第二次世界大戦が終わって70年になろうとしています。
万葉集は,太平洋戦争中に発表された愛国百人一首で多くの短歌が採録されたり,大伴家持が詠んだとされる長歌の次の部分が,軍歌の歌詞として使われました。
~ 海行かば 水漬く屍(しかばね) 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと ~(18-4094)
このような事実から,万葉集は軍国主義的や国粋主義的な色彩の和歌が多いというイメージがあるのでは思っておられる人がいるとすれば,その人の見方は間違っていると私は申し上げたいのです。
<切り取り引用の典型>
なぜなら,軍歌の歌詞として引用されているこの長歌全体を見ると分るのですが,海へ行くのは誰か,山へ行くのは誰か,それは天皇なのです。
天皇が海に行くことがあっても,山に行くことがあっても,お供し,命を賭して,命を顧みず,お守りしますということを家持は詠んでいるのです(詠んだのは恐らく儀礼的な儀式のときでしょう)。
天皇のために,自らが海でも山でも出兵し,敵国をなぎ倒し,領土を拡大し,日本帝国確立のためには,命なんて惜しくありませんなどとはどこにも詠まれていません。
愛国百人一首に採録された万葉集の短歌も,国防や天皇のガード,国を讃えることを詠んだものがあっても,侵略的なものはありません。
万葉集を戦争に関係しそうな言葉(「いくさ」「敵」「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」「争」)で検索してみても,他国を侵略するとか,覇権を争うとか,敵国を殲滅するといった軍事力による領土拡大を勇ましく鼓舞するような和歌は出てきません。
精々,軍事的な意識の和歌があったしても,国や天皇を守るといった防衛の方向に向いてるのみです。
多くは,「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」といった兵器も,何かの例え話として和歌に出てきたり(例:次の長屋王の短歌),狩に使うことを想定して詠まれているようなもの(例:その次の宴で紹介された伝誦歌)が大半のようです。
焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり(6-989)
<やきたちのかどうちはなち ますらをのほくとよみきに われゑひにけり>
<<焼き鍛えた大刀のかどを打ち合わせるような勇士が祝うこの美酒に私はすっかり酔ってしまった>>
手束弓手に取り持ちて朝狩りに君は立たしぬ棚倉の野に(19-4257)
<たつかゆみてにとりもちて あさがりにきみはたたしぬ たなくらののに>
<<手束弓を手に持ち天皇は朝狩にお立ちになった棚倉の野に>>
万葉集の和歌の作者も,大伴家持を始め,戦争は望んでおらず,まして,外国を侵略し,日本が世界を牛耳るようなことを夢見ている人は私には見当たりません。
国の中が平和であってほしいと望み,国内の争い(「○○の変」「○○の乱」など)も悲しい出来事と思う人が万葉集の和歌を詠んだのだと,万葉集と接して私は心から感じるのです。
たとえば,万葉集の「防人の歌」に,「軍隊に参加して良かった。兵士はカッコいい。天皇のために念願の兵隊さんになった。」などとPRしているようなものは一つもありません(次は防人の歌の例)。
我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
<わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも>
<<私の旅は旅と割り切ることもできるが,家にいて子どもを抱えて痩せていくだろう妻のことを想うと切ない>>
「防人の歌」と同じ東国の人が詠んでいる「東歌」と比較してみると「東歌」の方がはるかに穏やかで幸せに満ちたものであり,平城京の人が東国に行ってみて,地元の人と話してみたいと思うくらい明るい和歌が多いと感じます(次は東歌の例)。
うちひさつ宮能瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も(14-3505)
<うちひさつみやのせがはの かほばなのこひてかぬらむ きぞもこよひも>
<<宮能瀬川のかほ花のように(可愛い妻の顔を見て)昨夜も今夜も恋しいと思いながら寝るでしょう>>
中大兄皇子(後の天智天皇)が朝鮮半島の白村江の戦い(天智2<663>年8月)に大敗し,甚大な打撃を受けたことに対する反省(島国日本が当時の大国唐と戦うことのむなしさ)が意識のベースにあるのかも知れないと私は思います。663>
そして,天武天皇以降の朝廷は,さまざまな葛藤(内政的な混乱)を乗り越えて,白村江の戦いの敵だった,中国の唐や朝鮮半島の新羅に遣唐使,遣新羅使を送り,関係改善に努めたのです。
もちろん各国と関係が改善されるまでは,中国や調整半島の別の国から攻められると大変なことになるため,防衛部隊(例:防人)を配したと考えられます。
奈良時代にかけて,その関係改善への方針転換の努力が功を奏し,良い面,悪い面はあるにせよ,中国や朝鮮半島の優れた思想・文化・芸術・技術などが日本に取り入れられ,日本の風土や国民性の中で根付き,独自の進化を遂げることができたではないかと私は思います。
あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(3-328)
<あをによしならのみやこは さくはなのにほふがごとく いまさかりなり>
<<奈良の都は満開の花が素晴らしいように今大変繁栄していますよ>>
さて,第二次世界大戦後,日本が復興を遂げることができたのも,外国との関係改善と日本人が持つ戦争で自らが失ったものを回復させようという若い人たちの強い心があったからではないでしょうか。
<戦争相手の日米は協力して敗戦国日本の復興を支援した>
1960年日米安保闘争があり,多くの若者がデモ活動などに参加し,そのデモは,デモ隊に加わった女子学生の一人が死亡したほど激しいものでした。
その一方で,若者の多くは欧米の楽曲(ジャズ,ロック,フォーク,ポップスなど)に酔いしれ,子供たちはウォルトディズニーが提供する漫画やドキュメンタリー(特に宇宙ものが人気)の日本語吹き替え版を熱心に見ていたのです(私もその一人ですが)。
戦争と関係ないもの,平和的なもの,品質が優れたものは,たとえ太平洋戦争で徹底的に日本人を殺した相手の国のものであっても日本の人々は受け入れたのです。
そこには国家同士の憎しみという意識は薄れ,良いものは取り入れ,参考にし,自分たちの復興のために利用できるものはしていくという人々のしたたかさがあったと私は分析します。
しかし,それができたのも,戦後の日本がさまざまな国から侵略される脅威が少なかったからできた訳で,日本国だけの力(何の努力もせず,平和という言葉に酔いしれただけ)でできた訳では無いでしょう。
外国の支援や外国の勢力バランスの影響なども含む様々な要素が影響しあって,(敗戦直後に比べて)結果として今の日本の驚異的な繁栄がもたらされたのだといえるのだと私は思います。
今,そのような総合的な見方をせず,日本の自衛権について,反対/賛成,正しい/正しくない,あり得る/絶対ない,違憲/合憲,戦争法案/平和維持法案,というような二元的な(○×のみの)議論がされていることに,私は大きな違和感を感じてしまいます。
さまざまな考え方のメリットやデメリットを総合的に議論をしない二元的な議論がインターネット上で広まり,冷静さを失った結論ありきの行動による社会的混乱が起こらないか正直私は戦後70年を迎える夏に危惧せざるを得ません。
2015 盛夏スペシャル(5:まとめ)に続く。
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