昨日は会社に出ていてアップてきませんでした。そろそろお正月気分も抜けてきましたので,本シリーズは今回で終わり,次回から「今もあるシリーズ」に戻ります。
さて,万葉集の新春の和歌を完全踏破すると初回に書きましたが,新春の和歌は万葉集でたくさんあります。残った和歌は来年に回しますが,残りの多くは「梅」や「鶯」を詠んだものです。新暦の正月はさすがに両方とも早いので,今回はパスしました。「梅は花屋さんでもう売っているぞ」とお怒りの方ごめんなさい。
今回は本シリーズの最後として3首の短歌を紹介します。
これは天平勝宝6年1月4日に大伴家持(当時36歳)邸で行われた正月の宴で左兵衛督(さひやうゑのかみ)大伴千室(ちむろ),民部少丞(みんぶのしやうじょう)大伴村上(むらかみ),左京少進(さきやうのせうしん),大伴池主(いけぬし)が詠んだ短歌です。
家持は越中国主を無事終え,少納言に昇進していました。政治は橘諸兄の力が陰り始め,藤原仲麻呂の台頭が著しい時期です。仲麻呂は大伴氏をはじめとする諸兄派を衰退させようと策略を駆使してきます。
そんな時期に,大伴氏の各部署(軍部,民部,京職)にいる中堅官僚たちが家持邸に集まった訳ですから,どんな和歌を詠むか興味が尽きません。私は単なる賀春の歌ではないとにらみます。
まず,千室の短歌からです。
霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く(20-4298)
<しものうへにあられたばしり いやましにあれはまゐこむ としのをながく>
<<霜の上に霰が飛び散るとき,これまで増して私は家持殿のところに参ります,何年も>>
軍部に属していることもあるかも知れませんが,ちょっと悲壮感が漂いますね。それだけ,大伴氏の置かれている厳しい状況が伝わってきます。そんなときこそ大納言であった旅人の息子のリーダ格家持を中心に団結しようという千室決意を私は感じます。
次は,村上の短歌です。
年月は新た新たに相見れど我が思ふ君は飽き足らぬかも(20-4299)
<としつきはあらたあらたに あひみれどあがもふきみは あきだらぬかも>
<<年月は1年1年新たになり,こうして新年に繰り返しご挨拶しても私が大切に思う家持殿にはずっとお会いしたい気持ちはなくなりません>>
村上も家持の下での忠臣を誓います。
そして,最後は越中で家持が国主として赴任した最初頃,判官である掾(じやう)として一緒にいた池主の登場です。
霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとぞ思ふ(20-4300)
<かすみたつはるのはじめを けふのごとみむとおもへば たのしとぞもふ>
<<霞立つ初春に今日のようにご挨拶できると思えば楽しく思います>>
恐らく池主は千室,村上よりも年上で,家持の立場と気持ちを一番理解している人物だったと私は思います。越中では家持と多くの和歌を詠んだ仲ですから。
「まあまあ抑えて抑えて」と冷静な対応で進もうという池主の気持ちだったのでしょう。ただ,大伴氏や家持を守るためには命を賭しても構わないという秘めたる気持ちは家持の盟友池主が一番だったと私は思います。
これに対して家持は主人としての返歌を万葉集に残していません。普通なら残すはずです。詠ったけれど残さなかったのか,詠わず自分の意思を示さなかったのか,謎は尽きません。
私は詠ったけれど残さなかった方に掛けます。その残されなかった短歌が,3年後に勃発する橘奈良麻呂(橘諸兄の息子)の乱でこの中の何人が命を落とすことを防ぐことができなかったことがあったかもしれないからです。
家持は,その乱以降は様々な宴(藤原仲麻呂が主導した宴?)の歌を万葉集に残します。
乱の翌年7月,今度は家持が因幡国主として京を離れ,翌年元旦に本シリーズの冒頭に示したいろいろな思い(祈り)を込めた初春の短歌(20-4516)を最後に和歌の記録を閉じるのです。
今もあるシリーズ「市(いち)」に続く。
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