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2015年7月12日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(3:まとめ) 都会のみなさん,「浮子」と「沈子」の読み方を知っていますか?

「浮く」の最終回は,「船」でもなく「天の川」でもない「浮く」について,万葉集を見ていきます。
最初は,杯(さかづき)に入れた酒に梅の花を浮かせて飲む行為が宴で行われていたことを示す短歌です。作者は,天平2(730)年1月13日,大宰府で大伴旅人が開催した梅見の宴の出席者が詠んだとされるものです。

春柳かづらに折りし梅の花誰れか浮かべし酒坏の上に(5-840)
<はるやなぎかづらにをりし うめのはなたれかうかべし さかづきのへに>
<<春柳を髪飾り用に折っているうちに,どなたかが私の盃に梅の花を浮かべたようですね>>

まあ,この梅見の宴はかなり盛り上がっていたのでしょう。作者は,頭に柳の枝を差して舞でも踊ろうとしたのでしょうか。
その間に,作者の盃になみなみとお酒が入れられ,たっぷり梅の花を浮かべて,「さあ梅の花の香りがする酒をどうぞ」と飲み干すように勧められたのかもしれません。
楽しそうな雰囲気が宴会好きな私には伝わってきますね。
さて,次は万葉時代の漁法がうかがえる詠み人知らずの短歌です。

住吉の津守網引のうけの緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは(11-2646)
<すみのえのつもりあびきのうけのをの うかれかゆかむこひつつあらずは>
<<住吉港の津守が引く網の浮き紐のように,ただ浮くままにまかせよう,恋いしいと思い続けないで>>

前半はいわゆる序詞と呼ばれている部分です。
この短歌の作者が言いたいことは前半ではなく,後半にある苦しい恋を如何に自分自身でコントロールしようとしているのだが,なかなかうまく行かないという思いなのでしょうか。
万葉集の和歌を文学として見るようないわゆる有名な短歌評論家さんは,恐らくこの短歌は論評に値しない,その他雑多な短歌でしかないのかもしれません。
しかし,万葉集を当時の社会や経済の状況を表す貴重な歴史情報資産と見た場合,この短歌は非常に価値が高いと私は思います。
この短歌から,当時網を使った漁法がすでに確立されており,巻網漁(まきあみりょう),刺網漁(さしあみりょう)で使う「浮子(あば)」や「沈子(いわ)」のようなものが網に付けられていたことが想像できます。
今も巻網漁,刺網漁は実際に行われており,この短歌はこれらがまさに1300年以上の歴史を持つ漁法である裏付け資料の一つとなります。
私は何度もこのブログで書いていますが,序詞や枕詞を「単なるツカミ」と見るのではなく,当時の習慣や社会経済学的な背景をしっかり歴史的に分析し,万葉集の和歌を鑑賞すべきだというのが私の考えです。
最後に紹介するのは,観察眼が鋭い詠み人知らずの短歌です。

潮満てば水泡に浮かぶ真砂にも我はなりてしか恋ひは死なずて(11-2734)
<しほみてばみなわにうかぶまなごにも わはなりてしかこひはしなずて>
<<潮が満ちてくるとみなわ(水泡)に浮かぶ細かい砂のように私はなってしまったのか。恋いしさに死ぬような思いをすることだなあ>>

私が小学生のころ,両親が毎年夏になると1~2回は福井県の若狭湾などに海水浴に連れていってくれたことを以前このブログでも書きました。
そのとき,確かに潮が満ちて来るとき(波が穏やかな入り江の場合),今まで乾いた砂地に初めて海水が流れてくる先頭は少し泡が立って,乾いた海藻のかけらや小さな砂が浮いていたことを思い出しました。
この短歌は,そんな情景を詠んだと思われますが,海岸にあまり行ったことの無い京人に理解できたのか疑問に思います。
<万葉集の編者はこの短歌を万葉集に入れることで何を残したかったのか?>
少なくとも,この短歌を万葉集に残そうとした編者は,作者のこの観察眼(沈むはずの砂が死んだ人間のように浮いている状況をイメージした)を評価したのだと私は思います。
普通砂は水に沈むのに,海のある状態では砂が海水に浮くことがあると聞いた人たちは,それを見にその海岸に行ってみたいと思わないでしょうか。
今風でいえば「知的好奇心」を持った人たちの心をくすぐる効果があります。
そのような人たちにとっては,この短歌の前半に興味をもち,後半は実はどうでもいいのかもしれませんね。
万葉集の編者は誰で,その編集意図は何かをもっと広い経験者(行政長官,公務員,経営者,役職者,一般ビジネスマン,○○士と呼ばれるコンサルタント,技能者,私のような技術者,学生,専業主婦,フリーターなど),研究者(文学,哲学,心理学,宗教学,政治学,法学,歴史学,社会学,経済学,教育学,理学,工学,自然科学,医学,薬学,情報技術など)が集まり,多角的な視点で検討する機会があれば,是非参加したいと思います。
さて,次回からは動きの詞シリーズはお休みして,2015盛夏スペシャルをお送りいたします。
2015盛夏スペシャル(1)に続く。

2015年3月20日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)  難波の港で多くの防人を見た家持はナンバ感じトカ?

前回は,位が上の人に「申す」を詠まれた短歌をいくつか紹介しました。今回は,母や父の親に「申す」を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
最近,親を敬うという意識が薄れているのかもしれません。子が親にタメ口を使ったり,命令したり。逆に親が子を虐待し,とても尊敬の対象とならない場合もあります。親に「申す」を使うのは,必死にモノをおねだりするときとか,日ごろの不満が溜まり『親に物申す』のときくらいでしょうか。
しかし,万葉集を見る限りにおいては,親に対して子が「申す」を使っていたことは普通だったようです。
その表現がもっとも顕著に表れているのか「防人の歌」かもしれません。防人の歌を中心に「申す」の表現を見ていきます。
最初は下野国(しもつけのくに)出身の防人で,川上老(かはかみのおゆ)という人物が詠んだとされる短歌です。

旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ(20-4376)
<たびゆきにゆくとしらずて あもししにことまをさずて いまぞくやしけ>
<<長旅に出てしまうとは知らず母父に別れの言葉も申さなかったので,今になって悔やまれることだ>>

「ちょっとした防衛の仕事。九州は難波の港から船が出ていて,楽に着ける。敵が攻めてこなければ,何もしないで金が入るよ」などと甘い言葉に乗って防人となったが,とんでもない長旅で,母父にもっと別れの言葉をきちっと言っておく(申しておく)べきだったと後悔をしている短歌です。
次は,防人自身の歌ではないですが,当時難波の港で東国から招集され,九州に旅立つ防人たちを兵部少輔(ひやうぶのせいう)として監督していた大伴家持が防人に同情して,防人の思いを詠んだ短歌です。

家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね(20-4409)
<いへびとのいはへにかあらむ たひらけくふなではしぬと おやにまをさね>
<<家族のみんなが身を浄め斎ってくれたので平安な船出だったと僕の母父に申し上げてください>>

この短歌はひとつ前に家持が詠んだ長歌の反歌です。
その長歌にも「申す」が出てきますが,対象は「神への祈り」です。ただ,「祈り」の内容は,父母の健康と帰りを待つ妻への愛情です。その長歌で「申す」が出てくる後半部分のみですが紹介します。

~ 海原の畏き道を 島伝ひい漕ぎ渡りて あり廻り我が来るまでに 平けく親はいまさね つつみなく妻は待たせと 住吉の我が統め神に 幣奉り祈り申して 難波津に船を浮け据ゑ 八十楫貫き水手ととのへて 朝開き我は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ(20-4408)
<~ うなはらのかしこきみちを しまづたひいこぎわたりて ありめぐりわがくるまでに たひらけくおやはいまさね つつみなくつまはまたせと すみのえのあがすめかみに ぬさまつりいのりまをして なにはつにふねをうけすゑ やそかぬきかこととのへて あさびらきわはこぎでぬと いへにつげこそ>
<<~ 海原の決められた海路を島伝いに漕ぎ進んで私が生きて帰ってくるまで,平穏無事に親には生きていてほしい,何事無く妻は待っていてほしいと住吉の私たちを守ってくれるという神に幣を供えて祈り申して,難波の港に船をつけ,多くの楫を貫き通してそれを漕ぐ水夫を用意して,朝になったら出港したと実家に伝えてほしい>>

家持は,防人たちの不安や家族への心配な気持ちを少しでも和らげられるよう,役人としてできるかぎりのことをしている姿を伝えたい,そんな気持ちでこの長歌を詠んだのかもしません。
防人として九州に船で送られる側もつらいだろうが,それを見て,また防人たちの故郷や残してきた家族への思いを聞く側もつらい。彼らの気持ちをストレートに和歌に詠ませ,記録に残すことと,和歌を詠ませることで彼らの気持ちを和らげることに腐心した家持がそこにいたのではないかと私は思います。
<家持は防人に対して,単なる数字上の管理をしていただけではなかった>
家持以外の難波津の役人は,恐らく機械的に防人の人数を数え,予定した人数を九州に向け乗船させ,出港させればそれで仕事が終わったと考えていたと想像します。
現地に派遣する防人の数が予定や目標に達していれば,当時の役人は仕事を無事なしとげた,数をそろえるために必要な仕事以外,余計なことはしなかったと私は思います。
その中の役人の家持が防人たちの和歌を残したり,防人の気持ちを代弁する和歌を残した努力に対し,私は心から敬意を表したいのです。
万葉集の原型をほぼまとめたと考えるられる家持の努力だけでなく,その根底にある人に対する貴賤を排した彼の平等感をもっと評価しても良いのではと改めて,家持の防人歌から私は感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(3:まとめ)に続く。

2014年1月1日水曜日

年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(1)」

2014年新春のお慶びを申し上げます。本年も『万葉集をリバースエンジニアリングする』のブログアップをよろしくお願いします。
おかげさまで,昨年の閲覧数は2012年に比べて約1.8倍に増えました。とりわけ,2011年7月に投稿しました『天の川特集(2)‥憶良・家持は「七夕」通? 』と昨年元旦に投稿しました『年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(1)」』には非常に多くの閲覧をしていただきました。
見たけれど期待外れの内容だっと感じられた方も多かったかもしれませんが,万葉集に関し,多くの方が関心のあるキーワードを含んだ内容に少しはできているのではないかと感じています。
これからも意欲的に取り組む気持ちを保持できているのも閲覧数が励みになっていることも事実です。
さて,今年は午年(うまとし)ですね。万葉集の中で正月の和歌ではありませんが,馬や駒を詠んだ和歌について何回かに分けて投稿します。
まず,お正月ですので,縁起の良い「龍の馬」を詠んだ大伴旅人の短歌から紹介します。

龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため(5-806)
<たつのまもいまもえてしか あをによしならのみやこに ゆきてこむため>
<<龍の馬を今こそほしいものです。奈良の京に行って帰ってくるために>>

当時,陸路で一番速かった移動手段は馬に乗って移動することだったのだろうと私は思います。しかし,旅人はそのスピードでは満足できず,龍のように空を駆けるようなスピードの馬が欲しかったのでしょう。そうすれば,九州の大宰府にいても,仕事の少し空いた時間に平城京にいる会いたい人と会って,すぐまた戻ってこれる。
そんな夢ような馬(龍の馬)があれば良いのになあという願望がストレートにこの短歌には表れていると私は感じます。
今でも,新幹線の更なるスピードアップ,リニア新幹線の開業に向けたインフラ整備,飛行場へのアクセスの利便性向上など,短時間で目的の場所に移動できることへの欲求は無くなりません。
次は馬に乗って旅をしている途中の出来事を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

住吉の名児の浜辺に馬立てて玉拾ひしく常忘らえず(7-1153)
<すみのえのなごのはまへに うまたててたまひりひしく つねわすらえず>
<<住吉の名児の浜辺で馬をとめて玉を拾ったことがいつまでも忘れることができない>>

住吉の名児の浜辺は,大阪市の南部の海岸線だったのかもしれません。「すみのえ」と仮名を当てますが,万葉仮名は「住吉」です。
当時そこは風光明媚で,冬は温暖で,夏は海風で涼しく,新鮮な魚も食べられ,住みやすそうな場所だったのでしょう。海が無い盆地の平城京の人たちにとって,名児の浜辺は今で言う湘南海岸や葉山のような海浜高級別荘地のイメージだったのだろうと私は想像します。
馬に乗った(仕事の)旅の途中でその美しい海岸を通ったとき,馬から降りて,海岸で家に残してきた家族や実家近くの恋人のために綺麗な貝がらを拾ったことが嬉しくて忘れられない記憶となったのでしょう。
当時馬を手に入れる価格は,今で言えば高級車並みだったとすると,この旅人は中産階級以上ということになり,住吉はあこがれの地だったのかもしれませんね。
さて,馬が高級車とするとガソリンに当たる餌が必要になります。当時のそういった様子を伺うことができる旋頭歌(柿本人麻呂歌集より万葉集に転載)を次に紹介します。

この岡に草刈るわらはなしか刈りそねありつつも君が来まさば御馬草にせむ(7-1291)
<このをかにくさかるわらはなしかかりそね ありつつもきみがきまさむみまくさにせむ>
<<この岡で草を刈っている童よ,そんなに刈らないでおくれ。このままにしておけば彼が来たときのお馬にあげる草にできるから>>

今年は天の川君も馬を見習って馬力をかけてほしいものですね。

天の川 「たびとはん。頑張ってほしかったらなあ,正月の酒にもうちょっと上等なんにして~な。今からでも遅~ないで。」

今年も相変わらず憎まれ口だけは達者で期待はできない天の川君に邪魔をされないよう,本ブログは上品にいきたいものですが,さてどうでしょう。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(2)」に続く。

2013年8月3日土曜日

2013夏休みスペシャル‥長尾街道を歩く

今年も奈良県明日香村のみかん農園で私が年間オーナであるみかんの木(一本)を摘果する季節になり,昨年と同様に埼玉の自宅最寄り駅からJR青春18きっぷを使い,移動することにしました。

昨年は摘果の前日の夜,JR東海道線大津駅(滋賀県)から奈良街道をJR奈良線宇治駅(京都府)まで歩きました。始発を待ち,桜井線香具山駅(奈良県)までJRで移動,同駅からは藤原京跡経由で農園までまた徒歩で移動しました。
<今年のコース>
今回は27日午後JR快速や普通列車を乗り継ぎ,途中浜松駅では夕食の浜松餃子定食を食べました。

その後も普通電車を乗り継ぎ,24時過ぎにようやく大阪市住吉区のJR阪和線我孫子町(あびこちょう)駅に着きました。

同駅より紀州街道,長尾街道(堺大和路線)などを徒歩で移動,28日朝6時47分奈良県の近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線二上山(にじょうさん)駅まで至りました。そこから電車で橿原神宮前駅に向かい,また徒歩でなじみになった農園に移動したのです。
投稿は2回に分けます。今回は我孫子町駅から二上山駅まで歩いた内容をお知らせします。
我孫子町駅から南海電鉄高野線我孫子前駅を通り過ぎました。

さらに阪堺電気軌道阪堺線我孫子道駅を通り過ぎます。

この先,紀州街道との交差点までの西に行く間,途中に住宅街はありますが,けっこう商店街が続きます。平日の夕暮れ時はさぞや活気ある商店街ではないかと想像しながら,夜中静かな商店街を歩くのもおつなものでした。ここで,交差する紀州街道を左に折れ,南行しますが,北行側にはまた商店街がありました。商店街がなんと多い地区だなと感じました。
南行側は昼間でも静かな雰囲気を感じさせてくれる昔風の街道沿いをイメージできる雰囲気でした。
万葉時代の頃には,この紀州街道より西側はすぐ海で,松林などがあったのだろうと私は想像します。次の万葉集の短歌も紀州街道あたりから詠まれたのかもしれませんね。

住吉の岸の松が根うちさらし寄せ来る波の音のさやけさ (7-1159)
<すみのえのきしのまつがねうちさらし よせくるなみのおとのさやけさ>
<<ここ住之江では寄せ来る波が岸の松の根を洗い出し寄せ来る波音のなんと清々しいことよ >>

さらに南行すると,大和川(上流は奈良県)に掛かる大和橋に差し掛かりました。
今は大和川の上流・下流にたくさんの橋ができていますが,昔はこの近辺にはここしか橋がなく,この橋の両側は大変な賑わいだったのだろうと私は想像します。
この橋を渡ると大阪市住之江区から堺市堺区に変わります。さらに紀州街道を南下すると,街道沿いの面影が残る場所が続きます。


やがて阪堺線が道路の中央を走る大通りと合流します。この大通りを阪堺線駅を3つ分ほど歩くと花田口駅にたどり着きます。

ここが奈良方面(東方)に向かう長尾街道の起点だそうです。紀州街道を歩くのはここまで。左折し,今回の主目的である長尾街道を歩き出します。時間は午前1時半を超えていました。
長尾街道の最初は道幅の広い幹線道路(堺大和路線:県道12号)として整備されていました。

歩道を進んでいくと南海高野線堺東駅のそばを渡り,さらに行くと前方に高層マンションが見えてきました。JR阪和線堺市駅周辺にあるマンション群だと近づくに従い分かりました。
堺市駅の手前から県道12号と長尾街道が別の道になります。私はもちろん静かな長尾街道を行きます。長尾街道を歩くと立派な倉を持つ大きな家にいくつも出会います。


この街道が昔いかににぎやかな街道で,行きかう物資や人で多くの富を得た人たちが多かったのだろうと私は感じました。
ところが,しばらく街道を東行するとまた高層マンションが見えてきました。堺市中心部から離れていくのに変だな思いつつ。このマンションの近くに地下鉄御堂筋線北花田駅があるからのようです。大阪市の中心部まで30分も掛からず行けますから,居住地として人気が高そうなのはうなづけます。
そこから,さらに行くとようやく松原市に入りました。4時近くになっていました。歩いてみると堺市の広さが身で持ってわかりました。
松原市に入ると商店街がまた見えてきました。近鉄南大阪線布忍(ぬのせ)駅の前を通ります。

時間は4時半を過ぎていました。かなり疲れ始めていましたので,このままこの駅で始発を待てばすぐ橿原神宮前まで行けるなあ~という誘惑を振り払い先に進みます。
松原市街地を抜けると羽曳野(はびきの)市に入り,しばらく行くと雄略陵古墳の池の周りを通ります。

万葉集の冒頭の長歌を詠んだとされる雄略天皇の墓とされる古墳がここにあるのはこの地が「そらみつやまとのくに」との近さを感じさせます。
そこからすぐ藤井寺市に入ります。藤井寺市は,私にとって以前プロ野球球団として存在してた近鉄バッファローズのホーム球場があった場所くらいしか印象に残っていません。ただし,こんな立派な家が街道沿いに続きます。

藤井寺市内で長尾街道はまた県道12号と合流します。このあたりになると朝が白み始め,徹夜で歩いたのとだんだん上り勾配がきつくなってきたため疲れがさらに溜まってきました。
そこへ近鉄南大阪線土師ノ里(はじのさと)駅が見えてきて「ここで電車に乗れば楽になるやんか」という今回一緒には連れてこなかった天の川君が誘惑したら負けそうに状況をじっと我慢して進みました。

近鉄道明寺駅付近の石川(いかわ)橋を越えて,更に進むと柏原市の近鉄大阪線河内国分(かわちこくぶ)駅まできました。

ここでも「大和八木駅で乗り換えれば,...」という誘惑を振り払い,広い国道165号を南行します。
道の昇り勾配はますますきつくなり,なかなか体が前に進みません。
藤井寺市を過ぎ柏原(かしわら)市に入り近鉄大阪線大阪教育大前駅までくると山間部で歩道がほとんどありません。

しかし,車はピュンピュン飛ばして私のすぐそばを走りすぎます。この車の中に,もしかしたら昨夜(土曜の夜)からずつと飲酒して帰る運転手がいるかもしれないと思うと結構強い恐怖心が湧いてきました。呼気にアルコールを検出するとエンジンがかからない自動車を発明してほしいと正直思いつつひたすら車に気を付けながら歩きました。
ほどなくすると奈良県香芝(かしば)市との県境に差し掛かり,ここで後は下りだけと思っていたら,また田尻峠を越えがまっています。

そして峠を下ったと思ったら穴虫という所から目的地の二上山駅までの最後のだらだらとした昇りは本当につらく長く感じました。
ようやく二上山駅に着いたのは朝7時近くになっていました。

ホームのベンチに倒れこみ,次の大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が謀反の疑いで処刑されたのを受け二上山(ふたかみやま)を詠んだ有名な挽歌を思い出す余裕は私にはありませんでした。

うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(2-165)
<うつそみのひとにあるわれや あすよりはふたかみやまを いろせとわがみむ>
<<この世の私は明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか>>


次回は橿原神宮前から帰宅までをお伝えします。
2013夏休みスペシャル‥「明日香を眠さと暑さに耐えてひたすら歩く」に続く。