ラベル 瀬戸内海 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 瀬戸内海 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年1月13日水曜日

今もあるシリーズ「鵜(う)」…「う飼い」は「渓流釣り」より古いスポーツ?

スペシャル投稿が終わり,今もあるシリーズ戻ります。
今回は鳥の「鵜(う)」を取りあげます。
今もあるといっても鵜はスズメのようにどこでも見られるような鳥ではありません。
鵜を見たければ,動物園などに行くか,各地で観光用に行われている「う飼い」を見に行けば,確実に鵜を見ることができそうです。
「う飼い」は日本では,岐阜県の長良川,山梨県の笛吹川,愛知県の木曽川,京都府の宇治川などで行われているとWikipediaに載っています。
う飼いで採る魚は「鮎(あゆ)」がほとんどで,舟の上から鵜を操る鵜匠(うしょう)が,鵜からとった鮎を舟に乗った観光客にふるまうとのことのようで,私も一度舟から見てみたいと思っています。
万葉集で,このようなう飼いにいちばん近いイメージの短歌(天平勝宝2(750)年3月8日越中で大伴家持が詠んだ長歌の反歌)があります。

年のはに鮎し走らば辟田川鵜八つ潜けて川瀬尋ねむ(19-4158)
としのはにあゆしはしらば さきたかはうやつかづけて かはせたづねむ
<<今年も鮎が飛び跳ねるように泳ぐ季節になったら,辟田川に鵜をたくさん潜らせるために川瀬に行くぞ>>

家持は,越中に来て4年目。もう越中での年中行事やいろいろな遊びやそれに適した季節を覚えていたのでしょうね。
う飼いができる季節を待ち遠しく感じている家持の気持ちがよくわかります(まだ,新暦で4月というのに)。なお,この反歌の前に出てくる長歌にも「鵜養伴(うかひとも)なへ 篝(かがり)さし」とあります。
まさに,今の観光用のう飼いのイメージに近いものがありますね。観光用にう飼いの行事を決めた後世の人もこの長歌短歌を参考にした可能性は大だと私は思います。
家持は各地で鵜匠を育成し,遊び(スポーツ)としての「う飼い」を流行らせた可能性も否定できません。鵜匠はプロで,家持たち金持ちはアマチュアで楽しむといったことかもしれません。
そんな状況を表した短歌が同じく越中で家持が天平20(748)年春に詠んだ次の1首です。

婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴の男は鵜川立ちけり(17-4023)
めひがはのはやきせごとに かがりさしやそとものをは うかはたちけり
<<婦負川の早瀬ごとに篝火をかざし,大勢の男性役人達がう飼いを楽しんでいる>>

家持が越中に赴任して2年目。これを見て,家持はスポーツとしての「う飼い」をやってみたいと思ったのでしょうか。
「う飼い」の和歌が万葉集に残されていることで,将来日本には環境保護により清流がさらに増え,鮎の放流が盛んになれば,渓流釣りよりハードなスポーツとしての「う飼い」も復活するかもしれませんね。
最後は,海に住む鵜を旅先(瀬戸内海の兵庫県付近を西航している船)で詠んだ山部赤人の短歌です。

玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ(6-943)
たまもかるからにのしまに しまみするうにしもあれや いへおもはずあらむ
<<見えてきた唐荷の島の上を旋回して飛んでいる鵜でさえ,自分の家のことを忘れることはないだろう>>

赤人が京からどんどん遠く離れて旅することでますます自分の家が恋しくなる気持ちを詠んだと考えられます。
鵜は自由に空が跳べ,ましてすぐ近くの美しい唐荷の島に巣があるのだろう。そんな鵜でさえ夜になったら巣に帰るのにという旅先の寂しさを痛感する思いなのでしょう。
今もあるシリーズ「筵(むしろ)」に続く。

2015年1月25日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(2) ♪岬~まわるの~ 小さ~な船が~

<転職先状況>
昨年12月からの職場で対応しているシステムの詳細構造がようやくラビリンス(迷宮)状態からいくつかの道筋が見え始めました。道筋がいくつか見え始めると,その他の隠れている道筋も見つけやすくなります。なぜなら,道筋を設計するとき,ある種の統一した思想で作っているハズですから,その考えを想定して探すことで,次々と道筋が見えてくることがあります。ここまで来ると,依然として簡単ではありませんが,今までに比べて対象システムを理解する仕事は少しずつ楽になっていきます。
世の中の仕組みもそうかもしれません。みなさん,理解できない・理不尽と思える出来事やさまざまな仕組がたくさんあると感じませんか? 私は感じます。
逆に「世の中の動きや出来事の原因なんて全て承知の助(すけ)よ」という人の数は本当に少ないのではないでしょうか。その人は未来を全て予測できる人に他ならないですからね。
<複雑な世の中の仕組み(設計図)をどう理解?>
仕組みが不明な世の中でどう生きていくか?
基本は私がソフトウェアの保守開発の仕事でやっているように,とにかく世の中を不断にリバースエンジニアリングすることしかないと私は最近感じます。「世の中の仕組みのリバースエンジニアリンク」とは,発生した事件,出来事,お知らせなどを丹念にフォローし,それが発生する原因や構造を想像していく。そして,その原因や構造があるところでは,同じような事件,出来事,お知らせがいつごろ発生するか予想をするみることです。
予想が外れたら(実際は,そのケースの方が多い?),原因や構造の理解に正しくない部分があった訳なので,それがどこか再度分析を試みるという繰り返しです。そうすることによって,少しずつ世の中の仕組みや問題な部分の本質が見えてきて,間違った行動が少なくなると私は信じています。
<本題>
さて,また前置きが長くなりましたが,万葉集を見ていきます。今回は,「隠る」の2回目として「島隠る」をテーマとします。
最初の1首は,山部赤人が今の兵庫県の瀬戸内海沖を船に乗って羈旅していたとき詠んだとされる短歌からです。

島隠り我が漕ぎ来れば羨しかも大和へ上るま熊野の船(6-944)
しまがくりわがこぎくれば ともしかもやまとへのぼる まくまののふね
<<島陰に隠れ,大波を避けて我が舟を漕いで来ると,ああ羨ましいことだ。あれは大和の方へ(真っ直線に)上って行く本物の熊野で造られた高級な船だよ>>

おそらく赤人が乗っている舟は比較的古びた小さな船で,陸から離れると危ないため,島の海岸線を伝って航行。そのため,島影に隠れたり現れたしながらの航海だったと思われます。今で言えば,お金がないのでくねくねと曲がったローカル線の各駅停車に乗らざるを得ないのだが,新幹線がピュンピュンと追い抜いて行くのを見て羨ましいなあと感じる気持ちに近いかもしれませんね。
「熊野の船」は当時最新鋭の船?
万葉時代は,外国からの優れた造船技術の導入と,漁業用は漁業用,輸送用は輸送用と造船の分業化・専門化が進み,経験豊かで高度な技術を持った造船技術者が専門の造船所で造船に専念する。そのことで,それまでに見たことがないような高品質で高性能な船が作られるようになった時代だと私は思います。各地には,立派な造船所がつくられ,それぞれがしのぎを削って良い船を作り,多少のシケや大波でもビクともしないような船がさっそうと航行して行ったのでしょう。造船所の地名からブランド船の一つとして「熊野の船」が知られていたのかもしれません。
次は,旅立ちの時,見送る女性の問いかけに答えた詠み人知らずの短歌です。

八十楫懸け島隠りなば我妹子が留まれと振らむ袖見えじかも(12-3212)
やそかかけしまがくりなば わぎもこがとまれとふらむ そでみえじかも
<<多くの櫂を舟に付けて漕ぎ出しても,島に隱れて行ったら,私の愛しい人が止れと袖を振っても,見えなくなるでしょう(この別れは致し方ないのです)>>

この短歌の作者に最初に問いかけたのは,次の短歌です。

玉の緒の現し心や八十楫懸け漕ぎ出む船に後れて居らむ(12-3211)
たまのをのうつしこころや やそかかけこぎでむふねに おくれてをらむ
<<正気でいられませんよ。多くの櫂を付けた船であなたは行ってしまわれ,残された私は..>>

この短歌は,男性が出発する日まで,港近くの旅籠で過ごした遊女が別れを惜しんで詠んだものではないかと私は思います。このくらい大袈裟に詠うことで,この間あなた様との接したことは忘れられないことでしたと伝えたかったと私は思います。
さて,最後は遣新羅使が瀬戸内海を航路で西に向かうとき詠んだとされる短歌です。

海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも(15-3613)
うなはらをやそしまがくり きぬれどもならのみやこは わすれかねつも
<<海原をたくさんの美しい島々を縫って来たのだが,奈良の都のことはどうしても忘れられない>>

この短歌の「島隠り」は,島を縫うように進んできたことを表すと私は思います。遣新羅使として,西に向かう航路において,京(みやこ)を出発してかなりの日数が経ち,ホームシックになっている状況が私には素直に伝わってきます。
次回は「山」に関する「隠る」を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(3)に続く。