「音(おと,ね)」の5回目は人が「泣く音(声)」について万葉集を見ていきます。
韓国の人が,家族が事故や災害で亡くなると,たいへんな大声で泣く姿が報道されることがあります。
おそらく,韓国ではその声の大きさが悲しみの大きさと比例していると感じられ,悲しみを表現する代表的なシーンとなるのでしょう。
ところが,日本では「悲しみを堪え,耐えている姿」が悲しみの大きさを表すようです。
本当は大声で泣きたいのだけれど,必死に堪えている・常に自制することを美徳とする日本人にはそれが深い悲しみを他者が感じるシーンと映るのでしょう。
このように,慟哭の感情表現の仕方は国(たとえ隣国といえども)の文化や美徳とする考え方の違いで結構異なることがあります。
これを理解しない人が見ると「なんて日本人は冷たい人種なんだろう」「韓国人は意図して大袈裟にやっているだけだろう」というように,間違ったとらえ方をしてしまうことがあります。
自分たちの美徳や感情表現がどの国でも通用すると思い込むことは,相手から理解されない価値観の押し付けになってしまうことにお互いが注意していく必要あると私は思います。
さて,万葉集では「音のみし泣く」という表現が出てきます。意味は「声をあげて泣くばかり」となりそうです。
例として,中臣宅守(なかとみのやかもり)が越前に配流のとき狭野茅上娘子(さちのちがみのをとめ)に贈った短歌1首と逆に娘子から宅守に贈った短歌2首を紹介します。
あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに音のみし泣かゆ(15-3732)
<あかねさすひるはものもひ ぬばたまのよるはすがらに ねのみしなかゆ>
<<昼はただぼ~思い悩み,そして夜はずっと声をあげて泣いてばかりになりそうだ>>
このころは君を思ふとすべもなき恋のみしつつ音のみしぞ泣く(15-3768)
<このころはきみをおもふと すべもなきこひのみしつつ ねのみしぞなく>
<<この頃は,あなたを思うとどうしてよいかも分からず,恋しい思いが募り,ただ声をあげて泣いてばかりなのです>>
昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く(15-3777)
<きのふけふきみにあはずて するすべのたどきをしらに ねのみしぞなく>
<<昨日も今日も,あなたに逢えないので,どうすることもできず,声を上げて泣いてばかりなのです>>
最初の宅守の贈歌(夜泣いている)に対して,娘子は昼も夜も,昨日も今日も声をあげて泣いていることを返します。
枕詞を2つも使って詠んだ宅守(線が弱そう)に対して,強い言葉をたくさん使って詠んだ(線の強そうな)娘子という構図が見えてきそうですね。
最後は,別の声を出してなく表現の言葉を使った詠み人知らず(女性)の短歌です。
思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ(11-2604)
<おもひいでてねにはなくとも いちしろくひとのしるべく なげかすなゆめ>
<<思い出して声に出して泣いたとしても,はっきりと人に知られてしまうように嘆いたりしないわ>>
恋人の彼と離別したのでしょうか,それとも果敢ない恋と悟ったのでしょうか。
作者が泣くことで,気持ちの整理をつけようとするが,忘れられないのでしょう。下の句の内容は,まさに気持ちの整理ができなさそうだからでしょうか。
冒頭で示した日本人が泣くときに耐える,堪える美学は,万葉集の時代からあったのかもしれませんね。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(6:まとめ)」に続く。
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