今回は万葉集に出くる形容詞「あやし」をみていきます。現代用語に対応させると「怪しい」となります。「怪しい話」「怪しい関係」「怪しい雲行」「この会社は怪しい」といったネガティブな言葉として使われることが多いようです。
しかし,万葉集に出てくる「あやし」はネガティブでない意味も含むもっと広い意味だったようです。
あらたまの五年経れど我が恋の跡なき恋のやまなくあやし(11-2385)
<あらたまのいつとせふれど あがこひのあとなきこひの やまなくあやし>
<<年が新らたになり五年経ってしまったが,私の恋はいつまでも実を結ばない恋かも。それでも恋しい気持ちがいつまでも止むことがないのは不思議だ>>
この短歌は,柿本人麻呂歌集に出ていたものを万葉集に載せたという詠み人知らずの1首です。「あやし」は「不思議な」という意味で使われています。
次は「逢えないことが理解できない」という感情を表した詠み人知らずの短歌です。
時守の打ち鳴す鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくもあやし(11-2641)
<ときもりのうちなすつづみ よみみればときにはなりぬ あはなくもあやし>
<<時守が打ち鳴らす鼓を数えてみたら,逢う約束の時間になっている。それなのに逢えないのはどうしてなのだろう>>
平城京では,すでに時を知らせる太鼓が公衆の場では鳴らされていたことが,この短歌で読み取れます。時間を計り,正時になると太鼓を鳴らす人を時守と呼んでいたようです。
「○○で何時に待っているよ」と約束したが,その時間になっても相手は現れない。今だったら,携帯電話で「どうしたの?」と確認できますが,万葉時代では待ちぼうけになってしまうしかありません。
私は,まだ携帯電話がほとんど普及していない若いころ,女性から待ちぼうけをくらわされたことが何回もあります。本当にこの短歌の作者の気持ちは他人事とは思えないのですよ。
天の川 「たびとはん。待ちぼうけになるのは,相手がちっともOKしてへんのに,たびとはんだけが会う約束できたと勘違いしてやったんとちゃうか?」
最近「怪しい」サイトばかり見ていて,しばらくちょっかいを出さなかった天の川のやつ,余計なことをしゃべってきたな。相手が来なかったのは,急にどうしても行けない事情があったからに決まっているでしょ。でも,来なかった理由は結局聞けなかったなあ。
天の川 「なんや。そんなら,わいの言うたことはやっぱり図星やったんなんか」
あっ,あっ,「あやし」を詠んだ最後の短歌を,しょっ,しょっ,紹介します。
相思はずあるらむ君をあやしくも嘆きわたるか人の問ふまで(18-4075)
<あひおもはずあるらむきみを あやしくもなげきわたるか ひとのとふまで>
<<私のお慕いする気持ちなど少しも考えてくださらない貴殿に,人が変に思うほどに私は嘆き続けています。人が「どうしたのですか?」と尋ねるほどに>>
この短歌は,天平21(749)年3月15日,越中で大伴池主(おほとものいけぬし)が大伴家持に贈ったものです。池主が家持に対する親愛の情を家持から池主に対するそれよりも極端に強いと大袈裟に表現していると私は感じます。お互いが非常に仲が良いからこんな表現ができるのかもしれません。
これに対して家持は翌日に次のような短歌を返しています。
恋ふといふはえも名付けたり言ふすべのたづきもなきは我が身なりけり(18-4078)
<こふといふはえもなづけたり いふすべのたづきもなきは あがみなりけり>
<<「恋ふ」とはよくも名付けたものですね。お伝えする方法も手立ても無いのは,小生の方ですよ>>
池主が「相思ふ」という言葉を使ったので,それは男女の仲の「恋ふ」と同じ意味で,そんな言葉を使われたらこちらから返す言葉もないよと返事をしたのだと私は考えます。ただ,家持は池主に対してクレームを言っているのではなく,池主の大袈裟なアプローチに少し困惑しつつもやり取りを楽しんでいると考えた方がよさそうですね。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「かしこし」に続く。
0 件のコメント:
コメントを投稿