「折る」の2回目は,今の季節ではありませんが,「黄葉を折る」を見ていきます。
万葉集で黄葉がたくさん詠まれているのは,このブログでもたびたび取り上げています。
さて,なぜ「紅葉」と書かないのか?と疑問に感じる人もいらっしゃるかと思います。元の万葉仮名が「黄葉」となっていて,これを「もみち」と発音すると後世の万葉学者先生が判断したということです。私は,今のイロハモミジのような真っ赤に色づく木は少なく,ケヤキ(当時は槻:つき)などの黄色系に色づく落葉樹が多かったためかも知れないと考えています。
では,実際に「折る」を詠んだ和歌をみていきましょう。
最初は,高橋虫麻呂歌集からもってきたという筑波山に登って詠んだ長歌の反歌です。
筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな(9-1758)
<つくはねのすそみのたゐに あきたかるいもがりやらむ もみちたをらな>
<<筑波山の麓の田で稲を刈っているあの子に贈るためにモミジを手で折ってみよう>>
今は自宅で植えている自分所有のモミジ以外,勝手に折って採ったりしてはいけません。当時は人口も少なく,そんなことは少しくらいなら許されていたとお考えください。
<筑波山は万葉時代から黄葉の名所として知られていた?>
秋に筑波山に登ったら,黄葉が素晴らしく,そして眼下を見れば,黄色く染まった稲穂の田で,稲を刈っている若い娘がいるのが見える。良い光景描写ですね。奈良の都人はこの和歌を聞いて,是非筑波山に行ってみたいと思ったかもしれません。当時から筑波山は黄葉の名所との評判が高かったのでしょう。
どちらが先かは定かではありませんが,大伴旅人も夏の暑い時期に筑波山に登った様子がこの歌の何首か前に出てきます。
<本題>
さて,万葉集巻8に,天平10(738)年10月17日に当時将来が嘱望されていた橘奈良麻呂(当時18歳位か,右大臣橘諸兄の子)宅で催された宴の席(※)で参加者が「黄葉を手折る」を詠んだ短歌が何首が出てきます。
※この宴席には,大伴家持(当時20歳),大伴池主のほか家持の弟の大伴書持(ふみもち)も出席して短歌を詠んでいます。
次は,その中で,宴の主人橘奈良麻呂が最初に詠んだ2首です。
手折らずて散りなば惜しと我が思ひし秋の黄葉をかざしつるかも(8-1581)
<たをらずてちりなばをしと わがおもひしあきのもみちを かざしつるかも>
<<折り取ってしまわずに散ってしまうと惜しいと私が思う秋の黄葉をこの手で折って,皆様にお見せしましょう>>
めづらしき人に見せむと黄葉を手折りぞ我が来し雨の降らくに(8-1582)
<めづらしきひとにみせむと もみちばをたをりぞわがこし あめのふらくに>
<<今日来てくださった素晴らしい皆様にお見せしようと葉を手折ってきましたよ。雨が降るのもいとわずに>>
これは,主人が来訪者に対して,歓迎の意思を表明したものと受け取っても良いでしょう。綺麗な黄葉を手で折って(剪定ばさみなどは当時なかったと思います),花瓶に生けるか,大きなお皿に飾って,出迎えたのかも知れませんね。
雨に濡れてさぞかし綺麗だったのでしょう。来客は順番にお礼の短歌を返します。
その中で,次は秦許遍麻呂(はたのこへまろ)という人物(不詳)が返した短歌です。
露霜にあへる黄葉を手折り来て妹とかざしつ後は散るとも(8-1589)
<つゆしもにあへるもみちを たをりきていもはかざしつ のちはちるとも>
<<露や霜で傷んでしまう黄葉をやさしい貴殿の手で先に折って,貴殿の奥方にお贈りになったら,後は散っても本望でしょう>>
ここで,妹は誰のことか判断に迷いますが,奈良麻呂の奥方になる予定の(恐らく同席していたうら若い)女性として訳してみました。
前年,大納言,参議に名を連ねていた藤原4兄弟(武智麻呂,房前,宇合,麻呂)が相次いで病死し,ますます父橘諸兄の力が増していた時です。
家持,池主,書持は将来,橘諸兄の後を継いで,平城京の中心人物になるとの見込みを持って,奈良麻呂邸でのこの宴に参加できたことを非常に喜んでいたのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ)に続く。
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