2013年5月25日土曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「いぶせし」

今回の「いぶせし」は,今までの「うるはし」「かぐはし」に比べてネガティブな心情を表す形容詞です。漢字では「鬱悒し」と書き,「気分がはれず,うっとうしい」という意味です。よく似た言葉に「いぶかし」がありますが,「気がかりな,疑わしい」という意味で,「いぶせし」の活用形ではありません。
「いぶせし」は現代ではあまり使われていませんが,万葉集では10首ほど出てきます。また,枕草子源氏物語でも使われているようです。
万葉集で「いぶせし」が詠まれいる和歌10首のうち,5首は大伴家持作とされています。その他の5首はすべて詠み人知らずの和歌です。その5首を万葉集に載せようと選んだのが家持であれば,家持は「いぶせし」という言葉を和歌に使うことを好んでいたのかもしれませんね。
それでは,まず家持の「いぶせし」を使った短歌から紹介します。

ひさかたの雨の降る日をただ独り山辺に居ればいぶせかりけり(8-769)
ひさかたのあめのふるひを ただひとりやまへにをれば いぶせかりけり
<<空から雨の降る日にただひとり山辺にいると気持ちが落ち込んでしまいます>>

この短歌は,家持が久邇京に単身赴任していた時(天平12年~同16年),紀女郎(きのいらつめ)に贈ったとされています。年上の紀女郎に,心の寂しさに対する癒しを求めた1首ですが,これに対する女郎の返歌は残っていません。雨が降ると新京の造営も中止になり,家にこもることも多くなり,心が「いぶせし」の状態になったのでしょうか。
次は,やはり家持の短歌で,なぜか家に居ることが多いとき,気分転換に外出した際に詠んだ1首です。

隠りのみ居ればいぶせみ慰むと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし(8-1479)
こもりのみをればいぶせみ なぐさむといでたちきけば きなくひぐらし
<<家に引きこもってばかりだと気分が晴れないので,気持ちを切り替えるため外に出てみて耳を澄ましてみると,ちょうど今やってきて鳴き始めた蜩がいた>>

が鳴き始めるのは,夏の終わりです(この時期の暦では秋の半ばです)。
家持は,夏バテをしていたのでしょうか,それとも人生が嫌になってしまっていたのでしょうか。夕暮れ,久々に外出してみるとちょうど蜩がやってきて鳴き始めたを聞き,心が少し落ち着いたのかもしれません。
さて,次は恋する相手を思う気持ちの切なさを「いぶせし」と詠ませている詠み人知らずの短歌1首です。

水鳥の鴨の棲む池の下樋なみいぶせき君を今日見つるかも(11-2720)
みづとりのかものすむいけの したびなみいぶせききみを けふみつるかも
<<鴨の棲む池に水抜き栓が無いように,あなた様への気持ちが溜まったままで気分が晴れないなあと想っていたとき,あなた様に今日お逢いできたのです>>

万葉時代の貴族たちの恋は今の恋愛と大きく異なり,逢うこと自体が簡単にはできない状況のもとで進めざるを得ないものだったのだろうと私は想像します。逢うことがままならないから恋しい人への想いはつのるばかりになり,それが「いぶせし」という苦しい気持ちにつながっているのかもしれません。
最後に紹介する詠み人知らず女性が詠んだ1首は,恋しい人に逢えずにいるそんな「いぶせし」な気持ちを必死に振り払おうとしている姿を私に想像させてくれます。

うたて異に心いぶせし事計りよくせ我が背子逢へる時だに(12-2949)
うたてけにこころいぶせし ことはかりよくせわがせこ あへるときだに
<<甚だしく心がすっきりしません。楽しい計画でもしっかり立てましょう。あなたと逢えるその時のことだけでも>>

心が動いた詞(ことば)シリーズ「あやし」に続く。

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