明日から7月です。もう少ししたら,今年の大相撲名古屋場所が始まります。先場所(五月場所)では「多くの力士が,横綱白鵬に対し,なすすべもなく敗れた」というような対戦が多かったようです。名古屋場所は白鵬と対戦する力士の奮戦を期待したいものですね。
さて,ここで言う「なすすべもない」は「手の施しようがない」とか「有効な方策がない」といった意味となりそうです。
今回の「すべなし」は,万葉集では,約50首の和歌で出てきます。七夕が近づいている時期なので,七夕歌の中で「すべなし」がどのように使われているが見てみましょう。
たぶてにも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき(8-1522)
<たぶてにもなげこしつべき あまのがはへだてればかも あまたすべなき>
<<小石でも投げれば向こう岸に届きそうな天の川だが,川が隔てているため、いろいろ逢う手立を考えるのがすべてだめだなあ>>
この短歌は筑紫で山上憶良が七夕を詠んだ長歌の反歌2首の内の1首です。相手はすぐ近くに住んでいるようです。しかし,1年1度逢えるかどうか分からない牽牛と織姫以上に逢うのは難しいようです。憶良は遣唐使で中国文化を吸収してきた関係で,日本独特の妻問い婚の面倒くささを,七夕を引き合いに出して暗に批判しているようにも私は感じます。
袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(8-1525)
<そでふらば みもかはしつべく ちかけども わたるすべなし あきにしあらねば>
<<袖を振れば,お互い見交わすこともできるほど近いけれども,天の川を渡ることができない。七夕の秋でないので>>
これも憶良が七夕を詠んだ短歌の1首です。本当は毎晩でも逢いたいのに,天の川が邪魔をして,逢えないことを嘆いているようです。
久方の天の川原にぬえ鳥のうら歎げましつすべなきまでに(10-1997)
<ひさかたのあまのかはらに ぬえどりのうらなげましつ すべなきまでに>
<<天の川の河原にぬえ鳥のように織女は嘆いていていた。何もできないほど>>
この短歌は柿本人麻呂歌集から転載した詠み人知らずの1首です。「ぬえ(鵺)鳥」は「トラツグミ」のことらしいです。トラツグミは夜悲しそうに「ひい~いっ」と鳴く鳥のようです。実際の鳴き声はYouTubeに何件かアップされています。この短歌の作者は,牽牛と逢えない織姫の嘆きの深さを表現する手段として「ぬえ」の鳴き声を引き合いに出すのはなかなかの詠み手だと私は思います。
<テレビ番組での感想>
ところで,昨晩NHKの総合テレビで放送された「NHKスペシャル/シリーズ日本新生"観光革命"がニッポンを変える 」を視聴しました。私はTwitterをやらないので,このブログで少し意見を述べてみます。
日本の多様な文化や自然をもっと海外に紹介し,もっと多くの観光客に海外からきてもらうべきだという番組の意図に私は大いに賛同します。番組に出席した日本各地,海外各国のコメンテータからさまざまな意見が出て,新たな刺激を受けました。
私は多様な日本の文化,慣習,伝統工芸,産業,自然の原点を知るには,やはり万葉集が超一級の資料だと思います。そして,私が更に特筆すべきと考えることは,万葉集に出てくるそれらの原点さえも,実は万葉集の中ですでに多種多様なのです。
<日本人の宗教観>
私の考えでは,日本人は一つのものだけでは長い時間満足できない民族だといってもよいかもしれません。宗教観を例にすると,日本人は一神教のような宗教より,伊勢神宮などが祀る天照大神(あまてらすおほみかみ),各地の天満宮が祀る天神(てんじん:菅原道真のこと),東京都台東区入谷真源寺のような日蓮宗系の寺院に祀られることがある鬼子母神(きしもじん),成田山新勝寺や高幡山明王院金剛寺(高幡不動)など真言宗系の寺院に祀られることがある不動明王(ふどうみやうわう),鶴岡八幡宮(鎌倉)や石清水八幡宮(京都)など八幡宮で祀られる八幡神(やはたのかみ),東京の浅草寺や滋賀県の石山寺に祀られる観音菩薩(くわんおんぼさつ),東京都豊島区巣鴨にある高岩寺(とげぬき地蔵)や奈良市にある帯解寺などに祀られている地蔵菩薩,各地の稲荷神社で祀られるキツネ信仰などなど,日本人の多くは,それぞれお得意のご利益にあずかろうと,せっせとお参りをします。
さらに札所めぐりや七福神めぐりなどという神社仏閣をハシゴしてめぐるコースも各地にたくさんあります。そのような行動をとる日本人の中には,クリスマスには教会のミサに参加する人もいたりします。
敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒の方々から見ると「日本人の宗教観はどうしょうもない(すべない)」と見えるかもしれませんね。
<なぜ日本人は何でも受け入れてしまうのか?>
さて,日本の文化が多様性を持ち,何でも受け入れてしまうように見えるのは,日本が島国でかつ山で囲まれた地方が多く,自分たちだけの地域の特性に合った文化,風習での生活を比較的長い年月続けられ,それらが各地でしっかりと定着できる期間が日本にはあったからだと私は思います。
ところが,ある時突然にどうしても他の地方の文化や外国の文化が急激に入ってこざるを得ない時が訪れます(古墳時代や奈良時代,室町時代,戦国時代,明治時代,第二次世界大戦後など)。そんなとき,日本人は多少の摩擦や葛藤の発生を我慢して,異国の文化をそれまでの文化とうまく融合させる努力を惜しまず行う。その結果,より日本文化の多様性が進んむようになったのではないかと私は考えるのです。
<万葉時代は外国文化が洪水のように入ってきた?>
外国の文化などが急激に入ってきた最初の時代が古墳時代・奈良時代で,中国大陸や朝鮮半島から仏教や儒教,大陸の文化,風習,技能,そして律令制度や国の管理制度が導入され,それまでの日本という国に対して大きな変革が行われた時代だと私は思います。万葉集の和歌はそのような時代背景の中で生まれたのです。変革のデメリットさえも多く詠まれています。
私は,観光客に万葉集を読めとか理解しろといっているわけではありません。そんなことは,短い時間しかない観光客には受け入れられないでしょう。ただ,万葉集に出てくるイベントを再現し,それに参加して,体験してもらうようなツアーなら可能でしょう。
<万葉集に出てくる行事の体験ツアー>
たとえば,万葉集に詠まれた七夕行事を追体験する(参加者の男女が七夕の衣装を着て,川の対岸で手を振り,男性が舟で渡り,男女が手をつないで旅館へ直行),全国各地で万葉集に出てくる「宴(うたげ)」の再現に参加,「行幸(みゆき)」の再現に参加,万葉時代の食べられていたヘルシーな料理を再現し食べる,当時の機織,裁縫,陶芸を再現し実際に体験する,当時の衣装,装飾品,携帯品を再現,貸出し記念撮影する,万葉集に出くる花の名所を整理し,季節ごとのツアー客に紹介するなどが考えられます。
この中には,地方の高齢者でも対応できる(観光客を迎えたり,案内したりできる)ものもあると思います。安定した観光立国ニッポンにするには,世界に類を見ない日本の文化を日本人自身がより知ること,古い日本の情報を安易に否定しないこと,日常生活の中にあるそういったものを大切にすることが重要だと私は思うのですが,どうでしょうか。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ともし」に続く。
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