「尽く」,「尽くす」の最終回は,「言葉を尽くす」について,万葉集を見ていきましょう。
まず,以前このブログでも紹介した坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の代表的な恋の短歌を紹介します。
恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長くと思はば(4-661)
<こひこひてあへるときだに うるはしきことつくしてよ ながくとおもはば>
<<恋しい恋しいと思ってきて,ようやく逢えた時くらいは私が喜ぶ言葉をありったけ言い尽くしてくださいな。これからも二人の仲を長く続けようと思ってくださるならね>>
この短歌は,ありったけやさしい言葉を尽くして欲しい郎女の気持ちが強く表れています。
「好きだよ」「愛してる」「もう離さないから」「君は僕のすべてだよ」な~んて,「うるはしき」言葉を何度でも恋人の男性から聞きたいのが時代を超えた女性の心理ですよね。
さあ,世の男性諸君! 頑張って(態度だけでなく)繰り返し何度も口に出して恋しい相手に思いを告げなさい! こんなことをこの短歌は教えてくれているのかも。
次は,万葉集の巻16に出てくる竹取翁(たけとりのをきな)に対して,若い娘多たちが贈った短歌の1首です。
あにもあらじおのが身のから人の子の言も尽さじ我れも寄りなむ(16-3799)
<あにもあらじおのがみのから ひとのこのこともつくさじ われもよりなむ>
<<とはいうものの,私の身は普通の人の子でうまく言葉を尽くして表現できないですが,私もおじいさんが言う和歌の大切さに同感します>>
竹取翁といっても,かぐや姫が登場する竹取物語とは無関係で,80歳を超える老人が,若い娘たちに人の心を動かす和歌の大切さを表現した長歌・反歌2首を贈り,それに感心した娘たちが返歌をしたのです。
当時本当にこんな和歌のやり取りがあったのか,それとも教育的見地から創作されたお話なのか私には分かりません。しかし,万葉集に出てくる和歌の多様性を表すものの一つとして私は評価したいと思います。
さて,今回の最後は馬国人(うまのくにひと)という人物が天平勝宝8年,河内(今の大阪府東大阪市周辺)の自宅での宴にいた大伴家持に送った短歌の1首です。
万葉集で馬国人が詠んだとされる和歌はこの1首のみです。
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも(20-4458)
<にほどりのおきながかはは たえぬともきみにかたらむ ことつきめやも>
<<息長川の流れが絶えることはあっても、あなたにお話ししたい言葉が尽きることはありません>>
息長川は滋賀県の伊吹(息吹)山から琵琶湖に注いでいた川であったようです。現在も,滋賀県米原市に「息長」という地名が残っています。
馬国人は,家持が難波で東国から集められた防人を筑紫へ船で送る役人をしていたときに,親交があったのかもしれません。そして,家持が難波での役目を解かれたとき,この宴をセッティングした可能性があると私は考えます。
さて,万葉集は,4500首余りという和歌,そして題詞,左注を通して,膨大な言葉を「尽くして」後世の私たちに何を示そうとしたのか,私の興味はまったく尽きません。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(1)に続く。
2015年4月18日土曜日
2015年4月11日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…尽く,尽くす(2) たとえ苦しくても「尽くす恋」がしたい!!
前回は「心を尽くす」「尽す心」を取り上げましたが,今回は「恋を尽くす」が万葉集でどう表現されているかを見ていくことにします。
「恋を尽くす」という言葉は,現代では「究極の恋」「最高の恋」などに添ったイメージもありそうですが,その形や程度に明確な基準があるようには私は感じられません。少し冷めた見方をすれば「本人がそう思っただけ,想っているだけ」なのかもしれません。相手は「恋を尽くした」という本人に対して「へえ~,そうなの?」というくらいの認識の違いがある場合もあるでしょう。
さて,さて,この大変主観的な「恋を尽くす」を万葉集ではどう詠んでいるのでしょうか。
最初は,七夕の彦星と織姫との切ない恋の逢瀬を想像した,詠み人知らずの短歌からです。
年の恋今夜尽して明日よりは常のごとくや我が恋ひ居らむ(10-2037)
<としのこひこよひつくして あすよりはつねのごとくや あがこひをらむ>
<<1年間の苦しい恋の想いを今夜は尽くす(苦しさを忘れ去る)ことができるけれど,明日からはまた常のごとくに苦しい恋の思いばかりでいる私か>>
万葉時代の恋は「苦しいもの」「切ないもの」というイメージが強かったに違いないと想像して訳してみました。
恋人同士が「逢う」ことの価値は,現代に比べてどれほど大きかったのかを考えてみてください。万葉時代は,さまざまな制約で気軽に逢うことができない時代だったでしょう。恋愛は非常に苦しいものにならざるを得ません。
<恋の苦しさ,辛さを詠んだ和歌を万葉集は集めている>
でも,万葉集では,親のためや政略のために義務的に恋愛することを前提とした和歌は少ないと私は感じます(実際に政略結婚的なものはあったかもしれませんが)。それよりも,恋愛を邪魔するものに対する不満,反発,抵抗,我慢,あきらめなどの心理が表れている和歌が万葉集には多いように思います。
そのためにも,そのような乗り越えなければならないハードルが高く,多く,逢うことのままならない苦しい恋をやり遂げる目標が「恋を尽くす」ことだ,そんな気が私はします。
その最大のゴールが「逢う」ことだとしたら,七夕の物語は恋人同士には同感できるものが,現代よりもはるかに大きかったと私は想像します。
さて,次は「恋を尽くす」相手が恋人ではなく「萩の花」として詠んだ詠み人知らずの短歌です。
秋萩に恋尽さじと思へどもしゑやあたらしまたも逢はめやも(10-2120)
<あきはぎにこひつくさじと おもへどもしゑやあたらし またもあはめやも>
<<秋萩に対して恋しさいっぱいになるものかと思ったが,悔しいけれど、こんなに可憐で恋しい花は二度と出会えようか>>
この短歌は恋人を萩に喩えていると考えてもよいのかもしれません。
苦しい恋を尽くして疲れ果てたので,今度はそんなに思いつめずに恋をしようとしたが,この美しい女性を見たらそうもいかなくなったといった心境を秋萩に託して詠んだの可能性はあると私は考えます。
今回の最後は「恋を尽くす」に対して,人生評論家がコメンテータとして述べるような内容を詠んだ,柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの短歌です。
大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり(11-2442)
<おほつちはとりつくすとも よのなかのつくしえぬものは こひにしありけり>
<<大地の土を取り尽くせても(取り去っても)、世の中で尽くせない(取り去れない)ものは恋というものなのです>>
この短歌に接して「へえ~,そうなの?」と淡々と感じるのか,「そう!そう!そうなんだよ!」と賛同するか,「そんなに大袈裟に考えるものでもないよ」と異議をとなえるか,まさに人それぞれでしょう。個人の人生経験や時代背景,親の育て方,教育の受け方などによって,この短歌から受ける印象が大きく異なることは受け入れなければならないと私は思います。
でも,この短歌の作者の考えは万葉時代の比較的多くの人が賛同したかもしれません。私は,そのことに思いを至らすことを大切にしたいのです。
<現代の感覚で観ず,万葉時代に生きた自分にタイムスリップする>
今の自分たちがどう感じるか,同感できるかだけではなく,その当時の人々がどう感じていたかを想像すること。それが,古典を楽しむ上で大切なことではないでしょうか。その価値は,人間として失ってはならないものは何かを思い起こさせてくれる可能性があるからです。
違う時代に生きた人(その人も生身の人間です)について思いをはせることは,今の時代がどういう時代なのかを正しく評価するうえで重要だと私は考えます。
間違っても,今起こっていること(苦しい生活や嫌なこと)だけで頭がいっぱい,という受け身な生き方はしたくないと私は思うのです。その生き方は,他人や世の中が与えるものではなく,自分が不断の努力を「尽くして」確立していくものだろうと考えるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…尽く,尽くす(3:まとめ)に続く。
「恋を尽くす」という言葉は,現代では「究極の恋」「最高の恋」などに添ったイメージもありそうですが,その形や程度に明確な基準があるようには私は感じられません。少し冷めた見方をすれば「本人がそう思っただけ,想っているだけ」なのかもしれません。相手は「恋を尽くした」という本人に対して「へえ~,そうなの?」というくらいの認識の違いがある場合もあるでしょう。
さて,さて,この大変主観的な「恋を尽くす」を万葉集ではどう詠んでいるのでしょうか。
最初は,七夕の彦星と織姫との切ない恋の逢瀬を想像した,詠み人知らずの短歌からです。
年の恋今夜尽して明日よりは常のごとくや我が恋ひ居らむ(10-2037)
<としのこひこよひつくして あすよりはつねのごとくや あがこひをらむ>
<<1年間の苦しい恋の想いを今夜は尽くす(苦しさを忘れ去る)ことができるけれど,明日からはまた常のごとくに苦しい恋の思いばかりでいる私か>>
万葉時代の恋は「苦しいもの」「切ないもの」というイメージが強かったに違いないと想像して訳してみました。
恋人同士が「逢う」ことの価値は,現代に比べてどれほど大きかったのかを考えてみてください。万葉時代は,さまざまな制約で気軽に逢うことができない時代だったでしょう。恋愛は非常に苦しいものにならざるを得ません。
<恋の苦しさ,辛さを詠んだ和歌を万葉集は集めている>
でも,万葉集では,親のためや政略のために義務的に恋愛することを前提とした和歌は少ないと私は感じます(実際に政略結婚的なものはあったかもしれませんが)。それよりも,恋愛を邪魔するものに対する不満,反発,抵抗,我慢,あきらめなどの心理が表れている和歌が万葉集には多いように思います。
そのためにも,そのような乗り越えなければならないハードルが高く,多く,逢うことのままならない苦しい恋をやり遂げる目標が「恋を尽くす」ことだ,そんな気が私はします。
その最大のゴールが「逢う」ことだとしたら,七夕の物語は恋人同士には同感できるものが,現代よりもはるかに大きかったと私は想像します。
さて,次は「恋を尽くす」相手が恋人ではなく「萩の花」として詠んだ詠み人知らずの短歌です。
秋萩に恋尽さじと思へどもしゑやあたらしまたも逢はめやも(10-2120)
<あきはぎにこひつくさじと おもへどもしゑやあたらし またもあはめやも>
<<秋萩に対して恋しさいっぱいになるものかと思ったが,悔しいけれど、こんなに可憐で恋しい花は二度と出会えようか>>
この短歌は恋人を萩に喩えていると考えてもよいのかもしれません。
苦しい恋を尽くして疲れ果てたので,今度はそんなに思いつめずに恋をしようとしたが,この美しい女性を見たらそうもいかなくなったといった心境を秋萩に託して詠んだの可能性はあると私は考えます。
今回の最後は「恋を尽くす」に対して,人生評論家がコメンテータとして述べるような内容を詠んだ,柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの短歌です。
大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり(11-2442)
<おほつちはとりつくすとも よのなかのつくしえぬものは こひにしありけり>
<<大地の土を取り尽くせても(取り去っても)、世の中で尽くせない(取り去れない)ものは恋というものなのです>>
この短歌に接して「へえ~,そうなの?」と淡々と感じるのか,「そう!そう!そうなんだよ!」と賛同するか,「そんなに大袈裟に考えるものでもないよ」と異議をとなえるか,まさに人それぞれでしょう。個人の人生経験や時代背景,親の育て方,教育の受け方などによって,この短歌から受ける印象が大きく異なることは受け入れなければならないと私は思います。
でも,この短歌の作者の考えは万葉時代の比較的多くの人が賛同したかもしれません。私は,そのことに思いを至らすことを大切にしたいのです。
<現代の感覚で観ず,万葉時代に生きた自分にタイムスリップする>
今の自分たちがどう感じるか,同感できるかだけではなく,その当時の人々がどう感じていたかを想像すること。それが,古典を楽しむ上で大切なことではないでしょうか。その価値は,人間として失ってはならないものは何かを思い起こさせてくれる可能性があるからです。
違う時代に生きた人(その人も生身の人間です)について思いをはせることは,今の時代がどういう時代なのかを正しく評価するうえで重要だと私は考えます。
間違っても,今起こっていること(苦しい生活や嫌なこと)だけで頭がいっぱい,という受け身な生き方はしたくないと私は思うのです。その生き方は,他人や世の中が与えるものではなく,自分が不断の努力を「尽くして」確立していくものだろうと考えるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…尽く,尽くす(3:まとめ)に続く。
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