「引く」の2回目は,自分の体の一部や心を引くことについて,万葉集を見ていくことにしましょう。
最初は彼女が眉を引く(描く)姿が忘れられないという詠み人知らずの短歌です。
我妹子が笑まひ眉引き面影にかかりてもとな思ほゆるかも(12-2900)
<わぎもこがゑまひまよびき おもかげにかかりてもとな おもほゆるかも>
<<彼女が微笑みながら眉を引いていた。その面影は幻としてしきりに浮んできて気掛りに思われることだなあ>>
彼女がお化粧をしているところを見たのでしょうか。作者にとって非常に魅力的に感じたのかもしれません。それが頭によぎって,彼女のことばかり考えている自分が居ることに気づき,この短歌を詠んだのだろうと私は考えたくなります。
次は,自分黒髪を引き解くことを詠んだ女性作と思われる短歌です。
ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも(11-2610)
<ぬばたまのわがくろかみを ひきぬらしみだれてさらに こひわたるかも>
<<私の黒髪を引き解いても心乱れて,あなたをさらに恋い慕い続けています>>
結った黒髪を引き解くということは女性がメークを落とすような時間帯なのでしょうか。一日のやるべきことを終えて(奈良時代では女性は家で機織や家事が主な仕事),仕事をやるうえで邪魔になるため結っていた髪を引き解いたときは,1日の終わりでようやくリラックスできる時間だったのかもしれません。そのときでも,彼を恋い慕う気持ちで心が乱れてしまう,そんな心情を表現したものだと私は思いたい短歌です。
今回の最後の和歌は,心を引くを詠んだ東歌(女性作)を紹介します。
赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる背なか我がり来むと言ふ(14-3536)
<あかごまをうちてさをびき こころひきいかなるせなか わがりこむといふ>
<<赤駒を鞭打って緒を引き立てるように,私の心を引き立てるどのような殿方が私のところに来るというのでしょう(あなたしかいませんよ)>>
この東歌もなかなかの表現力をもった短歌だと私は思います。この女性は東国の野原で育ち,きっと馬にも乗れる活発な女性ではないかと私は想像します。そんな女性がこんな短歌を詠むということを知った京の男性はどう思ったでしょうか。親が家から出さず,気軽に逢うこともままならない京の女性とは違った,あこがれに似た強い魅力を感じたのかもしれません。
東歌を集めた大伴家持は東国の魅力を京人にアピールしたかったのではないかと,私は常々考えています。東国の物産の京での消費(引き)を増やし,東国が繁栄することで,当時の平城京を含む日本全体が豊かになると家持は考え,東歌を万葉集に入れたと仮説するのは論理が飛躍しすぎているのでしょうか。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(3)に続く。
2014年6月28日土曜日
2014年1月2日木曜日
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(2)」
昨日の元旦は,このブログを始めて1日の閲覧数の過去最高を達成しました。閲覧記事の多くが年末年始スペシャルの記事で,海外からの閲覧も増えていますが,日本国内からの閲覧数が通常に比べて10倍以上となっています。日本に住む方のお正月に対する思いが非常に強いことが改めて感じられました。
ほとんど文字だけの地味な本ブログですが,今年も頑張ろうという気がさらに湧いてきています。
さて,「馬を詠んだ和歌」の2回目をお送りします。万葉集では馬や駒を詠んだ和歌がたくさんあります。馬自体ではありませんが,馬が入っている地名や馬酔木といった植物の名前が出てくるものもあります。
万葉仮名(原文)では馬や駒の字が多くがそのまま使われ,音読み(バ,マ,メ,クなど)も多少ありますが,訓読み(うま,ま,こま)もしっかりでてきます。この点を考えると,馬(うま,ま),駒(こま)と訓読みの対応付けは当時かなり浸透していたと考えてもよいと私は思います。
今回は駒が出てくる万葉集の和歌について,いくつか見ていきます(東歌で駒が出てくるものは除きます)。
万葉集では毛の色のちがいによって,黒駒,赤駒,青駒の3種類の駒が出てきます。それぞれ1首ずつを紹介します。
赤駒の越ゆる馬柵の標結ひし妹が心は疑ひもなし(4-530)
<あかごまのこゆるうませの しめゆひしいもがこころは うたがひもなし>
<<赤毛の駒なら飛び越えるかもしれない柵だが,縄でしっかり結び固めておくように固い約束を結んだから,貴女の心に疑いはないよな>>
この短歌は聖武天皇(しやうむてんわう)が側室になる海上女王(うなかみのおほきみ)に送ったものです。女王は天智系の血筋(志貴皇子の娘)。この短歌の前半部分は周囲から二人の間にいろいろ邪魔が入る可能性があることの喩えではないかと私は想像してしまいます。
遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒(7-1271)
<とほくありてくもゐにみゆる いもがいへにはやくいたらむ あゆめくろこま>
<<遠くにある雲の向こうに見える妻の家に,早く着こう。歩を進め黒駒よ>>
この短歌は柿本人麻呂歌集から万葉集に転載されたものです。移動手段とスピード感は当時と違うかもしれませんが,現代の単身赴任の夫が早く家に帰り,妻の顔を見たい気持ちに通じるところがあるかもしれませんね。
3種の駒の最後は青駒を詠んだ柿本人麻呂自身が詠んだ短歌です。
青駒が足掻きを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける(2-136)
<あをこまがあがきをはやみ くもゐにぞいもがあたりを すぎてきにける >
<<青駒は駆けるのが速いので,妻が居る家が雲のかなたあたりなるところまで来てしまったなあ>>
青駒は毛が灰色をした馬のようで,駆け足が速かったのでしょうか。妻を残して遠くまで旅に出てしまったことへの寂しさを駒の足の速さで表しているように感じます。
いずれにしても,駒は人間が飼い,人間や荷物の運搬に供されている馬ということになりそうです。
そのため,飼っていた駒が飼い主に見捨てられるか,脱走した駒を,次の詠み人知らずの短歌のようにわざわざ「放れ駒」と当時読んでいたようです。
妹が髪上げ竹葉野の放れ駒荒びにけらし逢はなく思へば(11-2652)
<いもがかみあげたかはのの はなれごまあらびにけらし あはなくおもへば>
<<彼女の髪は竹葉野の放れ駒の毛のように荒れてしまったのか。逢わないことを考えれば>>
やはり人に可愛がられている駒は,当時でも毛並が良く,美しかったのだろうと私は思いたいですね。この短歌の作者の表現は傲慢のようにも見えますが,好きな人もおらず(人間嫌いになって)一人きりで閉じこもっていると外見だけでなく,心も磨かれなくなる(曇ってしまう)可能性が高くなる気が私にはします。もちろん,磨き方によっては逆に傷つく危険性もあります。
私は,ときどきは自分の欠点を適切に指摘してくれるような良い友達をもっと増やし,積極的に会って,話をして,自分を磨く,磨かれる1年にしたものです。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(3)」に続く。
ほとんど文字だけの地味な本ブログですが,今年も頑張ろうという気がさらに湧いてきています。
さて,「馬を詠んだ和歌」の2回目をお送りします。万葉集では馬や駒を詠んだ和歌がたくさんあります。馬自体ではありませんが,馬が入っている地名や馬酔木といった植物の名前が出てくるものもあります。
万葉仮名(原文)では馬や駒の字が多くがそのまま使われ,音読み(バ,マ,メ,クなど)も多少ありますが,訓読み(うま,ま,こま)もしっかりでてきます。この点を考えると,馬(うま,ま),駒(こま)と訓読みの対応付けは当時かなり浸透していたと考えてもよいと私は思います。
今回は駒が出てくる万葉集の和歌について,いくつか見ていきます(東歌で駒が出てくるものは除きます)。
万葉集では毛の色のちがいによって,黒駒,赤駒,青駒の3種類の駒が出てきます。それぞれ1首ずつを紹介します。
赤駒の越ゆる馬柵の標結ひし妹が心は疑ひもなし(4-530)
<あかごまのこゆるうませの しめゆひしいもがこころは うたがひもなし>
<<赤毛の駒なら飛び越えるかもしれない柵だが,縄でしっかり結び固めておくように固い約束を結んだから,貴女の心に疑いはないよな>>
この短歌は聖武天皇(しやうむてんわう)が側室になる海上女王(うなかみのおほきみ)に送ったものです。女王は天智系の血筋(志貴皇子の娘)。この短歌の前半部分は周囲から二人の間にいろいろ邪魔が入る可能性があることの喩えではないかと私は想像してしまいます。
遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒(7-1271)
<とほくありてくもゐにみゆる いもがいへにはやくいたらむ あゆめくろこま>
<<遠くにある雲の向こうに見える妻の家に,早く着こう。歩を進め黒駒よ>>
この短歌は柿本人麻呂歌集から万葉集に転載されたものです。移動手段とスピード感は当時と違うかもしれませんが,現代の単身赴任の夫が早く家に帰り,妻の顔を見たい気持ちに通じるところがあるかもしれませんね。
3種の駒の最後は青駒を詠んだ柿本人麻呂自身が詠んだ短歌です。
青駒が足掻きを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける(2-136)
<あをこまがあがきをはやみ くもゐにぞいもがあたりを すぎてきにける >
<<青駒は駆けるのが速いので,妻が居る家が雲のかなたあたりなるところまで来てしまったなあ>>
青駒は毛が灰色をした馬のようで,駆け足が速かったのでしょうか。妻を残して遠くまで旅に出てしまったことへの寂しさを駒の足の速さで表しているように感じます。
いずれにしても,駒は人間が飼い,人間や荷物の運搬に供されている馬ということになりそうです。
そのため,飼っていた駒が飼い主に見捨てられるか,脱走した駒を,次の詠み人知らずの短歌のようにわざわざ「放れ駒」と当時読んでいたようです。
妹が髪上げ竹葉野の放れ駒荒びにけらし逢はなく思へば(11-2652)
<いもがかみあげたかはのの はなれごまあらびにけらし あはなくおもへば>
<<彼女の髪は竹葉野の放れ駒の毛のように荒れてしまったのか。逢わないことを考えれば>>
やはり人に可愛がられている駒は,当時でも毛並が良く,美しかったのだろうと私は思いたいですね。この短歌の作者の表現は傲慢のようにも見えますが,好きな人もおらず(人間嫌いになって)一人きりで閉じこもっていると外見だけでなく,心も磨かれなくなる(曇ってしまう)可能性が高くなる気が私にはします。もちろん,磨き方によっては逆に傷つく危険性もあります。
私は,ときどきは自分の欠点を適切に指摘してくれるような良い友達をもっと増やし,積極的に会って,話をして,自分を磨く,磨かれる1年にしたものです。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(3)」に続く。
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