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2014年6月9日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(2) 枯草はパチパチ燃え,焼きもちは膨らんでは萎む

<学会参加に秋田へ向かう>
今回の投稿は,今日から秋田市で開かれるソフトウェア関連の学会に参加するため移動中の秋田新幹線のきれいな最新型「こまち」の中からアップしています。飛行機での移動も考えたのですが,開催場所が秋田駅のすぐ近くで,自宅から大宮経由で新幹線で行く時間と飛行機を使った時間はほとんど変わらず,さらにパソコンが自由に使える新幹線にしました。
それにしても,盛岡から秋田までは車両は新幹線のままですが,ローカル線をガタンゴトンと,のどかに走る列車旅ですね。


さて,「焼く」の2回目は「焼く」対象を前回で示した「塩」「太刀」以外のものを万葉集で見ていくことにします。
まず,最初は現在でも「野焼き」という言葉あるように,「野を焼く」とを詠んだ長歌(一部)です。この長歌,笠金村作といわれ,志貴皇子が亡くなったことに関連して詠んだとされています。

立ち向ふ高円山に 春野焼く野火と見るまで 燃ゆる火を何かと問へば 玉鉾の道来る人の 泣く涙こさめに降れば 白栲の衣ひづちて 立ち留まり我れに語らく なにしかももとなとぶらふ~(2-230)
<~たちむかふたかまとやまに はるのやくのびとみるまで もゆるひをなにかととへば たまほこのみちくるひとの なくなみたこさめにふれば しろたへのころもひづちて たちとまりわれにかたらく なにしかももとなとぶらふ~>
<<~向こうに見える高円山に,春野を焼く野火かと見えるほどの火を,『何の火ですか』と尋ねると,道をやって来る人が泣く涙は雨のように流れ,衣も濡れて,立ち止まりわたしに言うのは,『どうしてそんなこと聞くのか?』~ >>

高円山の春野を焼く野火に見えたのは,実際は野火ではなく志貴皇子が亡くなった葬式の行列の松明(たいまつ)の火だったのです。隊列をなして松明の火が遠くから見ると野を焼く火が一列になって燃え進んでいく様子と似ていたと感じた作者だが,少し様子が違うので,「何の火か?」と尋ねた。そうしたら,来る人はみんな涙に濡れていて,「志貴皇子のお葬式の隊列の火であることを知らないのか?」という返事が返ってくるというストーリーの挽歌なのです。
もう1首「野を焼く」が出てくる詠み人知らずの短歌を紹介します。

冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我が心焼く(7-1336)
ふゆこもりはるのおほのを やくひとはやきたらねかも わがこころやく
<<春,広い野を焼く人は,野を焼くだけでは足りず,私の心まで焼いてしまう>>

春の野焼きを見ていた作者は,枯草がパチパチと音を立てて燃えるさまが,恋の炎で燃える自分の心と同じイメージができ上がったのかもしれません。
心が焼けるとは,恋の苦しさの喩えなのか,それとも相手に対する深い情念を表しているのか,焼きもちを焼いている(嫉妬心に燃えている)ことか,いや過去の恋の清算を表しているのか,この短歌は見た人のさまざまな恋の経験からいろいろな想像をさせてくれます。
結局「野焼き」は譬えであり,この短歌での焼く対象は「自分の心」ということになります。
では,次は「自分の心を焼く」を突き詰めた詠み人知らずの長歌と反歌を紹介します。

さし焼かむ小屋の醜屋に かき棄てむ破れ薦を敷きて 打ち折らむ醜の醜手を さし交へて寝らむ君ゆゑ あかねさす昼はしみらに ぬばたまの夜はすがらに この床のひしと鳴るまで 嘆きつるかも(13-3270)
さしやかむこやのしこやに かきうてむやれごもをしきて うちをらむしこのしこてを さしかへてぬらむきみゆゑ あかねさすひるはしみらに ぬばたまのよるはすがらに このとこのひしとなるまで なげきつるかも
<<焼いてしまいたいような醜い小屋,すぐ棄ててしまいたいような破れた薦を敷いた床で,へし折ってしまいたいような醜い手を絡めて他の女と寝ているあなた。それを想像すると,昼も夜も通して私が寝ている床はヒシヒシと音がするほどに嫉妬に暮れているのです>>

我が心焼くも我れなりはしきやし君に恋ふるも我が心から(13-3271)
わがこころやくもわれなり はしきやしきみにこふるも わがこころから
<<私の心を嫉妬心で焼くのも私の心がしていること。すべてそれほどあなたのことを恋している私の心のせいなのです>>

私は,この2首は女性の立場になって男性が詠んだか,女性でもあっても結構年配の女性が,若い男子に「複雑な女性の気持ちをちゃんと理解しなさい。女性は怖いのよ」と諭している和歌のようにも感じます。

天の川 「あ~あッ。ちょっと待って~な。たびとはん。」

おッ。雨が降り続いていて,ずっと寝床にいて,蒲団がカビ臭くなってきたのか,しばらくぶりに起きてきたな天の川君。

天の川 「いくら何でも,この2首は過激やあらへんか? それに,こんな喩えで若い男連中が女の気持ち分かるんか?」

私にはよく理解できるような気がするけどね。

天の川 「なるほどな。たびとはんは,よっぽと,怖い目に遭うてきはったんやな。」

余計なことを言うな! 天の川君。寝床に引っ込んでいなさい。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(3:まとめ)に続く。

2014年5月30日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(1) ブランド好みいつの世も

今回から動詞「焼く」について,万葉集を見ていくことにします。
今の季節,紫外線が結構強い時期ですので,肌を焼く場合,無理に焼きすぎないように気を付けたいものですね。そのほか,現代で「焼く」対象といえば,肉,魚介類,野菜,栗,芋,せんべい,小麦粉やトウモロコシを水で溶いたものなど食用のための焼く,有田焼,清水焼,九谷焼,信楽焼,瀬戸焼,益子焼などの陶芸品を焼くなどがすぐ出てくるかもしれません。また,「お節介を焼く」,「世話を焼く」,「手を焼く」などの慣用句も結構使われるのではないでしょうか。
さて,万葉集では「焼く」という動きの対象は結構多岐にわたっていますので,順番に見ていくことにしましょう。
万葉集で一番多く出てくる「焼く」対象は,「塩」を焼くという表現です。

須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも(17-3932)
すまひとのうみへつねさらず やくしほのからきこひをも あれはするかも
<<須磨の人がいつも海辺で焼いている塩が辛いように私は辛い恋をしています>>

この短歌は平群氏女郎(へぐりうぢのいらつめ)が越中赴任中の大伴家持宛に詠んだ12首のなかの1首です。この短歌から,塩は須磨産のものが有名であり,海水を濃くして最後は火で焼いて作ること,須磨産の塩は辛さが強いことなどが想像できます。
この短歌の最初の五七五(いわゆる上の句)は典型的な序詞です。結局言いたいことは下の句の「辛き恋をも我れはするかも」です。文学として見た場合,あまり高評価な短歌ではないかもしれません。でも,このような「序詞」を使った和歌が,当時多くの人に知られていたことや社会の動きを知るうえで貴重な情報源だと私は評価すべきと考えます。
他に塩を焼く場所として万葉集に出てくるのは,志賀の海(今の福岡市志賀島),縄の浦(今の兵庫県相生市),手結が浦(今の福井県敦賀市),松帆の浦(今の兵庫県淡路市),藤井の浦(今の兵庫県明石市)です。これらの塩の産地が当時有名だったとすると,瀬戸内海の波が穏やかで比較的少雨の場所に多くあり,遠く離れていても平城京に船で運びやすい場所(次の長歌の一部に出てくる敦賀は琵琶湖水運を利用)であるなどの傾向が私には伺えます。

~ 喘きつつ我が漕ぎ行けば ますらをの手結が浦に 海女娘子塩焼く煙 草枕旅にしあれば ひとりして見る験なみ ~(3-366)
<~ あへきつつわがこぎゆけば ますらをのたゆひがうらに あまをとめしほやくけぶり くさまくらたびにしあれば ひとりしてみるしるしなみ ~>
<<~ 喘ぎながら私が乗る船が漕ぎ進むと,手結が浦に若い海女乙女たちが塩を焼く煙が見える。ただ,旅の途中ひとりで見てもつまらない ~>>

この長歌は,笠金村(かさのかねむら)が越前を旅していて,一人旅の寂しさを詠んだもののようです。
さて,次に「焼く」対象として出てくるのが「太刀」です。万葉時代の「剣(つるぎ)」は戦争の武器としてポピュラーにものだったと考えられます。その切れ味や相手との勝負を有利にするために大型化,軽量化,そして強度を増すことが求められていたと考えられます。そのため,比較的加工しやすい軟鉄で刀の形に加工し,良い形ができた時点で,焼き入れをして,鋼鉄に変えることで,切れ味を増し,丈夫になります。
万葉集では「焼き太刀の」または「焼き太刀を」という表現が出てきます。これらは「利(と)」や「辺(へ)」に掛かる枕詞であるという説が一般的のようです。

焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ(18-4085)
やきたちをとなみのせきに あすよりはもりへやりそへ きみをとどめむ
<<砺波の関所に明日にはもっと多くの番兵を差し向けて,あなたがお帰りになられるのを引き留めましょう>>

この短歌は大伴家持が天平感宝元年5月5日に東大寺から越中に来た僧たちが京に戻るとき設けられた宴の席で僧たちに贈ったといわれる1首です。「焼き太刀を」は砺波(となみ)の「と」に掛かる枕詞であろうとして使用されている例です。
ただ,次の湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだとされる短歌にでてくる「焼き太刀の」は,枕詞としてではない使用例のようです。

焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり(6-989)
やきたちのかどうちはなち ますらをのほくとよみきに われゑひにけり
<<焼き太刀の鋭い刃で石を打って出た火を使い,屈強な男性がしっかり仕込んで醸造したという上等な酒に私は酔ってしまったなあ>>

私はこの短歌から万葉時代の貴族など比較的裕福な人たちに対し,酒の作成過程を提示して高級な製品(他製品との差別化製品)であることを示していたことが伺えます。
今でも「天然水仕立て」「合成添加物無添加」「○○産自然塩使用」「手搾り感覚果実入り缶チューハイ」などのキャッチコピーで宣伝し,高品質を訴求している製品が溢れていますね。
万葉時代には酒の醸造技術も進化し,それまでに比べて格段に高品質な酒が出回るようになったのは間違いないでしょう。ただ,鋭い焼き太刀から出る火花の火で火を起こし,その火で米を蒸すとうまい酒ができるという根拠は薄いと私は思いますので,このキャッチコピーは単なるイメージ戦略かもしれませんね。
次回は,別の「焼く」対象について見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(2)に続く。