今回で「引く」の最終回となります。「引く」対象として,今まで取り上げてこなかった万葉集の和歌を紹介します。
まず,大伴家持が坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)に贈った重い岩を引くことを例とした相聞歌です。
我が恋は千引の岩を七ばかり首に懸けむも神のまにまに(4-743)
<あがこひはちびきのいはを ななばかりくびにかけむも かみのまにまに>
<<私の恋は千人で引くくらい重い岩を七つも首に下げたほど苦しいものだけど,このような試練も神の意志でしょうか>>
この短歌は家持が大嬢を正妻とする相手と認識して贈った多くの相聞歌の1首と私は考えます。
ただ,なかなか靡いてくれない大嬢に対して,苦しい胸を内を大袈裟な譬えを使って表現しています。靡かないのは大嬢がマリッジブルーになっていたのか,当時の風習として正妻にする前には男性側が「好きです」「愛してます」「お願い妻になってください」という和歌をたくさん贈らないといけないという男性側にとって重い風習があったためでしょうか。
さて,次は「引板」を譬えに詠んだ短歌です。
衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板我が延へまもれる苦し(8-1634)
<ころもでにみしぶつくまで うゑしたをひきたわがはへ まもれるくるし>
<<衣の袖に泥で色が変わるまで丹精込めて植えた田を,引板(鳴子)を私に張り巡らせて守もろうとするのはつらいですね>>
この短歌,ある人が尼に贈ったと題詞にあります。いろいろ解釈ができるのでしょうが,ここに出てくる「田」というのは尼の娘さんだという説が一般的なようです。
一生懸命育てた娘に私(作者の男性)が近づかないように守っておられるのは気になりすという歌を,母親の尼に贈ったのでしょう。結局「娘さんを僕にくれませんか?」という意味に解釈することもできるかもしれません。
さて,引板は鳴子の意味だとすると,男が近づくと警報が鳴るような仕組みとは,いったいどんなものだったのか。私がすぐ思いつくのは,母(尼)が娘に対する手紙を全部先に見てチェックし,娘には見せず代って「お断りの手紙」を書くことかもしれませんね。美貌の噂が高い娘であれば,男から手紙も多くくるでしょうし,音が出る板をたくさんつけた重い鳴子を引っ張って張り巡らせるのと同じように,それは母にとって大変だったのでしょう。
最後は「都引く」を見ます。「引く」対象は「都」ですから,これ以上重いものは考えにくいですね。難波宮を造営した藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が自慢げに詠んだ短歌です。
昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり(3-312)
<むかしこそなにはゐなかといはれけめ いまはみやこひきみやこびにけり>
<<昔は「難波田舎」と言われたようだが,今は都を引いてきた(遷してきた)ように都らしくなったものだ>>
神亀三年(726)十月に聖武(しやうむ)天皇の命(知造難波宮事)により宇合は難波宮を造営を開始し,その完成を見て聖武天皇は天平15(744)年に平城京から遷都したのです。しかし,18年もかけて造営した難波宮も翌年の1月には都ではなくなってしまったようです。
聖武天皇はこのような遷都先の造営といった大規模な公共投資(その他に奈良の大仏建立や全国各地に国分寺・国分尼寺の建立もその一つ)を強力に引っ張る(推進する)ことによって,当時財政は膨大な赤字になったけれど,後に仏教芸術や建物を中心とする「天平文化」と呼ばれるものを残すことができたのだろうと私は思います。
今の奈良市は,そのおかげもあってか,世界文化遺産にも登録され,多くの観光収入を得ることができているわけです。
私も何度か奈良公園に行って,聖武天皇がした支出額に対する(1300年近く経っていますので)利息の何兆分の一かもしれませんが「鹿せんべい」を公園の売店で買って,シカに食べさせてあげたことがあります。
天の川 「たびとはんな。奈良に行ったら聖武さんみたいに,もっと豪勢に,パァッとお金を使わんとアカンがな。」
例が悪かったせいか,天の川君に突っ込まれてしまいました。
さて,奈良に行って感じることは,中途半端な公共投資は無駄の温床になりやすいのですが,同じやるなら歴史に長く残るようなチャレンジゃブルな公共投資はありだと思いますね。
<国家的大規模プロジェクト推進の原動力>
現代における公共投資は,土木工事や建築物だけではありません。素晴らしいディジタルコンテンツ(コンピュータ上のアートや有益な情報)やシステムを残すことも候補としてあるのだろうと私は思います。
ところで,大きな仕事をこなすチーム(プロジェクト)を引っ張るリーダは大変だというのが私の仕事上の経験(小規模プロジェクトばかりの経験ですが)からの感想です。一生懸命目標に向かって工程ごとの成果を出すようチームのメンバーに指示を出すのだけれども,思うようにチーム内のメンバーが動いてくれないことも少なくないのです。
奈良時代に(完了しなかったものも多かったと思いますが)国家的な難しい大プロジェクトをいくつも実施できた力は何処から出てきたのでしょうか?
万葉集には,前代未聞の大プロジェクトによって影響を間接的にせよ受けた側(プロジェクト実行側ではなく)の和歌のほうが多く含まれているのかもしれません。また,そのような影響を受けて嘆き悲しんだり,自分を慰めたりしている和歌のほうが現代でも多くの人たちにとって,文学的共感をえられる可能性が高いようにも感じます。
しかし,当時大きな変化を伴う国家的プロジェクトを実施した(引き起こした)ポテンシャル(潜在的な力)は,やはり東の果ての小さな島国をさまざまな面で大陸に負けない強い国家にしたいという強い意思が当時の為政者やそのブレーンにあったのだろうと思います。
その強い国家のイメージが軍事的なものではなく,産業,技術,芸術などの非軍事分野の高度化に向けられたのは,当時の仏教思想による影響が非常に大きかったのではないでしょうか。
これで4回に渡った「引く」はこれで終わりとし,次からは「踏む」について万葉集を見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(1)に続く。
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