いありません。
牽牛と織姫は一年でたった一日だけでも逢える可能性があります。
ただ,遣新羅使のように船が難破して,命を落とし,二度と最愛の人に逢えない可能性があると次の短歌となります。
天平8(736)年の七夕,新羅に向かう遣新羅使が福岡で詠んだ短歌です。
年にありて一夜妹に逢ふ彦星も我れにまさりて思ふらめやも(15-3657)
<としにありてひとよいもにあふ ひこほしもわれにまさりて おもふらめやも>
<<一年中で一夜だけ織姫に逢う彦星でも私以上に妻のことを想うはずがない>>
万葉時代,このようにして,さまざまな人達が七夕を通して,お互いの恋しい気持ちを確認し合っていたのかもしれません。
対語シリーズ「押すと引く」に続く。
2012年6月30日土曜日
対語シリーズ「天と地」‥天に昇れば大地に落ちる危険性もある
今回は,見上げる「天」と見下ろす「地」について,万葉集を見て行きましょう。
まず山上憶良が詠んだとされる長歌を1首紹介します。
父母を見れば貴し 妻子見ればめぐし愛し 世間はかくぞことわり もち鳥のかからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を脱き棄るごとく 踏み脱きて行くちふ人は 石木よりなり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば汝がまにまに 地ならば大君います この照らす日月の下は 天雲の向伏す極み たにぐくのさ渡る極み 聞こし食す国のまほらぞ かにかくに欲しきまにまに しかにはあらじか(5-800)
<ちちははをみればたふとし めこみればめぐしうつくし よのなかはかくぞことわり もちどりのかからはしもよ ゆくへしらねば うけぐつをぬきつるごとく ふみぬきてゆくちふひとは いはきよりなりでしひとか ながなのらさね あめへゆかばながまにまに つちならばおほきみいます このてらすひつきのしたは あまくものむかぶすきはみ たにぐくのさわたるきはみ きこしをすくにのまほらぞ かにかくにほしきまにまに しかにはあらじか>
<<父母を見れば尊敬の念を抱き,妻子を見れば可愛く,愛おしくてたまらない。世の中にはこうした道理がある。とりもちの罠にかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難いのだ。にもかかわらず,行末も分からない世の中だからといって,穴のあいた沓を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は,非情の石や木と同じ生まれだろうか。蒸発したおまえは誰なのか。天へ行ったなら,思いのままにするがよい。ただし,この地上は大君が治めている。太陽と月が照らすこの国は,雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君が統治している国土なのだ。逃げて思いのままにしたいと,おまえは思うかもしれないが,いつまでもそんな訳には行かないだろう>>
今の日本は,大君(天皇)が治めるのではなく,法治国家です。それでも「大君」を「法」に読み替えれば,まさに現代の世の中でもまったく古さを感じない長歌だと思いませんか?
<1,300年前も同じ>
事件の報道を聞くにつけ,自分を産んでくれた父母に対して尊敬の念を抱かないどころか,気に入らないので殺してしまう子供がいる。
いっぽう,自分の楽しみを奪う邪魔者だからと子供を虐待したり,殺してしまう父母がいる。
また,自分達の思想や行動を邪魔するものは抹殺するというテロリズム的行動も依然無くなっていません。
「道徳教育」というと戦前の軍国主義と結くというイメージがあり,また,超近代化社会では新しい技術や用語を教えるだけで古い倫理観をじっくり教えていくことの優先度が低くなってしまうのは,ある程度仕方ないことかも知れません。また,価値観の多様化によって,ベースとなる倫理観自体の有効な教育の困難性も増しているようにも思います。
実は,私もコンサーバティブ(保守的な)より,イノベーション(革新,改革)という言葉にポジティブなイメージを持つ人間の一人です。
<歴史的教訓は簡単には捨てられない?>
ただ,どんなに革新的な社会であっても古い考え方を全面的に否定して成り立っているのではないと私は思うのですがどうでしょうか。私は常にイノベーションを積極的に考えることと,古くて良いこと(モノ,考え方)をすべて捨て去ることとは同じではないと考えています。
本当の意味のイノベーションは,古いて良いモノは残し,時代に合わなくなってモノは捨て,斬新な考えやモノを積極的に導入する。その時,捨ててしまう古いモノが無くなってしまうことによるデメリット,新しい考えやモノを導入するときに発生しうる変化のリスクを正しく評価という手順を踏んで,やっと実施に移す。
そして,イノベーションを起こす人達(リーダーもメンバー)すべてがその手順の過程(ストーリ)を共有していることこそ,初めてイノベーションが成功できる要因なのだというのが私の考えです。
「ゆっくり考えるなんて悠長なことは言ってられないのだ。失敗を恐れずに何でもいいからチャレンジするんだ!突き進め!」と発破を掛けられ,失敗だけで済むなら良いのですが,失ってはならない貴重なモノまで失ってしまっては本も子もありません。
憶良の上の長歌に対する反歌を続けて紹介します。
ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに(5-801)
<ひさかたのあまぢはとほし なほなほにいへにかへりて なりをしまさに>
<<現状から逃避する天の道は遠い(逃避は結局できない)。黙々と家に帰って自分の仕事をしなさい>>
現状や現場をしっかり見て,着実により良くする(改善)ことが,実は本来のイノベーションなのです。地に足を着けて,難しい状況の中で改善を続けられることは本当に素晴らしい改革なのです。
現状を全面否定し,そこから逃げ出し,一足飛びに解決できることを探す(天の道を探す)ことは簡単に見えますが,結局はそんな道(ショートカットパス)は見つからないことの方がはるかに多いのです。
憶良が伝えたかったのは,そんなことではないかと私は思います。
堅い話が続きましたが,うれしいときや楽しみが近づいているとき,天にも昇る思いや地に足が付かづ,ふあふあした気持ちになることがありますね。
立ちて居てたどきも知らず我が心天つ空なり地は踏めども(12-2887)
<たちてゐてたどきもしらず あがこころあまつそらなり つちはふめども>
<<立ったりすわったりして,どうしていいかわからず,私の心はまるで天空を舞っているようです。しっかり地を踏んではいるのだけれど>>
この詠み人知らずの短歌は,恐らく恋人がやってくるのを心待ちにしていて,落ち着かない状態を詠んだのでしょう。
来週は七夕です。こんな気持ちで心待ちにしている人もいるかもしれません。その期待が実現し,多くの牽牛と織姫のデートが実現するといいですね。
対語シリーズ「逢うと別れ」に続く。
2012年6月23日土曜日
対語シリーズ「解くと結ふ」‥紐は解いて待つ?いや,解いてもらうため結んで待つ?
旧暦の七夕(今の8月立秋あたり)は妻問いにちょうど良い季節だったのでしょうか?
梅雨が明け晴れた日が多く,空気も澄んでくる。昼間はまだ暑いが,立秋も過ぎ夜になると少し風が涼しく感じられるようになる。うるさい蛙(かはづ)の声がおさまり,どこからともなくロマンチックな秋の虫の声が聞こえてくる。
今のように,高いビル,アスファルトの道,貧弱な街路樹などによるヒートアイランド現象が無かった万葉時代は,旧暦七夕の時期の夜になると男女が身を寄せ合うのにもっとも適した季節だったのではないかと私は想像します。
さて,妻問いで夫の来訪を待つ妻は下衣の紐を解いて待つか,夫に解いてもらうために紐は軽く結んでおくか?どちらが夫に喜んでもらえるか。それが大問題です。
まずは,万葉集に出てくる紐を解いて待つ派の女性(詠み人知らず)の短歌です。
天の川川門に立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き待たむ(10-2048)
<あまのがはかはとにたちて あがこひしきみきますなり ひもときまたむ>
<<天の川の渡し場に行っては,私が恋い慕っていたあなたがいらっしゃるらしい。衣の紐を解いてお待ちしよう>>
次は,七夕を詠ったものではありませんが,紐を夫に解いてもらう派の詠み人知らず(東歌)の短歌です。
昼解けば解けなへ紐の我が背なに相寄るとかも夜解けやすけ(14-3483)
<ひるとけばとけなへひもの わがせなにあひよるとかも よるとけやすけ>
<<昼間は解ことしても解けない紐が,あなたと寄添う夜は何と解けやすいこと>>
紐を解いたのは本人か夫か分かりませんが,少なくとも相寄るまでは紐は結んで待っていると想像できます。
ところで,男の方はどうでしょうか。牽牛星と織姫星の逢瀬を題材にお互いが衣の紐を解きあいたいと詠った次の詠み人知らずの短歌があります。
高麗錦紐解きかはし天人の妻問ふ宵ぞ我れも偲はむ(10-2090)
<こまにしきひもときかはし あめひとのつまどふよひぞ われもしのはむ>
<<高麗錦の紐を互いに解きあって彦星が妻問いをする今宵。私もそうして見よう>>
この3首から,共寝では男心としては着ているものを脱がせるプロセスが楽しみ(ワクワクする)。通常の女心は準備OKの印として着ているものを脱いでおきたい。ただし,そんな男心を知っている女性は相手に脱がせるため,わざと着ておく(紐を結んでおく),といったことが分かりますね。
天の川 「なんや。今も昔もちっとも変わらへんな。たびとはんは女性の背中のホックを外すが下手やったやんか。」
あのね,天の川君。頼むから誤解を招くようなことを言わないようにしてくれ。とんでもない天の川の奴に乱されましたがまとめます。
紐を解くの「解」は「解析学」「数値解析」の「解」です。
解析学や数値解析を研究している人には,もともと圧倒的に男性が多いとしたら,「紐を解く」を男性が好きだということとまさか関係があるなんてことはないですよね。
対語シリーズ「天と地」に続く。
2012年6月18日月曜日
対語シリーズ「淀(淵)と瀬」‥天の川には淀(淵)と瀬があったのか?
先日,大学で私が所属していた万葉集の研究会の顧問をして頂いた先生の古稀を祝うため,同じく顧問をされていた他のクラブや公開講座の卒業生・現役メンバー計100名以上が一堂に会しました。
私は集いの全体幹事を拝命し,昨年から企画を始め,その後の準備・当日の運営を中心的に進めました。
何とか盛会かつ無事に集いを完了することができ,今は正直ホッとしているところです。
先週は集いの準備で更新が滞りましたが,ブログアップを再開します。
今回は川の流れが緩やかな場所(淀)と深くなった場所(淵)に対し,反対に川が浅く流れが速い場所(瀬)について万葉集で詠まれいる和歌を見て行きましょう。
実は「淀」と「瀬」,「淵」と「瀬」の両方が詠まれている歌が万葉集にいくつも出てきます。
まず,「淀」と「瀬」の詠み人知らずの短歌から。
宇治川は淀瀬なからし網代人舟呼ばふ声をちこち聞こゆ(7-1135)
<うぢがははよどせなからし あじろひとふねよばふこゑ をちこちきこゆ>
<<宇治川には歩いて渡れる流れの緩やかな淀のような瀬がないらしい。網代をかけて漁を獲る人達の舟を呼ぶ声があちこちから聞こえる>>
琵琶湖から流れる大量の水が上流から押し寄せてくる宇治川は,急流で,魚を獲る網代を設置するのも大変だったのかも知れません。
網代の材料や設置する人を運ぶ舟の操作も急流のため難しく,流れる水音に負けないほど大きな声で作業者間で指示が飛んでいたのでしょうか。
もうひとつ「淀」と「瀬」が出てくる長歌を紹介します。作者は境部老麻呂(さかひべのおゆまろ)という役人で,天平13(741)年2月に恭仁(くに)京を賛美して作ったとされています。
山背の久迩の都は 春されば花咲きををり 秋されば黄葉にほひ 帯ばせる泉の川の 上つ瀬に打橋渡し 淀瀬には浮橋渡し あり通ひ仕へまつらむ 万代までに(17-3907)
<やましろのくにのみやこは はるさればはなさきををり あきさればもみちばにほひ おばせるいづみのかはの かみつせにうちはしわたし よどせにはうきはしわたし ありがよひつかへまつらむ よろづよまでに>
<<山背の久迩の都は,春になると花がいっぱい咲き,秋になると紅葉が美しく映えます。帯のような泉川の上流の瀬には打橋を渡し,流れ淀んだ瀬には浮橋を渡し,そこを通ってお仕えいたしましょう。いついつまでも>>
泉川は今の木津川のことだとされています。瀬は早瀬の意味と淀んだ瀬の意味があります。瀬と書くと前者,淀瀬と書くと後者の意味になります。
しかしながら,この3年後には恭仁京は無くなってしまいます。時の流れは早瀬に浮かぶ木の葉のようにあっという間に過ぎ去っていく奈良時代中期でした。
次は「淵」と「瀬」の両方が詠み込まれた大伴旅人が大宰府で詠んだとされる短歌です。やはり時の流れを川の淵と瀬に例えて詠んでいます。
我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にありこそ(3-335)
<わがゆきはひさにはあらじ いめのわだせにはならずて ふちにありこそ>
<<私の大宰府赴任もそう長くはないでしょう。夢の流れは瀬に(早い変化に)ならずに淵の(変化の少ない)ままであってほしいものだ>>
世の中の変化が急激だと先が読めなくなる。そうならないで欲しいというのが,大宰府にいる旅人の偽らざる気持ちだったのかも知れませんね。
次に,その旅人が奈良に帰任し,大納言になった後,亡くなるその年,自分生まれ故郷の明日香の地に想いを馳せて詠んだ短歌です。
しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ(6-969)
<しましくもゆきてみてしか かむなびのふちはあせにて せにかなるらむ>
<<ほんの少しだけでも行って見てみたい。神奈備の川の淵は浅くなって瀬になっているのではないか>>
晩年の旅人は身体も弱り,生まれ故郷の明日香に行くことすらままならない状態だったのでしょう。
でも,神奈備山を見て幼い頃飛び込んで遊んだ川(飛鳥川)の淵はどうなっているか見てみたい。
きっと,上流からの土砂で浅くなり浅瀬になっていて,昔と変わってしまっているのだろうなと旅人は想像しているように私には感じられます。
みなさんにも幼いころ遊んだ場所が今どうなっているか気になるところはきっとあるのではないでしょうか。
さて,七夕も近付きつつありますが,夜空に輝く天の川は万葉集によると急流だったようです。
というのは「瀬」と「天の川」を詠んだ和歌はたくさん出てきますが,天の川で「淀」や「淵」を詠んだものはありません。
その中で,詠み人知らずの短歌一首を紹介します。
天の川瀬々に白波高けども直渡り来ぬ待たば苦しみ(10-2085)
<あまのがは せぜにしらなみたかけども ただわたりきぬまたばくるしみ>
<<天の川の瀬々の白波は高かったけれど,ただひたすら渡ってきたよ。待つのは辛いことだからね>>
万葉時代は七夕は,今でいえばバレンタインデーやクリスマスのような男女の出会いの場だったのでしょうか。天の川は早瀬で,渡るのは少し危ないけれど,それを押して逢いに来る彦星と待つ織姫。
ただ,残念ながら新暦7月7日は梅雨が明けていないことが多く,万葉時代の雰囲気は今は伝わりにくいのかも知れませんね。
ところで,いつもごろごろしている天の川君は早瀬という雰囲気はかけらもなし。まさに「淀んだ淵」だね。
天の川 「やかましいなあ。寝てばっかりはわしの甲斐性や。放っといてんか!」
対語シリーズ「解くと結ふ」に続く。
2012年6月8日金曜日
対語シリーズ「手と足」‥七夕の織姫は手足をリズミカルに動かせた?
「手」と「足」が本当の意味で対語であるか微妙かも知れませんが,万葉集の多くの和歌で「手」と「足」が出てきます。
特に「手」は次のような多くの熟語になり,詠み込まれています。
麻手(あさで)‥麻で織った布
伊豆手船(いづてふね)‥伊豆で造船された船
大御手(おほみて)‥天皇の手
水手(かこ)‥舟を漕ぐ人。水夫
蛙手(かへるて)‥カエデ
衣手(ころもで)‥袖
手柄(たかみ)‥剣のつか
直手(ただて)‥自分の手(自分だけ)で行うこと。
手玉(ただま)‥手に付ける玉
手力(たぢから)‥腕力
手束(たつか)‥手に握り持つこと
手作り(たづくり)‥手で織った布
手馴れ(たなれ)‥扱いに慣れていること
手挟む(たばさむ)‥手で挟む
手火(たひ)‥手に持って道などを照らすたいまつ
手巻(たまき)‥ひじに纏った輪形の装飾品
手枕(たまくら)‥腕を枕とすること
手向け(たむけ)‥神や死者の霊に物を供えること
手本(たもと)‥ひじから肩までの間
手弱し(たよわし)‥か弱い
手弱女(たわやめ)‥たわやかな女性
手童(たわらは)‥幼い子供
手折る(たをる)‥手で折る
柧手(つまで)‥荒削りした木材
手臼(てうす)‥手で杵を持って穀物を挽く臼
手染め(てそめ)‥手で染めたもの
手斧(てをの)‥ちょうな
長手(ながて)‥遠い道
最手(ほつて)‥優れた技
井手(ゐで)‥田の用水を塞き止めているところ
いっぽう,「足」は次のような熟語として使われています(「足る」の用例は除く)。
足占(あうら)‥足を使った占い
足掻き(あがき)‥馬などが前足で掻いて進むこと
足飾り(あしかざり)‥足に付ける飾り
足玉(あしだま)‥足に付ける玉
足早(あしはや)‥速力が速いこと
足痛く(あしひく)‥足に病がある
足悩む(あしゆむ)‥足が痛む。難儀しながら歩く
足速や(あばや)‥足が速いこと
足結(あゆひ)‥動きやすいように袴を膝頭で結んだ紐。
では,まず「手」と「足」が両方詠み込まれていて,七夕を題材にした詠み人知らずの短歌を紹介します。
足玉も手玉もゆらに織る服を君が御衣に縫ひもあへむかも(10-2065)
<あしだまも ただまもゆらに おるはたを きみがみけしに ぬひもあへむかも>
<<手足につけた飾り玉が触れ合って奏でる音を聞きつつ織る布は,七夕の夜貴方に着ていただくための御衣用なの。お気に入りの形に縫えるよう織れるかしら>>
ところで,後1カ月足らずで七夕がやってきますね。
この歌は織姫の気持ちを詠んだ短歌です。機織(はたおり)は手と足を使いながら行います。足は経糸(たていと)を交互に上と下に分ける踏み台を踏む作業をします。手は舟形をした杼(ひ)と呼ばれる道具を横に走らせ,緯糸(よこいと)を通す作業を行います。
これをタイミング良く繰り返すと,きっと手と足に付けたアクセサリーに付いている玉が触れ合って規則正しい音を立てていたのかも知れませんね。
この音が途絶えることが無いほど頑張って機織をしているけれど,たくましい牽牛に似合いの大きさに織れるか心配している織姫の気持ちをこの作者は表現したかったのでしょうか。
さて,次は同じく七夕と手を詠んだこれも詠み人知らずの短歌を紹介します。
年にありて今か巻くらむぬばたまの夜霧隠れる遠妻の手を(10-2035)
<としにありて いまかまくらむ ぬばたまの よぎりこもれる とほづまのてを>
<<年に一度,今こそ抱き合おう。夜霧の衣に包まれた彼方の妻の手によって>>
年に一度の逢瀬,天の川対岸の織姫の手で抱かれたい。そんな男の願望が私には伝わってきます。
残念ですが,七夕と身体の足を詠ん和歌は万葉集にはありません(「足る」という意味では出てきます)。しかし,天平感宝元(749)年7月7日越中にて「立つ(足で)」を詠んだ大伴家持の短歌はあります。
安の河こ向ひ立ちて年の恋日長き子らが妻どひの夜ぞ(18-4127)
<やすのかは こむかひたちて としのこひ けながきこらが つまどひのよぞ>
<<天の川を挟んで向かい立ち,一年に一度の恋に首を長くして待っていた恋人たちが,今夜は共寝をする夜だ>>
今回,万葉集で多く詠まれている手と足について,七夕の切り口で見てみました。万葉時代,七夕では若い男女の手や足が活発に動いたのでしょうね。おっと,勘違いしないでくださいね。文(ふみ)や和歌を書いたり,恋人や妻の家まで歩いたり,恋人や夫を迎える準備をしたりすることですよ。
対語シリーズ「淀と瀬」に続く。
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