<土踏まずの役割>
人間は常時直立二足歩行する数少ない動物らしいです(鳥類やカンガルーは二足歩行ではあるが直立二足歩行でない)。その結果,人間の足の裏は立つとき,歩くとき,走るときに分けて,十分機能するような構造になっているようです。
たとえば,足の裏にある「土踏まず」は,石がゴロゴロしているような山道や悪路を素早く移動するとき,足や膝への衝撃を緩和するようために備わっているという見方があるようです。悪路を裸足で歩いたり,走ったりすることがほとんどなくなった現代では,「土踏まず」の必要性が減り,平均的に「土踏まず」は退化傾向(偏平足の人が増加傾向)となり,その結果,逆にちょっとした坂や階段の昇り降り(上り下り)で膝への負担が増すようになってきているのかもしれません。
<本題>
さて,万葉時代はどんな場所を踏んで歩いていたのでしょうか。当然,今のようなクッション性の高い靴はありませんでしたから,踏んだ時の感触や感じ方の変化は今より大きいものがあったと想像できそうです。
万葉集で「踏む」を見ていきましょう。屋外での移動で踏むものとして,まず「道」が考えられます。
まず,有名な東歌(女性作)からです。
信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背(14-3399)
<しなぬぢはいまのはりみち かりばねにあしふましなむ くつはけわがせ>
<<信濃への道は完成直後の道だから,木の切り株で足を踏み抜かないよう沓を履いていってね,私のあなた>>
人がまだ踏み均(なら)していない道はやはり歩きにくい道だったのでしょうね。
今は,舗装技術が発達していますので,逆に新道のほうが快適に歩き易かったりしますが,万葉時代は逆だったのでしょう。ただ,今でも登山者が歩く登山道は人が踏み均した場所を選んで上り下りした方が楽だと聞きます。
次も歩行が厳しい道を詠んだ詠み人知らず(女性作)の短歌です。
直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ(13-3320)
<ただにゆかずこゆこせぢから いはせふみもとめぞわがこし こひてすべなみ>
<<真っ直ぐに行かずに、あえて巨勢道の石だらけの道を踏みしめ、苦労をいとわずにわたしは来ました。あなたを恋しくてたまらなくなったので>>
巨勢道は,今の橿原市から南に御所市,五條市,橋本市まで続く,当時山中の街道で,楽な道ではなかったようですね。道は整備されておらず,石だらけの道では,その石を踏むときの痛さに耐えながら進む必要があったのでしょうか。
この道を選んで行くということは,当時はあえて苦難を覚悟で,困難な道を進むことをイメージしていたのかもしれません。作者の恋は,さまざまな苦難との戦いの連続だったけれど,相手を想う気持ちで乗り越えてきたことを伝えたい,そんな情熱的な短歌だと私は感じます。
最後は,少し政治的なにおいのする短歌です。
橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘のもとで道を踏み歩く,その多く分かれた道にやってきて,どちらの道にいくか心の中で決めました。あの人に知られないままにして>>
この短歌は,天平11(730)年8月30日に橘諸兄邸で行われた宴席で出席者の当時,大宰府の次官である大宰大弐(だざいだいに)高橋安麻呂が古歌として紹介したと左注に記されています。さらに左注では「この古歌の作者は豊嶋采女(としまのうねめ)である」と書かれ,続いて「別の本には,この古歌の作者は三方沙弥(みかたのさみ)で,妻の苑臣(そののおみ)を恋いて詠んだ」と書かれています。また,「別の本が正しいなら,宴席でこの短歌を詠いあげたのが豊嶋采女であったのではないか」という趣旨が書かれています。
安麻呂が主人である橘諸兄にこの古歌を披露したは,「橘の木が立つ分かれ道で橘諸兄様の向かわれる方向の道に私も進む決意をしています」という忠誠心を示したものと解釈できることだと私は思います。
<どの道を選ぶか>
さて,人生において,多くの分かれ道に出会うことがあります。そして,どの道を行くかを決断をせざるを得ない時があります。行ってみなければ分からないことを行く前に決断しなければならない訳ですから,迷いもするし,後悔しないように決めたいというプレッシャーも強い状況であることは間違いありません。可能な限り情報を集め,相談できる人にはできるだけ多く相談し,そして最終的に自分の判断を信じて決めるしかないのかもしれません。
<選んだ道はまずは進むこと>
最大限の努力をして決めたのなら,たとえ最適な道でないことやまわり道だたことを後で気がついても後悔することなく,その気が付いたことを新たの情報として,以降の最適な道筋を決めていけばよいと私は思います。
一番やってはいけないことは,最適な道を選べたことで安心をしたり,努力を怠ったりすることだと思います。他人よりハンディを背負っている方が「負けるものか」という強い気持ちになり,他人よりアドバンテージを持っていると「まあ少しぐらいいいや」という弱い心境になってしまうのが人間の性(さが)ではないでしょうか。
繰り返すようですが,たとえ道の選択を間違ってハンディを背負っても,そのハンディ自体を強い気持ちを維持する糧とし,努力を惜しず未来に向かって進めば,後悔の念に打ち勝てる可能性が高くなると私は信じています。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2)に続く。
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